蒼くんの部屋に移動すると、あたしたちは蒼くんのベッドの上で抱きしめ合った。
横になって抱き合うのは初めてだった。
ベッドの上だと足も絡み合うことができる。
初めて彼の足元からも彼の体温を感じる。あたしは全身で温められていた。
彼の温もりを感じて、あたしは思わず泣いてしまった。
「さっきね。考えてたの」
「何を」
「あたしばっかり幸せなんじゃないかな、って」
「ぼくだって幸せだよ」
「わかってる。わかってるけど……。ほんとにあたし、蒼くんに与えることができてるのかな」
「さっきカレーも作ってもらったよ」
彼はあっけらかんと言ってのける。その声には「当然だろ」と言わんばかりの勢いがあった。
「蒼くん。カレー以外に好きな食べ物はないの」
「カレーがいいなあ」
「カレーばっかりなの」
「うん。ぼく、偏食家なんだ」
「色んなもの食べないと栄養偏るよ」
「カレーは栄養のかたまりでしょ」
「まあ。そうかもしれないけど」
「だからさ。また作りに来てよ」
「うん。いつでも作りに来るよ。晴れてる日だって、作りに来てあげる」
「父さんがいる日は、無理だけどね」
「そういえば、なんでお父さんがいるときはダメなの」
「父さんが家にいるときは、だいたい誰か父さんの客が来てるから。キッチンも乾さんが使うからさ」
「そういうことなんだ」
それからも蒼くんは長いことあたしのことを抱きしめてくれた。
その後。
あたしが家に帰るときも蒼くんは玄関先であたしのことを抱きしめてくれた。
「もう、今日は十分に抱きしめてもらったから、大丈夫だよ」
「だめ。念には念を入れて」
「もう。蒼くんったら」
そしてあたしは家に帰った。
その日はベッドに入るとすぐに眠ることができた。がんを宣告されてから、ここまで早く眠れたのは初めてだった。
次の日は曇りだった。天気予報では降水確率四十パーセントだった。
蒼くんはメッセージで「もしも放課後に雨が降ったらまたぼくの家に行こう」と言った。
あたしは別に雨が降らなくても彼の家に行きたかったけど、あまり頻繁にお邪魔すると迷惑かもと思って、それは言わないでおいた。
結局その日は雨は降らず、あたしたちは旧校舎の屋上で抱き締めあった。
次の日は土曜日だった。
この日は晴れていた。
蒼くんはメッセージで「市内に出ようよ」と提案してくれた。
返事をすると、「姉さんのスナックに行こう」と返信があった。
あたしは心配になって聞いてみる。
「昼間から押しかけたらお姉さんの迷惑にならないの」
返事はすぐに来る。
「大丈夫だよ。姉さんはぼくの言うことだったら何でも聞いてくれるから」
とはいえ、あまり厚かましくなってはいけない。
あたしは普段よりも真面目な服装で出かけることにした。
以前にいとこの結婚式に出るときのために買ってあったスーツに手を通す。クリーム色のスーツ。下はタイトスカートだ。
蒼くんとは八丁堀と電車通りの交差点、福屋前(広島県内にしか出店していない百貨店)で待ち合わせることにした。
蒼くんには事前にあたしがスーツを着ていることを教えておいた。
待ち合わせ場所に来ると、たくさんのひとがあたしの前を通りすぎて行った。
あまりにひとが多いのであたしは一度、百貨店の中に避難する。中はクーラーが効いていて涼しい。
そこから、外に向かって蒼くんの姿を探す。
蒼くんが横断歩道をこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
あたしは百貨店の外に出る。
横断歩道の向こうから歩いてくる蒼くん。
蒼くんはラフな格好だった。Tシャツにデニムだ。あたしはちょっと気合い入れすぎたかな、と自分の格好を見直す。
蒼くんはあたしに気がつくと、驚いていた。
「そんなにばっちり決めてこなくてもいいのに」
「いや、お姉さんに失礼のないように、と思って」
「色白の紬に似合うね」
「ありがと。蒼くんはいつもと同じ格好だね」
「ぼくは姉さんに気を遣う必要はないからね」
そうしてあたしたちは手をつないで流川へと向かう。八丁堀の裏通りのほうが歓楽街となっている。週末の夜、特に給料日明けはひとでごったがえすらしい。
蒼くんは流川通りを南へとずんずん進んでいく。
昼間の飲み屋街は閑散としていて、店におしぼりや品物を仕入れる車が目立つ。
その間をあたしたちは縫うように歩を進めてゆく。
とある雑居ビルの前で蒼くんは立ち止まった。
「ここだよ」
あたしは蒼くんの前に建っているビルを見上げる。ごく普通の、縦に長い雑居ビル。五階建てらしい。
あたしたちは狭い廊下をならんで歩く。すぐのところにエレベーターがあった。
降車ボタンを押すと、エレベーターが降りてきて、あたしたちはその中に入る。
エレベーターは五人も乗ればいっぱいというくらいの狭さだった。ほのかに香水か何かの匂いが漂っている。
蒼くんは三階のボタンを押した。
ゆっくりと、エレベーターは動いていく。
三階に着き、廊下に出ると、左右にお店の扉があるだけだった。あとは階段があるだけ。ずいぶん簡素な作りのビルだということがわかる。
蒼くんは左側のドアを開けた。
あたしは中を覗く。
「あ、いらっしゃい、蒼くん」
カウンターの奥にいたのは、蒼くんのお姉さん、のはず。
蒼くんにならって店内に入る。
カウンターだけのお店だ。ボックス席はない。スツールが十ほど。カウンター内の壁にはお酒のボトルがいっぱい並んでいる。お酒を飲まないあたしには何が何なのかはさっぱりわからない。
あたしは蒼くんのお姉さんにあいさつしようとした。
しかしお姉さんに機先を制せられる。
「いらっしゃい。蒼くんの彼女さん」
そう言われると照れてしまう。
蒼くんのお姉さんは浴衣姿だった。髪をハーフアップに結っている。
「蒼くんのお姉さん。夏木紬といいます。よろしくお願いします」
あたしはぺこりとお辞儀をする。
「紬さんね。あたしは静っていうの。よろしくね。ほんとかわいい!蒼くん、隅に置けないねぇ」
と言ってお姉さんは蒼くんにウィンクを送っている。
あたしは蒼くんの横顔を見る。改めて、このひとと付き合ってるんだな、という実感を得る。余命半年もないあたしに付き合ってくれている彼氏。彼を残して逝くことに、未だに罪悪感はある。でも、幸せだと思う。そして、瑠璃お姉ちゃんに言われたとおりに、あたしが彼を幸せにしてあげないといけないのだ。
蒼くんのお姉さんはのれんのかかったスタッフルームらしきところに移動すると、店内の照明を明るくしてくれた。
蒼くんはスツールを引くと、そこに座った。そして、隣のスツールも引く。
「はい、紬」
「ありがと」
あたしはそう言うと、スツールに腰かけた。
蒼くんのお姉さんが戻ってくる。
さっきは照明が暗くてよくわからなかったけど……。
今度のお姉さんは、蒼くんやあたしよりもずいぶんと年上に見えた。
蒼くんには年下にしか見えない謎のお姉さんがいて、もうひとりはかなり年上のお姉さんらしい。
年齢は。少なくとも三十は超えていそうだった。蒼くんより十歳以上は年上なのだろう。
もちろん「何歳ですか」なんて聞けるわけはないので、あたしは蒼くんのもうひとりのお姉さんが結構年上、という情報を得たことになる。
「蒼くん、お酒飲む?」
とお姉さんは蒼くんに聞く。
「ビール飲もうかな」
あたしはビックリして蒼くんのほうを見る。
「蒼くん、お酒飲むの」
蒼くんは片眉をあげてあたしを見る。
「だめかな」
「いや、まあ、飲みたいなら、どうぞ」
「紬も飲もうよ」
「あ、あたしはいいよ」
「じゃあ蒼くんはビールね。紬さんは何にする?」
「あの、何がありますか」
あたしがそう言うと、お姉さんはテーブルの上に置いてあったメニュー表を渡してくれる。
「ソフトドリンクは最後のほうに書いてあるよ」
あたしはソフトドリンクの欄を見る。
「じゃあ、烏龍茶で」
「ほんとにそれでいいの」
「はい」
「わかったわ」
蒼くんのお屋敷で見かけたお姉さんとは違ってずいぶんときびきびした動きをするお姉さんだ。
そして。確かに、あたしに似ていると思う。この雰囲気だと、どちらかというと、あたしの瑠璃お姉ちゃんに似ていると思う。明るくて元気なあたしの姉のほうが近いと思う。
蒼くんのお姉さんはまず烏龍茶を出してくれた。
背の高いグラスに入った烏龍茶は、普段見ない光景なので、ちょっと珍しい。
「次にビールね」
そして、お姉さんはビールサーバーからグラスにビールを注いでいく。
「はい、蒼くん」
「うん。じゃあ、紬。乾杯」
「乾杯」
そう言ってあたしは烏龍茶を飲む。
蒼くんはビールをぐいぐい飲む。その姿を、あたしは心配しながら見つめる。
蒼くんは半分くらいまで一気に飲んだ。
「その飲み方、さては普段から飲んでるでしょ」
「ああ。父さんのお客さんが来てるときにさ。陽気なおじさんが混ざってると、そういうひとがお酒勧めてくるんだよ」
「断ればいいじゃん」
「いやまあ、一応お客さんだからさ。失礼のないように。なんか断るのは悪いな、と思って」
「ふーん」
蒼くん、なんだかんだ言って政治家の子供なんだな、と実感する。
「ねえ、ふたりはどうやって出会ったの」
蒼くんのお姉さんがカウンターに身を乗り出して聞いてくる。
「ぼくが広島駅で声をかけたんだ」
蒼くんはさっそく酔っぱらったのか、機嫌良さそうに答える。
「え、なに?ナンパしたの」
「うん、まあ、形的にはそんな感じになっちゃったね」
「すごーい!やるじゃん」
お姉さんは花が一気に開くみたいな笑い方をして手を一回叩いた。
「あたしが元気なかったから、彼があたしを元気づけてくれたんです」
「へえ。そんなことで声かけられるんだ。まさか蒼くんがねぇ」
それにしても。
蒼くんのお姉さんたちは、蒼くんのことを「蒼くん」と呼ぶんだな、といまさらながら気がつく。なぜか「くん付け」らしい。もっと「蒼!」と、うちのお姉ちゃんがあたしを呼ぶみたいに呼び捨てなのかと思ってた。
「ねえ蒼くん、紬さんのどこが好きなの」
蒼くんのお姉さんはそんな質問を蒼くんにする。
「ちょっと、お姉さん」
「いいじゃない。この際聞いちゃいましょう」
蒼くんはビールをちびっと飲みながら答える。
「なんか、守ってあげたくなるんだ」
「へぇー」
蒼くんのお姉さんはカウンターの上で頬杖をついて蒼くんとあたしの顔を交互に見る。
「守れているかどうか、自信ないけどね」
あたしは反射的に答える。
「そんなことないよ。あたしは、蒼くんに守ってもらってばかりで」
それは本当のことだった。あたしが夜に熟睡できるように、彼はいつもあたしを抱き締めてくれる。それがなによりもあたしを守っていることになっている。それ以上何を望もうというのか。
「そっか。紬さん、大切にされてるんだね」
「そ、そうです!」
あたしは身を乗り出してお姉さんに言う。
「でも。あたしは、そんな彼に、何もお返しができなくて」
「またかよ紬。君がぼくと一緒にいてくれるだけで、ぼくは満足だよ」
「そうなのかもしれないけど」
あたしはうつむいてしまう。足元は光がほとんど届いていなくて、ほぼ真っ暗だった。
「紬さん。恋人って、何かをすることが大事なわけじゃないと思うよ」
「えっ」
あたしは顔をあげて蒼くんのお姉さんを見る。
「恋人は何をするかよりも、一緒にいることが大事なの。何かしなきゃって考えすぎると、お互い疲れちゃうよ」
「そ、そうなんですかね」
あたしは再びうつむく。足元は、やっぱり暗い。
「いいじゃない。たっぷり蒼くんに甘えちゃいなよ。そしたら、それが蒼くんの喜びになるから」
「う……おっしゃるとおり、あたしは彼に甘えっぱなしです」
「素敵なことじゃない。世の中には付き合っていてもぜんぜん甘えられないカップルがいっぱいいるんだから」
あたしは顔をあげる。
「そ、そうなんですか」
「そうよ。自立心の強いひとだと、どうやって甘えればいいのかわからないってひとは、多くいるもの」
スナックにいるといろんなお客さんを目にするはず。当然お客さんの相談に乗ることもあるのだろう。そんな、経験豊富なお姉さんの助言は、いかにも実感がこもっていて、あたしの胸に響く。
「だから、あなたたちは相性がいいの。ベストカップルよ」
そう言われると、むずがゆい。
あたしはちらっと蒼くんの顔を見る。
蒼くんは……。顔が赤かった。お酒は強くないらしい。
あたしはこのままでいいってことなんだろうか。蒼くんに、もっと何かしてあげたい。そうだ。またカレーを作ってあげないと。
それからのあたしたちは雑談に興じた。さすがスナックを経営しているだけのことはあって、話の上手な蒼くんのお姉さんとの会話は途切れることはなかった。
あたしたちは店の外に出た。
出た瞬間に、蒼くんに抱き締められる。
「ちょっと、蒼くん」
「今日は夕方から父さんのお客が来るからね。ぼくの家には行けないから、ここで」
ここは蒼くんのお姉さんのスナックの店舗前。雑居ビルの三階。飲み屋街の昼間の時間のため、他にひとがやってくることもない。そういう判断なのだろう。
あたしもきつく蒼くんのことを抱き締め返す。
これで、また夜に怖い思いをしないで済む。
さっきの言葉のとおりだ。あたしは蒼くんに守られてばかり。一方のあたしは蒼くんのことを守ってあげられているだろうか。
と、そこへ。
きい、とドアの開く音がした。
蒼くんのお姉さんが顔を覗かせている。
「あらまあ、あなたたち!」
横になって抱き合うのは初めてだった。
ベッドの上だと足も絡み合うことができる。
初めて彼の足元からも彼の体温を感じる。あたしは全身で温められていた。
彼の温もりを感じて、あたしは思わず泣いてしまった。
「さっきね。考えてたの」
「何を」
「あたしばっかり幸せなんじゃないかな、って」
「ぼくだって幸せだよ」
「わかってる。わかってるけど……。ほんとにあたし、蒼くんに与えることができてるのかな」
「さっきカレーも作ってもらったよ」
彼はあっけらかんと言ってのける。その声には「当然だろ」と言わんばかりの勢いがあった。
「蒼くん。カレー以外に好きな食べ物はないの」
「カレーがいいなあ」
「カレーばっかりなの」
「うん。ぼく、偏食家なんだ」
「色んなもの食べないと栄養偏るよ」
「カレーは栄養のかたまりでしょ」
「まあ。そうかもしれないけど」
「だからさ。また作りに来てよ」
「うん。いつでも作りに来るよ。晴れてる日だって、作りに来てあげる」
「父さんがいる日は、無理だけどね」
「そういえば、なんでお父さんがいるときはダメなの」
「父さんが家にいるときは、だいたい誰か父さんの客が来てるから。キッチンも乾さんが使うからさ」
「そういうことなんだ」
それからも蒼くんは長いことあたしのことを抱きしめてくれた。
その後。
あたしが家に帰るときも蒼くんは玄関先であたしのことを抱きしめてくれた。
「もう、今日は十分に抱きしめてもらったから、大丈夫だよ」
「だめ。念には念を入れて」
「もう。蒼くんったら」
そしてあたしは家に帰った。
その日はベッドに入るとすぐに眠ることができた。がんを宣告されてから、ここまで早く眠れたのは初めてだった。
次の日は曇りだった。天気予報では降水確率四十パーセントだった。
蒼くんはメッセージで「もしも放課後に雨が降ったらまたぼくの家に行こう」と言った。
あたしは別に雨が降らなくても彼の家に行きたかったけど、あまり頻繁にお邪魔すると迷惑かもと思って、それは言わないでおいた。
結局その日は雨は降らず、あたしたちは旧校舎の屋上で抱き締めあった。
次の日は土曜日だった。
この日は晴れていた。
蒼くんはメッセージで「市内に出ようよ」と提案してくれた。
返事をすると、「姉さんのスナックに行こう」と返信があった。
あたしは心配になって聞いてみる。
「昼間から押しかけたらお姉さんの迷惑にならないの」
返事はすぐに来る。
「大丈夫だよ。姉さんはぼくの言うことだったら何でも聞いてくれるから」
とはいえ、あまり厚かましくなってはいけない。
あたしは普段よりも真面目な服装で出かけることにした。
以前にいとこの結婚式に出るときのために買ってあったスーツに手を通す。クリーム色のスーツ。下はタイトスカートだ。
蒼くんとは八丁堀と電車通りの交差点、福屋前(広島県内にしか出店していない百貨店)で待ち合わせることにした。
蒼くんには事前にあたしがスーツを着ていることを教えておいた。
待ち合わせ場所に来ると、たくさんのひとがあたしの前を通りすぎて行った。
あまりにひとが多いのであたしは一度、百貨店の中に避難する。中はクーラーが効いていて涼しい。
そこから、外に向かって蒼くんの姿を探す。
蒼くんが横断歩道をこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
あたしは百貨店の外に出る。
横断歩道の向こうから歩いてくる蒼くん。
蒼くんはラフな格好だった。Tシャツにデニムだ。あたしはちょっと気合い入れすぎたかな、と自分の格好を見直す。
蒼くんはあたしに気がつくと、驚いていた。
「そんなにばっちり決めてこなくてもいいのに」
「いや、お姉さんに失礼のないように、と思って」
「色白の紬に似合うね」
「ありがと。蒼くんはいつもと同じ格好だね」
「ぼくは姉さんに気を遣う必要はないからね」
そうしてあたしたちは手をつないで流川へと向かう。八丁堀の裏通りのほうが歓楽街となっている。週末の夜、特に給料日明けはひとでごったがえすらしい。
蒼くんは流川通りを南へとずんずん進んでいく。
昼間の飲み屋街は閑散としていて、店におしぼりや品物を仕入れる車が目立つ。
その間をあたしたちは縫うように歩を進めてゆく。
とある雑居ビルの前で蒼くんは立ち止まった。
「ここだよ」
あたしは蒼くんの前に建っているビルを見上げる。ごく普通の、縦に長い雑居ビル。五階建てらしい。
あたしたちは狭い廊下をならんで歩く。すぐのところにエレベーターがあった。
降車ボタンを押すと、エレベーターが降りてきて、あたしたちはその中に入る。
エレベーターは五人も乗ればいっぱいというくらいの狭さだった。ほのかに香水か何かの匂いが漂っている。
蒼くんは三階のボタンを押した。
ゆっくりと、エレベーターは動いていく。
三階に着き、廊下に出ると、左右にお店の扉があるだけだった。あとは階段があるだけ。ずいぶん簡素な作りのビルだということがわかる。
蒼くんは左側のドアを開けた。
あたしは中を覗く。
「あ、いらっしゃい、蒼くん」
カウンターの奥にいたのは、蒼くんのお姉さん、のはず。
蒼くんにならって店内に入る。
カウンターだけのお店だ。ボックス席はない。スツールが十ほど。カウンター内の壁にはお酒のボトルがいっぱい並んでいる。お酒を飲まないあたしには何が何なのかはさっぱりわからない。
あたしは蒼くんのお姉さんにあいさつしようとした。
しかしお姉さんに機先を制せられる。
「いらっしゃい。蒼くんの彼女さん」
そう言われると照れてしまう。
蒼くんのお姉さんは浴衣姿だった。髪をハーフアップに結っている。
「蒼くんのお姉さん。夏木紬といいます。よろしくお願いします」
あたしはぺこりとお辞儀をする。
「紬さんね。あたしは静っていうの。よろしくね。ほんとかわいい!蒼くん、隅に置けないねぇ」
と言ってお姉さんは蒼くんにウィンクを送っている。
あたしは蒼くんの横顔を見る。改めて、このひとと付き合ってるんだな、という実感を得る。余命半年もないあたしに付き合ってくれている彼氏。彼を残して逝くことに、未だに罪悪感はある。でも、幸せだと思う。そして、瑠璃お姉ちゃんに言われたとおりに、あたしが彼を幸せにしてあげないといけないのだ。
蒼くんのお姉さんはのれんのかかったスタッフルームらしきところに移動すると、店内の照明を明るくしてくれた。
蒼くんはスツールを引くと、そこに座った。そして、隣のスツールも引く。
「はい、紬」
「ありがと」
あたしはそう言うと、スツールに腰かけた。
蒼くんのお姉さんが戻ってくる。
さっきは照明が暗くてよくわからなかったけど……。
今度のお姉さんは、蒼くんやあたしよりもずいぶんと年上に見えた。
蒼くんには年下にしか見えない謎のお姉さんがいて、もうひとりはかなり年上のお姉さんらしい。
年齢は。少なくとも三十は超えていそうだった。蒼くんより十歳以上は年上なのだろう。
もちろん「何歳ですか」なんて聞けるわけはないので、あたしは蒼くんのもうひとりのお姉さんが結構年上、という情報を得たことになる。
「蒼くん、お酒飲む?」
とお姉さんは蒼くんに聞く。
「ビール飲もうかな」
あたしはビックリして蒼くんのほうを見る。
「蒼くん、お酒飲むの」
蒼くんは片眉をあげてあたしを見る。
「だめかな」
「いや、まあ、飲みたいなら、どうぞ」
「紬も飲もうよ」
「あ、あたしはいいよ」
「じゃあ蒼くんはビールね。紬さんは何にする?」
「あの、何がありますか」
あたしがそう言うと、お姉さんはテーブルの上に置いてあったメニュー表を渡してくれる。
「ソフトドリンクは最後のほうに書いてあるよ」
あたしはソフトドリンクの欄を見る。
「じゃあ、烏龍茶で」
「ほんとにそれでいいの」
「はい」
「わかったわ」
蒼くんのお屋敷で見かけたお姉さんとは違ってずいぶんときびきびした動きをするお姉さんだ。
そして。確かに、あたしに似ていると思う。この雰囲気だと、どちらかというと、あたしの瑠璃お姉ちゃんに似ていると思う。明るくて元気なあたしの姉のほうが近いと思う。
蒼くんのお姉さんはまず烏龍茶を出してくれた。
背の高いグラスに入った烏龍茶は、普段見ない光景なので、ちょっと珍しい。
「次にビールね」
そして、お姉さんはビールサーバーからグラスにビールを注いでいく。
「はい、蒼くん」
「うん。じゃあ、紬。乾杯」
「乾杯」
そう言ってあたしは烏龍茶を飲む。
蒼くんはビールをぐいぐい飲む。その姿を、あたしは心配しながら見つめる。
蒼くんは半分くらいまで一気に飲んだ。
「その飲み方、さては普段から飲んでるでしょ」
「ああ。父さんのお客さんが来てるときにさ。陽気なおじさんが混ざってると、そういうひとがお酒勧めてくるんだよ」
「断ればいいじゃん」
「いやまあ、一応お客さんだからさ。失礼のないように。なんか断るのは悪いな、と思って」
「ふーん」
蒼くん、なんだかんだ言って政治家の子供なんだな、と実感する。
「ねえ、ふたりはどうやって出会ったの」
蒼くんのお姉さんがカウンターに身を乗り出して聞いてくる。
「ぼくが広島駅で声をかけたんだ」
蒼くんはさっそく酔っぱらったのか、機嫌良さそうに答える。
「え、なに?ナンパしたの」
「うん、まあ、形的にはそんな感じになっちゃったね」
「すごーい!やるじゃん」
お姉さんは花が一気に開くみたいな笑い方をして手を一回叩いた。
「あたしが元気なかったから、彼があたしを元気づけてくれたんです」
「へえ。そんなことで声かけられるんだ。まさか蒼くんがねぇ」
それにしても。
蒼くんのお姉さんたちは、蒼くんのことを「蒼くん」と呼ぶんだな、といまさらながら気がつく。なぜか「くん付け」らしい。もっと「蒼!」と、うちのお姉ちゃんがあたしを呼ぶみたいに呼び捨てなのかと思ってた。
「ねえ蒼くん、紬さんのどこが好きなの」
蒼くんのお姉さんはそんな質問を蒼くんにする。
「ちょっと、お姉さん」
「いいじゃない。この際聞いちゃいましょう」
蒼くんはビールをちびっと飲みながら答える。
「なんか、守ってあげたくなるんだ」
「へぇー」
蒼くんのお姉さんはカウンターの上で頬杖をついて蒼くんとあたしの顔を交互に見る。
「守れているかどうか、自信ないけどね」
あたしは反射的に答える。
「そんなことないよ。あたしは、蒼くんに守ってもらってばかりで」
それは本当のことだった。あたしが夜に熟睡できるように、彼はいつもあたしを抱き締めてくれる。それがなによりもあたしを守っていることになっている。それ以上何を望もうというのか。
「そっか。紬さん、大切にされてるんだね」
「そ、そうです!」
あたしは身を乗り出してお姉さんに言う。
「でも。あたしは、そんな彼に、何もお返しができなくて」
「またかよ紬。君がぼくと一緒にいてくれるだけで、ぼくは満足だよ」
「そうなのかもしれないけど」
あたしはうつむいてしまう。足元は光がほとんど届いていなくて、ほぼ真っ暗だった。
「紬さん。恋人って、何かをすることが大事なわけじゃないと思うよ」
「えっ」
あたしは顔をあげて蒼くんのお姉さんを見る。
「恋人は何をするかよりも、一緒にいることが大事なの。何かしなきゃって考えすぎると、お互い疲れちゃうよ」
「そ、そうなんですかね」
あたしは再びうつむく。足元は、やっぱり暗い。
「いいじゃない。たっぷり蒼くんに甘えちゃいなよ。そしたら、それが蒼くんの喜びになるから」
「う……おっしゃるとおり、あたしは彼に甘えっぱなしです」
「素敵なことじゃない。世の中には付き合っていてもぜんぜん甘えられないカップルがいっぱいいるんだから」
あたしは顔をあげる。
「そ、そうなんですか」
「そうよ。自立心の強いひとだと、どうやって甘えればいいのかわからないってひとは、多くいるもの」
スナックにいるといろんなお客さんを目にするはず。当然お客さんの相談に乗ることもあるのだろう。そんな、経験豊富なお姉さんの助言は、いかにも実感がこもっていて、あたしの胸に響く。
「だから、あなたたちは相性がいいの。ベストカップルよ」
そう言われると、むずがゆい。
あたしはちらっと蒼くんの顔を見る。
蒼くんは……。顔が赤かった。お酒は強くないらしい。
あたしはこのままでいいってことなんだろうか。蒼くんに、もっと何かしてあげたい。そうだ。またカレーを作ってあげないと。
それからのあたしたちは雑談に興じた。さすがスナックを経営しているだけのことはあって、話の上手な蒼くんのお姉さんとの会話は途切れることはなかった。
あたしたちは店の外に出た。
出た瞬間に、蒼くんに抱き締められる。
「ちょっと、蒼くん」
「今日は夕方から父さんのお客が来るからね。ぼくの家には行けないから、ここで」
ここは蒼くんのお姉さんのスナックの店舗前。雑居ビルの三階。飲み屋街の昼間の時間のため、他にひとがやってくることもない。そういう判断なのだろう。
あたしもきつく蒼くんのことを抱き締め返す。
これで、また夜に怖い思いをしないで済む。
さっきの言葉のとおりだ。あたしは蒼くんに守られてばかり。一方のあたしは蒼くんのことを守ってあげられているだろうか。
と、そこへ。
きい、とドアの開く音がした。
蒼くんのお姉さんが顔を覗かせている。
「あらまあ、あなたたち!」
