奇妙な話だった。にわかには信じられないという表現がぴったりだった。
紬さんは毎夜、死の恐怖を感じて眠れないらしかった。それはそうだろう。まだ彼女はぼくと同じ十七歳なんだ。いきなり余命半年のがんを宣告されて、夜ぐっすり眠れるというほうがおかしいかもしれない。
でも、ぼくに抱き締められると、ぐっすり眠れるのだという。紬さんのお姉さんには、「そういうのを恋って言うんだよ」と言われたそうだ。
調べてみたけど、人間は抱き締められると、「愛情ホルモン」や「絆ホルモン」と呼ばれるオキシトシンがよく出るらしい。オキシトシンは、不安や恐怖を感じる際に働くコルチゾール(ストレスホルモン)の分泌を抑制し、心拍数や血圧を安定させる効果があるという。
つまり紬さんにとっては、夜の恐怖というストレスを軽減させる効果が抱擁にはあるわけだ。紬さんのお姉さんの言うように、恋の力なのかもしれない。
とにかくぼくに出来ることは、毎日会って彼女を抱き締めてあげること。彼女が亡くなってしまうその日まで、それを実行することだ。
紬さんは「あたしは半年後にはいなくなるんだから、蒼くんに迷惑がかかるから、蒼くんに甘えてしまうことに躊躇した」と言っていたけれど、ぼくは恋人という存在が出来て純粋に嬉しかった。もちろん、彼女がいずれいなくなってしまうことはわかっている。でも。だからこそ、それまで精一杯に彼女を愛そうと思った。
自分の部屋で勉強をしていると、机の上に置いていたスマホが震える。通知欄に「夏木紬」と表示が出る。
「あした、放課後に屋上行ったその後、時間空いてるかな」
ぼくはすぐに「空いてるよ」と返信する。すぐにグーサインのスタンプが返ってくる。
どこか行きたいところでもあるのかもしれない。
これから毎日、ぼくたちは学校のある日は、あの旧校舎の屋上で会うことになるだろう。そこで、たくさん彼女を抱き締めてあげないといけない。さっきも長いこと抱き合っていたのだ。
ぼくは「今日もぐっすり眠れそう?」と返信する。
「うん!」と笑顔満面の絵文字とともに返事がくる。
休日はどうすればいいんだろう。まだそこまで話し合っていない。休日は、ぼくは予備校がある。だから、ぼくの予備校の授業の後に会うことになる。
とにかく紬さんのためには毎日会わないといけない。それで彼女は死ぬその日まで、夜に死の恐怖を感じずに眠ることができるのだ。
紬さんは「蒼くんに迷惑がかかるから」とずっと言っていたけど、それくらいお安いご用というものだ。むしろ毎日会えて、ぼくは嬉しい。
ぼくは椅子の背もたれに寄りかかって、これからのことを想像した。
平日は学校で会うとして、休日は、予備校の後で、いろんなところに行こう。そうだ。予備校は広島駅の近くにあるのだから、街中に出てもいいし。姉さんのやってるスナックに営業時間前に寄るのも良さそうだ。
それから、彼女をこの家に呼ぶのもありだ。父さんのスケジュールをお手伝いさんの乾さんに聞いて、父さんが会合でいない日に紬さんを招くのだ。
そんなことを想像していると、色々と楽しくなってくる。今までではなかったことだ。恋人が出来るって、こういうことなんだな。
空虚だったぼくの人生に花が咲いたのだ。そして、今まで、姉さん以外のひとのことで、こんなにひとを思ったことはない。
おっと。紬さんには姉さんの話はあんまりしすぎないほうがいいかもしれないな。「キモい」とか「あたしはあなたのお姉さんじゃないの」とか言われそうだ。そうなんだよな。彼女は顔立ちが姉さんに似すぎているんだ。
そうか。姉さんのスナックに行ったり、この家に紬さんを呼ぶということは、姉さんと紬さんを対面させるということなんだ。姉さんに自分の恋人を紹介するなんて。なんか恥ずかしいな。
それから、紬さんは死ぬまでにやりたいことがたくさんあると言っていた。それにも付き合ってあげなくちゃいけない。そうだよな。ぼくが余命半年と宣告されても同じような考えを持つと思う。
翌日の学校にて。放課後。ぼくと紬さんはまたあの旧校舎の屋上に来ていた。
ぼくはここに来るとき見つからないように、荷物は最小限にしてきていた。大きな参考書は目立ってしまうので、ポケットサイズの英単語帳だけ持ってきた。
屋上への扉を開ける。紬さんの姿がすぐには見えなかったので辺りを見渡す。
いた。彼女は昨日と同じように給水塔の柱に背をあずけて空を見ていた。
つられてぼくも空を見る。五月らしい、真っ青な空だ。そして日差しがきつい。
「蒼くん」
紬さんに名前を呼ばれて、ぼくは彼女の元に駆け寄る。ぼくは開口一番に聞く。
「昨日はぐっすり眠れた?」
「うん、蒼くんのおかげだよ」
「そうか」
そう言ってぼくは彼女のもとに行く。そして、何も言わずに彼女を抱きしめる。
恋人と抱きしめ合えるだけでも幸せなのに、これがあと半年ずっと続くのだ。そう思うと感慨深いという思いとともに、彼女の余命の現実を突きつけられて、少し暗い気持ちになる。
でももちろんそんなことを考えている表情は彼女には見せない。彼女が生きている間は、少なくともぼくと一緒にいる間は、なるべく笑顔でいさせてあげたい。
だからといって悲しい表情をする彼女のことを突き放すわけではない。彼女の力になってあげたい。いまこうして抱きしめているのもその一環だ。ぼくが彼女を抱きしめることで、彼女が安心して夜に眠ることができるのなら、いくらでも抱きしめてあげたい。
「もっと強く」
「そんなに強くして大丈夫?」
「うん。平気。落ち着く」
彼女は華奢だ。強く抱きしめると、骨が折れてしまうのではないかと心配になるくらいだ。
彼女は顎をあげて、ぼくの顔を見つめる。
顔が、近い。思わずぼくは目を丸くさせる。
「蒼くん。好き……」
「は……恥ずかしいよ」
「恥ずかしいの?蒼くん」
「うん……」
「うふ。かわいいね」
紬さんはそんなことを言いながら、ぼくの耳に甘く噛みついてくる。
「あ、くすぐったいよ」
「かわいい。蒼くん」
耳から離れた紬さんは、その切れ長の瞳を大きく見開いてぼくの瞳を見つめる。
「えへへ。あたしの彼氏くん」
「恥ずかしいことばかり言うんだね、紬さん」
「あ、そうだ。それだよ。それ」
「ん?どれ?」
「あたしのこと、呼び捨てで呼んでくれない?」
「呼び捨て?」
「紬……って」
「紬」
「うんうん。いい感じ」
紬は目を細めてそう言う。
「じゃあ紬はぼくのこと、蒼って呼ぶのかな」
「ううん。あたしは蒼くんって呼びたい」
「なんでだよ」
「なんでも」
紬は首を左右に振る。なんでぼくだけ呼び捨てで呼ばないといけないのかよくわからないが、そういうことになってしまったらしい。
それから紬はぼくが手にしている英単語帳に気がつく。
「ここで勉強するつもりなの?」
「あ、ダメだったかな」
「ううん。蒼くんは、やっぱり東大に行くの?」
「うん、そのつもりだよ」
「じゃあ、蒼くんが勉強してるそばにいていいかな」
「あ、うん。もちろん」
「よかった」
紬はふんわりと微笑んだ。その笑顔は、あの最初に電車の中で見たときの笑顔とはまた違うものだった。あの自信に満ちた笑顔とは違う。また彼女の新たな一面を見た気がする。
「すわろっか」
「うん」
ぼくたちはふたり並んで給水塔の柱に背をもたせかけて地べたに座った。
ぼくはさっそく単語帳を広げる。もうだいぶ覚えたが、ほとんど試験では見かけない最難関の英単語だけはまだ覚えていないものがいくつかあった。ぼくは英単語帳の終盤のあたりを開く。
横から紬が単語帳を覗き込む。
「ちょっと待って。あたしの知らない単語ばっかり並んでるんだけど」
「このあたりは受験でもほぼ見かけない最難関の単語だよ」
「蒼くん、なんか忘れてるでしょ」
「へ?」
なんのことかわからなくてぼくは頭の上にクエスチョンマークをたくさん浮かべる。
「あたし、国際英文学科なんだよ」
「それがどうかしたの」
「もう、蒼くん、鈍感なんだから。あたしは国際英文学科なんだから、英語に関してはあたしのほうが得意じゃないとまずいでしょ」
「ああ、なんだ。そんなことか」
「そんなことかって、もう。確か初めて会ったときにも言ったよね」
ぷんぷん、と頬を膨らませた紬は顎をあげてあっちを向いてしまった。
「そんな怒んないでよ」
紬がぼくのことを見る。
「怒ってなんかないよ。蒼くんが頭良すぎるだけだよ」
「それって褒め言葉なの」
「褒め言葉に決まってるでしょ、バカ」
そう言って、紬はぼくの肩を叩く。
「痛い、痛い。勘弁してよ」
ぼくは身を守るように体を縮める。英単語帳がぱたぱたと音をたててページがでたらめにめくられてゆく。
「もう。国際英文学科のメンツ丸潰れなんだから」
「そんなこと気にしなくていいでしょ」
「なによ!その言い方!バカにしてるの?」
「バ、バカになんかしてないよ」
「くそ!このやろ!」
さっきよりも激しく紬がぼくの肩を叩いてくる。こ、これじゃ、まるでバカップルみたいじゃないか。
「痛いってば、紬」
「ふん!蒼くんのがり勉」
「そんなの今さら言われてもなぁ」
ぼくの単語帳をめくる手に、紬の手が重ねられる。
「つ、紬?」
紬と目が合う。近い。唇もそこにある。意識してしまう。
「手、握ってていい?」
「う、うん、いいけど」
ぼくはドギマギしながら英単語に目を落とす。しかし、この状況で集中できるわけがない。ぜんぜん単語を覚えられない。紬も英単語帳を見るようになった。紬の手は引き続きぼくの左手に添えられている。紬の手は温かかった。彼女の、命の息吹を、そこから感じる。
手の先からぼくの心臓の音は伝わっていないだろうか、と不安になる。それくらい距離が近い。
ぼくは英単語帳を真剣に読んでいる振りをして彼女のことをちらちらと横目で見ていた。
一時間以上そうしていた。紬はまだぼくの手に手を添えている。
ずっと柱にもたれていたぼくは、腰が痛くなってきた。
ぼくは彼女の手を左手に感じたまま言葉にする。
「紬、そろそろ、腰が痛いです」
「あ、大丈夫」
そしてぼくはその場に立ち上がった。彼女の手を払い除けるのは気が引けたが、さすがに腰がつらかった。
「じゃあ、もう行こうか」
「あ、うん」
「あ、出て行く前にぎゅーってして」
「そうだね、念には念を入れて」
ぼくは紬のことを抱きしめる
そうしてぼくたちは旧校舎から出ていくことにした。
「また国際英文学科の下駄箱のところまで来てくれるかな」
「うん」
そう言われてぼくは教室に戻ると、荷物をまとめて彼女のもとに行った。
そして、ぼくが自転車を押し、その横に紬が並んだ。
「紬は自転車通学じゃないんだね」
「あたしの家、だいぶ坂の上だから。自転車だと帰りがつらくなっちゃうからね」
「なるほど」
そこで紬は両手をうしろに回してくるりと身体をぼくのほうに向けてくる。
「ねえ、昨日あたしが言った死ぬまでにやりたいことを全部やるっての、覚えてる?」
昨日彼女から聞かされたことだ。死ぬまでにやりたいことリスト。
「ん、ああ、そういえば、そんなこと言ってたね」
「今から、そのひとつをやりたいんだけど、蒼くん、付き合ってくれるかな」
「今から?」
「そう。ひとりじゃちょっと厳しいから」
「ぼ……ぼくに出来ることなら」
そこで紬は歩みを止めた。
「じゃあ、ちょっとお互いに遠回りになっちゃうけど、今来た道を戻ろうか」
「え、どこに行くの」
「この団地の一番の大通り沿いにある『ドマーニ』って喫茶店、知ってる?」
「ああ、あるね。そこに行きたいわけ?」
「ビンゴ。ひとりだと入りづらいからさ」
「わかった、行こうか」
紬さんは毎夜、死の恐怖を感じて眠れないらしかった。それはそうだろう。まだ彼女はぼくと同じ十七歳なんだ。いきなり余命半年のがんを宣告されて、夜ぐっすり眠れるというほうがおかしいかもしれない。
でも、ぼくに抱き締められると、ぐっすり眠れるのだという。紬さんのお姉さんには、「そういうのを恋って言うんだよ」と言われたそうだ。
調べてみたけど、人間は抱き締められると、「愛情ホルモン」や「絆ホルモン」と呼ばれるオキシトシンがよく出るらしい。オキシトシンは、不安や恐怖を感じる際に働くコルチゾール(ストレスホルモン)の分泌を抑制し、心拍数や血圧を安定させる効果があるという。
つまり紬さんにとっては、夜の恐怖というストレスを軽減させる効果が抱擁にはあるわけだ。紬さんのお姉さんの言うように、恋の力なのかもしれない。
とにかくぼくに出来ることは、毎日会って彼女を抱き締めてあげること。彼女が亡くなってしまうその日まで、それを実行することだ。
紬さんは「あたしは半年後にはいなくなるんだから、蒼くんに迷惑がかかるから、蒼くんに甘えてしまうことに躊躇した」と言っていたけれど、ぼくは恋人という存在が出来て純粋に嬉しかった。もちろん、彼女がいずれいなくなってしまうことはわかっている。でも。だからこそ、それまで精一杯に彼女を愛そうと思った。
自分の部屋で勉強をしていると、机の上に置いていたスマホが震える。通知欄に「夏木紬」と表示が出る。
「あした、放課後に屋上行ったその後、時間空いてるかな」
ぼくはすぐに「空いてるよ」と返信する。すぐにグーサインのスタンプが返ってくる。
どこか行きたいところでもあるのかもしれない。
これから毎日、ぼくたちは学校のある日は、あの旧校舎の屋上で会うことになるだろう。そこで、たくさん彼女を抱き締めてあげないといけない。さっきも長いこと抱き合っていたのだ。
ぼくは「今日もぐっすり眠れそう?」と返信する。
「うん!」と笑顔満面の絵文字とともに返事がくる。
休日はどうすればいいんだろう。まだそこまで話し合っていない。休日は、ぼくは予備校がある。だから、ぼくの予備校の授業の後に会うことになる。
とにかく紬さんのためには毎日会わないといけない。それで彼女は死ぬその日まで、夜に死の恐怖を感じずに眠ることができるのだ。
紬さんは「蒼くんに迷惑がかかるから」とずっと言っていたけど、それくらいお安いご用というものだ。むしろ毎日会えて、ぼくは嬉しい。
ぼくは椅子の背もたれに寄りかかって、これからのことを想像した。
平日は学校で会うとして、休日は、予備校の後で、いろんなところに行こう。そうだ。予備校は広島駅の近くにあるのだから、街中に出てもいいし。姉さんのやってるスナックに営業時間前に寄るのも良さそうだ。
それから、彼女をこの家に呼ぶのもありだ。父さんのスケジュールをお手伝いさんの乾さんに聞いて、父さんが会合でいない日に紬さんを招くのだ。
そんなことを想像していると、色々と楽しくなってくる。今までではなかったことだ。恋人が出来るって、こういうことなんだな。
空虚だったぼくの人生に花が咲いたのだ。そして、今まで、姉さん以外のひとのことで、こんなにひとを思ったことはない。
おっと。紬さんには姉さんの話はあんまりしすぎないほうがいいかもしれないな。「キモい」とか「あたしはあなたのお姉さんじゃないの」とか言われそうだ。そうなんだよな。彼女は顔立ちが姉さんに似すぎているんだ。
そうか。姉さんのスナックに行ったり、この家に紬さんを呼ぶということは、姉さんと紬さんを対面させるということなんだ。姉さんに自分の恋人を紹介するなんて。なんか恥ずかしいな。
それから、紬さんは死ぬまでにやりたいことがたくさんあると言っていた。それにも付き合ってあげなくちゃいけない。そうだよな。ぼくが余命半年と宣告されても同じような考えを持つと思う。
翌日の学校にて。放課後。ぼくと紬さんはまたあの旧校舎の屋上に来ていた。
ぼくはここに来るとき見つからないように、荷物は最小限にしてきていた。大きな参考書は目立ってしまうので、ポケットサイズの英単語帳だけ持ってきた。
屋上への扉を開ける。紬さんの姿がすぐには見えなかったので辺りを見渡す。
いた。彼女は昨日と同じように給水塔の柱に背をあずけて空を見ていた。
つられてぼくも空を見る。五月らしい、真っ青な空だ。そして日差しがきつい。
「蒼くん」
紬さんに名前を呼ばれて、ぼくは彼女の元に駆け寄る。ぼくは開口一番に聞く。
「昨日はぐっすり眠れた?」
「うん、蒼くんのおかげだよ」
「そうか」
そう言ってぼくは彼女のもとに行く。そして、何も言わずに彼女を抱きしめる。
恋人と抱きしめ合えるだけでも幸せなのに、これがあと半年ずっと続くのだ。そう思うと感慨深いという思いとともに、彼女の余命の現実を突きつけられて、少し暗い気持ちになる。
でももちろんそんなことを考えている表情は彼女には見せない。彼女が生きている間は、少なくともぼくと一緒にいる間は、なるべく笑顔でいさせてあげたい。
だからといって悲しい表情をする彼女のことを突き放すわけではない。彼女の力になってあげたい。いまこうして抱きしめているのもその一環だ。ぼくが彼女を抱きしめることで、彼女が安心して夜に眠ることができるのなら、いくらでも抱きしめてあげたい。
「もっと強く」
「そんなに強くして大丈夫?」
「うん。平気。落ち着く」
彼女は華奢だ。強く抱きしめると、骨が折れてしまうのではないかと心配になるくらいだ。
彼女は顎をあげて、ぼくの顔を見つめる。
顔が、近い。思わずぼくは目を丸くさせる。
「蒼くん。好き……」
「は……恥ずかしいよ」
「恥ずかしいの?蒼くん」
「うん……」
「うふ。かわいいね」
紬さんはそんなことを言いながら、ぼくの耳に甘く噛みついてくる。
「あ、くすぐったいよ」
「かわいい。蒼くん」
耳から離れた紬さんは、その切れ長の瞳を大きく見開いてぼくの瞳を見つめる。
「えへへ。あたしの彼氏くん」
「恥ずかしいことばかり言うんだね、紬さん」
「あ、そうだ。それだよ。それ」
「ん?どれ?」
「あたしのこと、呼び捨てで呼んでくれない?」
「呼び捨て?」
「紬……って」
「紬」
「うんうん。いい感じ」
紬は目を細めてそう言う。
「じゃあ紬はぼくのこと、蒼って呼ぶのかな」
「ううん。あたしは蒼くんって呼びたい」
「なんでだよ」
「なんでも」
紬は首を左右に振る。なんでぼくだけ呼び捨てで呼ばないといけないのかよくわからないが、そういうことになってしまったらしい。
それから紬はぼくが手にしている英単語帳に気がつく。
「ここで勉強するつもりなの?」
「あ、ダメだったかな」
「ううん。蒼くんは、やっぱり東大に行くの?」
「うん、そのつもりだよ」
「じゃあ、蒼くんが勉強してるそばにいていいかな」
「あ、うん。もちろん」
「よかった」
紬はふんわりと微笑んだ。その笑顔は、あの最初に電車の中で見たときの笑顔とはまた違うものだった。あの自信に満ちた笑顔とは違う。また彼女の新たな一面を見た気がする。
「すわろっか」
「うん」
ぼくたちはふたり並んで給水塔の柱に背をもたせかけて地べたに座った。
ぼくはさっそく単語帳を広げる。もうだいぶ覚えたが、ほとんど試験では見かけない最難関の英単語だけはまだ覚えていないものがいくつかあった。ぼくは英単語帳の終盤のあたりを開く。
横から紬が単語帳を覗き込む。
「ちょっと待って。あたしの知らない単語ばっかり並んでるんだけど」
「このあたりは受験でもほぼ見かけない最難関の単語だよ」
「蒼くん、なんか忘れてるでしょ」
「へ?」
なんのことかわからなくてぼくは頭の上にクエスチョンマークをたくさん浮かべる。
「あたし、国際英文学科なんだよ」
「それがどうかしたの」
「もう、蒼くん、鈍感なんだから。あたしは国際英文学科なんだから、英語に関してはあたしのほうが得意じゃないとまずいでしょ」
「ああ、なんだ。そんなことか」
「そんなことかって、もう。確か初めて会ったときにも言ったよね」
ぷんぷん、と頬を膨らませた紬は顎をあげてあっちを向いてしまった。
「そんな怒んないでよ」
紬がぼくのことを見る。
「怒ってなんかないよ。蒼くんが頭良すぎるだけだよ」
「それって褒め言葉なの」
「褒め言葉に決まってるでしょ、バカ」
そう言って、紬はぼくの肩を叩く。
「痛い、痛い。勘弁してよ」
ぼくは身を守るように体を縮める。英単語帳がぱたぱたと音をたててページがでたらめにめくられてゆく。
「もう。国際英文学科のメンツ丸潰れなんだから」
「そんなこと気にしなくていいでしょ」
「なによ!その言い方!バカにしてるの?」
「バ、バカになんかしてないよ」
「くそ!このやろ!」
さっきよりも激しく紬がぼくの肩を叩いてくる。こ、これじゃ、まるでバカップルみたいじゃないか。
「痛いってば、紬」
「ふん!蒼くんのがり勉」
「そんなの今さら言われてもなぁ」
ぼくの単語帳をめくる手に、紬の手が重ねられる。
「つ、紬?」
紬と目が合う。近い。唇もそこにある。意識してしまう。
「手、握ってていい?」
「う、うん、いいけど」
ぼくはドギマギしながら英単語に目を落とす。しかし、この状況で集中できるわけがない。ぜんぜん単語を覚えられない。紬も英単語帳を見るようになった。紬の手は引き続きぼくの左手に添えられている。紬の手は温かかった。彼女の、命の息吹を、そこから感じる。
手の先からぼくの心臓の音は伝わっていないだろうか、と不安になる。それくらい距離が近い。
ぼくは英単語帳を真剣に読んでいる振りをして彼女のことをちらちらと横目で見ていた。
一時間以上そうしていた。紬はまだぼくの手に手を添えている。
ずっと柱にもたれていたぼくは、腰が痛くなってきた。
ぼくは彼女の手を左手に感じたまま言葉にする。
「紬、そろそろ、腰が痛いです」
「あ、大丈夫」
そしてぼくはその場に立ち上がった。彼女の手を払い除けるのは気が引けたが、さすがに腰がつらかった。
「じゃあ、もう行こうか」
「あ、うん」
「あ、出て行く前にぎゅーってして」
「そうだね、念には念を入れて」
ぼくは紬のことを抱きしめる
そうしてぼくたちは旧校舎から出ていくことにした。
「また国際英文学科の下駄箱のところまで来てくれるかな」
「うん」
そう言われてぼくは教室に戻ると、荷物をまとめて彼女のもとに行った。
そして、ぼくが自転車を押し、その横に紬が並んだ。
「紬は自転車通学じゃないんだね」
「あたしの家、だいぶ坂の上だから。自転車だと帰りがつらくなっちゃうからね」
「なるほど」
そこで紬は両手をうしろに回してくるりと身体をぼくのほうに向けてくる。
「ねえ、昨日あたしが言った死ぬまでにやりたいことを全部やるっての、覚えてる?」
昨日彼女から聞かされたことだ。死ぬまでにやりたいことリスト。
「ん、ああ、そういえば、そんなこと言ってたね」
「今から、そのひとつをやりたいんだけど、蒼くん、付き合ってくれるかな」
「今から?」
「そう。ひとりじゃちょっと厳しいから」
「ぼ……ぼくに出来ることなら」
そこで紬は歩みを止めた。
「じゃあ、ちょっとお互いに遠回りになっちゃうけど、今来た道を戻ろうか」
「え、どこに行くの」
「この団地の一番の大通り沿いにある『ドマーニ』って喫茶店、知ってる?」
「ああ、あるね。そこに行きたいわけ?」
「ビンゴ。ひとりだと入りづらいからさ」
「わかった、行こうか」
