そうして次の日。ぼくたちは平和公園で会うことにした。待ち合わせ場所は、原爆ドーム前にした。
 しかしこれが意外と大変だった。原爆ドーム前には世界各地からやってきた観光客でごったがえしていたからだ。紬がなかなか見つからない。
「蒼くん」
 声のするほうを見る。団体の観光客を先導するガイドさんの手旗の向こうに、紬の姿を見つける。
 ぼくは団体客の列を迂回して紬のところへ小走りに駆けた。
「やあ、待ったかい」
「ううん。あたしもさっき着いたとこ」
「それにしてもすごいひとだね」
「世界有数の観光地だからね」
「いこっか」
「うん」
 紬が手を伸ばしてくる。ぼくはその手を握る。
 ぼくの手先から伝わる温もりによって、紬は夜ぐっすり眠ることができるらしい。ぼくは紬が夜眠れるように祈りを込めて念を送る。今日はあまり抱き締める機会がないかもしれないから、手の先に、いつも以上に力を込める。しっかりと、彼女の手を握る。
 紬がぼくのことをちらっと見てくる。ぼくの思いが伝わったのかもしれない。
 いいな。青春だな、と思う。
 空を見上げると、今日も快晴だった。真っ青な空が広がっている。
 ぼくたちは原爆ドームのそばを流れる川沿いに平和公園のほうへ歩いてゆく。橋を渡ると、向かいに原爆ドームが見えるようになった。
「あのへんのベンチにすわろ」
 紬は原爆ドームの向かい岸にあるベンチを指差した。いまは誰も座っていない。ぼくたちは手をつないだまま、ベンチに座る。ちょうど桜の木の下で日陰になっているベンチだ。平和公園は春には一面に桜が満開となる。そうだよな。次に桜が咲くころには紬はいないんだ。そう思うと、ぼくはこの瞬間を、一瞬一瞬の紬との思い出を大切にしようと心を新たにするのだった。
 原爆ドームを見る。相変わらずその周りはたくさんの観光客がいる。ひしめきあうほどではないが、まっすぐ歩こうと思うとかなりのひとを避けないといけないくらいにはひとがいる。
 ぼくは紬の手をぼくの膝の上に置いた。そして、その手を両手で上下から包み込む。
「そんなにしなくてもいいのに」
「だめだよ。今日は抱き締めるチャンスがないかもしれないんだから。こうやって今のうちに入念にしておかないと」
「あたしはここで抱き締めあっても平気だよ」
「だ……大胆だな」
 ぼくは目を丸くして紬の顔を見る。前よりも紬は元気になったように思う。そう。ちょうどゴールデンウィーク中に電車の中で見かけたときのように、口元もしっかりと引き結ばれている。ぼくと付き合うまでは、いつも不安そうにうっすらと唇を開けて、うつむきがちだったのに。いまの彼女は元気だ。
 紬は顎をあげて、まっすぐにぼくのことを見てくる。
「ね、ここで抱き合おうよ」
「世界中の観光客に見せつけるのか?」
「いいじゃん。別にみんな気にしないと思うよ」
「う、うーん」
 そうすると紬はぼくから手を離し、その場に立ち上がった。
「ほら、蒼くん」
「う、うん」
 ぼくも立ち上がった。
 その瞬間。
「えい」
 紬がぼくに抱きついてきた。揺れた彼女のウルフカットの毛先が、ぼくの頬をなでる。と同時に甘い香りがぼくの鼻腔をくすぐる。
 これじゃぼくが抱き締められている側みたいだ。ぼくが彼女のことを抱き締めてあげないといけないのだ。
 ぼくは強く彼女のことを抱き締め返す。彼女の肩に顎を乗せる。ぼくの視界の奥に、原爆ドームが見える。
 ぼくはちらっと横目に向こう岸を見た。なんか、外国人のひとりが、ぼくたちのことを見つめて大袈裟に両手の平を空に向けている。やっぱりぼくたち、目立っているみたいだ。
 ぼくは紬の耳元にささやく。
「つ……紬。やっぱり見られてるよ。恥ずかしいよ」
「だーめ。あたしの睡眠薬なんだから」
 紬が甘えた声を出す。
 青春だとは思うが、クラスメイトにでも見られたら大変だ。
「ぽかぽかして気持ちいいよ」
 うん。なにもぼくだけが彼女に体温を分け与えているわけではない。ぼくも彼女の温もりを感じている。今日の彼女はクリーム色のキャミソールにネイビーのカーディガンだった。一方のぼくはTシャツだ。だから、やっぱり腕から彼女の温もりが、ぼくの腕に直接伝わってくる。熱いくらいだ。
 余命があと半年もない彼女。しかしいま、彼女の心臓は確かに機能しているのだ。その温もりをしっかりと感じ取る。
 そこでぼくはちょっとだけ暗い想像をする。あと半年もないとすると、こうやって抱き締めあうのもあと百五十回くらいしかないのかもしれない。十分多い気もするけど、それで彼女はいなくなってしまうのだ。
 ぼくはそう思うとたまらない気持ちになった。ひとに見られていることも気にせず、強く彼女を抱き締める。
「蒼くん。ちょっと痛いかも」
「あ、ごめん」
 ぼくは上半身だけ彼女から身を離すと、彼女の両腕を持って、彼女のことを見つめる。
 視線が絡み合う。紬の瞳は、川に反射した五月のきつい日差しの光を受けてキラキラと輝いていた。
 ぼくは反射的に言葉にする。
「紬。キレイだよ」
「はわ……な、なに、突然」
 紬は頬を赤く染めている。
「思ったことを言っただけだよ」
「は……恥ずかしいこと言わないでよ」
「恥ずかしいことをしようと言い出したのは君からだぞ」
「そ、そうだけど。そんなに見られてるのかな」
「ほら」
 ぼくは首を横に振って、川向こうの岸辺を見るように紬に促す。
 たくさんの外国人観光客がぼくたちのことを見ている。
「や……やだ……恥ずかしい」
 そう言うと紬はぼくから身体を離し、ベンチにどさっと座った。
 ぼくはゆっくりとその隣に腰かける。
「なんだよ。自分から抱き合いたいと言ったくせに」
「まさかあんなに見られるとは思わなかった」
「そっか」
 そこで紬は、ぼくが椅子の上に投げ出していた左手の上にそっと手を重ねてくる。
 そよ風が、ふたりの間を吹き抜けていく。
 ぼくは紬のほうを見る。紬の横顔。やたらと通った鼻筋に、卵型の顎のライン。それを引き立てるウルフカットのくるりんと曲がった毛先。
 そこでぼくはようやく思い出す。なんで今まで聞かなかったんだろう。
「紬のその髪型ってさ。ウルフカットっていうんだろ。その毛先、どうやってるの」
 紬が口をぽかんと開ける。
「ウルフカットって。知ってるんだね、蒼くん」
「うん。その髪型。あまりに気になったものだから、姉さんに聞いたんだよ」
「そうなんだね。これは、この部分以外を多めにカットしてもらうんだよ。ここだけ毛先が曲がるように、長めに残しておいてもらうの」
「パーマじゃないんだよね」
「パーマじゃないよ。あたし、くせっ毛だから。ちょうどこの髪型似合うと思って」
「うん、すごく似合ってるよ」
 やっと言えた。いまでは当たり前になっていて、そんなことを聞くことすら忘れてしまっていた。
「蒼くんは男らしくベリーショートだよね」
「高校生なんてこんなもんだよ」
「そっか」
 そう言うと、紬が身体を密着させにくる。そして、今度は紬のほうがぼくの手を彼女の膝の上に置いて、両手でぼくの手を包み込んでくれる。
 紬はぼくのことを見てくると、目を細めて笑った。
「あたし、いま幸せだよ」
 ぼくも紬の手を握り返して言う。
「うん。ぼくも」
「ほんとに?蒼くん、幸せなの」
「ほんとだよ」
 紬がぱっと明るい笑顔になって尋ねてくる。
「ほんとなんだね」
「な……なんだよ……疑ってんのか?」
 すると紬はちょっとうつむく。
「ううん。あたし、蒼くんのことを幸せにしてあげられる自信なかったから」
「自信持ちなよ。ぼくは君と触れあえるだけで幸せなんだ」
「うん……そうだね」
 紬の笑顔に陰りが見える。その表情。紬が何を考えているかは、よくわかる。ぼくを残して逝ってしまうことを考えているのだ。そのときにぼくが悲しむことも。でも紬のことを好きだと思うぼくの気持ちに後悔はない。
 そうやってぼくたちは原爆ドームやらその下を流れる川を眺めてゆったりした時間を過ごした。
 空を見上げる。相変わらず空は真っ青だった。太陽はギラギラと照りつけている。木陰じゃなかったらあっという間に日焼けしてしまうところだ。
 そういえば、と思い至る。もうすぐ梅雨がやってくるんだ。雨が降ると、あの旧校舎の屋上で紬と抱き合うこともできない。まさか埃っぽい旧校舎内で抱き合うというのだろうか。
 それはどうなんだろう。
 ぼくは紬に聞いてみることにした。
「ねえ紬。梅雨になったら、どうしよっか」
「ん……どうするって」
「その……抱き合う場所に、困るんじゃないかと思って」
「え、なんで」
「いやほら。雨、降るじゃん」
「ああ」
 そこでようやく紬は理解したらしい。紬は顎をあげて空を見上げた。思案顔だ。
「うーん。旧校舎の中とかは」
「埃っぽいから、衛生上良くない気がするけど」
「うーん」
 ぼくはさっき思い付いたことを提案する。
「ぼくの家に来ない」
「え、いいの?」
「うん」
 紬が不安そうに胸元に手をやって尋ねる。
「でも、蒼くんのお父さんやお母さんがいるんじゃないの」
「父さんは会合でいないことが多いし、母さんは行方不明なんだ」
「え……行方不明?」
 そこで紬は目を丸くさせた。
「ご……ごめんね。変なこと聞いて」
「何言ってるんだよ。家のことを言い出したのはぼくのほうだぞ」
「う、うん……」
「父さんが会合に出掛けてる日なら、特に問題ないよ」
「そ……そうなんだね」
「うん。そうだよ。ぼくの広い家を使わない手はないよ」
 ぼくは紬に握られた手の上に、ぼくの空いているもう片方の手を乗せた。
「じゃあ、雨が降ったときは、蒼くんの家にお邪魔しようかな」
「うん。あと、今度、姉さんのやってるスナックも行こうね」
「スナック?」
「姉さんがさ。流川でスナックやってるんだ。姉さんに紬のこと紹介したくて」
 流川というのは広島の繁華街である八丁堀のすぐ隣にある中四国地方最大の飲み屋街のことだ。新宿歌舞伎町のミニチュア版だと思えばわかりやすい。
「流川に行くの?でもあたしたちみたいな子供は、入っちゃいけないんじゃない?」
「昼間の営業時間外に行けば問題ないよ」
「営業時間外じゃ、空いてないじゃん」
「姉さんに言って、ぼくたちがいる時間だけ開けてもらうんだよ」
「ええ……なんか、それじゃお姉さんに申し訳ないよ」
「大丈夫だよ。姉さんはそんなこと気にしないから」
「そ、そうなの……」

 それからぼくたちは広島市内一番の繁華街である本通商店街を歩いていくことにした。
 アーケードが上にかかっていて、雨の日でも濡れないで済むようになっている。休日ということもあり、ひとでごったがえしていた。ぼくは紬と離れないように、しっかりと彼女の手をつなぐ。ところどころひとを避けないと前に進めない。
 途中、紬とシアトル系カフェに入る。紬は紅茶、ぼくはコーヒーを頼む。
「蒼くん、コーヒーなんて、大人だね。この前はオレンジジュース飲んでたのに」
「この前は寝る時間が近かったからさ。カフェインは飲まないようにと思って」
「そんなこと気にするんだ」
「うちは作法にはうるさいからね」
「さすが、おぼっちゃんだね」
「お手伝いさんみたいな言い方するなよ」
 ぼくたちは笑いあって席についた。そこは二階席のカウンターだった。紬と並んで外を見る。下を、大勢のひとが通っていくのが見える。
 紬は紙カップを両手で支えながら話す。
「ねえ、蒼くんの好きな食べ物って、なに?」
「カレー」
 ぼくは姉さんの作るカレーライスが大好物だった。今でもよく作ってもらっている。
「即答だね。そんなにカレー好きなの?」
「うん。姉さんがよく作ってくれるんだ」
「あたしもカレー作るの得意なんだけど、今度さ、雨が降って蒼くんの家に行ったとき、作ることできないかな。たぶん、蒼くんの家って広いから、キッチンも大きいんでしょ」
「ほんとに?作ってくれるの?」
「うん。でも、お姉さんほどうまく作れるかは、わかんないよ」
「そんなこと気にしないよ。ぜひ紬の作ってくれたカレー、食べてみたいよ」
「そう。じゃあ、約束ね」
「うん。いやあ、彼女の手料理食べられるなんて、ぼくは幸せ者だよ」
「よかった」
 ぼくは紬のことを見る。紬と目が合う。
「デートしてるって感じだね」
 ぼくは突然そんなことを言う。
「デートだよ。何をいまさら言ってんの」
「いや、青春してるなって」
「ふふ」
 紬は笑っていた。