家に帰ると、玄関を開けた直後に、ぼくよりも背の低い女の子がちょこんと立っていた。
「お兄ちゃん!」
そう言って、その女の子はぼくに抱きついてくる。
「茜……なんだね」
茜は顔をぼくの胸にこすりつける。
「そうだよ……やっと、お兄ちゃん、元に戻ったんだね」
茜はぼくのことを見上げる。
言われてみてすぐに気がついた。確かにぼくの妹はこんな感じだった。姉さんによく似ている。
「ああ。茜はずいぶんと大きくなったね」
「お兄ちゃんがあたしのことを『姉さん』と呼び始めたのは三年前。この三年間のこと、覚えてないの」
「うん。ごめんけど。そうなんだ」
「そっか。でも、お兄ちゃんが回復して、本当に良かったよ」
「今までごめんな、茜」
「ううん。お兄ちゃんが元気なら、それが一番だから。あたし、幸せだよ」
「そうか」
茜にはああ言われたが、ぼくの心は晴れなかった。
もちろん、紬さんのことがあるからだ。
そしてぼくは、紬さんのお見舞いに行くことにした。
メッセージアプリの履歴から、彼女の病院がどこにあるのかは把握していた。
ぼくは紬さんの病室に行く。
こんこん、と病室のドアをノックすると、しばらくして、ドアが開けられた。
立っていたのは、切れ長の瞳で、卵型のフェイスラインが美しく、そのラインを引き立てるようなくるりんと曲がった髪型がとても似合う美女だった。
このひとが、双子のお姉さん、瑠璃さんかな。
「あんたか……」
そのひとは、すぐにぼくから視線を外し、床を見る。
「夏木瑠璃さんですか」
ぼくに声をかけられ、瑠璃さんは緊張したように直立でぼくに向き直る。
「あ……ああ。兵頭……蒼くんだね」
「そうです。夏木紬さんのお見舞いに来ました」
すると、瑠璃さんは頭に右手を置いて、唇を噛んだ。
「紬なら、そこにいるよ」
「失礼します」
ぼくはそう言って病室の中に入る。
夏木紬さんは、得体のしれないいろんな管が身体に通されていた。
腕は細く痩せ、彼女の命が尽きようとしているのが感覚としてよく伝わってくる。
「夏木紬さん」
紬さんは、ゆっくりと首をぼくのほうに向けてきた。
「蒼くん」
ぼくの顔を見るなり、紬さんは目に涙をためた。
「来てくれたんだ」
ぼくは膝に手を置いて、その場で彼女の目線の高さまで顔を下げた。確かに痩せこけているが、瑠璃さんと顔立ちがよく似ている。そして、確かにふたりとも死んだ姉さんに似ていた。
「紬さん」
「蒼くん。座って」
「うん」
ぼくはそばに置かれてあった簡易な丸椅子に腰かける。
「ああ……。蒼くん……。本当にあたしのことを忘れちゃったんだね」
胸がチクりと痛む。ぼく自身のせいではないとはいえ、恋人である紬さんのことを忘れてしまうなんて。ぼくは彼女になんと声をかけてあげればいいのか。
「紬さん……」
突然、背後から声がする。
「ごめん!あたしのせいなんだ。あんたを混乱させるようなことを言ってしまったから!」
振り返ると、瑠璃さんは唇を噛みながら拳を握りしめてぶるぶると震えている。うつむいている彼女の表情は、伺い知ることができなかった。
「お姉ちゃん、しょうがないよ」
紬さんが瑠璃さんに向かって言う。
「しょうがなくないよ」
瑠璃さんは涙を流していた。双子がふたりとも泣いている。しかしその涙の意味は、ふたりで違っているようだった。
「蒼くん。あたしのこと、忘れてしまったのに、来てくれたんだね」
ぼくは身を乗り出す。
「そんな。だって、君は、ぼくの大事な恋人だったんでしょう」
紬さんの頬に涙が伝わる。
「忘れてしまったのに……そんなふうに思ってくれるんだ」
「当たり前じゃないですか。紬さんは、ぼくの、大事な恋人だったんですから」
「敬語じゃなくていいよ。蒼くん」
ぼくは思わず口を噤む。
「あ……そうだね。恋人同士なのに。敬語は変だよね」
「ううん。記憶を失ってしまったのだから、しょうがないよ」
紬さんが涙を流している一方で、ぼくは実に冷静だった。そんな自分に罪悪感を感じる。
いや。今はそんなことを考えている場合じゃない。大事なことを伝えなければ。
「紬さん、お願いがあるんだ」
「蒼くん、あたしもお願いがあるよ」
不意をつかれたぼくは彼女に尋ねる。
「え……なに?」
「あたしのこと、紬って呼び捨てにして。蒼くんはいつもあたしのことを呼び捨てにしてたんだよ」
戸惑いを覚えつつも、恋人の願いを叶えてあげたい。そう思ったぼくは勇気を出して彼女を呼び捨てにする。
「つ……紬」
「うんうん。いい感じ」
彼女はニコッと笑った。痩せて頬がこけているけど、正直、美しいと思った。
こんな美しい恋人がぼくにもいたのか。
なのに、ぼくのほうは、彼女と思いを共有できない。
いや、そう決めつけるのはまだ早い。共有できるかもしれない方法があるのだ。今日はそれを伝えに来たのだ。
「蒼くんのお願いって、なに」
「そう。それだよ。たぶん、紬はぼくたちの思い出をたくさん写真に撮ってるでしょ」
「うん。いっぱい撮ったよ」
「それを、ぼくのスマホに転送して欲しいんだ。もしかしたら、ぼくの記憶が元に戻るかもしれないから」
ぼくの声は自分でも驚くくらい切羽詰まっていた。
「わかった。任せて」
そう言うと、紬さんはぼくのほうに手を伸ばしてきた。
「蒼くん。手、握ってくれる」
「うん」
ぼくは、紬の手を握る。痩せて骨ばった紬の手。それでも、彼女の手は温かかった。
「あたしね。自分が死ぬのが怖くて、夜になるといつも眠れなかったの。でも、蒼くんに触れられると、夜ぐっすり眠れるようになったんだよ」
「うん。それはメッセージアプリで見て知ったよ」
「そう。蒼くんは、あたしにとっては、救いの魔法使いさんなんだよ」
「紬」
ぼくは両手で紬の手を握りしめる。
「蒼くんの手はいつも温かいね」
「紬……」
もしもぼくが記憶を失っていなかったら、今ごろ彼女たちのように涙を流していたのだろうか。
どうなんだろう。
わからない。確信が持てない。
それでも。彼女がぼくの恋人であることに代わりはない。
ぼくはまっすぐに紬の瞳を見据える。
「やっぱり。蒼くんに握られるのが、一番落ち着くよ」
「紬……」
ぼくは唇を噛んだ。彼女になんと声をかけてあげればいい。
……わからない。
彼女はあと少ししか生きられない。
一方のぼくは健康体そのもの。その現実のギャップに、絶望した気分になりそうなものだが、ぼくの心はいたって平常心だった。
目の前にいるのは、ぼくの恋人なんだぞ。
しっかりしろ。もっとかけるべき言葉があるだろう。
ぼくは自分を心の中で叱責した。
そうだよ。あのことを伝えないと。
「紬。君のおかげで、ぼくの、姉さんに執着するというトラウマは治ったんだよ。君のおかげだったんだ」
紬は目を細めながら言う。
「そんな。あれは偶然だったんだよ。別に、あたしのおかげで蒼くんのトラウマが治ったわけじゃない。でも……それでも、本当に良かったね。蒼くんのトラウマが治ったことは、あたしにとっても幸せだよ」
そしてぼくたちは見つめ合ったまま、何も話さなかった。
ぼくは長いこと彼女の手を握っていた。
彼女の姉である瑠璃さんはいつの間にか部屋を出て行ったようだ。
そして、面会の時間は終了してしまう。
「じゃあ、紬。また明日来るよ」
「また、来てくれるの」
「当たり前じゃないか。君はぼくの恋人なんだぞ」
ぼくはそう言って、紬の手を握る自分の手に力を込める。
「嬉しい……でも、蒼くんの負担にならないようにね」
「紬はそんなこと心配しなくてもいいんだよ」
「蒼くん……」
「なんだい」
「キスして……」
ぼくは一瞬躊躇った。
いや、だめだ。躊躇ったところを彼女に見せたら、きっと彼女を傷つけてしまう。
ぼくは彼女の求めに従った。
顔を近づけ、直前で目を閉じる。
唇の先に、彼女の温もりを感じる。
しばらくそうしてぼくたちは唇を押し付け合っていた。
やがて、どちらからともなく唇を離す。
「またね、蒼くん」
「ああ」
そう言って、ぼくは病室を出た。
外には、紬の姉の瑠璃さんが立っていた。
デニムのポケットに手を突っ込んで、壁に背をあずけている。
「瑠璃さん」
「本当にごめんな。あたしのせいで」
「瑠璃さんのせいじゃないですよ」
「……そうか」
ぼくは家路に着いた。
家に帰り、夕食をとって、風呂から上がり、スマホを見ると、「夏木紬」の表示が出ていた。
通知欄は、彼女からのメッセージでいっぱいだった。
すぐに彼女とのメッセージのタイムラインを開く。
そこには大量の写真と、一部、動画が送られていた。
ぼくはそれらをひとつずつ丁寧に見ていく。
最初はクリームソーダの写真だった。どこのお店だろう。真夏の空のようなソーダだった。
次は、空と……。これは、なんだろう。どこかの屋上か。給水塔のようなものが写っている。
屋上の写真は何度も出てきた。どこかの屋上にふたりで出かけたらしい。
続いて、原爆ドームとその前を流れる川が同時に写されていた。
カレーライスの写真もある。なぜこれを撮ろうと思ったのだろうか。場所は、背景のテーブルはどう見てもうちのダイニングにあるものだ。このカレーは、紬が作ってくれたのだろうか。
どこかのバーにいるような写真も出てきた。カウンター席で、奥にたくさんのお酒のボトルが並んでいる。
それからシルバーリングのイヤリングが写された写真も出てきた。
これは、紬が着けていたものだろうか。わからない。
動画ファイルがあったので、それを開く。
「きゃははは」
と言う紬の声が聞こえてくる。誰かの背中が写っている。カメラは振り回され、辺りの景色を映していた。
風景から見て、どうやらうちの団地の中らしい。これは、団地の真ん中を突き抜ける坂ではないか。
「わ、そんなにスピード出して大丈夫」
「これくらいでやめておくよ」
紬の声と一緒に聞こえてきたのは、明らかにぼくの声だった。
そうか。ふたりで自転車に乗っているんだ。
そして。
「蒼くん。ちょっとだけ横向いて」
「はい?」
すると、画面の中にぼくの顔が写された。
そのまま自転車でバイパスとの合流地点まで下っていったようだ。
「六月二十九日、月曜日。あたしたちは自転車で椿の坂学園から自転車でここまで降りてきました」
紬とぼくはカメラに向かって顔を向け、紬が解説のセリフを入れていた。
もうひとつ動画があり、それは同じく自転車でふたり乗りしたものだった。さっきの動画との違いは、こちらのほうが空が真っ青だという点だった。空を強調するかのように、何度もカメラは空を捉えている。
それからぼくの部屋の中の写真と、同じときに撮ったと思われるぼくの寝顔の写真も出てきた。
他にも、宮島に行ったときの写真が大量に出てきた。
船の上で自撮りして、紬とぼくが写されている。
他にも鹿を写した写真が。鹿の奥にはピントの合っていないぼくがいた。
そして、またもクリームソーダの写真が出てきた。クリームソーダの奥に、やはりピントの合っていないぼくが写っていた。
そして紬とロールケーキと、ティラミスらしきものが同時に写されていた。これは自分の写真履歴にもあったものだ。
次はどこかの駅の写真だった。「特牛(こっとい)」と書かれてある。
そして、どこかで見たことのある橋の写真が出てきた。
角島だ。
これも自分の写真履歴と一致していた。
橋が空に向かって伸びていくような写真の中に、ぼくと紬がふたり写っていた。
他にも角島の風景写真はいっぱい出てきた。
そして。
ぼくの寝顔の写真があった。
どうやらぼくに隠れて撮ったものらしい。
そこでファイルは終わっていた。
そして、最後に紬の文字が入力されていた。
「あたしたちの大事な思い出だよ」
それらの写真を見ても、写真として記録を見ただけで、ぼくの頭は紬と過ごした時間を思い出すことはなかった。
ぼくの頭の中には、写真の中の紬の笑顔と、写真の中の思い出の風景と、動画の中の紬の声だけがあった。あとは、さっき紬を見舞ったときの記憶だけだった。
彼女とは頻繁に抱き合っていたらしいが、それもぼくの記憶にはない。
彼女はぼくが抱きしめることで死を連想させる夜でもぐっすり眠れるようになっていたらしい。
そんなぼくを評して、彼女は「救いの魔法使いさんなんだよ」と言ってくれた。
が、ぼくはそれも実感としてはわからなかった。
必死に彼女とのことを思い出そうとしたが、写真や動画を見てしまった今となっては、脳内に再生されるのは、それらの写真や動画の内容ばかりになってしまった。そして、唯一、彼女と出会ったさっきの病室でのやり取りが頭をよぎるだけだった。
彼女はあと少しでその命が尽きてしまう。
そんな彼女に、恋人として、何かしてやりたいと思った。
しかし、記憶を失ったぼくに、何が出来るというのか。
何か。何か出来ることはないのか。
……そうだ。
彼女と行った場所に、実際に行ってみるのがいい。
そうすると、ぼくは記憶は元に戻るかもしれない。
そう決断すると、ぼくは、次の日からそれを実行することにした。
「お兄ちゃん!」
そう言って、その女の子はぼくに抱きついてくる。
「茜……なんだね」
茜は顔をぼくの胸にこすりつける。
「そうだよ……やっと、お兄ちゃん、元に戻ったんだね」
茜はぼくのことを見上げる。
言われてみてすぐに気がついた。確かにぼくの妹はこんな感じだった。姉さんによく似ている。
「ああ。茜はずいぶんと大きくなったね」
「お兄ちゃんがあたしのことを『姉さん』と呼び始めたのは三年前。この三年間のこと、覚えてないの」
「うん。ごめんけど。そうなんだ」
「そっか。でも、お兄ちゃんが回復して、本当に良かったよ」
「今までごめんな、茜」
「ううん。お兄ちゃんが元気なら、それが一番だから。あたし、幸せだよ」
「そうか」
茜にはああ言われたが、ぼくの心は晴れなかった。
もちろん、紬さんのことがあるからだ。
そしてぼくは、紬さんのお見舞いに行くことにした。
メッセージアプリの履歴から、彼女の病院がどこにあるのかは把握していた。
ぼくは紬さんの病室に行く。
こんこん、と病室のドアをノックすると、しばらくして、ドアが開けられた。
立っていたのは、切れ長の瞳で、卵型のフェイスラインが美しく、そのラインを引き立てるようなくるりんと曲がった髪型がとても似合う美女だった。
このひとが、双子のお姉さん、瑠璃さんかな。
「あんたか……」
そのひとは、すぐにぼくから視線を外し、床を見る。
「夏木瑠璃さんですか」
ぼくに声をかけられ、瑠璃さんは緊張したように直立でぼくに向き直る。
「あ……ああ。兵頭……蒼くんだね」
「そうです。夏木紬さんのお見舞いに来ました」
すると、瑠璃さんは頭に右手を置いて、唇を噛んだ。
「紬なら、そこにいるよ」
「失礼します」
ぼくはそう言って病室の中に入る。
夏木紬さんは、得体のしれないいろんな管が身体に通されていた。
腕は細く痩せ、彼女の命が尽きようとしているのが感覚としてよく伝わってくる。
「夏木紬さん」
紬さんは、ゆっくりと首をぼくのほうに向けてきた。
「蒼くん」
ぼくの顔を見るなり、紬さんは目に涙をためた。
「来てくれたんだ」
ぼくは膝に手を置いて、その場で彼女の目線の高さまで顔を下げた。確かに痩せこけているが、瑠璃さんと顔立ちがよく似ている。そして、確かにふたりとも死んだ姉さんに似ていた。
「紬さん」
「蒼くん。座って」
「うん」
ぼくはそばに置かれてあった簡易な丸椅子に腰かける。
「ああ……。蒼くん……。本当にあたしのことを忘れちゃったんだね」
胸がチクりと痛む。ぼく自身のせいではないとはいえ、恋人である紬さんのことを忘れてしまうなんて。ぼくは彼女になんと声をかけてあげればいいのか。
「紬さん……」
突然、背後から声がする。
「ごめん!あたしのせいなんだ。あんたを混乱させるようなことを言ってしまったから!」
振り返ると、瑠璃さんは唇を噛みながら拳を握りしめてぶるぶると震えている。うつむいている彼女の表情は、伺い知ることができなかった。
「お姉ちゃん、しょうがないよ」
紬さんが瑠璃さんに向かって言う。
「しょうがなくないよ」
瑠璃さんは涙を流していた。双子がふたりとも泣いている。しかしその涙の意味は、ふたりで違っているようだった。
「蒼くん。あたしのこと、忘れてしまったのに、来てくれたんだね」
ぼくは身を乗り出す。
「そんな。だって、君は、ぼくの大事な恋人だったんでしょう」
紬さんの頬に涙が伝わる。
「忘れてしまったのに……そんなふうに思ってくれるんだ」
「当たり前じゃないですか。紬さんは、ぼくの、大事な恋人だったんですから」
「敬語じゃなくていいよ。蒼くん」
ぼくは思わず口を噤む。
「あ……そうだね。恋人同士なのに。敬語は変だよね」
「ううん。記憶を失ってしまったのだから、しょうがないよ」
紬さんが涙を流している一方で、ぼくは実に冷静だった。そんな自分に罪悪感を感じる。
いや。今はそんなことを考えている場合じゃない。大事なことを伝えなければ。
「紬さん、お願いがあるんだ」
「蒼くん、あたしもお願いがあるよ」
不意をつかれたぼくは彼女に尋ねる。
「え……なに?」
「あたしのこと、紬って呼び捨てにして。蒼くんはいつもあたしのことを呼び捨てにしてたんだよ」
戸惑いを覚えつつも、恋人の願いを叶えてあげたい。そう思ったぼくは勇気を出して彼女を呼び捨てにする。
「つ……紬」
「うんうん。いい感じ」
彼女はニコッと笑った。痩せて頬がこけているけど、正直、美しいと思った。
こんな美しい恋人がぼくにもいたのか。
なのに、ぼくのほうは、彼女と思いを共有できない。
いや、そう決めつけるのはまだ早い。共有できるかもしれない方法があるのだ。今日はそれを伝えに来たのだ。
「蒼くんのお願いって、なに」
「そう。それだよ。たぶん、紬はぼくたちの思い出をたくさん写真に撮ってるでしょ」
「うん。いっぱい撮ったよ」
「それを、ぼくのスマホに転送して欲しいんだ。もしかしたら、ぼくの記憶が元に戻るかもしれないから」
ぼくの声は自分でも驚くくらい切羽詰まっていた。
「わかった。任せて」
そう言うと、紬さんはぼくのほうに手を伸ばしてきた。
「蒼くん。手、握ってくれる」
「うん」
ぼくは、紬の手を握る。痩せて骨ばった紬の手。それでも、彼女の手は温かかった。
「あたしね。自分が死ぬのが怖くて、夜になるといつも眠れなかったの。でも、蒼くんに触れられると、夜ぐっすり眠れるようになったんだよ」
「うん。それはメッセージアプリで見て知ったよ」
「そう。蒼くんは、あたしにとっては、救いの魔法使いさんなんだよ」
「紬」
ぼくは両手で紬の手を握りしめる。
「蒼くんの手はいつも温かいね」
「紬……」
もしもぼくが記憶を失っていなかったら、今ごろ彼女たちのように涙を流していたのだろうか。
どうなんだろう。
わからない。確信が持てない。
それでも。彼女がぼくの恋人であることに代わりはない。
ぼくはまっすぐに紬の瞳を見据える。
「やっぱり。蒼くんに握られるのが、一番落ち着くよ」
「紬……」
ぼくは唇を噛んだ。彼女になんと声をかけてあげればいい。
……わからない。
彼女はあと少ししか生きられない。
一方のぼくは健康体そのもの。その現実のギャップに、絶望した気分になりそうなものだが、ぼくの心はいたって平常心だった。
目の前にいるのは、ぼくの恋人なんだぞ。
しっかりしろ。もっとかけるべき言葉があるだろう。
ぼくは自分を心の中で叱責した。
そうだよ。あのことを伝えないと。
「紬。君のおかげで、ぼくの、姉さんに執着するというトラウマは治ったんだよ。君のおかげだったんだ」
紬は目を細めながら言う。
「そんな。あれは偶然だったんだよ。別に、あたしのおかげで蒼くんのトラウマが治ったわけじゃない。でも……それでも、本当に良かったね。蒼くんのトラウマが治ったことは、あたしにとっても幸せだよ」
そしてぼくたちは見つめ合ったまま、何も話さなかった。
ぼくは長いこと彼女の手を握っていた。
彼女の姉である瑠璃さんはいつの間にか部屋を出て行ったようだ。
そして、面会の時間は終了してしまう。
「じゃあ、紬。また明日来るよ」
「また、来てくれるの」
「当たり前じゃないか。君はぼくの恋人なんだぞ」
ぼくはそう言って、紬の手を握る自分の手に力を込める。
「嬉しい……でも、蒼くんの負担にならないようにね」
「紬はそんなこと心配しなくてもいいんだよ」
「蒼くん……」
「なんだい」
「キスして……」
ぼくは一瞬躊躇った。
いや、だめだ。躊躇ったところを彼女に見せたら、きっと彼女を傷つけてしまう。
ぼくは彼女の求めに従った。
顔を近づけ、直前で目を閉じる。
唇の先に、彼女の温もりを感じる。
しばらくそうしてぼくたちは唇を押し付け合っていた。
やがて、どちらからともなく唇を離す。
「またね、蒼くん」
「ああ」
そう言って、ぼくは病室を出た。
外には、紬の姉の瑠璃さんが立っていた。
デニムのポケットに手を突っ込んで、壁に背をあずけている。
「瑠璃さん」
「本当にごめんな。あたしのせいで」
「瑠璃さんのせいじゃないですよ」
「……そうか」
ぼくは家路に着いた。
家に帰り、夕食をとって、風呂から上がり、スマホを見ると、「夏木紬」の表示が出ていた。
通知欄は、彼女からのメッセージでいっぱいだった。
すぐに彼女とのメッセージのタイムラインを開く。
そこには大量の写真と、一部、動画が送られていた。
ぼくはそれらをひとつずつ丁寧に見ていく。
最初はクリームソーダの写真だった。どこのお店だろう。真夏の空のようなソーダだった。
次は、空と……。これは、なんだろう。どこかの屋上か。給水塔のようなものが写っている。
屋上の写真は何度も出てきた。どこかの屋上にふたりで出かけたらしい。
続いて、原爆ドームとその前を流れる川が同時に写されていた。
カレーライスの写真もある。なぜこれを撮ろうと思ったのだろうか。場所は、背景のテーブルはどう見てもうちのダイニングにあるものだ。このカレーは、紬が作ってくれたのだろうか。
どこかのバーにいるような写真も出てきた。カウンター席で、奥にたくさんのお酒のボトルが並んでいる。
それからシルバーリングのイヤリングが写された写真も出てきた。
これは、紬が着けていたものだろうか。わからない。
動画ファイルがあったので、それを開く。
「きゃははは」
と言う紬の声が聞こえてくる。誰かの背中が写っている。カメラは振り回され、辺りの景色を映していた。
風景から見て、どうやらうちの団地の中らしい。これは、団地の真ん中を突き抜ける坂ではないか。
「わ、そんなにスピード出して大丈夫」
「これくらいでやめておくよ」
紬の声と一緒に聞こえてきたのは、明らかにぼくの声だった。
そうか。ふたりで自転車に乗っているんだ。
そして。
「蒼くん。ちょっとだけ横向いて」
「はい?」
すると、画面の中にぼくの顔が写された。
そのまま自転車でバイパスとの合流地点まで下っていったようだ。
「六月二十九日、月曜日。あたしたちは自転車で椿の坂学園から自転車でここまで降りてきました」
紬とぼくはカメラに向かって顔を向け、紬が解説のセリフを入れていた。
もうひとつ動画があり、それは同じく自転車でふたり乗りしたものだった。さっきの動画との違いは、こちらのほうが空が真っ青だという点だった。空を強調するかのように、何度もカメラは空を捉えている。
それからぼくの部屋の中の写真と、同じときに撮ったと思われるぼくの寝顔の写真も出てきた。
他にも、宮島に行ったときの写真が大量に出てきた。
船の上で自撮りして、紬とぼくが写されている。
他にも鹿を写した写真が。鹿の奥にはピントの合っていないぼくがいた。
そして、またもクリームソーダの写真が出てきた。クリームソーダの奥に、やはりピントの合っていないぼくが写っていた。
そして紬とロールケーキと、ティラミスらしきものが同時に写されていた。これは自分の写真履歴にもあったものだ。
次はどこかの駅の写真だった。「特牛(こっとい)」と書かれてある。
そして、どこかで見たことのある橋の写真が出てきた。
角島だ。
これも自分の写真履歴と一致していた。
橋が空に向かって伸びていくような写真の中に、ぼくと紬がふたり写っていた。
他にも角島の風景写真はいっぱい出てきた。
そして。
ぼくの寝顔の写真があった。
どうやらぼくに隠れて撮ったものらしい。
そこでファイルは終わっていた。
そして、最後に紬の文字が入力されていた。
「あたしたちの大事な思い出だよ」
それらの写真を見ても、写真として記録を見ただけで、ぼくの頭は紬と過ごした時間を思い出すことはなかった。
ぼくの頭の中には、写真の中の紬の笑顔と、写真の中の思い出の風景と、動画の中の紬の声だけがあった。あとは、さっき紬を見舞ったときの記憶だけだった。
彼女とは頻繁に抱き合っていたらしいが、それもぼくの記憶にはない。
彼女はぼくが抱きしめることで死を連想させる夜でもぐっすり眠れるようになっていたらしい。
そんなぼくを評して、彼女は「救いの魔法使いさんなんだよ」と言ってくれた。
が、ぼくはそれも実感としてはわからなかった。
必死に彼女とのことを思い出そうとしたが、写真や動画を見てしまった今となっては、脳内に再生されるのは、それらの写真や動画の内容ばかりになってしまった。そして、唯一、彼女と出会ったさっきの病室でのやり取りが頭をよぎるだけだった。
彼女はあと少しでその命が尽きてしまう。
そんな彼女に、恋人として、何かしてやりたいと思った。
しかし、記憶を失ったぼくに、何が出来るというのか。
何か。何か出来ることはないのか。
……そうだ。
彼女と行った場所に、実際に行ってみるのがいい。
そうすると、ぼくは記憶は元に戻るかもしれない。
そう決断すると、ぼくは、次の日からそれを実行することにした。
