ぼくはそのまま病院でさまざまな検査を受けた。
ぼくは病院にお見舞いに来たところで気を失い、そのまま訪れていたその病院に収容されたらしい。
それから二十四時間以上もぼくは昏睡状態にあったという。
その間、ずっと母さんはぼくのそばに付き添っていてくれたらしい。
そして父さんが見舞いに来たところで、ぼくは目を覚ましたという。
命に別状はないということで、その日のうちにぼくは退院させられた。
母さんと父さんが顔を突き合わせて深刻そうな表情で会話している。
「蒼に、つむぎさんに会わせなくていいのかしら」
「そのつむぎさんが蒼の混乱の元だったんだろう。とりあえず精神科の医師に確認を取ってからのほうがいいだろう」
「そうね」
確か、ぼくが目を覚ましたときには、母さんはぼくのことを「蒼くん」と「くん付け」で呼んでいたはずだが、いつのまにか呼び捨てになっていた。なぜなんだろう。
ぼくには「つむぎ」という恋人がいたらしい。余命半年で、ぼくが一時的に収容された病院に入院しているらしい。もうあと一ヶ月も生きられないかもしれないということだった。
ぼくはその、「つむぎ」さんというひとの記憶がなかった。
母さんが言った。
「ほら、スマホにつむぎさんとやり取りした内容がいっぱい残ってるんでしょ」
そう言われて、ぼくはスマホのメッセージアプリを立ち上げた。
「夏木紬」と表示があった。
つむぎというのは、糸へんに、自由の由と書くらしい。
ぼくは家に帰った。
家に帰ると、見慣れない女の子がいた。
「あっ……」
その女の子はぼくを見るなり、逃げ出してしまった。
なぜぼくの顔を見るなり行ってしまったのだろう。
ぼくは父さんに聞く。
「いまの女の子は誰なの」
「蒼。いずれあの子のことは説明すると思うよ」
父さんはそう言った。
正直、色々とわけがわからなかった。
夕食はお手伝いさんの乾さんが作ってくれた。それから風呂に入り、ぼくは自分の部屋に戻ると、スマホでメッセージアプリを開いた。
「夏木紬」さんとのやり取りを確認する。
一番古いものはゴールデンウィーク明けのものだった。
「あしたも、あの屋上行こうね」
「うん」
最初のやり取りはそれで終わりだった。
ぼくはやり取りの内容を確認していく。
「蒼くんに抱きしめられると本当に夜ぐっすり眠れるの」
そんなやり取りがあった。
ということは、紬さんはぼくに抱きしめられないと夜、眠れなかったということなのか。そんなことってあるんだろうか。
他には。市内に出て、原爆ドームで待ち合わせしたらしい。
その後も市内にはしょっちゅう出ていたようだ。ぼくの予備校が終わってかららしかった。
他にも宮島にも行った形跡があった。
そしてなんと、山口県の角島まで行ったという。
ぼくはスマホの写真アプリを立ち上げる。
そこにも見慣れない写真がいくつか並んでいた。
その中に、緑色のロールケーキとティラミスと一緒に写っている女性の写真があった。
その写真を開く。
ピントはロールケーキとティラミスに合っていて、遠景に写っている女性は笑顔を浮かべて何か飲み物の写真を撮っているところだった。
ピンぼけなのでよくわからないが、このひとがぼくの彼女だったという「夏木紬」さんなのだろうか。
そこまで見て、ぼくはスマホを閉じた。
ぼくと「夏木紬」さんはどんな付き合いをしていたのだろうか。
いいカップルだったのだろうか。
そんなことを考えながら、ぼくはいつのまにか眠っていた。
数日後。ぼくは精神科のクリニックに来ていた。
ここは見覚えがある。半年前にも来たことがあるはずだ。
いつもひとりで来て、二言三言交わしてそれで終わりだった。
しかし今日は母さんが付き添いで来ていた。
母さんは受付で何か看護師さんと長くやり取りをしていた。
そして、診察のときになって、まず母さんが先生に呼ばれた。
ぼくはそのまま待合室で待機しているように言われた。
母さんと先生の話はかなり長引いていた。
そして、ようやくぼくも先生に呼ばれた。
診察室に入ると、母さんは安堵の表情を浮かべていた。
そして、母さんは言った。
「蒼。茜っていう妹がいたことは、覚えてる」
ぼくは目線を医者から母さんに移す。
「茜。もちろん覚えてるよ」
「今もあなたと一緒に暮らしてるのよ。中学一年生になったのよ」
ぼくは驚いた。
「えっ。そうなの」
初耳だ。茜という妹がいたことは覚えているが、確か、十歳くらいの小さな妹だったと記憶しているが。
「今日帰ったら、さっそく茜と会ってごらん」
母さんはそう言って優しい笑顔を向けてくれるが、ぼくは妹の顔を思い出そうとして頭を動かすのに集中していた。本人を見たらわかるのだろうか。
「う……うん」
立派なひげをたくわえた精神科の先生がパソコンに目を向けながら口を開く。
「どうされますか。お母さんのほうから説明されますか」
「ええ」
そうして母さんは、ぼくに起こった一連の出来事を話し始めた。
話は複雑だった。
ぼくが七歳のときに、ぼくは川で遊んでいて流されたらしい。それを助けたのがぼくの実の姉だった。姉はぼくを助けた代わりに死んでしまったらしい。ぼくはそのことを今でも思い出すことができない。
そして、その後、ぼくは母さんのことを姉さんと呼ぶようになったらしい。
ぼくは姉に執着していたという。事故の後遺症ということだった。重度の心的トラウマだったという。
小学生の高学年のあるときは、姉に似たひとに付きまとって補導されたこともあるということだった。ぼくはそのひとに一目惚れしてしまったらしい、と。
そして。実の妹が十歳になったとき、ぼくはある日突然その妹のことを見て昏睡状態に陥り、回復したときには妹のことも姉さんと呼ぶようになったらしい。
つまり、亡くなった姉さんがこの世にふたりいると思い込んでいたのだ。姉さんに似たふたりが同じ場所にいるとぼくが混乱を起こして、ぼくがどうにかなってしまうかもしれない。そのため、妹のいる家には、母さんは絶対に近づくことはなかったという。ぼくには母さんも妹も同じ姉に見えているのだから。
そして、今年のゴールデンウィーク明けに、ぼくに恋人ができた。
彼女は夏木紬と言った。
紬さんのことを、ぼくは姉さんだとは認識しなかったらしい。それはぼくが小学生のときに補導されたときと同じ状況だったといえる。姉に似たひとに執着し、ぼくは一目惚れしてしまったのだ。それはとても不安定な状況だったと言える。
紬さんは双子らしい。ふたりともぼくの姉さんにそっくりだという。母さんはスナックで紬さんに会い、それからぼくがあの病院で倒れたときに双子の姉の瑠璃さんにも会ったという。ふたりとも姉さんに似ているのでビックリしたという。
紬さんは母さんとスナックで会ったことがある。それは、紬さんとのやり取りにも残されていたことだ。ぼくのメッセージアプリに、「姉さん(実際は母さんのこと)の経営しているスナックに行こう」と書かれていた内容とも一致している。
夏木紬さんはすい臓がんということだった。
ぼくはあの病院に、紬さんのお見舞いに行ったらしい。そのとき、姉さんによく似た双子の姉の瑠璃さんを見て、ぼくの頭はパニックを起こしたらしい。ただし、瑠璃さんが言う証言は曖昧らしく、ぼくのパニックの原因が瑠璃さんにあるのかどうかは確証が持てないということだった。
母さんが先生に告げる。
「蒼は、恋人である紬さんの記憶を失ってしまったらしいんです。その紬さんというひとは、死んでしまった長女によく似ていました。蒼があたしのことを母親と認識できるようになったのと、紬さんの記憶を失ってしまったのは同時でした。紬さんの記憶を失ってしまったことは、明らかに今回の件が関連していると思うのですが」
精神科の先生が口を開く。
「その紬さんという蒼くんの恋人は、亡くなった長女さんによく似ていたと言いましたね」
「はい」
精神科の先生は椅子を引いて母さんに対して少し身を乗り出すような形になった。
「順番としては、恋人さんのお見舞いに行ったら、あまりにそっくりな双子の姉妹を見て蒼くんは自我を失ってしまった。そして二十四時間以上昏睡した。目が覚めた蒼くんは、今まで自分のお姉さんだと思っていたお母さんのことを、お母さんと認識できるように心的ストレスによるトラウマが回復していた。しかし、恋人の記憶を同時に失ってしまった、と」
母はうなずいて「そうです」と答える。
精神科の先生はまた椅子に深々と背をあずけると、立派な顎ひげを撫でた。
「ふーむ」
と一度先生はうなった。
「蒼くんは、わたしのことは覚えているんだよね」
ぼくは先生の顔を見て答える。
「はい」
「ということは、蒼くんは、お姉さんと、その恋人以外のことは、正常に記憶しているようですね」
先生はぼくのことを見る。
「蒼くん。彼女とお付き合いしていたときのことは、まったく覚えていないのだね」
ぼくは応える。
「はい。身に覚えがありません」
もう一度、先生は「うーん」とうなった。
そして、言った。
「ショックによる昏睡がトラウマによる異常な回路をリセットした代わりに、その回路に関わる記憶も一緒に消えた。お姉さんへの執着による心的トラウマの異常は解除されたが、お姉さんによく似ていた恋人との思い出も一緒にリセットされてしまった。そう考えるのが自然ですね」
母さんは再び深刻そうな表情をする。
「あの……蒼が、紬さんの記憶を取り戻すことは不可能なんでしょうか」
先生は再びぼくに向き直る。
「蒼くん。紬さんとやり取りした記録は残っているんだろう。他にも、写真とか」
ぼくは応える。
「はい」
「うん。そういった記録をなるべくたくさん見れば、思い出すこともあるかもしれない。恋人の紬さんからも、撮った写真なんかを転送してもらって、それを見れば、記憶が戻るかもしれない」
なるほど。それは確かに先生の言うとおりだった。
そうして長い診察は終わった。母さんが最初に入ってから一時間近くも経っていた。
ぼくは病院にお見舞いに来たところで気を失い、そのまま訪れていたその病院に収容されたらしい。
それから二十四時間以上もぼくは昏睡状態にあったという。
その間、ずっと母さんはぼくのそばに付き添っていてくれたらしい。
そして父さんが見舞いに来たところで、ぼくは目を覚ましたという。
命に別状はないということで、その日のうちにぼくは退院させられた。
母さんと父さんが顔を突き合わせて深刻そうな表情で会話している。
「蒼に、つむぎさんに会わせなくていいのかしら」
「そのつむぎさんが蒼の混乱の元だったんだろう。とりあえず精神科の医師に確認を取ってからのほうがいいだろう」
「そうね」
確か、ぼくが目を覚ましたときには、母さんはぼくのことを「蒼くん」と「くん付け」で呼んでいたはずだが、いつのまにか呼び捨てになっていた。なぜなんだろう。
ぼくには「つむぎ」という恋人がいたらしい。余命半年で、ぼくが一時的に収容された病院に入院しているらしい。もうあと一ヶ月も生きられないかもしれないということだった。
ぼくはその、「つむぎ」さんというひとの記憶がなかった。
母さんが言った。
「ほら、スマホにつむぎさんとやり取りした内容がいっぱい残ってるんでしょ」
そう言われて、ぼくはスマホのメッセージアプリを立ち上げた。
「夏木紬」と表示があった。
つむぎというのは、糸へんに、自由の由と書くらしい。
ぼくは家に帰った。
家に帰ると、見慣れない女の子がいた。
「あっ……」
その女の子はぼくを見るなり、逃げ出してしまった。
なぜぼくの顔を見るなり行ってしまったのだろう。
ぼくは父さんに聞く。
「いまの女の子は誰なの」
「蒼。いずれあの子のことは説明すると思うよ」
父さんはそう言った。
正直、色々とわけがわからなかった。
夕食はお手伝いさんの乾さんが作ってくれた。それから風呂に入り、ぼくは自分の部屋に戻ると、スマホでメッセージアプリを開いた。
「夏木紬」さんとのやり取りを確認する。
一番古いものはゴールデンウィーク明けのものだった。
「あしたも、あの屋上行こうね」
「うん」
最初のやり取りはそれで終わりだった。
ぼくはやり取りの内容を確認していく。
「蒼くんに抱きしめられると本当に夜ぐっすり眠れるの」
そんなやり取りがあった。
ということは、紬さんはぼくに抱きしめられないと夜、眠れなかったということなのか。そんなことってあるんだろうか。
他には。市内に出て、原爆ドームで待ち合わせしたらしい。
その後も市内にはしょっちゅう出ていたようだ。ぼくの予備校が終わってかららしかった。
他にも宮島にも行った形跡があった。
そしてなんと、山口県の角島まで行ったという。
ぼくはスマホの写真アプリを立ち上げる。
そこにも見慣れない写真がいくつか並んでいた。
その中に、緑色のロールケーキとティラミスと一緒に写っている女性の写真があった。
その写真を開く。
ピントはロールケーキとティラミスに合っていて、遠景に写っている女性は笑顔を浮かべて何か飲み物の写真を撮っているところだった。
ピンぼけなのでよくわからないが、このひとがぼくの彼女だったという「夏木紬」さんなのだろうか。
そこまで見て、ぼくはスマホを閉じた。
ぼくと「夏木紬」さんはどんな付き合いをしていたのだろうか。
いいカップルだったのだろうか。
そんなことを考えながら、ぼくはいつのまにか眠っていた。
数日後。ぼくは精神科のクリニックに来ていた。
ここは見覚えがある。半年前にも来たことがあるはずだ。
いつもひとりで来て、二言三言交わしてそれで終わりだった。
しかし今日は母さんが付き添いで来ていた。
母さんは受付で何か看護師さんと長くやり取りをしていた。
そして、診察のときになって、まず母さんが先生に呼ばれた。
ぼくはそのまま待合室で待機しているように言われた。
母さんと先生の話はかなり長引いていた。
そして、ようやくぼくも先生に呼ばれた。
診察室に入ると、母さんは安堵の表情を浮かべていた。
そして、母さんは言った。
「蒼。茜っていう妹がいたことは、覚えてる」
ぼくは目線を医者から母さんに移す。
「茜。もちろん覚えてるよ」
「今もあなたと一緒に暮らしてるのよ。中学一年生になったのよ」
ぼくは驚いた。
「えっ。そうなの」
初耳だ。茜という妹がいたことは覚えているが、確か、十歳くらいの小さな妹だったと記憶しているが。
「今日帰ったら、さっそく茜と会ってごらん」
母さんはそう言って優しい笑顔を向けてくれるが、ぼくは妹の顔を思い出そうとして頭を動かすのに集中していた。本人を見たらわかるのだろうか。
「う……うん」
立派なひげをたくわえた精神科の先生がパソコンに目を向けながら口を開く。
「どうされますか。お母さんのほうから説明されますか」
「ええ」
そうして母さんは、ぼくに起こった一連の出来事を話し始めた。
話は複雑だった。
ぼくが七歳のときに、ぼくは川で遊んでいて流されたらしい。それを助けたのがぼくの実の姉だった。姉はぼくを助けた代わりに死んでしまったらしい。ぼくはそのことを今でも思い出すことができない。
そして、その後、ぼくは母さんのことを姉さんと呼ぶようになったらしい。
ぼくは姉に執着していたという。事故の後遺症ということだった。重度の心的トラウマだったという。
小学生の高学年のあるときは、姉に似たひとに付きまとって補導されたこともあるということだった。ぼくはそのひとに一目惚れしてしまったらしい、と。
そして。実の妹が十歳になったとき、ぼくはある日突然その妹のことを見て昏睡状態に陥り、回復したときには妹のことも姉さんと呼ぶようになったらしい。
つまり、亡くなった姉さんがこの世にふたりいると思い込んでいたのだ。姉さんに似たふたりが同じ場所にいるとぼくが混乱を起こして、ぼくがどうにかなってしまうかもしれない。そのため、妹のいる家には、母さんは絶対に近づくことはなかったという。ぼくには母さんも妹も同じ姉に見えているのだから。
そして、今年のゴールデンウィーク明けに、ぼくに恋人ができた。
彼女は夏木紬と言った。
紬さんのことを、ぼくは姉さんだとは認識しなかったらしい。それはぼくが小学生のときに補導されたときと同じ状況だったといえる。姉に似たひとに執着し、ぼくは一目惚れしてしまったのだ。それはとても不安定な状況だったと言える。
紬さんは双子らしい。ふたりともぼくの姉さんにそっくりだという。母さんはスナックで紬さんに会い、それからぼくがあの病院で倒れたときに双子の姉の瑠璃さんにも会ったという。ふたりとも姉さんに似ているのでビックリしたという。
紬さんは母さんとスナックで会ったことがある。それは、紬さんとのやり取りにも残されていたことだ。ぼくのメッセージアプリに、「姉さん(実際は母さんのこと)の経営しているスナックに行こう」と書かれていた内容とも一致している。
夏木紬さんはすい臓がんということだった。
ぼくはあの病院に、紬さんのお見舞いに行ったらしい。そのとき、姉さんによく似た双子の姉の瑠璃さんを見て、ぼくの頭はパニックを起こしたらしい。ただし、瑠璃さんが言う証言は曖昧らしく、ぼくのパニックの原因が瑠璃さんにあるのかどうかは確証が持てないということだった。
母さんが先生に告げる。
「蒼は、恋人である紬さんの記憶を失ってしまったらしいんです。その紬さんというひとは、死んでしまった長女によく似ていました。蒼があたしのことを母親と認識できるようになったのと、紬さんの記憶を失ってしまったのは同時でした。紬さんの記憶を失ってしまったことは、明らかに今回の件が関連していると思うのですが」
精神科の先生が口を開く。
「その紬さんという蒼くんの恋人は、亡くなった長女さんによく似ていたと言いましたね」
「はい」
精神科の先生は椅子を引いて母さんに対して少し身を乗り出すような形になった。
「順番としては、恋人さんのお見舞いに行ったら、あまりにそっくりな双子の姉妹を見て蒼くんは自我を失ってしまった。そして二十四時間以上昏睡した。目が覚めた蒼くんは、今まで自分のお姉さんだと思っていたお母さんのことを、お母さんと認識できるように心的ストレスによるトラウマが回復していた。しかし、恋人の記憶を同時に失ってしまった、と」
母はうなずいて「そうです」と答える。
精神科の先生はまた椅子に深々と背をあずけると、立派な顎ひげを撫でた。
「ふーむ」
と一度先生はうなった。
「蒼くんは、わたしのことは覚えているんだよね」
ぼくは先生の顔を見て答える。
「はい」
「ということは、蒼くんは、お姉さんと、その恋人以外のことは、正常に記憶しているようですね」
先生はぼくのことを見る。
「蒼くん。彼女とお付き合いしていたときのことは、まったく覚えていないのだね」
ぼくは応える。
「はい。身に覚えがありません」
もう一度、先生は「うーん」とうなった。
そして、言った。
「ショックによる昏睡がトラウマによる異常な回路をリセットした代わりに、その回路に関わる記憶も一緒に消えた。お姉さんへの執着による心的トラウマの異常は解除されたが、お姉さんによく似ていた恋人との思い出も一緒にリセットされてしまった。そう考えるのが自然ですね」
母さんは再び深刻そうな表情をする。
「あの……蒼が、紬さんの記憶を取り戻すことは不可能なんでしょうか」
先生は再びぼくに向き直る。
「蒼くん。紬さんとやり取りした記録は残っているんだろう。他にも、写真とか」
ぼくは応える。
「はい」
「うん。そういった記録をなるべくたくさん見れば、思い出すこともあるかもしれない。恋人の紬さんからも、撮った写真なんかを転送してもらって、それを見れば、記憶が戻るかもしれない」
なるほど。それは確かに先生の言うとおりだった。
そうして長い診察は終わった。母さんが最初に入ってから一時間近くも経っていた。
