ぼくたちは団地をふたつに大きく分断する大通り沿いにやってきた。大通りといってもかなりの坂道だ。その坂道の頂上より少し下のところにあるのが、地元で名店と評判の喫茶『ドマーニ』だ。
 ぼくは喫茶店の前に自転車を置いた。紬は店のドアの前にちょこん、と立っている。
「前から来たかったんだよね」
 紬は喫茶店の全体を見上げて、目を細めている。ぼくも紬を見習って喫茶店の全体を見る。レトロなログハウスだ。
「じゃ、はいろ」
 そう言って、紬はさっさと入っていく。そんなに大事な場所なら、もうちょっと味わうように入っていけばいいのに、なんて考えてしまう。
「いらっしゃいませ」
 店の奥にいた店員さんが声を張る。
 スツールの置かれたカウンター席が六つほど。あとはソファのボックス席が四つ。
 紬は無言で窓際のボックス席のひとつを選んで座る。ぼくは紬の向かいに座る。
 むっ。この位置関係。紬の顔を真正面に見ることになる。
 しかし、紬が広げたメニュー表によって、彼女の顔は隠れてしまった。まあ、メニューを選んだ後ならいくらでも彼女のことを拝むことはできるだろう。
 ぼくもメニュー表を取る。コーヒーからカレーライス。ガパオライスなんてのもある。なぜか色々な国の料理が並んでいる。
 ぼくは店内を見回す。
 店内の端に、季節はずれの薪ストーブが置かれてある。窓際を見ると、色々なミニカーやら鉄道模型などが飾られている。ノスタルジックな雰囲気に統一されているようだ。
 なるほどね、と感心しながらぼくはメニュー表にもう一度目を落とす。しかし今は午後五時前。なにか食事をとるには中途半端な時間だ。帰ったら、お手伝いさんの乾さんが作ってくれる豪華な料理が待っていることを考えると、ここは無難なものを頼むのが最善手といえそうだ。
「蒼くん、決まった?」
「うん」
「じゃあ、店員さん、呼ぶね」
「うん」
「すみませーん」
 さきほど厨房の奥にいた店員さんがしずしずと歩み寄ってくる。さっきは気づかなかったが、顎に立派な髭をたくわえていた。
「あたしはクリームソーダを。蒼くんは?」
「ぼくはオレンジジュースで」
「かしこまりました」
 そう言って、店員さんは厨房に引っ込んだ。
「蒼くん、オレンジジュースだけでいいの」
「うん。紬こそ、クリームソーダなんて頼んで夕飯食べられるの」
「デザートは別腹だよ」
「意外と子供っぽいところあるんだね」
「なによ。別にクリームソーダくらい大人だって飲むでしょ」
 むふーっと鼻を鳴らして紬は怒った顔をする。
「紬、かわいいね」
 ぼくは自然とそんな軽口を叩いていた。本当に、ごく自然に。
「な、なによ、バカにしないでよ」
 紬は頬をほんのり赤くさせて目を三角にしている。
 ふふ。かわいい。
 ああ、この怒り方。何かに似てると思ったら、姉さんに似てるんだ。姉さんもよく頬を膨らませるんだよな。結局ぼくは紬に姉さんの姿を重ね合わせてしまう。どこまでいってもシスコンなんだ。これは紬には聞かせないほうが良さそうだ。
「どうだい。この店、死ぬまでに来たかった場所なんでしょ」
「そうだね。割りと想像どおりって感じだった」
 すぐにオレンジジュースとクリームソーダが運ばれてくる。クリームソーダは緑色ではなく青色だった。それも真っ青な夏空を思わせる、澄んだ色だった。
「うわーばえる!写真とろ」
 そう言って紬はスマホを取り出すと、クリームソーダを写真に撮ってゆく。
 ぼくはオレンジジュースのストローに口をつけて、それを飲む。
 紬は長いスプーンでバニラアイスをすくうと、それを口に運んだ。
「んー!冷たい」
 そう言いながら、紬は口元に手をあてている。紬は食べ方も上品だった。そう。彼女は品があるのだ。そしてなんでも絵になる。
 そんなところも、姉さんと重なって写る。いつも一緒に夕食をとる姉さんも、食べ方は上品なのだ。まあうちは国会議員を代々勤めてきた家柄なので、作法にうるさいのもあるが。ぼくはオレンジジュースを飲みながら、紬の顔を正面に見る。食べ方も上品だなんて。また新たな彼女の一面を知ることができた。
 ぼくはあっという間にオレンジジュースを飲み干した。
 一方の紬はまだクリームソーダのアイスと格闘している。クリームソーダのアイスはスプーンの先で突くと、ソーダの中に沈んでしまうのだ。だからうまくすくうことが出来ない。たぶん、誰もが一度は経験したことがあるだろう。
 今、彼女もまさにその状態だった。えい、えい、っとスプーンでアイスをコップの縁に寄せてアイスを固定し、スプーンの先でアイスをこそげていく。そしてやっとの思いでアイスを口に運ぶ。そんなことをしている間に、アイスも底のほうは溶けていってしまうのだ。
 ぼくはそんな微笑ましい光景をじっくりと見ていた。
 紬。ぼくの姉に似た、美人さん。卵型の理想的な顎のラインを、くるりんと曲がったウルフカットの毛先が引き立てている。まるでウルフカットは彼女のために用意された髪型のようにぼくには思えた。
「そういえば、蒼くんのお父さんって、あの衆議院議員の兵藤茂さん?」
「ああ、そうだよ」
「すごいね、議員さんの息子さんなんて。将来は蒼くんも議員さんになるの」
「いやほら。ぼくは医学部目指してるから」
「あ、そっか。ねえ、議員さんだと、おうちもすごく大きかったりするの」
「まあ、そうだね」
「ふーん」
 紬は視線を泳がせながらクリームソーダをすすっている。いつの間にかバニラアイスは食べきったようだ。
 店を出るとき、ぼくは財布を出そうとした。すると、ぼくの動きを紬が腕で制してくる。
「ここはあたしが払うよ」
「なんで」
「だって、あたしが誘ったんだから」
 そう言うと、紬は財布から二千円を出してお釣りを受け取り、さっさと支払いを済ませてしまった。律儀だな。彼女の新たな一面をまた知ることになった。そんなところも素敵だと思う。
 外に出てもまだ完全には暗くなってなかった。いまは五月なのだ。
「まだ明るいね」
「うん」
「ん……」
 紬が両手をぼくに差し出してくる。「抱きしめて」のサインだ。
 ぼくは紬を抱きしめる。いくらでもするよ。君が、夜にぐっすり眠れるようになるためなら。

 次の日の放課後も、ぼくたちは旧校舎の屋上で出会った。
 出会ってすぐに、まず抱きしめ合うことがぼくたちのルーティーンになった。すぐに抱きしめることが肝要だ。なぜなら、抱きしめることを後回しにしてしまうと、あとで抱きしめることを忘れてしまうかもしれないからだ。忘れてしまうと、紬は夜に眠れなくなってしまう。
 実際、ぼくと付き合い始めてから、紬は夜にぐっすり眠れる日が続いているそうだ。それって結構すごいことだ。ぼくの行いが、彼女の役に立っている。その事実を感じるだけで、ぼくは幸せだった。
 抱きしめるときは、長く。時間を惜しむように抱きしめ合う。抱きしめながら、ぼくは空を見る。五月も後半に入っていたが、まだ真っ青な空だ。
 もう間もなく梅雨がやってくる。このまま永遠に梅雨がやってこなければいいのに、と思ってしまう。でもそれは無理なことだ。
 とっくの昔に、紬が将来いなくなってしまうことを覚悟したつもりでいたけど、付き合ってからこうして抱き合っていると、彼女を失いたくないという気持ちが日に日に強くなってくる。
 そんな自分に、ちょっと戸惑う。当事者である彼女のほうが、ぼくなんかよりよほど不安なんだ。ぼくがしっかりしないでどうするというんだ。そうやって、ぼくは自分に言い聞かせる。
 彼女の顔を見る。キレイな顔をしている。とても余命半年のひとの顔には見えない。
 でも、彼女のがんは、彼女の身体をどんどん蝕んでいるらしい。すい臓がんは自覚症状がないことがほとんどで、気づいたときには他の臓器にも転移していることが多いという。
 出来るなら、ぼくが代わってあげたい。それも何度も思った。でも、現実が変わることはない。
 それから抱きしめ合うことを終えたぼくたちは、いつものように給水塔の柱に背をあずけて地べたに座る。
 そして、ぼくは参考書を開く。それがここでの日常となった。
 紬は、かろうじて英語の参考書にはついてこれるらしかったが、数学や国語はまったく手に負えないと、悔しそうにしていた。
 紬は言う。
「あたしね。死ぬまでにやりたいこと全部やるって言ったけど、考えたけど、そんなにやりたいことたくさんあるわけじゃないんだよね」
 ぼくは参考書から視線を外し、紬を見る。
「ここにこうしているだけで、十分っていうか」
「でも、明日は土曜日だぞ。ぼくはここには来れないし」
「蒼くんは、土日は予備校だったよね」
「そうだよ」
「何時からだっけ」
「初めて会ったときと同じ時間帯だよ。ちょうどお昼前だね」
「じゃあ、それが終わったら、市内に出ようよ」
 広島市民には謎の習慣がある。紙屋町や八丁堀といった中心街に出ることを「市内に出る」というのだ。一応、ぼくたちがいる、この山の中の団地も広島市内なのだけど、古くから広島市民は広島市の中心部に出ることを「市内に出る」という独特の言い回しをする。
「どこか行きたいところでもあるの」
「平和公園行きたい」
「なんかあるの」
「別に何もないよ。ただ、蒼くんとベンチに座って、原爆ドームのそばの川でも眺めていたい」
「なんか、恋人っぽいね」
「なによ。あたしたち、恋人同士でしょ」
「うん、もちろん」