━━蒼くん。
━━いまあなたがこれを聞いているということは、あたしはもうこの世にいないということだと思います。
━━あたしのことをずっと支えつづけてくれて、本当にありがとうございました。
━━あなたに毎日抱き締められたおかげで、あたしは毎晩ぐっすり眠れることができるようになりました。
━━がんの宣告を受けてからは、毎日自分が死ぬことの恐怖で夜眠ることができませんでした。自分が死ぬことを何度も受け入れようと必死で考えたけど、そんなにすんなりと受け入れられるものではありませんでした。
━━そんなとき、二日間だけ夜にぐっすり眠れる日がありました。
━━あなたと初めて会った日。あたしのほうから蒼くんに抱きついてしまった日。そして次の日に体育館裏であなたに抱きしめてもらった日。

 ぼくは予備校に通うとき、いつも広島駅南口の地下通路に寄ってしまう。予備校は駅の西側にあるため、本来はこの南口に来る必要はない。
 しかし。ここは、ぼくが紬に初めて声をかけた場所であり、初めて抱き合った場所でもある。
 紬がまだ、ぼくに抱かれることで夜にぐっすり眠れるようになるということに気づいていなくて、思わずぼくに抱きついてしまった場所だ。
 どうしても、何度もここを訪れてしまう。
 遠くに、電気屋と百貨店の明かりが見える。
 ぼくは、紬に初めて話しかけたときのことを、噛みしめるように頭の中で反芻する。
 紬……。

━━あたしは自分が蒼くんに会うと夜にぐっすり眠れることを理解し、それをお姉ちゃんに相談しました。
━━すると、お姉ちゃんは「それは蒼くんに恋してるからだ」と言いました。蒼くんはあたしに愛の告白をしてくれていました。あたしは蒼くんに抱きしめられると、夜に死ぬことの恐怖から逃れて毎晩ぐっすり眠ることができると気がついたんです。
━━でもあたしは余命半年の身です。あたしが蒼くんにべったりになってしまうと、あたしが死んだときに蒼くんを悲しみから絶望のどん底に突き落としてしまうことになるかもしれない。そう思うと、胸が締め付けられそうでした。
━━あたしがそんなことを言っていると、姉はあたしのことを叱りました。「蒼くんと付き合って、蒼くんのことを幸せにしてやれよ」と。
━━姉にそう言われて、ようやくあたしは本気で蒼くんに甘えられることができるようになりました。

 ぼくは放課後になって椿の坂学園の旧校舎の屋上に来ていた。
 冬の間はここに来ることはなかった。なぜなら、紬と冬にここに来たことはなかったからだ。来ても、彼女との思い出を反芻することはできない。来るなら、五月になってからだと思っていた。
 外への扉を開けると、西日のきつい日差しがぼくの顔を照らした。同時に風がぼくの髪を乱す。紫外線を避けるように、給水塔の柱のところに移動する。
 ぼくはそこに立ち尽くして、一度空を見上げる。青一色の世界が広がっていた。
 それから地面を見る。
 ぼくと紬が一緒に座って、参考書を見たり、手をつなぎあったりしていた場所。
 そこでぼくは体をぐるりと一回転させて、周辺を見渡した。このあたりで、何度も紬の身体を抱き締めていたのだ。
 初めてここで彼女のことを抱き締めたのもゴールデンウィーク明けだった。そして、彼女から「あたしを、彼女にしてください」と愛の告白を受けたのだ。いまでもはっきりと覚えている。
 空を見上げる。
 真っ青な空。
 紬から愛の告白を受けたときと同じく、手の届きそうなところに青空が広がっていた。
 ぼくは給水塔の柱に背をもたせかけて、参考書を開く。

━━ところで、蒼くんが本当に恋した相手って、実はお姉ちゃんだったんだよ。
━━なんでそんなことが言えるかと言うと、あたしはゴールデンウィーク中に一度も電車に乗らなかったから。
━━蒼くんはあたしがいつもより元気なさそうに見えたから声をかけてくれたと言ったけど、ゴールデンウィーク中に電車の中で元気そうに見えたのは、それがあたしの姉の瑠璃だったからだよ。
━━ビックリしたかな。
━━これは半分本気で、半分冗談だけど、あたしが死んじゃったら、お姉ちゃんと付きあったらどうかな。
━━お姉ちゃんはあたしにそっくりだし。お似合いのカップルだと思うよ。
━━まあだいぶ性格は違うけどね。あたしたち、一卵性双生児なんだけど、それでもここまで性格違うなんてね。
━━でも蒼くん、真面目だから、あたしがこう言ってもお姉ちゃんと付き合うことなんてなさそうだよね。お姉ちゃん、振られちゃうのかな。

 紬が亡くなってから二ヶ月が経った一月。
 瑠璃さんは毛皮のコートを着ていた。頭の上にはベレー帽が置かれてあった。そして、卵型の顎のラインを引き立てるようなウルフカットのくるりんと曲がった毛先。どうしても、紬の面影をそこに見てしまう。
「よお。待たせたかな」
「いや、ぼくもさっき着いたばかりです」
 そう言って、ぼくたちはベンチに座る。
 川の向かいに見えるのは、原爆ドーム。
 紬と一緒に何度も腰かけたベンチに、紬の姉の瑠璃さんと一緒に座っている。
「紬のメッセージ、聞きましたよ」
「ああ、そうなんだ」
 瑠璃さんはそれ以上何も言わない。
「紬。夜眠れるようにするためにぼくに近づくことが、ぼくを利用しているようで良くないって、葛藤してたんですね」
「そうそう。だからあたし、紬に言ってやったんだよ。あんたの気持ちに応えてあげることで、あんたを幸せにしろ、ってね」
「そうでしたか」
「なあ、その敬語。いつまでやってんの。前も言ったじゃん。あたしら同い年だよ。敬語、やめなよ」
「う……うん」
 ぼくは所在なげに、両手指を絡めて、それを膝の上に置く。
「紬が変なこと言ってたよ」
「なんて」
「瑠璃さんは紬と似てるから、瑠璃さんと付き合えって」
「はあ?あの子、そんなこと言ってたのかよ」
「うん」
「なに。それで今日は、あたしに告白しに来たわけ」
ぼくは慌てて取り繕う。
「ち……違うよ」
「慌てちゃって。顔は紬に似てても、性格はまるで真逆だぞ。あたしじゃあんたは幸せになれないだろ」
「う……」
「まったく。紬のやつは。他になんか言ってた」

━━蒼くんの妹さんから聞きました。
━━蒼くんは過去の水難事故によって、お姉さんの面影を追いかけてしまう心的トラウマを負っていると。
━━そのときあたしは、自分だけが余命半年で辛い思いをしていると思っていたけど、そんなのは思い上がりだったと気がつきました。蒼くんも同時に辛い思いをしているのだなと。
━━いまさらだけど、あたしが入院してからはいつも病室の前で蒼くんと会っていたのは姉の瑠璃のほうでした。
━━痩せ衰えたあたしを見て、蒼くんが混乱してはいけないと思ったから。
━━蒼くんはお姉さんに似たひとに執着するというトラウマを負っていたんだよね。
━━蒼くんが恋をするときは、いつも蒼くんのお姉さんの理想像を追い求めてしまうと、蒼くんのお母さんから聞きました。
━━もしも、痩せ衰えたあたしを見たら、蒼くんはあたしのことを見て混乱してしまうかもしれない。
━━そう思い、あたし……あたしは……蒼くんと会うのをやめて、姉の瑠璃に代役を務めてもらいました。
━━本当は、蒼くんに会いたかったけどね。うう……。泣いちゃだめって、思ってたのに、泣いちゃった。ごめんね。あのとき、蒼くんに会って、抱きしめてもらいたかったんだけどね。
━━蒼くんのトラウマの症状のことを知ってたから、蒼くんが精神崩壊してはいけないと思って、あたしは我慢しました。
━━あたし、蒼くんから与えてもらってばかりだったから。だから、それくらいは我慢しないとね。でも、結局、最後は蒼くんを混乱させてしまって、ごめんなさい。
━━でも、結局それが、蒼くんのトラウマを治すきっかけになったんだよね。もう蒼くんはトラウマから離れて自由になれたんだね。
━━本当に良かった。
━━痩せた姿を見せたくなかったのは、蒼くんのお姉さんの理想像を壊したくなかったからでもあるんだよ。
━━ちなみに蒼くんに抱きしめられなかった日は睡眠薬を大量に飲んでぐっすり寝てたから。気にしないでよね。

「紬って、途中からぼくのトラウマに気づいていて。ぼくが痩せた紬の姿を見て、ぼくが混乱することを避けてくれてたんだね。」
「らしいな」
「あの時、瑠璃さんが病室の前に立っていてくれたのは、紬の愛の努力だったんだね。しかも、ぼくにとっての理想のお姉さん像を壊したくなかったって」
「ああ、そういえば、紬のやつ。そんなこと言ってたよ。あんたが紬との記憶を失っているときにも一度あたしからあんたにそのこと説明したけどね。どう。紬は理想のお姉さんって感じだった」
 ぼくは瑠璃さんのことを見ずに原爆ドームを見ながら答える。
「それは、正直よくわからない。でも。確かに姉さんが行きたがってた角島に行ったりはした。紬が姉さんの理想像を追求してくれてなかったら、今でもぼくは角島に行ってないだろうから。だから……。紬は役目を果たしたんじゃないかな。」
 そこでぼくは一旦、冷え切った手をもみこんで温めた。
「それと、病室の前でいつも待ってたの、実は瑠璃さんだったんでしょ」
 瑠璃さんを見ると、瑠璃さんは口をへの字に曲げて顎をあげていた。
「そうだよ。あんたを騙しているみたいで辛かったよ」
「ごめんなさい」
「あんたが謝ることじゃないよ」
「そうなのかな」
「いくらあたしたちが一卵性双生児だったとはいえ、恋人とあたしの区別もつかなかったんだな」
 ぼくは視線を原爆ドームに戻して答える。
「それは。たぶんぼくが姉に執着していたから。ぼくは姉に似たひとに対しては、姉の面影を見て、姉だと錯覚し、姉だと執着していたんだ。それは紬や瑠璃さんも例外じゃなかった。ふたりとも姉によく似ているからね。ぼくが紬に恋したきっかけも、姉への執着が原因だったし。ぼくはストレスによって心的なトラウマを抱えていたらしい。姉に近いひとを姉だと錯覚する異常な回路が、紬と瑠璃さんの区別をつけなくさせたんだ。だいたい、ぼくは歳が三十近くも離れた実の母と妹を姉だと錯覚していたんだ。一卵性双生児の双子である紬と瑠璃さんを見間違えるのは、それは、当然だよね」
「そして、あんたは一時的に紬の記憶をなくしてしまった」
「うん」
「ごめんな。あたしのせいで紬の記憶をなくさせてしまって。だけど皮肉にもそれが、あんたの姉さんへの執着をなくさせるきっかけになるなんてな」
「それだよ、瑠璃さん」
「ん?」
 瑠璃さんの不思議そうな声が隣からやってくる。
 ぼくは首をがくっとうなだれさせて、地面を見た。
 そして、ぼくは、言った。
「そう。紬の死がなければ、ぼくは永遠に姉の呪縛から解放されなかった。紬はぼくの人生を救ってくれたんだ」
 しばらくお互いに沈黙した後、瑠璃さんは鼻をすすって「そっか」とだけ言った。
 ぼくは首だけ横に曲げて瑠璃さんのことを見た。瑠璃さんは、泣いていた。
 瑠璃さんは涙をぬぐいながら顎をあげて遠くを見る目になって、言った。
「ここ、デートにいい場所だね。今度あたしも彼氏ができたら、ここに来るとしよう」
 そう言って、瑠璃さんは立ち上がった。
 ぼくのことを見下ろしてくる。
「あたしから言えることはひとつ。紬のこと引きずって、幸せになることを諦めちゃだめだよ。あたしは紬の分も、あんたに幸せになってほしいんだから。」
 そうやって、瑠璃さんとは別れた。

━━少しでも蒼くんのお姉さんに近づこうと思って、蒼くんのお姉さんが行きたかったところを、蒼くんのお母さんから聞き出して、そこに一緒に行くことに決めたんです。
━━あたしがイヤリングつけることにしたのも、蒼くんのお姉さんがピアスつけたがってたからなんだよ。

「母さん」
「はいよ。いらっしゃい」
「ごめんね。昼間から開けてもらって」
 ぼくは土曜日の昼間に流川に来て、母さんの経営しているスナックに来ていた。
「もう、何いまさら言ってんの。前も何度かあったじゃん。紬さんと来たときもあったでしょ」
「そのときは、ぼくは母さんのことを姉さんと言ってたんだよね」
 母さんはどこか遠くを見るような眼差しになる。
「そうね。紬さんのことは、もうすっかり思い出したのよね」
「うん」
「素敵な彼女だったわね」
「母さんからもそう見えてたの」
「ええ。本当に……」
 そこで母さんはハンカチを取り出した。
 目元に涙がたまっている。
「惜しい子を亡くしたわよ……」
 ぼくはうつむいてテーブルの上を見た。
 こらえないと。
 母さんからもらい泣きしそうになる。
 うん……。
 でも。だめだった。
「母さん……」
「あ……蒼……」
 ぼくの声も、母さんの声も震えている。
「紬は……幸せだったのかな……」
「当たり前じゃない!あなたの隣にいる紬さん。本当に幸せそうだったわよ。蒼のおかげで紬さん、夜にぐっすり眠れてたんでしょ」
「う……うん……わかってるけど……」
「あなたのお姉ちゃんの理想像でい続けたいって言って、お姉ちゃんが好きだったことをここに聞きに来てくれたのよ。健気な子じゃないの……本当に惜しい子を亡くしたわ……」
「つ……紬」
 ぼくは涙をTシャツの袖でぬぐう。

━━ふたりで乗った自転車。
━━宮島で鹿とにらめっこしたこと。
━━そして角島に行ったこと。
━━全部あたしにとっては宝物です。

 五月のゴールデンウィーク明けの土曜日。
 ぼくはこの日だけ予備校を休んで、乾さんの運転で、妹と一緒に角島に来ていた。
 乾さんに伝えて、車を角島大橋の付け根のところにある海士ヶ瀬公園の駐車場に停めてもらった。
 車のドアを開けた途端、風がびゅっと吹き抜ける。
「すごーい!真っ青!」
 妹の茜が感嘆の声をあげる。
 ぼくも周りを見渡していた。思い切り空気を吸い込み、肺をいっぱいに満たしたところで息を吐いた。
 ここは紬と一緒に訪れた思い出の場所。
 海は青々としていて、空との境界も曖昧なくらいだった。
 ぼくは、涙が出そうになるのをこらえる。
 しかし。ここでもダメだった。
 ぼくは思わず背中を丸めて、目元にたまった涙をぬぐう。
 妹の茜が声をかけてくれる。
「お兄ちゃん……」
「茜……ごめん。なんか……勝手に涙が」
「いいよ。紬さんとの、思い出の場所なんでしょ」
「う……うん」
 茜の言葉がトリガーになって、ぼくの涙は止まらなくなってしまった。角島大橋の光景がゆがんでいく。

━━蒼くん。あなたはあたしと付き合って幸せでしたか。
━━あたしはずっと幸せでした。あなたのおかげで夜眠ることができただけではありません。蒼くんの優しさが、蒼くんがあたしに向けてくれる眼差しが、とても心地良かったです。
━━蒼くんは記憶を取り戻したんだよね。
━━蒼くん。あなたが今、あたしの記憶を取り戻したなら、多分すごく悲しんでるよね。でも、泣かないで。あなたはもう、あの頃の、お姉さんの幻影に縛られてた蒼くんじゃないよ。
━━あたしはね、あなたがあのトラウマから解放されて、自由に生きる姿が見たかったの。
━━だから、あたしとの思い出にも、執着しないで。これから、あなたの意志で医学部に行って、たくさんの人を救ってね。それが、あたしへの最高の贈り物だよ。
━━あたしのことを引きずって、あたし以外と付き合わないとか。そんなことになったら、あたしは悲しいです。
━━じゃあ、本当に今までありがとうございました。
━━あたしの愛した蒼くん。
━━どうか神様。蒼くんを、幸せに導いてあげてください。

 その日は予備校のあと、ひとりで紬の墓参りに来ていた。
 真新しい墓に花と線香を供える。
 ぼくは目をつむって両手を合わせる。
 紬。
 ぼくの最愛のひとだった。
 君はいつも、ぼくに抱きしめられたがっていたね。
 今でも、君を抱きしめたときの感触をしっかりとこの手で思い出すことができるよ。
 空を見上げる。
 紬と初めて出会ったときから一年。初めて会った日も、屋上で抱きしめ合った日も、空は真っ青だった。
 これからこの季節になると、ぼくは毎年紬のことを思い出すだろう。
 姉の姿を追い求めてばかりいたぼくだけど、ようやく姉の呪縛から解放されることができた。
 実はそれは、不可抗力だったとはいえ、紬と瑠璃さんのおかげでもあった。
 うん……。
 もうこれからは、姉さんの姿を追い求めて恋するなんてこともないと思う。
 紬は、ぼくが前に進むことだけを願ってくれた。ぼくは、もう誰の影も追わない
 紬の言うとおり。
 ぼくは幸せになるよ。姉さんのことを忘れてね。
 ああ。
 でも。確かに、ぼくと君の出会いは、姉さんへの執着がきっかけだった。そのことを否定すれば、君との大切な思い出まで、偽りになってしまう気がして悔しいよ。
 でも、違うんだ、紬。
 あのときの恋は、確かに姉さんの面影を追っていたかもしれない。
 でも、紬と過ごした日々の中で、ぼくは心から君自身を愛していた。
 紬との思い出は、ぼくがこれから生きていくための力だ。
 決して壊したりしない。
 だから、ぼくは紬との愛を抱きしめたまま、前を向くよ。
 紬の願いどおり、自由になるよ。
 紬。いまでも、君のことを愛しているよ。
 生涯、この思いを忘れることはないよ。
 見ててくれ、紬。
 君がくれたこの命で、必ず幸せになるから。
 ありがとう。