あたしは風呂から上がると、ソファに座っているお姉ちゃんのそばに行った。
 何か、視界の端が暗く明滅するようになった。
 目にゴミでも入ったのか、と思ってあたしは目をこする。
 しかしそれはゴミではなかった。
 そして、あたしの身体から力が抜けていき、視界はぐらぐらとゆがんだ。
 これは、めまい。
 めまいはどんどんひどくなる。
 あたしはついに床にへたりこんだ。
「ど、どうした!紬!」
お姉ちゃんの声が遠ざかっていく。
 目の前が暗くなっていく。
 きゅ、救急車を……。

 まぶしい。
 あたしはあれからどうしたんだろうか。
 目を開けたくても、まぶしくてうまく瞼を開けることができない。
「紬!気がついたか!」
 その声は。瑠璃お姉ちゃん。
「あなた。紬が起きたみたいよ」
 続いてお母さんの声。
「おお!よかった!よかった!」
 そしてお父さんの声。
 声だけはわかるが、あたしは未だに自分の置かれている状況がよくわからなかった。
 でも、すぐにわかった。
 あたしは倒れたんだ。
 予想していたことだ。
 ついに、このときがやってきたのだ。
 あたしはかろうじて薄目を開ける。
 三人のひとがいる。
 天井の照明が逆光になって、誰が誰なのかよくわからない。
「紬、ここは病院だぞ」
 ようやく目を開けたあたしは、瑠璃お姉ちゃんの声をはっきり聞き届けていた。

 それからのあたしはしばらく集中的な治療を受けていた。外界から遮断されていた。
 面会謝絶らしく、蒼くんには会えなかった。
 食事も喉を通らなかった。
 おかげであたしは毎日一キロ以上痩せ続けた。
 あたしの身体は急速に痩せ衰えていた。
 やがて、元々かかっていた病院への転院が決まった。
 そこで初めてスマホを触ることができた。
 蒼くんから「連絡ないけど、どうしたの」と返信があった。
 あたしは蒼くんからの連絡が嬉しくて、「入院することになったの。今度かかりつけ医のいる病院に転院することになったの」と、つい返信してしまい、病院の名前を告げた。
 しかし。
 そこであたしは重大なミスを犯したことに気づく。
 もしも、今の痩せ衰えた姿を蒼くんが見たとしたら。
 蒼くんはあたしをあたしだと認識できるだろうか。
 以前の、蒼くんのお母さんとしたやり取りが思い出される。
 蒼くんは恋した相手に理想のお姉さんの像を重ね合わせてしまう。
 しかし、蒼くんの中の理想のお姉さん像が崩れてしまったとき、蒼くんのトラウマは悪化してしまうリスクがある。
 蒼くんには、あたしの転院先を教えるべきではなかった。
 なぜ伝えてしまったのか。
 痩せ衰えたあたしの姿を見て蒼くんがパニックを起こしてしまったりしたら。
 それで蒼くんのトラウマが悪化したら。取り返しのつかないことになる。
 もちろんあたしを見て、あたしだと認識してくれる可能性はある。
 しかし、それは可能性があるというだけのこと。
 もしもそうならず、蒼くんが混乱してしまったら。
 ただでさえ、蒼くんの心の状態は脆いと聞かされている。
 実の母親と、実の妹を姉だと、ひとりしかいなかった姉がふたりもいると認識し、それが彼の頭の中で成立してしまっているくらいには彼の心は不安定なのだ。
 痩せ衰えたあたしを見て、どんなことが起こっても不思議ではない。
 あたしは、夜に眠れるように、彼にたくさん抱きしめてもらった。それだけでも彼はあたしにとっての大恩人なのだ。
 そして彼は、それ以上の愛情を、余命半年のあたしにたくさん注いでくれたのだ。
 そんな恩のある彼を、命の危険にさらすような真似を、あたし自身がしてしまうなんて。そんなのは耐えられることではない。
 あたしはどうなっても構わない。ただ、私に最後の安らぎを与えてくれた蒼くんだけは、壊れてほしくない。
 それにあたしは蒼くんの理想のお姉さんでい続けたかった。そのために宮島や角島に行ったのだ。
 あたしはなんてミスを犯したのだろうか。
 あたしはスマホをもう一度握りしめ、瑠璃お姉ちゃんを呼ぶことにした。

 比較的、容態の安定したあたしは、転院先の病院で他のひとと共有の大部屋の一角で寝ることになった。
 窓際のベッドだった。
 昼間。風がそよぐとカーテンが揺れた。
 部屋の中の他の入院患者は皆静かだった。
 ときおり家族と思われるひとがやってきたり、お見舞いのひとがそれぞれの患者のところにやってきていた。
 午後になり、瑠璃お姉ちゃんがあたしの元にやってきた。
「よお、思ったより元気そうだな」
 あたしは左手で自分の右手首をつかむ。
「一気にこんなに痩せちゃったよ。お姉ちゃん」
 瑠璃お姉ちゃんはそれ以上何も言わず、簡易な丸椅子に腰かける。
 そこで、枕元に置いてあったスマホが震えた。
 通知欄には、兵藤蒼くんの文字。
「今からお見舞いに行ってもいいかな。病室の番号教えて」
 あたしは瑠璃お姉ちゃんに呼びかける。
「お姉ちゃん。蒼くんが来るって」
 瑠璃お姉ちゃんは下を向いたまましゃべる。
「なあ、紬。本当にあたしが紬の身代わりをやるのか」
「お願い、お姉ちゃん。今のあたしを見たら、蒼くんは、あたしを見て発作を起こしてしまうかもしれないから」
 瑠璃お姉ちゃんは首を下げたまま立ち上がった。
「でもその蒼くんってさ。これから毎日来るんじゃないのか。本当に会わなくていいのか」
「前に説明したでしょ。それをしたら、蒼くんのトラウマが悪化してしまうかもしれないから。あたしは蒼くんの理想のお姉さん像でい続けなきゃいけないの」
 お姉ちゃんは口をきっと引き結んであたしの顔を見つめる。
 お姉ちゃんが何か言いたそうにしている。
 でも、これ以外に蒼くんを守る方法はない。
「蒼くんの代役な。あたしがしなきゃ、その彼のトラウマが悪化してしまうかもしれない。それはわかるよ。わかるけどさ。それで紬は満足できるのか」
「あたしなんかよりも、蒼くんのほうが大事だから」
「もしも、その蒼くんがあたしのことを、紬とは別人だと気がついてしまったら、どうするんだ」
「その場合は、あたしはこの病院にいないって言って」
「そんなの信じると思うか」
「なんでもいいから、あたしはいないことにして」
「それならあたしがここにいることも不自然になるだろ」
「お姉ちゃんは他のひとのお見舞いに来たとでも言えばいいよ」
「はあ」
 お姉ちゃんは腰に両手をあててため息をついた。
 そして頭に手を置く。
「あたし、いつまで続けられるか、自信ないぞ」
「お願い、お姉ちゃん。蒼くんを守るためなの。蒼くんのトラウマがさらに悪化しないためにも。蒼くんを守るためにも、今のあたしは蒼くんに会っちゃいけないの」
 お姉ちゃんは再び腰に両手をあてると、仁王立ちになってあたしのことを見下ろしてくる。
「紬もその蒼くんに会いたいんじゃないのか」
 あたしは反射的に大きな声を出してしまう。
「会いたいに決まってるじゃない!」
 大部屋の病室の中にいるひとたちがあたしのほうを見る。声が大きすぎたようだ。
「だったら会えばいいじゃないか」
「だから言ったでしょ。それをしたら、蒼くんが混乱を起こして、蒼くんの解離症状が進んでしまうかもしれない、もしかしたら蒼くんの命の危険につながるかもしれないんだから」
「このまま……最期まで会わないつもりか」
「うん……」
 あたしはうつむく。
 お姉ちゃんはそこで大きくため息をついた。
「紬。あんた、本当に命がけの恋してるんだな」
 お姉ちゃんの言葉はあたしの涙腺を崩壊させそうにする。
「うん」
「わかったよ、紬に協力するよ。でも、あまりうまくできないかもしれないぞ。それでも文句言うなよ」
「ありがとう。お姉ちゃん」
「任せとけ」
「あ……」
 そこであたしはあることに気がつく。
「どうした、紬」
「お姉ちゃん、その格好」
「ん……あ……そっか」
 お姉ちゃんはゆるふわなカットソーにデニムというカジュアルな格好をしていた。これでは入院患者には見えないだろう。
「ど、どうしよ。でももう時間ないし。あたし、パジャマとか持ってきてないぞ」
「その服。今だけ交換しよ」
「そ……そうか。その手があったな」

 それから蒼くんがやってきたらしい。
 お姉ちゃんは病室の前で蒼くんのことを待ち受けるということだった。
 蒼くんがどんな顔立ちをしているかは、写真でお姉ちゃんに知らせてある。
 どうか。うまくいきますように。

 大部屋の病室のドアが開き、パジャマ姿の瑠璃お姉ちゃんがあたしの元に寄ってきた。
「会ったよ。紬の彼氏に」
 あたしは自分でもわかるくらい顔をこわばらせて聞く。
「ど……どうだった」
「ああ。あたしのことを完全に紬だと思ったみたいだったよ。ああそうそう。なんか抱きしめてこようとしたり、手を握ろうとしてきたから、拒絶しちまったけど。大丈夫だったかな、アレ」
「うん……大丈夫だよ」
「今は夜は睡眠薬大量に飲んでるからって言ってごまかしたけど」
「うん。それでバッチリ」
「それにしても。あたしらが一卵性双生児とはいえ、彼女との見分けもつかないなんてな」
「蒼くんは二十歳以上も歳の離れたお母さんと、年下の妹さんのことも見分けがつかないくらいだから」
「そうか。そんなに彼氏のトラウマはひどいってことか。でも本当によかったのか?やっぱり紬が会ったほうが」
「それはダメなの、お姉ちゃん。言ったでしょ。蒼くんのトラウマを守るためなんだから」
 お姉ちゃんは途端に暗い顔をする。
「それじゃ紬、あんたがかわいそすぎるだろ」
「あたしなんかのことより、蒼くんのことが大事なの」
「紬。あんた、死ぬまでにやりたいことは全部やるって言ってたじゃないか。このまま最期まで本当に彼氏に会わないつもりか」
「蒼くんを守るためだから」
「でも、それじゃ、相手もあとで絶望することになるだろ。紬の最期に会えなかったって」
「その代わりを、お姉ちゃんがしてくれてるから、大丈夫だよ」
「紬……」
 そう言ってため息をついたお姉ちゃんは黙ってパジャマを脱ぎ始めた。
 あたしもお姉ちゃんのカットソーを脱ぐことにする。