蒼くんと抱き合った後、夜になり、あたしは家路に着く。
蒼くんがトラウマを背負っている……。
実の母親と、実の妹を実の姉だと錯覚してしまう。それが成立してしまうくらいに蒼くんのトラウマの症状は不安定な状態にあるという。
それくらい不安定な状態にあるということは、これから何があっても不思議ではない、ということではないだろうか。
姉に似ているあたしが蒼くんと一緒にいることは、本当に蒼くんにとって良いことなのだろうか。
もしもあたしの存在が、蒼くんにとってなんらかの作用をもたらし、彼のトラウマが悪化するなんてことになったら。
あたしは、それは耐えられないと思う。
あたしは彼のおかげで夜にぐっすり眠れるようになった。
あたしは彼から与えてもらってばかり。
でも、そんな彼が、トラウマに苦しんでいるという。
あたしは今まで、自分が余命半年だからといって、どうして自分だけこんな苦しい思いをしないといけないのかと思い込んでいたけど、蒼くんだって辛い思いをしているのだ。
あたしだけが苦しい思いをしているなんてのは、あたしの独りよがりだった。
あたしも、辛い思いをしている蒼くんの支えになってあげたい。
そのために、あたしに出来ることは。
それを探すために、あたしは、蒼くんの妹さんから言われたように、蒼くんのお母さんに会わなければならない。
雨の降る土曜日。あたしは一週間ぶりに流川の雑居ビル前に来ていた。
蒼くんには昼間に用事があると言って、夜に会うことになっていた。
傘を畳み、ビルの中へ入る。入ってすぐのところにあるエレベーターの乗車ボタンを押し、中に入る。三階のボタンを押す。ゆっくりとエレベーターは上へ向かう。
三階に出ると、すぐ左のドアを開ける。
カウンターだけの店内。もちろん一週間前に来たときと同じだ。
「お邪魔します」
「紬さん、いらっしゃい」
蒼くんがお姉さんだと言っていたひとがカウンターの中にいる。
本当は蒼くんの実母。
「紬さん、改めまして。蒼の母親の静です。どうぞよろしく」
蒼くんのお母さんはうやうやしくお辞儀をする。
「お母さん。こちらこそ、よろしくお願いします」
「茜から聞いています。ビックリしたでしょ」
お母さんはとにかく明るい笑顔を向けてくれる。蒼くんのトラウマのことなど気にしていないような表情だ。もちろんその心中を深くうかがうことはできないが。
「はい。あまりに情報量が多くて、混乱しました」
「なに飲む?」
「烏龍茶で」
「はい」
そう言って、お母さんは烏龍茶を注いで、あたしの前に差し出す。
お母さんはカウンターの上で両手を組んで居ずまいを正す。
「それで、なんだったっけ。蒼のトラウマのことか」
お母さんの口調は、スナックにやってきた客に接するみたいに軽やかだ。
「そうです」
「どこから話せばいいのかな。うーん、まずは、わたしがなんで蒼たちと離れて暮らしているかってことからかな。あたしは蒼の父親の愛人だったの。それは茜から聞いてるんでしょ」
軽やかだと思ったお母さんの口からいきなり答えづらいことを聞かれてちょっと戸惑う。
「は……はい」
「あたしはあのひとの正妻じゃないからってのもあるけど、あの家であたしが暮らしていたら、蒼にとっては姉がふたりも家にいることになるから。だから離れて暮らしてるの。蒼がふたりの姉を目の前にして、錯乱してしまうかもしれないから。茜のことを姉だと思ってしまうまでは、あたしも毎日のようにあの家に言ってたのよ。あたしも蒼のお姉さんという役割を押し付けられていたの」
あたしはそこであることに気がつく。
蒼くんはあたしをお姉さんに似ているからと言って声をかけてくれたのだ。
「あたしは、大丈夫なんでしょうか。蒼くんは、あたしに、『お姉さんに似ている』からと言って声をかけてくれました。あたしと、例えば、茜さんが一緒にいるところを蒼くんに見られることも、蒼くんにとっては混乱の元になるのではないでしょうか」
「紬さん。蒼は、紬さんに初めて会ったときに、なんと言ってたの」
蒼くんのお母さんはコップに水を入れてそれを飲み干す。
「えっと……最初に言われたんです。『姉さん、じゃないよね』と」
「ということは、紬さんのことは死んでしまった長女だとは認識していない。姉とは別の人格だと紬さんのことを認識しているはずよ」
なるほど。だいぶ情報の整理ができた。
「妹さんとお母さんのことを姉だと思いながら、あたしは姉ではないと認識しているわけですか」
「姉に似ているあなたのことを、姉だと認識してもおかしくはないと思うけど、そうはならなかった。おそらく紬さんのことは、姉としてではなく、姉に対する執着心から、恋をしてしまったのではないかと思う。 逆に言うと、わたしや茜のことは姉だと思いながら、他人に対しては姉への執着が恋という形で出てしまう。蒼は、茜に本来いるはずの姉という役割を押し付けてしまっている。そして、外に向かってはそれが恋という形で出てしまう。蒼は家の中では姉という役割を実の妹に押し付け、茜が七歳になるまではわたしにその役割を押し付けていた。蒼にとっては、そうすることで、自分の心を守っているのよ。そうしないと自分の精神が崩壊するから」
頭がくらくらする。しかし、あたしは自分にしっかりしろ!と命じる。愛する蒼くんのためにも、ここで蒼くんのトラウマのことを詳しく知っておく必要があるのだ。
「蒼は、亡き姉に執着してる。蒼はお姉ちゃんのことが大好きだったからね。事故で姉を亡くして、余計に姉への思いは強くなったみたい。だから、姉に似ている紬さんに蒼が恋をしたのは、必然だったのかもね」
そう言って、蒼くんのお母さんはカウンターテーブルの上に両肘を乗せて腕を組んだ。
「そ……そうなんですね」
そう思うと奇妙な縁だ。蒼くんはお姉さんの面影を追ってあたしに声をかけた。一方のあたしは余命半年で、夜になると死ぬことへの恐怖で眠れなかったのが、彼のおかげで眠ることができるようになった。
何か。運命的なものを感じる。
「蒼は恋をするときに、いつも姉の姿を相手に重ねてしまう。蒼が恋する相手は、蒼にとっては理想の姉という姿なのよ。蒼にとっては、姉という役割を肉親に押し付ける代わりに、その呪縛から逃れるための手段が、他人に恋をするということなの。蒼が過去に姉に似たひとについていって補導された話は茜から聞いてるんでしょ」
「はい」
「蒼の恋はいつもワンパターン。だから、蒼はあなたに強く姉の姿を重ねてるはずよ。蒼にとってはあなたは理想の姉に近い存在なのよ。だから、紬さんにとっては、面白くない話かもしれないけど、蒼の理想の姉でいてあげてね。あ、だからといって、蒼に無理に合わせなくてもいいのよ。今までどおりの、普段どおりの紬さんでいてあげてね」
なるほど。
蒼くんはお姉さんがいなくなってしまうことが耐えられないから、その役割を実のお母さんや妹さんに押し付けてしまった。そうしないと蒼くんの精神がもちこたえられないから。
だけど、蒼くんにとって、他人に恋をするということは、その呪縛から逃れるための手段なのだ。
あたしをお姉さんだと思わなかったのは、彼が無意識のうちに、私にだけはその呪縛とは違う「未来」を求めてくれていたからなんだ。
そして蒼くんがあたしに声をかけたのが蒼くんのお姉さんに似ていたから、というのがきっかけだった。蒼くんがあたしに理想のお姉さん像を重ね合わせているというのも納得できる話だ。
……でもそれって。
あたしが蒼くんの理想のお姉さん像からかけはなれてしまったら、どうなるのだろう。
あたしは切羽詰まって早口に蒼くんのお母さんに尋ねる。
「あの、例えばですよ。例えば。あたしがすごく痩せ衰えてしまったとして、腕や顔がやつれてしまったら。そのとき、蒼くんは、蒼くんの中の理想のお姉さん像をあたしに見いだせなくなるということでしょうか」
お母さんは顎をあげて口を薄く開けた。何か意外なことを聞かれてビックリしているように見える。
「そ……そうね。蒼の中で理想の姉像が崩れて、何が起こるか、予測もつかないかもしれないわね」
そこでお母さんは腕を組んで斜め上に視線をやって考え込む。
「わたしも専門家じゃないから、詳しいことはわからないの。ただ、蒼の姉が死んだ事故以来、蒼は姉の像に関することだけが極端に不安定なのよ。昔、一度、蒼が強いショックを受けたとき、数日間、誰のことも認識できなくなったことがあって……」
そんな……。
だとすると、蒼くんは、あたしがいよいよ痩せ衰えてしまったときに、あたしのことを見てそのトラウマが悪化してしまうかもしれないということなのか。
「お母さん、あ……」
そうだ。あのことを聞くためには、あたしが余命あと数ヶ月しかないことをお母さんに話す必要がある。かなり重たい話だ。
蒼くんのお母さんは口元に微笑をたたえたまま、不思議そうにあたしの顔を見る。
「どうしたの。紬さん」
あたしは意を決してお母さんに告げる。
「あたし……あと数ヶ月で死んじゃうんです」
「へっ?」
お母さんは呆気にとられた表情をする。まあ、いきなり言われたらこんな反応になるのが普通だよね。
「あたし、すい臓がんなんです。もう全身に転移していて。あと数ヶ月しか生きられないんです」
お母さんは絶句している。
「……そ……それって、本当なの」
「はい」
あたしは努めて明るく振舞う。口元に微笑を絶やさない。なるべくお母さんに気を遣わせたくないからだ。
「そ……それはわかったわ。でもなんで急にそんなことを言うの」
お母さんが眉を八の字にさせている。そんな表情をさせてしまっていることに罪悪感を覚えるが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「その……あたしの余命があとほんのわずかになったとき。あたしは治療で確実に痩せ衰えるはずなんです。そのとき、痩せてしまったあたしを蒼くんに見せることは、蒼くんの理想のお姉さん像を壊してしまうことになるんでしょうか。そして、それによって、蒼くんのトラウマは悪化してしまうでしょうか」
お母さんは顎をあげて口を開けた。話が読めたようだ。
お母さんはそこで今日初めて視線を下に落とした。片手をテーブルについて、明らかに何かを言いにくそうにしている。
あたしの胸いっぱいに、不安が広がる。
そして、お母さんは意を決したように話す。
「さっきも言ったけど蒼が恋する相手は、蒼にとっては理想の姉という姿なのよ。だからもし、紬さんが病気でやつれたとき、蒼がそんな紬さんを見たら、蒼の中で理想の姉像が崩れて、次に何が起こるか、予測もつかない。また昔のように、蒼の自我が完全に崩壊してしまうんじゃないか。だから、紬さんの言うとおり、痩せ衰えた姿を見せることは、蒼にとって悪い結果をもたらすかもしれない。……紬さんにとっては残酷な話かもしれないけどね」
お母さんは早口でそこまで一気にしゃべった。
もし、その時になったら、あたしは蒼くんに会わないほうがいいのかもしれない。
彼を守るためにも。
あたしは、いつも蒼くんに守ってもらってばかりなんだから。
そのときがきたら。
あたしは。
あたしは、身を引くしかないのかもしれない。
蒼くんを守るために。
蒼くんを混乱させないために。
……そうだ。
もうひとつ。
お母さんに聞かなければならないことがある。
「その……亡くなられた蒼くんのお姉さんの好きだったことを、聞きたいんですけど」
突然そんなことを聞かされたお母さんはきょとんとする。
「へっ?そんなこと聞いてどうするの」
「あの……いまもお母さんが言ってくれましたけど。蒼くんはあたしに理想のお姉さん像を重ね合わせてるんですよね。だったら、あたしが、蒼くんの理想のお姉さんでいてあげたい、って思いまして」
「そういえば、さっき蒼の理想のお姉さんでいてあげて、なんてわたし言っちゃったもんね。そんな気にしなくてもいいのに」
「それは。あたしは蒼くんに甘えてばかりだから。少しでも彼に恩返しがしたいんです」
蒼くんのお母さんは「ふふ」と笑う。
「でもほんとに、蒼のことを気遣って、蒼の理想の姉に近づこうなんて、考えなくてもいいのに」
お母さんが身を乗り出している。
あたしもそれにつられて身を乗り出す。
「あたしが蒼くんからもらったたくさんの恩を考えたら、あたしも蒼くんの助けになってあげたいんです」
「ほんとに恋してるねぇ、紬さん」
「もう」
あたしは恥ずかしさを悟られないように烏龍茶をぐいっと飲む。
「お姉ちゃんの好きだったことねぇ。角島に行きたがってたかな。結局行けなかったけど」
「つのしま。それ、どこにあるんですか」
「知らない?よくテレビコマーシャルで使われる島。山口県の端にあるの」
「そうなんですね。なんでよくコマーシャルになるんですか」
「真っ青な海の中を、一本の橋がずーっと続いてるの」
「ばえるってことですね」
「いまどきの言葉だとそうなるね」
お母さんはコップに入った水をぐいっとあおる。
「他には、宮島にしょっちゅう行きたがってたね」
宮島か。中学校の遠足で行って以来、訪ねてない。
「あとは自転車でやたらと遠くに行ってたね」
自転車か。蒼くんは自転車通学だ。
「そんなところかなぁ」
「場所以外で。何か好きなものとか、なかったんですか」
「好きなものねえ。なんかピアスしたがってたけど」
「ピアス」
「でも校則で禁止されてるから。紬さんもできないでしょ」
「あの。イヤリングなら。休日につけるのは、大丈夫だと思います」
「なるほど。確かにそれなら」
「お姉さんは、どんなピアスをつけたがってたんですか。形というか」
「シンプルなシルバーリングをつけたいって言ってたね」
「わかりました。それじゃあ、シルバーリングのイヤリングをつけてみます」
あたしは姿勢を正して蒼くんのお母さんに向かい合う。
「ありがとうございました。とても参考になりました」
「いえいえ。いいのよ。これくらいしかお役に立てなくて。でも、蒼のためにそこまでしなくてもいいからね」
お母さんはそう言ってくださるけど、これはあたしの意地みたいなものだった。
あたしは蒼くんの理想のお姉さん像を追求したいのだ。別にお姉さんそのものにならなくても、お姉さんの面影を、彼にもっと感じてもらいたい。あたしが彼のためにしてあげられることはそれくらいしかないのだから。
そして、蒼くんを守ること。なんといってもそれが最優先だ。
流川からの帰りに、本通のアクセサリーのお店に行く。
高いものもあれば安いものもある。
シルバーリングのイヤリングはたくさんあった。その中で、ちょうど耳から上顎くらいまでぶら下がるちょうどいい大きさのものを見つけ、それを買うことにした。
あたしは帰りの道中で考える。
さっきお母さんと話した内容だ。
蒼くんは恋をするときに、いつも姉の理想像を恋した相手に重ねてしまうという。しかし、その理想像が崩壊してしまうと、蒼くんの精神は崩壊し、トラウマがひどくなってしまうかもしれない。
しかも蒼くんは恋をすることで、トラウマの呪縛から逃れようとしているという。実の母を、実の妹を姉だと認識してしまう蒼くんにとって、それは、恋をすることが、心のバランスを保つために必要不可欠ということなのだろう。
だからといって、彼のあたしへの愛が偽物だったとは思わない。だって。彼はあたしにたくさんの愛情をくれたから。あたしが死の恐怖から逃れて夜に眠れるように、蒼くんは毎日あたしを抱きしめてくれた。あたしはそんな蒼くんを求め続けた。蒼くんはあたしの求めに応えてくれた。それは、蒼くんがあたしを愛してくれたということのなによりの証だろう。
帰りのバスの車中。
道路の段差を拾ったバスに身を揺られながら、あたしは自然と涙を流していた。
あたしはシルバーリングのイヤリングを袋から取り出し、それを手で弄びながら思う。
蒼くん。
もしかしたら、蒼くんと会えるのは、もうあと二ヶ月くらいしかないのかもしれない。
そして、そのあと、あたしは彼に死ぬまでずっと会えないかもしれない。
いや、会わないほうがいいのだ。
蒼くんを守るためにも。
あたしは身を引かねばならない。
それだけの覚悟が、あたしにはある。
だって。
ずっと彼に与えてもらってきたから。
それくらいのお返しくらい、当たり前でしょう。
たとえ、彼に抱きしめられなくなって夜に寝られなくなったとしても。今まで蒼くんからもらった恩を考えれば、ここであたしが身を引くのはもはや必然なのだ。
あたしはイヤリングをぎゅっと強くつかんだ。
両頬を、涙が一筋ずつ伝う。
バスはバイパスに乗り、あたしと蒼くんの住む団地へ向かう。
蒼くんがトラウマを背負っている……。
実の母親と、実の妹を実の姉だと錯覚してしまう。それが成立してしまうくらいに蒼くんのトラウマの症状は不安定な状態にあるという。
それくらい不安定な状態にあるということは、これから何があっても不思議ではない、ということではないだろうか。
姉に似ているあたしが蒼くんと一緒にいることは、本当に蒼くんにとって良いことなのだろうか。
もしもあたしの存在が、蒼くんにとってなんらかの作用をもたらし、彼のトラウマが悪化するなんてことになったら。
あたしは、それは耐えられないと思う。
あたしは彼のおかげで夜にぐっすり眠れるようになった。
あたしは彼から与えてもらってばかり。
でも、そんな彼が、トラウマに苦しんでいるという。
あたしは今まで、自分が余命半年だからといって、どうして自分だけこんな苦しい思いをしないといけないのかと思い込んでいたけど、蒼くんだって辛い思いをしているのだ。
あたしだけが苦しい思いをしているなんてのは、あたしの独りよがりだった。
あたしも、辛い思いをしている蒼くんの支えになってあげたい。
そのために、あたしに出来ることは。
それを探すために、あたしは、蒼くんの妹さんから言われたように、蒼くんのお母さんに会わなければならない。
雨の降る土曜日。あたしは一週間ぶりに流川の雑居ビル前に来ていた。
蒼くんには昼間に用事があると言って、夜に会うことになっていた。
傘を畳み、ビルの中へ入る。入ってすぐのところにあるエレベーターの乗車ボタンを押し、中に入る。三階のボタンを押す。ゆっくりとエレベーターは上へ向かう。
三階に出ると、すぐ左のドアを開ける。
カウンターだけの店内。もちろん一週間前に来たときと同じだ。
「お邪魔します」
「紬さん、いらっしゃい」
蒼くんがお姉さんだと言っていたひとがカウンターの中にいる。
本当は蒼くんの実母。
「紬さん、改めまして。蒼の母親の静です。どうぞよろしく」
蒼くんのお母さんはうやうやしくお辞儀をする。
「お母さん。こちらこそ、よろしくお願いします」
「茜から聞いています。ビックリしたでしょ」
お母さんはとにかく明るい笑顔を向けてくれる。蒼くんのトラウマのことなど気にしていないような表情だ。もちろんその心中を深くうかがうことはできないが。
「はい。あまりに情報量が多くて、混乱しました」
「なに飲む?」
「烏龍茶で」
「はい」
そう言って、お母さんは烏龍茶を注いで、あたしの前に差し出す。
お母さんはカウンターの上で両手を組んで居ずまいを正す。
「それで、なんだったっけ。蒼のトラウマのことか」
お母さんの口調は、スナックにやってきた客に接するみたいに軽やかだ。
「そうです」
「どこから話せばいいのかな。うーん、まずは、わたしがなんで蒼たちと離れて暮らしているかってことからかな。あたしは蒼の父親の愛人だったの。それは茜から聞いてるんでしょ」
軽やかだと思ったお母さんの口からいきなり答えづらいことを聞かれてちょっと戸惑う。
「は……はい」
「あたしはあのひとの正妻じゃないからってのもあるけど、あの家であたしが暮らしていたら、蒼にとっては姉がふたりも家にいることになるから。だから離れて暮らしてるの。蒼がふたりの姉を目の前にして、錯乱してしまうかもしれないから。茜のことを姉だと思ってしまうまでは、あたしも毎日のようにあの家に言ってたのよ。あたしも蒼のお姉さんという役割を押し付けられていたの」
あたしはそこであることに気がつく。
蒼くんはあたしをお姉さんに似ているからと言って声をかけてくれたのだ。
「あたしは、大丈夫なんでしょうか。蒼くんは、あたしに、『お姉さんに似ている』からと言って声をかけてくれました。あたしと、例えば、茜さんが一緒にいるところを蒼くんに見られることも、蒼くんにとっては混乱の元になるのではないでしょうか」
「紬さん。蒼は、紬さんに初めて会ったときに、なんと言ってたの」
蒼くんのお母さんはコップに水を入れてそれを飲み干す。
「えっと……最初に言われたんです。『姉さん、じゃないよね』と」
「ということは、紬さんのことは死んでしまった長女だとは認識していない。姉とは別の人格だと紬さんのことを認識しているはずよ」
なるほど。だいぶ情報の整理ができた。
「妹さんとお母さんのことを姉だと思いながら、あたしは姉ではないと認識しているわけですか」
「姉に似ているあなたのことを、姉だと認識してもおかしくはないと思うけど、そうはならなかった。おそらく紬さんのことは、姉としてではなく、姉に対する執着心から、恋をしてしまったのではないかと思う。 逆に言うと、わたしや茜のことは姉だと思いながら、他人に対しては姉への執着が恋という形で出てしまう。蒼は、茜に本来いるはずの姉という役割を押し付けてしまっている。そして、外に向かってはそれが恋という形で出てしまう。蒼は家の中では姉という役割を実の妹に押し付け、茜が七歳になるまではわたしにその役割を押し付けていた。蒼にとっては、そうすることで、自分の心を守っているのよ。そうしないと自分の精神が崩壊するから」
頭がくらくらする。しかし、あたしは自分にしっかりしろ!と命じる。愛する蒼くんのためにも、ここで蒼くんのトラウマのことを詳しく知っておく必要があるのだ。
「蒼は、亡き姉に執着してる。蒼はお姉ちゃんのことが大好きだったからね。事故で姉を亡くして、余計に姉への思いは強くなったみたい。だから、姉に似ている紬さんに蒼が恋をしたのは、必然だったのかもね」
そう言って、蒼くんのお母さんはカウンターテーブルの上に両肘を乗せて腕を組んだ。
「そ……そうなんですね」
そう思うと奇妙な縁だ。蒼くんはお姉さんの面影を追ってあたしに声をかけた。一方のあたしは余命半年で、夜になると死ぬことへの恐怖で眠れなかったのが、彼のおかげで眠ることができるようになった。
何か。運命的なものを感じる。
「蒼は恋をするときに、いつも姉の姿を相手に重ねてしまう。蒼が恋する相手は、蒼にとっては理想の姉という姿なのよ。蒼にとっては、姉という役割を肉親に押し付ける代わりに、その呪縛から逃れるための手段が、他人に恋をするということなの。蒼が過去に姉に似たひとについていって補導された話は茜から聞いてるんでしょ」
「はい」
「蒼の恋はいつもワンパターン。だから、蒼はあなたに強く姉の姿を重ねてるはずよ。蒼にとってはあなたは理想の姉に近い存在なのよ。だから、紬さんにとっては、面白くない話かもしれないけど、蒼の理想の姉でいてあげてね。あ、だからといって、蒼に無理に合わせなくてもいいのよ。今までどおりの、普段どおりの紬さんでいてあげてね」
なるほど。
蒼くんはお姉さんがいなくなってしまうことが耐えられないから、その役割を実のお母さんや妹さんに押し付けてしまった。そうしないと蒼くんの精神がもちこたえられないから。
だけど、蒼くんにとって、他人に恋をするということは、その呪縛から逃れるための手段なのだ。
あたしをお姉さんだと思わなかったのは、彼が無意識のうちに、私にだけはその呪縛とは違う「未来」を求めてくれていたからなんだ。
そして蒼くんがあたしに声をかけたのが蒼くんのお姉さんに似ていたから、というのがきっかけだった。蒼くんがあたしに理想のお姉さん像を重ね合わせているというのも納得できる話だ。
……でもそれって。
あたしが蒼くんの理想のお姉さん像からかけはなれてしまったら、どうなるのだろう。
あたしは切羽詰まって早口に蒼くんのお母さんに尋ねる。
「あの、例えばですよ。例えば。あたしがすごく痩せ衰えてしまったとして、腕や顔がやつれてしまったら。そのとき、蒼くんは、蒼くんの中の理想のお姉さん像をあたしに見いだせなくなるということでしょうか」
お母さんは顎をあげて口を薄く開けた。何か意外なことを聞かれてビックリしているように見える。
「そ……そうね。蒼の中で理想の姉像が崩れて、何が起こるか、予測もつかないかもしれないわね」
そこでお母さんは腕を組んで斜め上に視線をやって考え込む。
「わたしも専門家じゃないから、詳しいことはわからないの。ただ、蒼の姉が死んだ事故以来、蒼は姉の像に関することだけが極端に不安定なのよ。昔、一度、蒼が強いショックを受けたとき、数日間、誰のことも認識できなくなったことがあって……」
そんな……。
だとすると、蒼くんは、あたしがいよいよ痩せ衰えてしまったときに、あたしのことを見てそのトラウマが悪化してしまうかもしれないということなのか。
「お母さん、あ……」
そうだ。あのことを聞くためには、あたしが余命あと数ヶ月しかないことをお母さんに話す必要がある。かなり重たい話だ。
蒼くんのお母さんは口元に微笑をたたえたまま、不思議そうにあたしの顔を見る。
「どうしたの。紬さん」
あたしは意を決してお母さんに告げる。
「あたし……あと数ヶ月で死んじゃうんです」
「へっ?」
お母さんは呆気にとられた表情をする。まあ、いきなり言われたらこんな反応になるのが普通だよね。
「あたし、すい臓がんなんです。もう全身に転移していて。あと数ヶ月しか生きられないんです」
お母さんは絶句している。
「……そ……それって、本当なの」
「はい」
あたしは努めて明るく振舞う。口元に微笑を絶やさない。なるべくお母さんに気を遣わせたくないからだ。
「そ……それはわかったわ。でもなんで急にそんなことを言うの」
お母さんが眉を八の字にさせている。そんな表情をさせてしまっていることに罪悪感を覚えるが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「その……あたしの余命があとほんのわずかになったとき。あたしは治療で確実に痩せ衰えるはずなんです。そのとき、痩せてしまったあたしを蒼くんに見せることは、蒼くんの理想のお姉さん像を壊してしまうことになるんでしょうか。そして、それによって、蒼くんのトラウマは悪化してしまうでしょうか」
お母さんは顎をあげて口を開けた。話が読めたようだ。
お母さんはそこで今日初めて視線を下に落とした。片手をテーブルについて、明らかに何かを言いにくそうにしている。
あたしの胸いっぱいに、不安が広がる。
そして、お母さんは意を決したように話す。
「さっきも言ったけど蒼が恋する相手は、蒼にとっては理想の姉という姿なのよ。だからもし、紬さんが病気でやつれたとき、蒼がそんな紬さんを見たら、蒼の中で理想の姉像が崩れて、次に何が起こるか、予測もつかない。また昔のように、蒼の自我が完全に崩壊してしまうんじゃないか。だから、紬さんの言うとおり、痩せ衰えた姿を見せることは、蒼にとって悪い結果をもたらすかもしれない。……紬さんにとっては残酷な話かもしれないけどね」
お母さんは早口でそこまで一気にしゃべった。
もし、その時になったら、あたしは蒼くんに会わないほうがいいのかもしれない。
彼を守るためにも。
あたしは、いつも蒼くんに守ってもらってばかりなんだから。
そのときがきたら。
あたしは。
あたしは、身を引くしかないのかもしれない。
蒼くんを守るために。
蒼くんを混乱させないために。
……そうだ。
もうひとつ。
お母さんに聞かなければならないことがある。
「その……亡くなられた蒼くんのお姉さんの好きだったことを、聞きたいんですけど」
突然そんなことを聞かされたお母さんはきょとんとする。
「へっ?そんなこと聞いてどうするの」
「あの……いまもお母さんが言ってくれましたけど。蒼くんはあたしに理想のお姉さん像を重ね合わせてるんですよね。だったら、あたしが、蒼くんの理想のお姉さんでいてあげたい、って思いまして」
「そういえば、さっき蒼の理想のお姉さんでいてあげて、なんてわたし言っちゃったもんね。そんな気にしなくてもいいのに」
「それは。あたしは蒼くんに甘えてばかりだから。少しでも彼に恩返しがしたいんです」
蒼くんのお母さんは「ふふ」と笑う。
「でもほんとに、蒼のことを気遣って、蒼の理想の姉に近づこうなんて、考えなくてもいいのに」
お母さんが身を乗り出している。
あたしもそれにつられて身を乗り出す。
「あたしが蒼くんからもらったたくさんの恩を考えたら、あたしも蒼くんの助けになってあげたいんです」
「ほんとに恋してるねぇ、紬さん」
「もう」
あたしは恥ずかしさを悟られないように烏龍茶をぐいっと飲む。
「お姉ちゃんの好きだったことねぇ。角島に行きたがってたかな。結局行けなかったけど」
「つのしま。それ、どこにあるんですか」
「知らない?よくテレビコマーシャルで使われる島。山口県の端にあるの」
「そうなんですね。なんでよくコマーシャルになるんですか」
「真っ青な海の中を、一本の橋がずーっと続いてるの」
「ばえるってことですね」
「いまどきの言葉だとそうなるね」
お母さんはコップに入った水をぐいっとあおる。
「他には、宮島にしょっちゅう行きたがってたね」
宮島か。中学校の遠足で行って以来、訪ねてない。
「あとは自転車でやたらと遠くに行ってたね」
自転車か。蒼くんは自転車通学だ。
「そんなところかなぁ」
「場所以外で。何か好きなものとか、なかったんですか」
「好きなものねえ。なんかピアスしたがってたけど」
「ピアス」
「でも校則で禁止されてるから。紬さんもできないでしょ」
「あの。イヤリングなら。休日につけるのは、大丈夫だと思います」
「なるほど。確かにそれなら」
「お姉さんは、どんなピアスをつけたがってたんですか。形というか」
「シンプルなシルバーリングをつけたいって言ってたね」
「わかりました。それじゃあ、シルバーリングのイヤリングをつけてみます」
あたしは姿勢を正して蒼くんのお母さんに向かい合う。
「ありがとうございました。とても参考になりました」
「いえいえ。いいのよ。これくらいしかお役に立てなくて。でも、蒼のためにそこまでしなくてもいいからね」
お母さんはそう言ってくださるけど、これはあたしの意地みたいなものだった。
あたしは蒼くんの理想のお姉さん像を追求したいのだ。別にお姉さんそのものにならなくても、お姉さんの面影を、彼にもっと感じてもらいたい。あたしが彼のためにしてあげられることはそれくらいしかないのだから。
そして、蒼くんを守ること。なんといってもそれが最優先だ。
流川からの帰りに、本通のアクセサリーのお店に行く。
高いものもあれば安いものもある。
シルバーリングのイヤリングはたくさんあった。その中で、ちょうど耳から上顎くらいまでぶら下がるちょうどいい大きさのものを見つけ、それを買うことにした。
あたしは帰りの道中で考える。
さっきお母さんと話した内容だ。
蒼くんは恋をするときに、いつも姉の理想像を恋した相手に重ねてしまうという。しかし、その理想像が崩壊してしまうと、蒼くんの精神は崩壊し、トラウマがひどくなってしまうかもしれない。
しかも蒼くんは恋をすることで、トラウマの呪縛から逃れようとしているという。実の母を、実の妹を姉だと認識してしまう蒼くんにとって、それは、恋をすることが、心のバランスを保つために必要不可欠ということなのだろう。
だからといって、彼のあたしへの愛が偽物だったとは思わない。だって。彼はあたしにたくさんの愛情をくれたから。あたしが死の恐怖から逃れて夜に眠れるように、蒼くんは毎日あたしを抱きしめてくれた。あたしはそんな蒼くんを求め続けた。蒼くんはあたしの求めに応えてくれた。それは、蒼くんがあたしを愛してくれたということのなによりの証だろう。
帰りのバスの車中。
道路の段差を拾ったバスに身を揺られながら、あたしは自然と涙を流していた。
あたしはシルバーリングのイヤリングを袋から取り出し、それを手で弄びながら思う。
蒼くん。
もしかしたら、蒼くんと会えるのは、もうあと二ヶ月くらいしかないのかもしれない。
そして、そのあと、あたしは彼に死ぬまでずっと会えないかもしれない。
いや、会わないほうがいいのだ。
蒼くんを守るためにも。
あたしは身を引かねばならない。
それだけの覚悟が、あたしにはある。
だって。
ずっと彼に与えてもらってきたから。
それくらいのお返しくらい、当たり前でしょう。
たとえ、彼に抱きしめられなくなって夜に寝られなくなったとしても。今まで蒼くんからもらった恩を考えれば、ここであたしが身を引くのはもはや必然なのだ。
あたしはイヤリングをぎゅっと強くつかんだ。
両頬を、涙が一筋ずつ伝う。
バスはバイパスに乗り、あたしと蒼くんの住む団地へ向かう。
