まずは自分の団地を横断している中央通りを自転車で駆け下りることだ。
 動画の中では、紬は自転車のうしろに乗っていたらしい。
 ゆっくりと自転車を走らせてゆく。
 ……っう!
 ず、頭痛が……。
 激しい頭痛が襲いくる。
 ぼくは痛みに耐えながら、団地の坂を八幡方面まで下っていった。
 途中も頭痛は収まらなかった。
 坂を下りきり、バイパスとの交差点にやってきたぼくは、頭痛に加えて耳鳴りまでするようになった。
 ぼくは顔をしかめてその場にうずくまる。
 通りかかったひとが心配して声をかけてくれる。
「大丈夫ですか」
「大丈夫です」
 そう言ってぼくは顔をしかめながら立ち上がった。
 既視感がある。
 そうだ。ここで確か、動画を撮ったのだ。
「六月二十九日、月曜日。あたしたちは自転車で椿の坂学園から自転車でここまで降りてきました」
 あの言葉だ。
 紬が送ってくれた動画の中にあった言葉。それを思い出す。
 思い出した途端に、ぼくは頭痛から解放された。
 しかし、思い出したのは、記憶の断片だけで、紬との思い出すべてを思い出したわけではなかった。 

 次の日には、学校から帰ってすぐにバスを乗り継いで、原爆ドームが向こう岸に見えるベンチにやってきた。ここも紬との思い出の場所らしい。メッセージで何度も原爆ドームに行こうと書かれてあったからだ。
 ベンチに座る。
 座った途端にまた激しい頭痛がぼくを襲った。
 またか……。
 これはつらい。
 まさか思い出すたびにこれを経験するのか。
 既視感だった。
 そうだ。
 ここで紬と抱き合ったのだ。
 向こう岸を歩いている外国人がぼくたちを見て大袈裟にリアクションしていたことを思い出す。
 ぼくは激しい頭痛の中、頭の中で自分の恋人の名前を連呼していた。
 紬……!紬……!
 しかしまだ記憶の断片を思い出したにすぎなかった。

 同じことを宮島でもした。
 しかし、フェリーに乗っても、神社にお参りしても頭痛は襲ってこなかった。
 そう都合よくは思い出すことはないのだろうか。
 ぼくは落胆しながら、宮島の商店街の中を歩いていた。
 竹に囲まれたある商店の前に来た。
 メニューの棚の中に、クリームソーダを見つけたとき。頭痛が襲ってきた。
 見たことがある。
 ぼくの頭の中に、頭痛とともに、走馬灯のように、紬がクリームソーダを食べているところ、ぼくがロールケーキとティラミスを食べているところが頭の中を駆け巡った。
 ぼくはまた頭の中で紬の名前を連呼していた。
 ……紬!……紬!
 だいぶ思い出してきたぞ。
 そうだ。
 紬は、ぼくを、姉さんの呪縛から救ってくれる希望の光だったんだ。
 
 そこまで思い出したぼくは、ある日の晴れた土曜日。
 予備校を休んで角島を目指した。
 新幹線に乗り、幡生(はたぶ)駅で降りると、山陰本線に乗り換えて、特牛(こっとい)駅を目指す。
 その途中。山陰本線から見える日本海の波しぶきを見たところで頭痛が襲ってきていた。
 頭痛はしばらく続いたが、やがて収まった。
 そうだ。ここを、紬と手をつなぎながら角島を目指したのだ。
 特牛駅からバスに乗るときも頭痛は襲ってきた。
 激しい頭痛だった。
 猛烈な既視感が頭を駆け巡る。
 そして、角島大橋の付け根に到着したとき、頭痛は耐えがたいほどの痛さに達していた。
 ぼくは角島大橋のそばにある公園の椅子で頭を抱えていた。
 思い出した。
 ここで紬とあなご弁当を食べたのだ。
 あのとき、紬は泣いていた。
 その紬を、ぼくが抱きしめていたのだ。
 ぼくは頭を抱えながら、頭痛とともに、涙を流していた。
 ……思い出したよ。紬。ぼくの最愛のひと。紬。
 だけど記憶はまだ断片的に回復したに過ぎなかった。
 確かに思い出の場所のことは記憶を回復したが、まだ紬を抱きしめたときの感触を思い出すことはなかった。
 あと、残された手段は、何かないのか。
 ぼくは帰りの電車の中で焦っていた。
 もう少しで。もう少しで紬との記憶を取り戻せるのだ。
 そのためには、もう一度紬に会う必要がある。
 何か。決定的な、思い出すきっかけはないものか。 

 ぼくは紬の見舞いをするため、病院にやってきた。
「紬!」
 ぼくは紬の病室を開けるなり紬の名前を呼んだ。
 紬は以前よりもさらに痩せていた。
「紬!」
 紬がその細い腕をぼくのほうに向けてくる。
「蒼くん。また来てくれたんだ」
「うん。この一週間、紬と行った思い出の場所にいろいろ行ってみたよ!そしたら、思い出したよ!紬とぼくの思い出を」
「本当?」
「うん。だけど。まだ紬を抱きしめたときの記憶を思い出せないんだ。何か、まだ他に何か、思い出すきっかけになりそうなものはないか」
「きっかけか」
「そうだ。たとえば、紬からぼくが何かしてもらったこととか」
「あたしが蒼くんにしてあげたこと」
「そう」
「あたしのほうがしてもらってばかりだったからなぁ」
「なにか、ないのか」
「あ、そうだ。蒼くんはあたしの作ったカレーをしょっちゅう食べてたよ」
「カレー?」
「うん。作り方は、お手伝いさんの乾さんが作ってもらって。たぶん材料はまだ蒼くんの家にあるよ」
「わ、わかった!」
 
 ぼくは急いで家に戻ると、乾さんに紬が作ってくれていたというカレーを食べることにした。
 乾さんは見事な包丁さばきで野菜をあっという間に切り終え、スパイスを混ぜ、最後にチョコレートを少しだけ加えてカレーを作ってくれた。
 ぼくはそれを食べた。
 カレーを口の中に入れた瞬間。頭の中に走馬灯のようなものが駆け巡った。
 カレーをカレー粉ではなくスパイスから作ること。
 カレーの隠し味にチョコレートを使っていること。
 紬がカレーを皿に盛って運んできてくれたこと。
 そして、紬の笑顔……。
「うわ!」
 激しい頭痛に襲われる。
 ぼくは椅子から床に転げ落ちた。
「ぼっちゃま!大丈夫ですか」
 ぼくは激しくのたうち回った。
 やがて……。
 頭痛は収まった。
 ぼくは膝立ちになり、自分の両手を見た。
「ぼっちゃま。大丈夫なのですか」
 乾さんが心配そうにぼくの顔を覗き込んでいる。
 両手の平いっぱいに広がる、紬を抱きしめたときの感触。
 すべて。
 すべて、思い出したよ、紬。
 ぼくは両手を重力に任せてだらりと足元に下げると、天を仰いだ。
 紬……。
 最愛のひとだった。
 ぼくが姉さんの呪縛から逃れようとして、恋した最愛のひとだった。
 ぼくはカレーと乾さんを残したまま、ダイニングを抜けて行った。
 そして急いで服を着替えると、バスに乗って紬の入院している病院を目指した。

「紬!」
 ぼくは病室を開け、速足で紬のもとに駆け寄る。
 紬のお姉さんの瑠璃さんが紬のそばに座っていた。
「あんた!」
「る、瑠璃さん!記憶が!戻りました」
「ま……マジか」
「紬!」
 ぼくは頭を下げて、紬の顔を覗き込む。
「蒼くん。あたしのこと、思い出してくれたの」
 紬が目に涙をためている。
「ああ。全部思い出した。君を抱きしめたときの感触も。すべて!」
「よかった!蒼くん」
 そう言って、紬はぼくのほうへ身体を寄せてくる。
「蒼くん。抱きしめて」
「大丈夫なのか、紬」
「うん。抱きしめて」
「うん」
 ぼくはベッドの上に身体を差し出し、紬の身体を抱き寄せた。
「うれしい。蒼くん。本当に、今まで、ありがとうね」
「紬」
 ぼくは痩せ細って骨ばった紬の身体を抱きしめていた。
 ぼくは紬の顔を見た。
 紬の顔に、深い安堵と満ち足りたような笑顔が広がった。
 しかし、ぼくの手から、するりと紬の身体は抜け落ちてしまう。
「紬……?」
 紬は目から涙を流し、笑顔のまま、ベッドの上に倒れていた。
「お、おい!紬!」
 瑠璃さんが横から身体を乗り出してくる。
「やばい!ナースコールだ!」

 それから紬は集中治療室に運ばれていった。
 夜になっても紬は出てこなかった。
 ぼくと瑠璃さんは集中治療室前のベンチに座っていた。
 そこへ、紬の両親たちがやってきた。
 瑠璃さんがぼくのことを紬の両親に紹介してくれる。
「あ……あなたが、蒼さんなのね」
 紬のお母さんは目に涙を浮かべていた。
「あなたのおかげで、紬は夜にぐっすり眠れることができるようになった。母親であるわたしにとっても、あなたは恩人です」
 そう言って紬のお母さんはぼくに向かって頭を下げたのだった。
「お母さん、面をあげてください」
 ぼくがそう言っても紬のお母さんは何度も何度も頭を下げていた。
 その後しばらくして……。
 治療室のドアが開けられた。
 医師は顔を下げたまま、紬のご両親に向かって、一言だけ告げた。
「残念ですが……」

 紬は亡くなった。
 紬の通夜も、葬儀も、たくさんのひとが来ていた。ぼくも関係者として参列した。
 遺影には、角島で自撮りしたときの写真を、紬だけ切り抜いたものが使われていた。
 空に掲げたスマホに向かってピースしている写真だった。満面の笑顔だった。
 紬のご両親は相変わらず、やたらとぼくにお礼を言ってくるのだった。
「あなたのおかげで、紬は夜に眠れるようになった。それがどれだけ紬にとって救いになったか。本当にありがとうございます」
 紬のお母さんは号泣しながらぼくに何度も頭を下げた。
 紬のお母さんは紬に似ていた。そしてどこか面影がぼくの姉とも重なるように見えた。
 紬の双子の姉である瑠璃さんもぼくにお礼を言っていた。
「紬はね。あんたと付き合ってたとき、本当に幸せそうだったよ。あたしにとっても、あんたは妹の自慢の彼氏なのさ」
 そう言って瑠璃さんもぼろぼろ涙を流していた。
 そして、瑠璃さんはぼくに告げた。
「紬から、あんたへのメッセージの音声ファイルを預かってるんだ。あんたに送るから。あんたの連絡先、教えて」

 家に帰ると、瑠璃さんから音声ファイルが送られていた。ぼくはそれを再生することにした。