BeLuck文庫『尊い青春BLフェア』限定SS

【春が来ても】

「これ、お土産です」
 僕はフミヤ先輩がひとり暮らしを始めた新しいアパートの玄関先で、紙袋を差し出した。中身は先輩が好きな固めのプリンだ。
「おー、ありがと。相変わらず律儀だな、さっちゃんは」
 先輩は笑いながら紙袋を受け取る。必要以上ににやにやと笑われている原因は、もうわかっている。悔しいくらいに。
「笑わないでください……」
「いや、だってさ」
「……ぼっ、僕だって、こんなに早く先輩に会えるなんて思ってなかったんですからね!」
 昨日の卒業式のことを思い出して、顔が熱くなる。あんなにみっともないところを見せてしまった。
 三月のまだ冷たい空気の中、昇降口で僕は泣きじゃくっていたのだ。しかもフミヤ先輩にしがみついて、大声で。
『嫌です! ぜったいやだ! 卒業しないでください! 今井、なんとかしてよー!』
『いや、さすがに俺でも無理だって、さっちゃん』
 今井は困ったような、笑い出したいような顔で僕を見ていた。キヨ先輩と土屋先輩は爆笑しているし、モモだって『さっちゃん、落ち着いて……!』と他人事だ。そんなの知らない。だって、こっちは本当に切実な気持ちなのだ。
『フミヤ先輩、お願いですから留年してください! もう、やだ……ほんとにやだ!』
『俺もできるならそうしたいよ、さっちゃん』
『じゃあ、そうしてくださいよー! フミヤ先輩のばかー!』
 春が来たら、先輩がいないなんて想像できない。廊下ですれ違ったときの笑顔も、学校帰りにふたりで歩く時間も、屋上で交わす内緒の話も、せんぶなくなってしまう。そんなの耐えられない。
『先輩と会えなくなるの……やだ』
 フミヤ先輩は、春が来たら大学生になる。地元の大学だけれど、カフェのバイトだってあるし、きっと忙しくて僕と会う時間もなくなってしまうかもしれない。それに、もじゃもじゃのフミヤ先輩――は置いといて……今日みたいにハーフアップのバチバチにキメてる先輩を見られた日には、みんなが列を作って先輩にアピールするに違いない。かつての僕がそうだったように……。
 もう想像しただけで胃が痛い。ていうか僕も春から先輩と同じ大学に通って「このひとは僕の恋人ですが何か!?」って四六時中叫べばいいんじゃ……。
 ばかみたいな僕の妄想をよそに、フミヤ先輩が笑いを堪えるようにしてつぶやく。
『大丈夫だよ、さっちゃん。いつでも会えるから』
『……で、でも』
『アパートに引っ越したからさ。明日、家に遊びに来なよ、さっちゃん』
『……へ?』
 涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、僕は先輩を見上げた。
『実は、妹たちと離れて、ひとり暮らし始めたんだ』
『え……? そ、そんなの聞いてない……!』
『うん、言ってねぇわ』
 なんだって……?
『明日、さっそく泊まってくれる? 俺のアパート』
 ぴたりと涙が止まる。モモも今井も土屋先輩もキヨ先輩も、みんなようやく子供が泣き止んだみたいな顔をして笑っていた。
『……と、泊まれ、ます……けど』
 そうして今日、まんまと僕はここにいる。
「まったく、なんでひとり暮らし始めたなんて、大事なことを言わないんですか!」
 玄関先で靴を脱ぎながら、僕はぶつぶつと文句を垂れる。まだ荷解きの途中なのか、いくつか段ボールがあるけれど、フミヤ先輩の部屋はとてもきれいに整頓されている。
「いやぁ……だって、卒業式は余計なこと考えずに、俺のために泣いてほしいからさ」
「……な」
「重すぎる彼氏としては、そうせざるを得なかったつうか」
「い、いじわるだぁ……!」
「うん、ごめんなさい」
 先輩は反省しているのかいないのか、けらけらと笑い声を上げる。
「さっちゃん、お腹空いてない? 夕飯作ったんだけど」
「え……作ってくれたんですか?」
「うん。さっちゃん来るってわかってたし」
 奥の部屋のテーブルには、すでに料理が並んでいた。からあげに、サラダに、味噌汁。全部、僕の好きなものばかりだ。
「食べよ。冷めないうちに」
 フミヤ先輩は僕を甘やかしすぎだと思う。夕食をごちそうになり、お風呂もちょうどいい時間に沸かしてあって、上がればふかふかのタオルとパジャマまで用意されていた。至れり尽くせりだ。
 髪を軽くタオルで拭いただけで急いで部屋に戻ると、先輩はすでにドライヤーを手に持っていた。嫌な予感がする。
「じ、自分で乾かせますから……!」
「いいから、こっちおいで」
「やです!」
 逃げようとした僕の手首を、先輩がするりと掴んだ。そのまま引き寄せられて、気づけばソファに座らされている。
「ちょっ、フミヤ先輩……!」
 先輩が僕の後ろに座る。いつのまにか膝の間に座らされて、背後から器用にも両足で軽く固定されていた。逃げられない。
「なんなんですか、この体勢……!」
「髪乾かすだけだって。さっちゃんが風邪引かないように」
「……じ、自分で」
「だめ、やらせて俺に」
 ドライヤーの温風が髪に当たる。先輩の指が優しく髪を梳いてくれた。
 こんなことされたら、僕は……。
 僕の気持ちを見透かした先輩が、背後で笑っている気配がする。きっとにやにやしているんだろう。むかつく。
「風呂上がりのさっちゃんも、エッチだね」
「……エッチだねおじさん、うるさい。黙って乾かしてください」
 どうせ抵抗しても無駄だ、と悟って、僕は諦めた。全身の力を抜くと、背後で先輩が満足そうに笑う気配がした。
 適度な温風が、優しく髪を撫でていく。ドライヤーの音と、先輩の体温に包まれて、なんだか意識がぼんやりしてくる。
「……きもちいい」
 思わずつぶやいた本音。
「よかった」
 先輩の声が耳元に届く。このまま眠ってしまいそうだ。こんなふうになんでもかんでも甘やかされるのはよくないって、わかってる。でも、先輩の腕の中は、あまりにも心地よすぎる。
「はい、できた」
 ドライヤーの音が止んで、先輩の手が僕の乾いた髪を優しく撫でた。
「……ありがとうございます」
「次、水分補給ね」
「え」
 先輩は立ち上がって、キッチンに向かった。そして、コップに水を入れて戻ってくる。
「はい、飲んで」
 喉が渇いていた僕は、思わず一気に冷たい水を飲み干した。先輩は満足したかのように、空になったコップをキッチンへと持っていく。そして戻って来たとき、手に銀色の何かを持っていた。
「これ合鍵ね。さっちゃん、マジでいつでも来ていいから」
「え……」
 手のひらに置かれた冷たい銀色。僕は先輩から合鍵を受け取って、絶句した。
「あ、もしかして、俺、重すぎた?」
「ち、違いますっ! うれしい……です! ありがとうございます!」
「いいえ、どういたしまして」
 なんかもうだめだ。 泣いちゃいそう。
「フ、フミヤ先輩、僕を甘やかさないでって、いつも言ってるじゃないですかぁ……! こ、こんなのだめ人間になっちゃう……!」
「なっちゃえばいいって、いつも言ってるだろ」
 先輩はさらりと言う。
「さっちゃんが、俺なしじゃ生きられなくしたい」
 な、なんてことを。
 とっくの昔に先輩なしじゃ生きられなくなってるのに……。もちろん、そんなことは本人に言えやしない。
 顔が熱くなるのを感じながら、小さく口を開いた。
「あ、明日の朝食は、僕が作るんですからね……」
「うん、一緒に作ろ」
「……」
「ねぇ、さっちゃん」
「……」
「寒いし、俺の腕の中にきませんか?」
 先輩がソファに座って、腕を広げる。その誘いに、僕の心臓がドクンと跳ねた。
「今日、だけ……です。こんなに甘えちゃうのは、ぜったいに今日だけ……!」
「ん。おいで、さっちゃん」
 僕は観念して、先輩の膝の上に向かい合って乗り上げた。
「……このかっこ、恥ずかしい」
 先輩の腕が僕を包み込む。
「ほんとかわいいな、さっちゃんは」
 耳元でささやかれて、体温が上がるのを感じた。
「さっちゃんのこと、一生こうして閉じ込めてたい」
「……うぅぅ」
 僕は完全にやられて、顔を真っ赤にして先輩の胸に顔を埋めた。
「さっちゃん」
「……なんですか」
「昨日、泣いてくれてありがとう」
 泣きはらしたせいでまだ赤くなっている僕の目尻を、先輩の指先が優しく撫でる。
「卒業はしたけど、俺はずっとさっちゃんの先輩だから」
 僕は心臓がぎゅっとなって、先輩の背中に腕を回して強くすがりついた。
「ずっと僕の『先輩』で、ずっと僕の『恋人』でいてくださいね、フミヤ先輩」
「……もちろんって言いたいとこだけど、恋人はちょっと約束できねぇかも」
「えっ……」
 一瞬、不安が胸をよぎる。
「法律変わったら、したいしさ。アレを」
 さらりと耳に届いた、思いも寄らない言葉。
 ……今、なんて……?
 息が止まった。
 先輩が言うアレとは、アレのことだろうか。言葉の意味が、ゆっくりと心に染みこんでいく。
「もちろん、さっちゃんが許してくれたらだけど」
 先輩の腕の中で、僕はふにゃふにゃになって幸せを噛みしめた。
「……僕もしたいです、アレ」
「ほんと?」
 こくりとうなずく。
「その時は……フミヤ先輩に似合う、高い指輪を僕が買いますから」
 上目遣いで生意気に微笑むと、フミヤ先輩は「さっちゃんが買ってくれるんだ」とうれしそうに笑った。
「俺もがんばるよ。さっちゃんに負けないように」
 卒業しても、先輩は僕のそばにいてくれる。
 春が来ても、夏が来ても、秋が来ても、そしてまた冬が来て、ふたたび春が来ても。

おわり