その夜。あたしは床につく。あたしの余命は半年。
当たり前だけど死は怖い。何度も受け入れようとした。受け入れたつもりでいた。
でも、やっぱり完全には受け入れられない。
そして、いつも夜になると、自分が死ぬことを受け入れきれなくて、恐怖であたしはうまく寝付けないのだった。
しかし、その夜は違った。
あたしはぐっすりと眠ることができた。
翌朝。あたしは目覚ましによって目を覚ます。
スマホのタイマーを切って、カーテンのかかった窓の外に目をやる。小鳥のさわやかなさえずりが聞こえてくる。
よくわからないけど、この日はぐっすり眠れた気がする。
(なんだろう。この感覚)
不思議だった。まあ、たまたまか。
あたしは深く考えもせず、ベッドから抜け出し、登校の準備を始める。
学校では平常心でいる。
担任の先生以外に、あたしの病気を知るひとはいない。
あたしの病気は、ステージ四のすい臓がん。自覚症状が少なく、気がついたときには手遅れということがよくあるがん、らしい。
死ぬ前には結構痛みが出るという。
それがなによりも怖い。
それでもあたしは学校では平気なふりをする。周りに余計な心配をかけたくないという気持ちもあるが、なによりも同情されるのが嫌だった。同情されるくらいなら、クラスメイトの誰にも知られずに死にたかった。
あたしは窓際の席に座っている。
窓から、校舎の奥を見る。
うちの学校はLの字型になっていて、ここからちょうど真反対のところに普通科がある。
兵頭蒼くん。
優しい蒼くん。電車の中で元気のないあたしのことを見て、声をかけてくれた。思わずあたしは彼のことを抱きしめてしまった。嫌がられるかな、なんて考える余地もないほどに、反射的に抱きついてしまっていた。いま思うと、結構恥ずかしいことをしたものだと、我ながら自嘲する。
蒼くんとの約束どおり、放課後の体育館裏に来ていた。
誰もいない。
そこへ、蒼くんがやってくる。
「お待たせ、蒼くん」
「ぼくもさっき来たばかりだよ」
そこで会話は止まってしまった。
あたしは体育館の壁に背をあずけて、そのまま何も蒼くんに話すことはなかった。
あたしたちはずっと黙ったままだった。
しびれを切らした蒼くんが尋ねてくる。
「な……なんか、昨日の紬さんと、雰囲気違うね」
そう言われても、あたしはもじもじとして下を向いたままだ。
いつの間にかあたしは泣いていた。
「ど、どうしたの」
蒼くんは驚いて声をかけてくる。
蒼くんの顔を直視できない。
あたしは指先で涙を振り払うようにする。
「蒼くん。あたし、やっぱりあと半年でいなくなっちゃうんだよ。本当にあたしと付き合っていいの」
その瞬間、あたしは蒼くんに抱きしめられていた。
あたしは反射的に言う。
「だめ。蒼くん。あたしに優しくしないで。蒼くんから離れられなくなっちゃう」
「離すもんか。君はぼくにとっても恩人なんだから」
「えっ。どういうこと」
「ぼくの人生は空虚そのものだった。その人生に潤いをもたらしてくれたのが君なんだ。だから、絶対に離したくないんだ」
「だめよ、蒼くん」
そう言って、あたしは蒼くんの手を振りほどくと、走って蒼くんの元から逃げてしまった。
家に帰り、夕食をとり、風呂に入ると、まもなく夜がやってくる。
あたしには、夜の闇が、死神が鎌を持って待ち構えているようにしか思えなかった。それくらい夜はあたしに死を連想させた。
死にたくない。どうしてあたしが。あたしだけがこんな若い年齢で死なないといけないのか。なんであたしが選ばれたのか。こんなことなら生まれてこなければよかった。
そんなことを、もう何度も何度も繰り返し頭の中で反芻してきた。
また、昨日みたいにすんなり寝られないかな。あたしはそれを期待した。
ぴぴぴぴ。
あたしはスマホのタイマーを切る。
あれ。またぐっすりと眠れることができた。
おとといと、その前の日の二日間、ぐっすり眠れたのは、なんだったのだろうか。
スマホには蒼くんからのメッセージが来ていた。
「紬さん、大丈夫」と。
蒼くん。
蒼くんに会いたい。
しかしその日は土曜日だったため、蒼くんと学校で会うことはできない。
呼び出してもよさそうだが、あたしが死ぬと、あたしは蒼くんを残していなくなってしまう。
そのことを思うと、蒼くんに対して素直になることができない。
結局その日は蒼くんに連絡することもなかった。
朝。あたしはスマホのタイマーが鳴る前に目が覚める。
直近の二日間とは違い、夕べはろくに眠ることができなかった。
あたしは考える。
なぜ、この前の二日間だけぐっすりと眠ることができたのだろうか。
何か、ぐっすり眠れる秘訣でもあるのだろうか。
眠れなかった日と、ぐっすり眠れた日の差異は、どこにある。
ひとつだけ思い当たることがある。
蒼くんだ。
そうだ。昨日は蒼くんに会っていない。一方で二日間のぐっすり眠れた日は。蒼くんと会った日。
蒼くんに会うと、あたしはぐっすり眠れるのか?
そうか。蒼くんなんだ。
蒼くんに会いたい。
でも、あたしはいずれ蒼くんを置いていなくなってしまう。
蒼くんに対して素直になれない。
あたしはどうすれば。
あたしはいてもたってもいられず、この思いを誰かにぶつけたかった。
あたしは自分の部屋を出ると、お姉ちゃんの部屋のドアをノックした。
中から瑠璃姉ちゃんの声が。
「は~い」
「あたし」
「入りなよ~」
お姉ちゃんののんきな声を聞きながら中に入る。あたしの抱えている現実と姉の能天気さのギャップに、一瞬、世界を呪う気持ちになる。どうしてあたしだけがこんな目に。
「お姉ちゃん」
お姉ちゃんは枕に頭を乗せ、足を組んで漫画を読んでいた。
お姉ちゃんは体勢はそのままで、あたしのことを一瞥する。
「んお?どったの?そんな深刻そうな顔して」
「お姉ちゃん。ちょっと……相談が……」
あたしは後ろ手にお姉ちゃんの部屋のドアを閉める。
お姉ちゃんは漫画を閉じると、あぐらをかいてベッドの上に座った。
お姉ちゃんのウルフカットが揺れる。
「椅子、座りなよ」
お姉ちゃんに勧められるままに、あたしはお姉ちゃんのデスクの椅子に座る。
ちょこんと座って、両手を膝の上に置く。
お姉ちゃんは口元をへの字に曲げて、首を傾げた。
「相談って?」
「あの……あたしね。夜、いつも寝るとき、怖いの」
いつも饒舌なお姉ちゃんが黙りこくる。
話が重たいものであることを理解したのかもしれない。お姉ちゃんはいつものような軽いノリではなくなっていた。
「自分が死ぬことが怖くて、毎晩、眠れないの」
なおもお姉ちゃんは黙っている。
「でもね。最近、二日ほど、ぐっすり眠れた日があったの」
「ほお」
お姉ちゃんはあぐらをかいたまま腕を組み、顎をあげて感心してみせた。
「その二日間に共通していたことがあるの」
「なに?」
「あたしね、彼氏ができたの」
「はっ?いつの間に。自慢しに来たのか」
「違うの。その、あたしがぐっすり眠れた二日間とも、彼に会ってたの。二日間で共通していたことは、彼に会っていたことだけ」
「それで?」
「いや、なんで彼に会ったら眠れたんだろう、って思って……」
お姉ちゃんはその切れ長の瞳を丸くさせ、口を引き結んであたしの顔を穴が空くほど凝視してくる。
な、なに……?その表情。
変な沈黙が、あたしたち双子の間に訪れる。
やがてお姉ちゃんは盛大に笑った。
「わっはっはっはっはっはっはっは!」
なにそれ。まるでオッサンみたいな笑い方。文字通り腹を抱えて笑うお姉ちゃんを、あたしは見つめる。
「な……なにがおかしいの、お姉ちゃん」
「うはー!これが笑わずにいられるかって」
「なにがよ」
「紬!あんたもう十七歳だろ?そういうの、なんていうか知ってるだろ?」
「えっ……わかんないよ」
「恋だよ」
「恋……」
「好きなひとに会って心がほっとして、夜になったらぐっすり眠れる。普通じゃないか」
あたしはあわあわと口を閉じたり開いたりを繰り返す。
「ここここ……恋?」
「そうだよ」
「で……でも、あたしはいずれいなくなっちゃうから。そんな彼に、そこまで甘えてしまうのは、彼に申し訳なくて」
「なに言ってんだよ」
そこでお姉ちゃんはベッドから立ち上がる。
「しょうがない妹だな。もう認めちゃいなよ。その男のこと、好きなんだろ?」
「でも!あたしは!蒼くんのことを残して……」
お姉ちゃんは再び枕に頭を乗せると、足を組んでまた漫画を読み始めた。
そして漫画に視線をやったままお姉ちゃんはしゃべる。
「普通じゃん。好きな男のことを思い浮かべて安心してぐっすり眠れるなんて。それくらい自分で自覚できるだろ」
「でも……」
「うるさいなぁ。だからその男に気を遣って甘えられないなら、その男のことを遠くから見てればいいだろ。でもその程度じゃ安心できないと思うぞ」
お姉ちゃんはいよいよ面倒くさそうに一度舌をべっと出すと、うんざりしたような表情をする。
あたしは力なく言う。
「確かに……彼に会いたいけど」
うーん、とお姉ちゃんはうなると、漫画を脇に置いて頭をかきむしった。
「めんどくせー妹だな。その男と、どこで知り合ったんだよ」
「広島駅で」
「なんで付き合うことになったんだよ」
「最初出会ったときに、あたしが元気なさそうに見えたからって、声かけてくれたの」
お姉ちゃんは、がばっとベッドの上で再びあぐらをかく。
「それで、どうしたのさ」
「え……どうしたって?」
「優しくされて、惚れちまったんじゃねーの?」
「う……。うん……」
「なんかあったんじゃねーの?」
「なんかって?」
「キスしたとか」
「き……キス!?」
あたしは思い切りぶんぶんと頭を振った。
「そ、そんなこと!いきなりするわけないでしょ……あっ……」
そこであたしはあることを思い出す。
しかしそれを言うのははばかられるというか。恥ずかしいというか。
「ほら、なんかあったんだろ?」
「う……うう……」
あたしは耳まで真っ赤になっているだろうことを自覚した。
恥ずかしい。
「うううう!お姉ちゃんのバカ!」
「なんだよ!何かあったんだろ?この期に及んで現実から逃げるな!」
「お姉ちゃんにはあたしの気持ちなんてわかんないんだよ!」
「わかるかよ!あたしゃ、あんたじゃねーんだぞ!」
お姉ちゃんは吠えた。結構な声量だった。
あたしはお姉ちゃんのことを見る。
「そんなうらめしそうな目であたしを見るな」
お姉ちゃんは顎をあげてあたしのことを見くだしてくる。
「あたし、そんなにうらめしそうな顔してる?」
「してるよ。そこに鏡あるから、見てみなよ」
「いいよ。そんなこと」
「なあ。その男と初めて会ったとき、何かあったんだろ?」
お姉ちゃんが片眉をあげ、好奇の目であたしを見る。
あたしは白状する。
「抱きついちゃった……」
「ふぁ!」
お姉ちゃんは明石家さんまの笑い方みたいな声を出した。
「ほら。それだよ。それ。抱きしめられたんだろ?愛しの彼氏くんに」
お姉ちゃんはベッドから下りると、両手を膝について、あたしに顔を近づけてくる。
ち……近い。
そして、あたしの耳元でお姉ちゃんはささやく。
「もう素直になってさ。その彼氏にたっぷり甘えちゃえよ」
あたしはお姉ちゃんのことを睨む。
「だから!そんなことしたら!残される蒼くんが!後で絶望することになっちゃうでしょ」
「だったら、夜眠れなくてもいいわけ?」
「う……」
あたしはお姉ちゃんから視線を外すと、力なく床に視線を落とす。
お姉ちゃんがあたしの肩に手を置く。
「素直になれよ、紬」
床に、涙が落ちる。ぽたぽたと。
あたしは自分の目元をぬぐって涙を拭く。
「あたしの運命に……蒼くんを巻き込むのは……」
お姉ちゃんのため息が頭上で聞こえる。
「その彼氏、紬の事情を知った上で好きと言ってくれたんだろ?」
「……うん。言ってくれた」
「だったら。もう勝ち確じゃん。その男もバカじゃないんだ。つーか同じ状況だったら、他の男でもあんたの事情のことを深く考えるさ。あんたの事情を知った上で離れて行かない時点で、その彼氏も覚悟を決めてるんだよ。あんたと付き合うことがどういうことか、ってね」
あたしは何度も目から溢れる涙を手でぬぐう。
「つーか、現時点ですでに最高の彼氏じゃん。あんたの事情も受け止めてくれて、しかも会うと安心して夜ぐっすり眠れるって。こんな機会、もう巡ってこないぞ!」
あたしはお姉ちゃんの顔を見る。
切れ長の瞳が、まっすぐにあたしのことを捉えている。
あたしは、お姉ちゃんのように強くは生きられない。
こんなにまっすぐな意志で、前を向いて生きてはいけない。
あたしが押し黙ったままでいると、業を煮やしたお姉ちゃんが啖呵を切る。
「あーー!じれったいな!紬!よく聞け!あんたな!自分だけが悲劇のヒロインだなんて思ってんじゃねーぞ!」
あたしは驚いて反射的に反撃する。
「なによ!その言い方!やっぱりお姉ちゃんにはあたしの気持ちなんて……」
「わかるわけねーだろ!このドアホ!あんたな!さっきから彼氏を残してどうたらこうたら言ってるけど、残されるのはその彼氏だけじゃないんだ」
お……お姉ちゃん。
お姉ちゃんが。
泣いてる?
「あ……あたしとか、お母さんやお父さん。それにじいちゃんやばあちゃんも残されるんだぞ!あたしも含めたそのひとたちのこと、あんたは考えたことあるのか!」
「お……お姉ちゃん……」
「あんたがわかんないんなら教えてやる!別に聞いたわけじゃないけどな。少なくともお母さんやお父さんは、あんたが死ぬ瞬間まで幸せでいて欲しいって思ってるよ!」
あたしも涙を振り乱しながらお姉ちゃんに反撃する。
「そ……そんなのわかってるよ!」
「わかってねーから言ってるんだよ!わかってるんなら、その彼氏のことも真剣に考えろ!そして……」
お姉ちゃんは両の拳をわなわなと震わせている。
「その彼氏のことを幸せにしてやるのが紬の務めだろ!」
そう言うと、お姉ちゃんの両目にたまっていた涙が、頬をつたってぽたぽたと床に落ちていった。
蒼くんのことを幸せに?
あ……あたしに……そんなことできるわけが。
「いま、彼氏のことを幸せになんてできないって思っただろ」
お姉ちゃんに言われてあたしはぎくっとする。
「あんたがその彼氏の恋に応えてやることが、その彼氏の幸せになるんだよ。たとえ、あんたが先に逝っちまったとしてもさ」
あたしにはわからない。だって。蒼くんはあたしがいなくなったことで後に絶望してしまう。
それでも、蒼くんは幸せになってくれるんだろうか。
「夜……眠れなくてもいいのか?怖いんだろ?」
あたしはお姉ちゃんの顔を凝視する。お姉ちゃんの頬にはくっきりと涙の流れたあとが残っている。
「あたしにはその彼氏の気持ち、わかることがあるよ。自分のおかげで彼女が夜ぐっすり眠れることができるようになるなんて知ったら、最高に幸せだと思うぞ」
もう枯れてしまうのではないかというくらい、ずっとあたしの頬を涙が流れてゆく。
「彼氏はあんたと付き合えてハッピー。あんたのほうなんて、大好きな彼氏と付き合えてハッピー。おまけに、彼氏のおかげで夜もぐっすり眠れてハッピー。あんたは一挙両得じゃん」
再びお姉ちゃんはあたしの頭を撫でる。
「その彼氏に甘えて、いっぱい抱きしめてもらえよ」
そこでお姉ちゃんはあたしから離れて、ベッドの端に腰かけ、足を組んだ。
「あーあ。昔はあたしのほうが手間がかかるってよく言われてたのに。いまじゃ、あんたのほうがよっぽど手間がかかるよ」
あたしはその言葉に対して何も言い返すことができなかった。図星だから。
あたしは蒼くんのことを思った。
蒼くんのおかげでぐっすり眠れるのだとしたら。それは確かにとてもありがたい。
でも、やっぱり……残される彼のことを思うと。そんな簡単に素直になんか、なれないよ……。
当たり前だけど死は怖い。何度も受け入れようとした。受け入れたつもりでいた。
でも、やっぱり完全には受け入れられない。
そして、いつも夜になると、自分が死ぬことを受け入れきれなくて、恐怖であたしはうまく寝付けないのだった。
しかし、その夜は違った。
あたしはぐっすりと眠ることができた。
翌朝。あたしは目覚ましによって目を覚ます。
スマホのタイマーを切って、カーテンのかかった窓の外に目をやる。小鳥のさわやかなさえずりが聞こえてくる。
よくわからないけど、この日はぐっすり眠れた気がする。
(なんだろう。この感覚)
不思議だった。まあ、たまたまか。
あたしは深く考えもせず、ベッドから抜け出し、登校の準備を始める。
学校では平常心でいる。
担任の先生以外に、あたしの病気を知るひとはいない。
あたしの病気は、ステージ四のすい臓がん。自覚症状が少なく、気がついたときには手遅れということがよくあるがん、らしい。
死ぬ前には結構痛みが出るという。
それがなによりも怖い。
それでもあたしは学校では平気なふりをする。周りに余計な心配をかけたくないという気持ちもあるが、なによりも同情されるのが嫌だった。同情されるくらいなら、クラスメイトの誰にも知られずに死にたかった。
あたしは窓際の席に座っている。
窓から、校舎の奥を見る。
うちの学校はLの字型になっていて、ここからちょうど真反対のところに普通科がある。
兵頭蒼くん。
優しい蒼くん。電車の中で元気のないあたしのことを見て、声をかけてくれた。思わずあたしは彼のことを抱きしめてしまった。嫌がられるかな、なんて考える余地もないほどに、反射的に抱きついてしまっていた。いま思うと、結構恥ずかしいことをしたものだと、我ながら自嘲する。
蒼くんとの約束どおり、放課後の体育館裏に来ていた。
誰もいない。
そこへ、蒼くんがやってくる。
「お待たせ、蒼くん」
「ぼくもさっき来たばかりだよ」
そこで会話は止まってしまった。
あたしは体育館の壁に背をあずけて、そのまま何も蒼くんに話すことはなかった。
あたしたちはずっと黙ったままだった。
しびれを切らした蒼くんが尋ねてくる。
「な……なんか、昨日の紬さんと、雰囲気違うね」
そう言われても、あたしはもじもじとして下を向いたままだ。
いつの間にかあたしは泣いていた。
「ど、どうしたの」
蒼くんは驚いて声をかけてくる。
蒼くんの顔を直視できない。
あたしは指先で涙を振り払うようにする。
「蒼くん。あたし、やっぱりあと半年でいなくなっちゃうんだよ。本当にあたしと付き合っていいの」
その瞬間、あたしは蒼くんに抱きしめられていた。
あたしは反射的に言う。
「だめ。蒼くん。あたしに優しくしないで。蒼くんから離れられなくなっちゃう」
「離すもんか。君はぼくにとっても恩人なんだから」
「えっ。どういうこと」
「ぼくの人生は空虚そのものだった。その人生に潤いをもたらしてくれたのが君なんだ。だから、絶対に離したくないんだ」
「だめよ、蒼くん」
そう言って、あたしは蒼くんの手を振りほどくと、走って蒼くんの元から逃げてしまった。
家に帰り、夕食をとり、風呂に入ると、まもなく夜がやってくる。
あたしには、夜の闇が、死神が鎌を持って待ち構えているようにしか思えなかった。それくらい夜はあたしに死を連想させた。
死にたくない。どうしてあたしが。あたしだけがこんな若い年齢で死なないといけないのか。なんであたしが選ばれたのか。こんなことなら生まれてこなければよかった。
そんなことを、もう何度も何度も繰り返し頭の中で反芻してきた。
また、昨日みたいにすんなり寝られないかな。あたしはそれを期待した。
ぴぴぴぴ。
あたしはスマホのタイマーを切る。
あれ。またぐっすりと眠れることができた。
おとといと、その前の日の二日間、ぐっすり眠れたのは、なんだったのだろうか。
スマホには蒼くんからのメッセージが来ていた。
「紬さん、大丈夫」と。
蒼くん。
蒼くんに会いたい。
しかしその日は土曜日だったため、蒼くんと学校で会うことはできない。
呼び出してもよさそうだが、あたしが死ぬと、あたしは蒼くんを残していなくなってしまう。
そのことを思うと、蒼くんに対して素直になることができない。
結局その日は蒼くんに連絡することもなかった。
朝。あたしはスマホのタイマーが鳴る前に目が覚める。
直近の二日間とは違い、夕べはろくに眠ることができなかった。
あたしは考える。
なぜ、この前の二日間だけぐっすりと眠ることができたのだろうか。
何か、ぐっすり眠れる秘訣でもあるのだろうか。
眠れなかった日と、ぐっすり眠れた日の差異は、どこにある。
ひとつだけ思い当たることがある。
蒼くんだ。
そうだ。昨日は蒼くんに会っていない。一方で二日間のぐっすり眠れた日は。蒼くんと会った日。
蒼くんに会うと、あたしはぐっすり眠れるのか?
そうか。蒼くんなんだ。
蒼くんに会いたい。
でも、あたしはいずれ蒼くんを置いていなくなってしまう。
蒼くんに対して素直になれない。
あたしはどうすれば。
あたしはいてもたってもいられず、この思いを誰かにぶつけたかった。
あたしは自分の部屋を出ると、お姉ちゃんの部屋のドアをノックした。
中から瑠璃姉ちゃんの声が。
「は~い」
「あたし」
「入りなよ~」
お姉ちゃんののんきな声を聞きながら中に入る。あたしの抱えている現実と姉の能天気さのギャップに、一瞬、世界を呪う気持ちになる。どうしてあたしだけがこんな目に。
「お姉ちゃん」
お姉ちゃんは枕に頭を乗せ、足を組んで漫画を読んでいた。
お姉ちゃんは体勢はそのままで、あたしのことを一瞥する。
「んお?どったの?そんな深刻そうな顔して」
「お姉ちゃん。ちょっと……相談が……」
あたしは後ろ手にお姉ちゃんの部屋のドアを閉める。
お姉ちゃんは漫画を閉じると、あぐらをかいてベッドの上に座った。
お姉ちゃんのウルフカットが揺れる。
「椅子、座りなよ」
お姉ちゃんに勧められるままに、あたしはお姉ちゃんのデスクの椅子に座る。
ちょこんと座って、両手を膝の上に置く。
お姉ちゃんは口元をへの字に曲げて、首を傾げた。
「相談って?」
「あの……あたしね。夜、いつも寝るとき、怖いの」
いつも饒舌なお姉ちゃんが黙りこくる。
話が重たいものであることを理解したのかもしれない。お姉ちゃんはいつものような軽いノリではなくなっていた。
「自分が死ぬことが怖くて、毎晩、眠れないの」
なおもお姉ちゃんは黙っている。
「でもね。最近、二日ほど、ぐっすり眠れた日があったの」
「ほお」
お姉ちゃんはあぐらをかいたまま腕を組み、顎をあげて感心してみせた。
「その二日間に共通していたことがあるの」
「なに?」
「あたしね、彼氏ができたの」
「はっ?いつの間に。自慢しに来たのか」
「違うの。その、あたしがぐっすり眠れた二日間とも、彼に会ってたの。二日間で共通していたことは、彼に会っていたことだけ」
「それで?」
「いや、なんで彼に会ったら眠れたんだろう、って思って……」
お姉ちゃんはその切れ長の瞳を丸くさせ、口を引き結んであたしの顔を穴が空くほど凝視してくる。
な、なに……?その表情。
変な沈黙が、あたしたち双子の間に訪れる。
やがてお姉ちゃんは盛大に笑った。
「わっはっはっはっはっはっはっは!」
なにそれ。まるでオッサンみたいな笑い方。文字通り腹を抱えて笑うお姉ちゃんを、あたしは見つめる。
「な……なにがおかしいの、お姉ちゃん」
「うはー!これが笑わずにいられるかって」
「なにがよ」
「紬!あんたもう十七歳だろ?そういうの、なんていうか知ってるだろ?」
「えっ……わかんないよ」
「恋だよ」
「恋……」
「好きなひとに会って心がほっとして、夜になったらぐっすり眠れる。普通じゃないか」
あたしはあわあわと口を閉じたり開いたりを繰り返す。
「ここここ……恋?」
「そうだよ」
「で……でも、あたしはいずれいなくなっちゃうから。そんな彼に、そこまで甘えてしまうのは、彼に申し訳なくて」
「なに言ってんだよ」
そこでお姉ちゃんはベッドから立ち上がる。
「しょうがない妹だな。もう認めちゃいなよ。その男のこと、好きなんだろ?」
「でも!あたしは!蒼くんのことを残して……」
お姉ちゃんは再び枕に頭を乗せると、足を組んでまた漫画を読み始めた。
そして漫画に視線をやったままお姉ちゃんはしゃべる。
「普通じゃん。好きな男のことを思い浮かべて安心してぐっすり眠れるなんて。それくらい自分で自覚できるだろ」
「でも……」
「うるさいなぁ。だからその男に気を遣って甘えられないなら、その男のことを遠くから見てればいいだろ。でもその程度じゃ安心できないと思うぞ」
お姉ちゃんはいよいよ面倒くさそうに一度舌をべっと出すと、うんざりしたような表情をする。
あたしは力なく言う。
「確かに……彼に会いたいけど」
うーん、とお姉ちゃんはうなると、漫画を脇に置いて頭をかきむしった。
「めんどくせー妹だな。その男と、どこで知り合ったんだよ」
「広島駅で」
「なんで付き合うことになったんだよ」
「最初出会ったときに、あたしが元気なさそうに見えたからって、声かけてくれたの」
お姉ちゃんは、がばっとベッドの上で再びあぐらをかく。
「それで、どうしたのさ」
「え……どうしたって?」
「優しくされて、惚れちまったんじゃねーの?」
「う……。うん……」
「なんかあったんじゃねーの?」
「なんかって?」
「キスしたとか」
「き……キス!?」
あたしは思い切りぶんぶんと頭を振った。
「そ、そんなこと!いきなりするわけないでしょ……あっ……」
そこであたしはあることを思い出す。
しかしそれを言うのははばかられるというか。恥ずかしいというか。
「ほら、なんかあったんだろ?」
「う……うう……」
あたしは耳まで真っ赤になっているだろうことを自覚した。
恥ずかしい。
「うううう!お姉ちゃんのバカ!」
「なんだよ!何かあったんだろ?この期に及んで現実から逃げるな!」
「お姉ちゃんにはあたしの気持ちなんてわかんないんだよ!」
「わかるかよ!あたしゃ、あんたじゃねーんだぞ!」
お姉ちゃんは吠えた。結構な声量だった。
あたしはお姉ちゃんのことを見る。
「そんなうらめしそうな目であたしを見るな」
お姉ちゃんは顎をあげてあたしのことを見くだしてくる。
「あたし、そんなにうらめしそうな顔してる?」
「してるよ。そこに鏡あるから、見てみなよ」
「いいよ。そんなこと」
「なあ。その男と初めて会ったとき、何かあったんだろ?」
お姉ちゃんが片眉をあげ、好奇の目であたしを見る。
あたしは白状する。
「抱きついちゃった……」
「ふぁ!」
お姉ちゃんは明石家さんまの笑い方みたいな声を出した。
「ほら。それだよ。それ。抱きしめられたんだろ?愛しの彼氏くんに」
お姉ちゃんはベッドから下りると、両手を膝について、あたしに顔を近づけてくる。
ち……近い。
そして、あたしの耳元でお姉ちゃんはささやく。
「もう素直になってさ。その彼氏にたっぷり甘えちゃえよ」
あたしはお姉ちゃんのことを睨む。
「だから!そんなことしたら!残される蒼くんが!後で絶望することになっちゃうでしょ」
「だったら、夜眠れなくてもいいわけ?」
「う……」
あたしはお姉ちゃんから視線を外すと、力なく床に視線を落とす。
お姉ちゃんがあたしの肩に手を置く。
「素直になれよ、紬」
床に、涙が落ちる。ぽたぽたと。
あたしは自分の目元をぬぐって涙を拭く。
「あたしの運命に……蒼くんを巻き込むのは……」
お姉ちゃんのため息が頭上で聞こえる。
「その彼氏、紬の事情を知った上で好きと言ってくれたんだろ?」
「……うん。言ってくれた」
「だったら。もう勝ち確じゃん。その男もバカじゃないんだ。つーか同じ状況だったら、他の男でもあんたの事情のことを深く考えるさ。あんたの事情を知った上で離れて行かない時点で、その彼氏も覚悟を決めてるんだよ。あんたと付き合うことがどういうことか、ってね」
あたしは何度も目から溢れる涙を手でぬぐう。
「つーか、現時点ですでに最高の彼氏じゃん。あんたの事情も受け止めてくれて、しかも会うと安心して夜ぐっすり眠れるって。こんな機会、もう巡ってこないぞ!」
あたしはお姉ちゃんの顔を見る。
切れ長の瞳が、まっすぐにあたしのことを捉えている。
あたしは、お姉ちゃんのように強くは生きられない。
こんなにまっすぐな意志で、前を向いて生きてはいけない。
あたしが押し黙ったままでいると、業を煮やしたお姉ちゃんが啖呵を切る。
「あーー!じれったいな!紬!よく聞け!あんたな!自分だけが悲劇のヒロインだなんて思ってんじゃねーぞ!」
あたしは驚いて反射的に反撃する。
「なによ!その言い方!やっぱりお姉ちゃんにはあたしの気持ちなんて……」
「わかるわけねーだろ!このドアホ!あんたな!さっきから彼氏を残してどうたらこうたら言ってるけど、残されるのはその彼氏だけじゃないんだ」
お……お姉ちゃん。
お姉ちゃんが。
泣いてる?
「あ……あたしとか、お母さんやお父さん。それにじいちゃんやばあちゃんも残されるんだぞ!あたしも含めたそのひとたちのこと、あんたは考えたことあるのか!」
「お……お姉ちゃん……」
「あんたがわかんないんなら教えてやる!別に聞いたわけじゃないけどな。少なくともお母さんやお父さんは、あんたが死ぬ瞬間まで幸せでいて欲しいって思ってるよ!」
あたしも涙を振り乱しながらお姉ちゃんに反撃する。
「そ……そんなのわかってるよ!」
「わかってねーから言ってるんだよ!わかってるんなら、その彼氏のことも真剣に考えろ!そして……」
お姉ちゃんは両の拳をわなわなと震わせている。
「その彼氏のことを幸せにしてやるのが紬の務めだろ!」
そう言うと、お姉ちゃんの両目にたまっていた涙が、頬をつたってぽたぽたと床に落ちていった。
蒼くんのことを幸せに?
あ……あたしに……そんなことできるわけが。
「いま、彼氏のことを幸せになんてできないって思っただろ」
お姉ちゃんに言われてあたしはぎくっとする。
「あんたがその彼氏の恋に応えてやることが、その彼氏の幸せになるんだよ。たとえ、あんたが先に逝っちまったとしてもさ」
あたしにはわからない。だって。蒼くんはあたしがいなくなったことで後に絶望してしまう。
それでも、蒼くんは幸せになってくれるんだろうか。
「夜……眠れなくてもいいのか?怖いんだろ?」
あたしはお姉ちゃんの顔を凝視する。お姉ちゃんの頬にはくっきりと涙の流れたあとが残っている。
「あたしにはその彼氏の気持ち、わかることがあるよ。自分のおかげで彼女が夜ぐっすり眠れることができるようになるなんて知ったら、最高に幸せだと思うぞ」
もう枯れてしまうのではないかというくらい、ずっとあたしの頬を涙が流れてゆく。
「彼氏はあんたと付き合えてハッピー。あんたのほうなんて、大好きな彼氏と付き合えてハッピー。おまけに、彼氏のおかげで夜もぐっすり眠れてハッピー。あんたは一挙両得じゃん」
再びお姉ちゃんはあたしの頭を撫でる。
「その彼氏に甘えて、いっぱい抱きしめてもらえよ」
そこでお姉ちゃんはあたしから離れて、ベッドの端に腰かけ、足を組んだ。
「あーあ。昔はあたしのほうが手間がかかるってよく言われてたのに。いまじゃ、あんたのほうがよっぽど手間がかかるよ」
あたしはその言葉に対して何も言い返すことができなかった。図星だから。
あたしは蒼くんのことを思った。
蒼くんのおかげでぐっすり眠れるのだとしたら。それは確かにとてもありがたい。
でも、やっぱり……残される彼のことを思うと。そんな簡単に素直になんか、なれないよ……。
