あれからあたしたちは平日は毎日旧校舎の屋上で抱き合い、休日は市内に出て抱き合った。
そして。
「気象庁では、本日、中国地方の梅雨入りを発表しました」
あたしはテレビから視線を外すと窓の外を見る。雨はザーザーと間断なく地面を濡らしていく。
スカートのポケットに閉まってあるスマホが震える。すぐに通知欄を見る。
兵藤蒼くん、の文字。
「予定どおり、今日はぼくの家に来なよ」
「わかった!」
と返信をすると、あたしはスマホをポケットにしまう。
そして、リビングにいるお母さんに声をかける。
「お母さん、今日はあたし、夕飯いらないから」
「あら、どこかにお出かけ」
「うん」
「あんまり遅くならないようにね」
お母さんはトーストの乗ったお皿を運ぶ。
あたしは机について、そのトーストにかぶりつく。
横に座っている瑠璃お姉ちゃんがあたしの肘をこづいてくる。
「彼氏とデートか?」
「う……うん」
「うまくいってんの?」
「うん。毎日、幸せだよ。夜も眠れてるしね」
「そっか」
お姉ちゃんはウルフカットの髪の毛を揺らすと、トーストにがぶりとかぶりついた
放課後。あたしは国際英文学科の下駄箱で蒼くんを待つ。
「お待たせ」
今日の蒼くんは自転車を押していなかった。
「蒼くん、自転車は」
「雨の日は自転車で来ないよ」
「そうなんだね」
「じゃ、行こうか」
「うん」
あたしたちはお互いに傘をさして、蒼くんの家を目指して出発した。
蒼くんの横顔を見る。本当は相合傘をしたかった。今度彼に聞いてみよう。あたしの死ぬまでにやりたいことリストのひとつでもある。
なんだ。今でも出来るじゃん。どっちかが傘を畳んで、もう片方の傘の中に入ればいいのだ。
あたしは傘を閉じた。蒼くんがビックリする。
「ちょっ……。なにしてるの、紬」
あたしは黙って、彼の差している傘の中に入る。彼の顔を見る。
「死ぬまでにやりたいこと。相合傘もしたかったの」
「紬……」
蒼くんが口元をゆるめて、優しい笑顔を向けてくれる。
幸せだな。カップルになったんだな、あたしたち。と、改めて実感する。
坂を登る。この団地はどこへ行っても坂だらけだ。その坂の途中に、周りとは明らかに大きさの違う邸宅を見かける。
「まさか、あれが蒼くんの家?」
「そうだよ」
「す……すごい」
何部屋あるのだろうか。二階建てではあるけど、明らかに豪邸だった。門は、横に長くて、スライド式で開けられるタイプのように見えた。車が出て行くときに開かれるのだろう。
蒼くんはその門の横に設えられた小さなドアを、慣れた手付きで開ける。そして広い庭の中を通り抜けてゆく。屋根のある玄関前に来ると、蒼くんは傘を畳んだ。傘立ても重厚な金属製だった。
「ここに傘置いて」
「うん」
蒼くんの傘の横に、あたしの傘を立て掛ける。
すると。
「あっ」
蒼くんは突然あたしのことを抱き締めてくれた。
「先にしとかないとね」
彼の低い声があたしの耳朶を揺らす。突然のことに、あたしは顔が熱くなる。
庭の土に、しとしとと当たる雨の音がする。
「いきなりだから、ビックリしちゃった」
「一度中に入ると、なかなかする機会ないかもしれないからね」
「そうなの」
「うん。お手伝いさんがぼくの周りをうろうろするからさ」
そう言うと、蒼くんはあたしの両腕をつかんだまま、上半身をあたしから離した。
蒼くんがまっすぐにあたしのことを見つめてくる。
「紬。キレイだ」
「もう。なんでこんなところでそんなこと言うの」
「いや、本当にただ、君のことをまっすぐに見てたらそう思っただけだよ」
「もう。早く中に入りましょ」
「うん」
そう言うと蒼くんはあたしから身体を離し、重そうな金属製のドアの取っ手を思いきり引いた。
中に入ると、そこには洋館で見かけるような、螺旋階段が左右に広がっていた
「あっ」
あたしは声のしたほうを見た。階段の上の広間らしきところから、女の子がこちらを伺っている。女の子は言った。
「おかえりなさい」
女の子は階段を下りてくる。
あたしよりも少し背が低い。顔もあどけない。蒼くんの、妹さんかな?
「姉さん、ただいま」
蒼くんはその女の子に向かって……。
えっ……。
あたしの聞き間違い……?
「おかえりなさい、蒼くん」
その女の子は蒼くんに向かってそう言った。しかし、あたしの目からは、どう見てもその女の子は蒼くんより年下にしか見えなかった。
えっ……。
蒼くんのお姉さんは、そんなに背が低いの?
背が低いのはわかるけど、顔は……。顔のあどけなさは、どう見ても、蒼くんよりこの女の子のほうが年下に見えるけど。服装もかわいらしくて、フリルのついたカットソーにデニムというスタイルだった。
「紬。紹介するよ。ぼくの姉さん」
その女の子は、あたしに向き直ると、ぺこりとお辞儀をした。
「初めまして。紬さん。蒼くんの姉の茜といいます」
女の子ははっきりと、蒼くんの姉だと言った。ということは、本当にお姉さんなのだろう。
あたしは驚きのあまり、返事が遅れる。慌てて取り繕う。
「は……初めまして。夏木紬と言います。お世話になります」
「どうぞ。ゆっくりして言ってください」
そう言うとまた蒼くんのお姉さんはお辞儀をした。そして頭を上げると、蒼くんに告げる。
「じゃあ、蒼くん。わたしは自分の部屋に行ってるから」
「ああ、わかったよ、姉さん」
蒼くんのお姉さんはまた階段を昇っていった。
階段を昇っていくときにお尻が揺れている。そのお尻の小さなこと。やがて奥に行って見えなくなる。
「じゃあ紬。キッチンに行こうか」
「う……うん」
そこであたしはあることに気がつく。確か、蒼くんのお姉さんはスナックを経営していると言っていた。まさか、今のひとが、スナックを経営。かなり凝視していたが、どう見てもスナックを経営していいような年齢には見えなかった。
もしかして、今まで意識していなかったけど、蒼くんにお姉さんはふたりいるのかな。
そして、今のひとが、一人目の……お姉さん。
さらにあたしは大事なことに気がつく。そういえば、蒼くんはあたしが蒼くんのお姉さんに似ていると言っていた。もともとあたしに声をかけるきっかけが、あたしがお姉さんに似ていたからだった。確かに。見た目だけなら、あたしと似ているかもしれない。
でも、年齢は、どう見ても……。
キッチンに入る。
「ああ、乾さん。今日はぼくたちだけで料理するから」
「かしこまりました」
乾さんと呼ばれたメガネをかけた紳士然としたひとは、直立で蒼くんにお辞儀をすると、あたしにも礼をして、キッチンから出て行こうとした。
「ぼっちゃま。何かありましたら、すぐにお声がけください」
「ああ、わかってるよ」
そして乾さんはどこかへ行ってしまった。
あたしはどうしても気になったことを蒼くんに聞いてしまう。
「あ……蒼くんのお姉さんって、ふたりいるの」
あたしは恐る恐る聞く。何か、開いてはいけない扉を開ける気持ちだった。
蒼くんはあたしのほうへ振り返った。
「そうだよ。姉さんはふたり」
そう言って、蒼くんはエプロンを取り出してくる。
「はい、紬のエプロン」
「う……うん」
あたしは蒼くんから差し出された青いエプロンをつける。
「うんうん。紬はエプロンも似合うね」
「えへへ」
あたしは動揺を悟られないように、自然に振舞う。
広いキッチンだった。あたしの家のキッチンより広い、というか、ほとんど厨房といっていい広さだった。その厨房のテーブルの一角に、カレーの材料が揃えられている。事前にあたしがリクエストした品物が並べられている。
「乾さんが紬の指定した食材を全部揃えてくれたんだ」
「すごいね」
あたしはカレー作りに取り掛かろうとする。
「ぼくは何をすればいいかな」
「あ、蒼くんは寛いでてよ」
「うーん。ごめんね。実際ぼくは、料理は乾さんに任せっきりだから。野菜も切れないからさ。あ、そうだ。じゃあ乾さんに野菜切ってもらおうよ」
「いいよ。それくらいすぐ出来るから。あたしがやるよ」
「いやいや、乾さんが切ってくれたほうが早いよ」
「う……うん。わかった。でも、味付けはあたしにさせてよ。じゃないと、あたしが作る意味なくなっちゃうから」
「わかった。あ、鍋はこれを使ってね」
そう言うと、蒼くんはコンロの上に置いてある鍋を指さす。そして乾さんを呼びに、キッチンを出て行った。
あたしは取り残されて、一瞬、呆然とする。
はっ。
なにしてるんだ、あたし。
カレーを作らないと。あたしは学生カバンの中から板チョコを取り出す。これがお母さんの作るカレーの隠し味なのだ。
事前の打ち合わせでは、四人前を作るということだった。
たぶん、あたしと蒼くん。あとは、お姉さんと乾さんの四人分かな。
もうひとりのお姉さんは、いまどうしてるんだろう。
……考えても結論など出ることではない。
あたしはそこに置いてあった包丁を手に取って、まずはにんじんを切りにかかった。
それにしても。
やっぱり気になる。さっきのお姉さんのこと。今から作るカレーも一緒に食べるのだろうか。
スナックを運営しているお姉さんとは別人らしい。蒼くんにお姉さんがふたりもいるなんて、初めて知った。あたしはどっちのお姉さんに似ているのだろう。確かにさっきのひともあたしに似ていなくもなかったけど。
もしかして、他にも兄弟姉妹がいるのだろうか。
あたしは頭を振った。今はカレー作りに集中しよう。
その後、乾さんがやってきて、見事な包丁さばきであっという間に野菜を切り終えてしまった。そして、「それでは、失礼いたします」と言って静かにキッチンを出て行った。まるで忍者みたいだ。
あたしは鍋に材料を入れ、スパイスを加えていく。それを煮込む。
そしてそれなりに煮立ってきたところで、板チョコを割って、それを鍋に放り込む。
あとは出来上がるのを待つだけ。
四人分だからすぐだろう。
あたしは蒼くんを呼ぼうと思ったが、そもそも彼がこの広い屋敷の中でどこにいるのか見当もつかなかった。
あたしはキッチンを出た。
そこへ。
「あっ」
声をあげたのはあちらからだった。
蒼くんのお姉さんだった。
「あ、お姉さん。蒼くんに料理が出来たって伝えてくれますか」
なぜか、一瞬、蒼くんのお姉さんは口を開けて静止していた。
あたしはあたしで、お姉さんと同じく口をぽかんと開けていた。
ふたりの間に、変な沈黙が訪れる。
そして。
「わ……わかりました。蒼くんを呼んできますね」
そう言って、蒼くんのお姉さんは早歩きで廊下を奥に向かっていった。
なんだったんだろう。今の、微妙な間は。
しかし。
やはりお姉さんは、どう見ても蒼くんより年下の女の子にしか見えない。
何か事情があるのかもしれない。
蒼くんはすぐにキッチンにやってきた。
「わあ!いい匂いだね!」
「お待たせ。じゃあ、お皿に盛っていくよ」
「うん」
あたしはカレーをひとり分、お皿に盛ると、それをキッチンの横にある大きな食堂に運んだ。
蒼くんはすでに食堂の広いテーブルの端に腰かけている。
「あとはあたしが食べて。あとのふたり分はどうするの」
「姉さんと乾さんに食べてもらうよ」
「うん。それはわかるけど。おふたりは一緒に食べないの」
「ふたりともぼくたちに気を遣ってくれて、あとで食べるってさ」
「そっか」
あたしも自分の分をお皿に盛って、蒼くんの隣に座った。向い合せでもいいと思ったけど、テーブルが広すぎて向かい側が遠いのだ。隣のほうが蒼くんにより近くにいることができるから、あたしは蒼くんの隣に座る。
蒼くんはさっそくスプーンを握る。
あたしは蒼くんの横顔に向かって言う。
「蒼くん。いただきますって言わないと」
「あ……。そうだね。いただきます!」
「いただきます」
あたしもスプーンでカレーをすくう。
「んー!うまい!」
蒼くんはあたしのほうを向くとグーサインを向けてくる。
「ほんと?良かった」
こんなことくらいで蒼くんが喜んでくれるなら、あたしはいくらでも料理をしてあげたいと思った。少しでも、蒼くんのことを幸せにしてあげたい。
なんだかんだで、あたしはまだ蒼くんに申し訳ないという気持ちがある。
あたしが夜にぐっすり眠れるようになるために、あたしは蒼くんに近づいた。未だに彼を利用しているような気分になる。そんな自分が、嫌になる。
でも、彼はあたしといるだけで幸せだと言ってくれる。あたしはその言葉に甘えて彼を利用しているだけなのではないだろうか。
そんなネガティブなことを考えてしまうのに、夜になるとぐっすり眠れるのだ。暗い気持ちになっていると、また夜に眠れなくなるんじゃないかと不安になったりするけど、それでも蒼くんに抱きしめてもらった日はぐっすり眠ることができる。
蒼くんって、すごいと思う。
「紬。どうしたの?」
はっ!
あたしは横を向く。蒼くんが、不思議そうな顔をしている。
「あ……。なんでもないよ」
「なんか困ったことあったら、なんでも言ってよ。すぐ相談に乗るから」
「うん……。ありがとう」
あたしは幸せだと思う。
蒼くんの顔を盗み見る。
蒼くん。あなたは幸せですか?
「姉さんの作るカレーよりうまいかもしれないよ」
蒼くんは満面の笑みを向けてそう言ってくれる。
「そ……それは、言い過ぎじゃないの」
「いや、ほんとにおいしいよ、これ。なんか隠し味とかあるの」
「あ、うん。チョコレートをちょっと加えるの。あとはスパイスも大事だね」
「姉さんは市販のカレー粉使うから。その差なのかな」
あたしはスプーンを置くと、意を決して蒼くんに尋ねた。
「あのね、蒼くん。さっき玄関で会った、茜さん。すごくかわいかったけど……、蒼くんのお姉さんって、スナックを経営してるって言ってたよね?」
蒼くんは残ったカレーを名残惜しそうに見ながら、きょとんとした。
「うん。姉さんは二人いるって言っただろ?」
「う、うん。二人のうちのどちらが、そのスナックを経営してるのかなって……」
「そりゃ、もうひとりの姉さんのほうだよ。茜姉さんはまだ高校生だからな」
「えっ……茜さん、高校生なの?」
あたしは目を丸くする。高校生だったのか。
「うん。もうひとりの姉さんは流川のほうでスナックをやってる。今度行こうって言っただろ? あっちの姉さんのことも紹介したいんだ。紬に会わせたら、きっと喜ぶよ」
蒼くんの顔は曇りがなかった。
あたしは少し胸が痛む。
どうやら、スナックを経営しているお姉さんのほうが年長であることは間違いないらしい。
蒼くんの家庭って、どうなってるんだろう。
蒼くんはもりもりとカレーを食べていく。
そしてあっという間に平らげてしまう。
「ああ、うまかった。正直、まだ食べたいよ」
「でも、四人分ぴったりだから、もうないよ」
「そうだね。ああ残念。ねえ紬。また今度作りに来てよ。というか、梅雨の間はしょっちゅう作りに来てよ。どうせ雨ばっかなんだし」
「うん。でもさ。毎回、玄関のところで抱き合うの?」
「ああ、それさっき考えてたんだけど、ぼくの部屋で抱き合えばいいよ」
「え……。蒼くんの部屋、行ってもいいの」
「もちろん。君はぼくの彼女なんだ。遠慮することないよ」
「蒼くんの部屋も広いんだろうね。何畳?」
「ぼくの部屋は八畳だよ」
「あれ。思ったより広くないんだね。もっと広いと思ったのに」
「自分の部屋が広すぎたら、何か取りに行くときいちいち大変だからさ。前はもっと広い部屋にいさせてもらったんだけど、今の部屋に変えてもらったんだ」
「そうなんだね」
「さっそく今から行こうよ」
「え……。ちょっと待って。急いで食べるから」
「ゆっくり食べなよ」
そして。
「気象庁では、本日、中国地方の梅雨入りを発表しました」
あたしはテレビから視線を外すと窓の外を見る。雨はザーザーと間断なく地面を濡らしていく。
スカートのポケットに閉まってあるスマホが震える。すぐに通知欄を見る。
兵藤蒼くん、の文字。
「予定どおり、今日はぼくの家に来なよ」
「わかった!」
と返信をすると、あたしはスマホをポケットにしまう。
そして、リビングにいるお母さんに声をかける。
「お母さん、今日はあたし、夕飯いらないから」
「あら、どこかにお出かけ」
「うん」
「あんまり遅くならないようにね」
お母さんはトーストの乗ったお皿を運ぶ。
あたしは机について、そのトーストにかぶりつく。
横に座っている瑠璃お姉ちゃんがあたしの肘をこづいてくる。
「彼氏とデートか?」
「う……うん」
「うまくいってんの?」
「うん。毎日、幸せだよ。夜も眠れてるしね」
「そっか」
お姉ちゃんはウルフカットの髪の毛を揺らすと、トーストにがぶりとかぶりついた
放課後。あたしは国際英文学科の下駄箱で蒼くんを待つ。
「お待たせ」
今日の蒼くんは自転車を押していなかった。
「蒼くん、自転車は」
「雨の日は自転車で来ないよ」
「そうなんだね」
「じゃ、行こうか」
「うん」
あたしたちはお互いに傘をさして、蒼くんの家を目指して出発した。
蒼くんの横顔を見る。本当は相合傘をしたかった。今度彼に聞いてみよう。あたしの死ぬまでにやりたいことリストのひとつでもある。
なんだ。今でも出来るじゃん。どっちかが傘を畳んで、もう片方の傘の中に入ればいいのだ。
あたしは傘を閉じた。蒼くんがビックリする。
「ちょっ……。なにしてるの、紬」
あたしは黙って、彼の差している傘の中に入る。彼の顔を見る。
「死ぬまでにやりたいこと。相合傘もしたかったの」
「紬……」
蒼くんが口元をゆるめて、優しい笑顔を向けてくれる。
幸せだな。カップルになったんだな、あたしたち。と、改めて実感する。
坂を登る。この団地はどこへ行っても坂だらけだ。その坂の途中に、周りとは明らかに大きさの違う邸宅を見かける。
「まさか、あれが蒼くんの家?」
「そうだよ」
「す……すごい」
何部屋あるのだろうか。二階建てではあるけど、明らかに豪邸だった。門は、横に長くて、スライド式で開けられるタイプのように見えた。車が出て行くときに開かれるのだろう。
蒼くんはその門の横に設えられた小さなドアを、慣れた手付きで開ける。そして広い庭の中を通り抜けてゆく。屋根のある玄関前に来ると、蒼くんは傘を畳んだ。傘立ても重厚な金属製だった。
「ここに傘置いて」
「うん」
蒼くんの傘の横に、あたしの傘を立て掛ける。
すると。
「あっ」
蒼くんは突然あたしのことを抱き締めてくれた。
「先にしとかないとね」
彼の低い声があたしの耳朶を揺らす。突然のことに、あたしは顔が熱くなる。
庭の土に、しとしとと当たる雨の音がする。
「いきなりだから、ビックリしちゃった」
「一度中に入ると、なかなかする機会ないかもしれないからね」
「そうなの」
「うん。お手伝いさんがぼくの周りをうろうろするからさ」
そう言うと、蒼くんはあたしの両腕をつかんだまま、上半身をあたしから離した。
蒼くんがまっすぐにあたしのことを見つめてくる。
「紬。キレイだ」
「もう。なんでこんなところでそんなこと言うの」
「いや、本当にただ、君のことをまっすぐに見てたらそう思っただけだよ」
「もう。早く中に入りましょ」
「うん」
そう言うと蒼くんはあたしから身体を離し、重そうな金属製のドアの取っ手を思いきり引いた。
中に入ると、そこには洋館で見かけるような、螺旋階段が左右に広がっていた
「あっ」
あたしは声のしたほうを見た。階段の上の広間らしきところから、女の子がこちらを伺っている。女の子は言った。
「おかえりなさい」
女の子は階段を下りてくる。
あたしよりも少し背が低い。顔もあどけない。蒼くんの、妹さんかな?
「姉さん、ただいま」
蒼くんはその女の子に向かって……。
えっ……。
あたしの聞き間違い……?
「おかえりなさい、蒼くん」
その女の子は蒼くんに向かってそう言った。しかし、あたしの目からは、どう見てもその女の子は蒼くんより年下にしか見えなかった。
えっ……。
蒼くんのお姉さんは、そんなに背が低いの?
背が低いのはわかるけど、顔は……。顔のあどけなさは、どう見ても、蒼くんよりこの女の子のほうが年下に見えるけど。服装もかわいらしくて、フリルのついたカットソーにデニムというスタイルだった。
「紬。紹介するよ。ぼくの姉さん」
その女の子は、あたしに向き直ると、ぺこりとお辞儀をした。
「初めまして。紬さん。蒼くんの姉の茜といいます」
女の子ははっきりと、蒼くんの姉だと言った。ということは、本当にお姉さんなのだろう。
あたしは驚きのあまり、返事が遅れる。慌てて取り繕う。
「は……初めまして。夏木紬と言います。お世話になります」
「どうぞ。ゆっくりして言ってください」
そう言うとまた蒼くんのお姉さんはお辞儀をした。そして頭を上げると、蒼くんに告げる。
「じゃあ、蒼くん。わたしは自分の部屋に行ってるから」
「ああ、わかったよ、姉さん」
蒼くんのお姉さんはまた階段を昇っていった。
階段を昇っていくときにお尻が揺れている。そのお尻の小さなこと。やがて奥に行って見えなくなる。
「じゃあ紬。キッチンに行こうか」
「う……うん」
そこであたしはあることに気がつく。確か、蒼くんのお姉さんはスナックを経営していると言っていた。まさか、今のひとが、スナックを経営。かなり凝視していたが、どう見てもスナックを経営していいような年齢には見えなかった。
もしかして、今まで意識していなかったけど、蒼くんにお姉さんはふたりいるのかな。
そして、今のひとが、一人目の……お姉さん。
さらにあたしは大事なことに気がつく。そういえば、蒼くんはあたしが蒼くんのお姉さんに似ていると言っていた。もともとあたしに声をかけるきっかけが、あたしがお姉さんに似ていたからだった。確かに。見た目だけなら、あたしと似ているかもしれない。
でも、年齢は、どう見ても……。
キッチンに入る。
「ああ、乾さん。今日はぼくたちだけで料理するから」
「かしこまりました」
乾さんと呼ばれたメガネをかけた紳士然としたひとは、直立で蒼くんにお辞儀をすると、あたしにも礼をして、キッチンから出て行こうとした。
「ぼっちゃま。何かありましたら、すぐにお声がけください」
「ああ、わかってるよ」
そして乾さんはどこかへ行ってしまった。
あたしはどうしても気になったことを蒼くんに聞いてしまう。
「あ……蒼くんのお姉さんって、ふたりいるの」
あたしは恐る恐る聞く。何か、開いてはいけない扉を開ける気持ちだった。
蒼くんはあたしのほうへ振り返った。
「そうだよ。姉さんはふたり」
そう言って、蒼くんはエプロンを取り出してくる。
「はい、紬のエプロン」
「う……うん」
あたしは蒼くんから差し出された青いエプロンをつける。
「うんうん。紬はエプロンも似合うね」
「えへへ」
あたしは動揺を悟られないように、自然に振舞う。
広いキッチンだった。あたしの家のキッチンより広い、というか、ほとんど厨房といっていい広さだった。その厨房のテーブルの一角に、カレーの材料が揃えられている。事前にあたしがリクエストした品物が並べられている。
「乾さんが紬の指定した食材を全部揃えてくれたんだ」
「すごいね」
あたしはカレー作りに取り掛かろうとする。
「ぼくは何をすればいいかな」
「あ、蒼くんは寛いでてよ」
「うーん。ごめんね。実際ぼくは、料理は乾さんに任せっきりだから。野菜も切れないからさ。あ、そうだ。じゃあ乾さんに野菜切ってもらおうよ」
「いいよ。それくらいすぐ出来るから。あたしがやるよ」
「いやいや、乾さんが切ってくれたほうが早いよ」
「う……うん。わかった。でも、味付けはあたしにさせてよ。じゃないと、あたしが作る意味なくなっちゃうから」
「わかった。あ、鍋はこれを使ってね」
そう言うと、蒼くんはコンロの上に置いてある鍋を指さす。そして乾さんを呼びに、キッチンを出て行った。
あたしは取り残されて、一瞬、呆然とする。
はっ。
なにしてるんだ、あたし。
カレーを作らないと。あたしは学生カバンの中から板チョコを取り出す。これがお母さんの作るカレーの隠し味なのだ。
事前の打ち合わせでは、四人前を作るということだった。
たぶん、あたしと蒼くん。あとは、お姉さんと乾さんの四人分かな。
もうひとりのお姉さんは、いまどうしてるんだろう。
……考えても結論など出ることではない。
あたしはそこに置いてあった包丁を手に取って、まずはにんじんを切りにかかった。
それにしても。
やっぱり気になる。さっきのお姉さんのこと。今から作るカレーも一緒に食べるのだろうか。
スナックを運営しているお姉さんとは別人らしい。蒼くんにお姉さんがふたりもいるなんて、初めて知った。あたしはどっちのお姉さんに似ているのだろう。確かにさっきのひともあたしに似ていなくもなかったけど。
もしかして、他にも兄弟姉妹がいるのだろうか。
あたしは頭を振った。今はカレー作りに集中しよう。
その後、乾さんがやってきて、見事な包丁さばきであっという間に野菜を切り終えてしまった。そして、「それでは、失礼いたします」と言って静かにキッチンを出て行った。まるで忍者みたいだ。
あたしは鍋に材料を入れ、スパイスを加えていく。それを煮込む。
そしてそれなりに煮立ってきたところで、板チョコを割って、それを鍋に放り込む。
あとは出来上がるのを待つだけ。
四人分だからすぐだろう。
あたしは蒼くんを呼ぼうと思ったが、そもそも彼がこの広い屋敷の中でどこにいるのか見当もつかなかった。
あたしはキッチンを出た。
そこへ。
「あっ」
声をあげたのはあちらからだった。
蒼くんのお姉さんだった。
「あ、お姉さん。蒼くんに料理が出来たって伝えてくれますか」
なぜか、一瞬、蒼くんのお姉さんは口を開けて静止していた。
あたしはあたしで、お姉さんと同じく口をぽかんと開けていた。
ふたりの間に、変な沈黙が訪れる。
そして。
「わ……わかりました。蒼くんを呼んできますね」
そう言って、蒼くんのお姉さんは早歩きで廊下を奥に向かっていった。
なんだったんだろう。今の、微妙な間は。
しかし。
やはりお姉さんは、どう見ても蒼くんより年下の女の子にしか見えない。
何か事情があるのかもしれない。
蒼くんはすぐにキッチンにやってきた。
「わあ!いい匂いだね!」
「お待たせ。じゃあ、お皿に盛っていくよ」
「うん」
あたしはカレーをひとり分、お皿に盛ると、それをキッチンの横にある大きな食堂に運んだ。
蒼くんはすでに食堂の広いテーブルの端に腰かけている。
「あとはあたしが食べて。あとのふたり分はどうするの」
「姉さんと乾さんに食べてもらうよ」
「うん。それはわかるけど。おふたりは一緒に食べないの」
「ふたりともぼくたちに気を遣ってくれて、あとで食べるってさ」
「そっか」
あたしも自分の分をお皿に盛って、蒼くんの隣に座った。向い合せでもいいと思ったけど、テーブルが広すぎて向かい側が遠いのだ。隣のほうが蒼くんにより近くにいることができるから、あたしは蒼くんの隣に座る。
蒼くんはさっそくスプーンを握る。
あたしは蒼くんの横顔に向かって言う。
「蒼くん。いただきますって言わないと」
「あ……。そうだね。いただきます!」
「いただきます」
あたしもスプーンでカレーをすくう。
「んー!うまい!」
蒼くんはあたしのほうを向くとグーサインを向けてくる。
「ほんと?良かった」
こんなことくらいで蒼くんが喜んでくれるなら、あたしはいくらでも料理をしてあげたいと思った。少しでも、蒼くんのことを幸せにしてあげたい。
なんだかんだで、あたしはまだ蒼くんに申し訳ないという気持ちがある。
あたしが夜にぐっすり眠れるようになるために、あたしは蒼くんに近づいた。未だに彼を利用しているような気分になる。そんな自分が、嫌になる。
でも、彼はあたしといるだけで幸せだと言ってくれる。あたしはその言葉に甘えて彼を利用しているだけなのではないだろうか。
そんなネガティブなことを考えてしまうのに、夜になるとぐっすり眠れるのだ。暗い気持ちになっていると、また夜に眠れなくなるんじゃないかと不安になったりするけど、それでも蒼くんに抱きしめてもらった日はぐっすり眠ることができる。
蒼くんって、すごいと思う。
「紬。どうしたの?」
はっ!
あたしは横を向く。蒼くんが、不思議そうな顔をしている。
「あ……。なんでもないよ」
「なんか困ったことあったら、なんでも言ってよ。すぐ相談に乗るから」
「うん……。ありがとう」
あたしは幸せだと思う。
蒼くんの顔を盗み見る。
蒼くん。あなたは幸せですか?
「姉さんの作るカレーよりうまいかもしれないよ」
蒼くんは満面の笑みを向けてそう言ってくれる。
「そ……それは、言い過ぎじゃないの」
「いや、ほんとにおいしいよ、これ。なんか隠し味とかあるの」
「あ、うん。チョコレートをちょっと加えるの。あとはスパイスも大事だね」
「姉さんは市販のカレー粉使うから。その差なのかな」
あたしはスプーンを置くと、意を決して蒼くんに尋ねた。
「あのね、蒼くん。さっき玄関で会った、茜さん。すごくかわいかったけど……、蒼くんのお姉さんって、スナックを経営してるって言ってたよね?」
蒼くんは残ったカレーを名残惜しそうに見ながら、きょとんとした。
「うん。姉さんは二人いるって言っただろ?」
「う、うん。二人のうちのどちらが、そのスナックを経営してるのかなって……」
「そりゃ、もうひとりの姉さんのほうだよ。茜姉さんはまだ高校生だからな」
「えっ……茜さん、高校生なの?」
あたしは目を丸くする。高校生だったのか。
「うん。もうひとりの姉さんは流川のほうでスナックをやってる。今度行こうって言っただろ? あっちの姉さんのことも紹介したいんだ。紬に会わせたら、きっと喜ぶよ」
蒼くんの顔は曇りがなかった。
あたしは少し胸が痛む。
どうやら、スナックを経営しているお姉さんのほうが年長であることは間違いないらしい。
蒼くんの家庭って、どうなってるんだろう。
蒼くんはもりもりとカレーを食べていく。
そしてあっという間に平らげてしまう。
「ああ、うまかった。正直、まだ食べたいよ」
「でも、四人分ぴったりだから、もうないよ」
「そうだね。ああ残念。ねえ紬。また今度作りに来てよ。というか、梅雨の間はしょっちゅう作りに来てよ。どうせ雨ばっかなんだし」
「うん。でもさ。毎回、玄関のところで抱き合うの?」
「ああ、それさっき考えてたんだけど、ぼくの部屋で抱き合えばいいよ」
「え……。蒼くんの部屋、行ってもいいの」
「もちろん。君はぼくの彼女なんだ。遠慮することないよ」
「蒼くんの部屋も広いんだろうね。何畳?」
「ぼくの部屋は八畳だよ」
「あれ。思ったより広くないんだね。もっと広いと思ったのに」
「自分の部屋が広すぎたら、何か取りに行くときいちいち大変だからさ。前はもっと広い部屋にいさせてもらったんだけど、今の部屋に変えてもらったんだ」
「そうなんだね」
「さっそく今から行こうよ」
「え……。ちょっと待って。急いで食べるから」
「ゆっくり食べなよ」
