九月に入ったが、まだまだ陽射しは強い。
あの日の翌日、忍は浅倉に自分の態度を謝罪した。だがそれ以降はできるだけ顔を合わせないように気を付けている。いつもよりちょっとだけ早く出社しているし、昼も弁当を持参して、外に食べに行ったり休憩所を使わないようにした。
まだ暑いとはいえ普段は車通勤であり、給湯室の冷蔵庫も使えたので問題はなかった。弁当仲間も出来て結果オーライである。
この日も弁当仲間の女子社員数名と、和気あいあいと弁当タイムだ。
「そういえば、娘さん今年二十歳になったんですよね。浅倉さんからは告白されました?」
鈴木彩子からまるで、あそこのスーパーで卵が安いです的なノリで爆弾を落とされ、茶を飲みかけていた忍は盛大にむせた。彩子は二十五才のおっとりとした女子社員だ。
忍が目を白黒させていると、パート社員の渡辺ともみと臼井佳代子も目を輝かせて忍のことを見ているのが目に入る。
「へ、変なところに入った。突然何を言うかと思えば。娘は二十歳になったけど、告白なんてされてませんよ」
実際浅倉からは、付き合ってとも結婚してとも言われていない。ましてや好きなんて言われていないので、間違ってはいない。
今社内に残っているのは忍以外にはこの三人だが、全員が既婚者である。ともみと佳代子は年は上だが子どもはまだ中高生で、彩子は新婚だ。
まさか主婦に囲まれて、女子高生のような会話になるとは思わなかった。
「だいたい私、成人した娘がいる四十代ですよ」
以前は子どものためにも再婚をと勧めてくる上司もいたが、ここ何年かはぴたりと収まっている。いい加減諦めたのだろう。つまり忍は恋愛や結婚からは対象外のはずなのだ。そう言うと、
「そう思ってるのは佐倉さんだけだと思いますよ?」
彩子は、ほわわーんと効果音が付きそうなおっとりした口調でニッコリ笑う。
「んー、でも気付いてないんだったら、私が言うことじゃないですよねぇ」
何をだ何を!
そう問いただしたくなるものの、ともみと佳代子まで同調しているので忍はこっそりため息をついて立ち上がった。
「お弁当箱洗ってきますね」
背中に華やいだ笑い声が響くが、あえて気にせず給湯室に向かう。
「まいったな」
誰もいないのを確認して、ポツリと呟いた。
あれ以来、浅倉とは文字通り挨拶しかしていない。
声をかけられても聞こえないふりかはぐらかすかし、挨拶だけして通り過ぎている。
我ながら子供っぽいとは思う。だが時間がたてばたつほど、前回の意味深な言葉が頭にこびりついて離れないのだ。すれ違っても、じっと見つめられているのを感じる。
周りの噂から判断するに、最近の浅倉は、忍に対する好意を本人の前でもまったく隠さなくなったということらしい。
忍が知らなかっただけで、まわりには公然の秘密だったようだ。
「ほんと、うそでしょ」
いぶきには問いただす前に、「浅倉さんと、一度ゆっくり話してみたら?」と言われたきり、以前のような浅倉の話題は殆ど出されなくなった。
悩んで悩んで思い切って、いぶきに父親が欲しかったのかとたずねてみた。シングルで育てたことが、忍の自己満足でしかなかったのかと怖かった。
だがいぶきに微笑みながら、「それが浅倉さんなら歓迎だとは思ってるよ。今からでもね」と言われ、忍は激しく動揺した。
「でもね、それが私のためなら反対。私はお母さんの幸せな姿がみたいの。本音を言えば、お母さんの花嫁姿が見たいくらいよ」
「そ、それはお母さんのセリフだわ」
「うん、知ってる。似たもの親子で嫌になるね」
今までも男性から、結婚を前提に交際を申し込まれたことはある。だがいつも丁寧にお断りしてきたし、それが後を引くことは一度もなかった。ましてや心を動かされたことなど一度もない。
なのに浅倉に対してカッとしたことで、忍を固く覆ってた何かに初めてひびが入ったらしい。ポロポロと鎧が崩れていくような心もとなさに動揺していた。
それに加え、いぶきの言葉が頭の中をぐるぐるし、どうしたらいいのかわからずに足踏みをしている。
正直なところ、忍は浅倉を意識していた。
挨拶しかしないくせに、目は浅倉を探してるし、耳は彼の声を拾おうとする。
本当は休憩所に行きたいと思うのだって、我慢してるのだ。
自分の人生に男性が入り込むことは二度とないと思っていた。
誰かに心を捕らわれるなんて日は永遠に来ないと信じていた。
自分の人生はいぶきと、光を見ることなく亡くなった心晴と共にあって、いぶきが旅立った後は、その思い出を糧に生きていくつもりだったのだ。
どんな世界に旅立つのかわからないいぶきを、きっといつまでも気に掛ける。
ずっとずっと愛していく。それだけは変わらないから。だから何も知らない相手がそこに入り込む日は絶対にない。――ないはずなのに。
あの日の翌日、忍は浅倉に自分の態度を謝罪した。だがそれ以降はできるだけ顔を合わせないように気を付けている。いつもよりちょっとだけ早く出社しているし、昼も弁当を持参して、外に食べに行ったり休憩所を使わないようにした。
まだ暑いとはいえ普段は車通勤であり、給湯室の冷蔵庫も使えたので問題はなかった。弁当仲間も出来て結果オーライである。
この日も弁当仲間の女子社員数名と、和気あいあいと弁当タイムだ。
「そういえば、娘さん今年二十歳になったんですよね。浅倉さんからは告白されました?」
鈴木彩子からまるで、あそこのスーパーで卵が安いです的なノリで爆弾を落とされ、茶を飲みかけていた忍は盛大にむせた。彩子は二十五才のおっとりとした女子社員だ。
忍が目を白黒させていると、パート社員の渡辺ともみと臼井佳代子も目を輝かせて忍のことを見ているのが目に入る。
「へ、変なところに入った。突然何を言うかと思えば。娘は二十歳になったけど、告白なんてされてませんよ」
実際浅倉からは、付き合ってとも結婚してとも言われていない。ましてや好きなんて言われていないので、間違ってはいない。
今社内に残っているのは忍以外にはこの三人だが、全員が既婚者である。ともみと佳代子は年は上だが子どもはまだ中高生で、彩子は新婚だ。
まさか主婦に囲まれて、女子高生のような会話になるとは思わなかった。
「だいたい私、成人した娘がいる四十代ですよ」
以前は子どものためにも再婚をと勧めてくる上司もいたが、ここ何年かはぴたりと収まっている。いい加減諦めたのだろう。つまり忍は恋愛や結婚からは対象外のはずなのだ。そう言うと、
「そう思ってるのは佐倉さんだけだと思いますよ?」
彩子は、ほわわーんと効果音が付きそうなおっとりした口調でニッコリ笑う。
「んー、でも気付いてないんだったら、私が言うことじゃないですよねぇ」
何をだ何を!
そう問いただしたくなるものの、ともみと佳代子まで同調しているので忍はこっそりため息をついて立ち上がった。
「お弁当箱洗ってきますね」
背中に華やいだ笑い声が響くが、あえて気にせず給湯室に向かう。
「まいったな」
誰もいないのを確認して、ポツリと呟いた。
あれ以来、浅倉とは文字通り挨拶しかしていない。
声をかけられても聞こえないふりかはぐらかすかし、挨拶だけして通り過ぎている。
我ながら子供っぽいとは思う。だが時間がたてばたつほど、前回の意味深な言葉が頭にこびりついて離れないのだ。すれ違っても、じっと見つめられているのを感じる。
周りの噂から判断するに、最近の浅倉は、忍に対する好意を本人の前でもまったく隠さなくなったということらしい。
忍が知らなかっただけで、まわりには公然の秘密だったようだ。
「ほんと、うそでしょ」
いぶきには問いただす前に、「浅倉さんと、一度ゆっくり話してみたら?」と言われたきり、以前のような浅倉の話題は殆ど出されなくなった。
悩んで悩んで思い切って、いぶきに父親が欲しかったのかとたずねてみた。シングルで育てたことが、忍の自己満足でしかなかったのかと怖かった。
だがいぶきに微笑みながら、「それが浅倉さんなら歓迎だとは思ってるよ。今からでもね」と言われ、忍は激しく動揺した。
「でもね、それが私のためなら反対。私はお母さんの幸せな姿がみたいの。本音を言えば、お母さんの花嫁姿が見たいくらいよ」
「そ、それはお母さんのセリフだわ」
「うん、知ってる。似たもの親子で嫌になるね」
今までも男性から、結婚を前提に交際を申し込まれたことはある。だがいつも丁寧にお断りしてきたし、それが後を引くことは一度もなかった。ましてや心を動かされたことなど一度もない。
なのに浅倉に対してカッとしたことで、忍を固く覆ってた何かに初めてひびが入ったらしい。ポロポロと鎧が崩れていくような心もとなさに動揺していた。
それに加え、いぶきの言葉が頭の中をぐるぐるし、どうしたらいいのかわからずに足踏みをしている。
正直なところ、忍は浅倉を意識していた。
挨拶しかしないくせに、目は浅倉を探してるし、耳は彼の声を拾おうとする。
本当は休憩所に行きたいと思うのだって、我慢してるのだ。
自分の人生に男性が入り込むことは二度とないと思っていた。
誰かに心を捕らわれるなんて日は永遠に来ないと信じていた。
自分の人生はいぶきと、光を見ることなく亡くなった心晴と共にあって、いぶきが旅立った後は、その思い出を糧に生きていくつもりだったのだ。
どんな世界に旅立つのかわからないいぶきを、きっといつまでも気に掛ける。
ずっとずっと愛していく。それだけは変わらないから。だから何も知らない相手がそこに入り込む日は絶対にない。――ないはずなのに。
