翌日の日曜日は雨だった。天気予報のとおりだった。
 朝、リビングでテレビを見ていると、パジャマのズボンに締まっておいたスマホが振動する。
 兵藤蒼くん、の文字。
「予定どおり、今日はぼくの家においでよ」
 そう通知が出ていた。
 あたしはすぐに「わかった」と返事をする。
 カレーの材料は、お手伝いさんの乾さんが常に備蓄しているということだった。乾さんは本当に有能なお手伝いさんらしかった。
 
 あたしは傘を指しながらひとりで彼の家に向かう。
 そして、スライド式の仰々しい門の横にある小さなドアのところのチャイムを鳴らす。
 すぐに蒼くんの声が聞こえてくる。
「いま開けるよ」
 かちゃ、と音が鳴って、解錠される。
 その音を聞き、あたしは中に入る。
 あたしが庭の間を歩いていると、玄関が開けられ、中から蒼くんが姿を見せてくれた。
 あたしは傘を畳むと、それを金属製の豪華な傘立てに立てかける。
 そして、その瞬間。あたしは蒼くんによって抱き締められる。
「もう、蒼くん。部屋の中で出来るでしょ」
「違うよ。これはもう、癖なんだよ」
「癖?」
「紬を抱き締めたくてしょうがないんだ。ぼくは紬抱き締め症候群にかかってるんだ」
「なによそれ」
 あたしたちは上半身を離すと、お互いにおでこをこつんとぶつけあった。
 バカップルだな、と思う。幸せだな、と思う。
 それから玄関の中に入る。
 左右に伸びる螺旋階段の真ん中に佇んでいたのは、蒼くんのお姉さんだった。蒼くんよりも幼く見えるお姉さん。かわいらしいフリルのキャミソールを着て、デニムを履いている。
「あ、お姉さん。お邪魔します」
 あたしは蒼くんの小さなお姉さんに向かってお辞儀をする。
「ああ、紬。なんか、姉さんが紬にどうしても話したいことがあるっていうんだよ」
「えっ」
 あたしは蒼くんを一瞥し、お姉さんの顔を見る。
 お姉さんは、何か深刻そうな表情をしている。
 あたしは何か嫌な予感を覚えるが。
「あんまり時間もかからないって姉さんも言ってたから、カレー作る前に話しておいでよ。どうせ夕飯まではだいぶ時間もあるし。野菜はこの前みたいに乾さんがいま切ってるよ」
「あ、うん」
「紬さん、じゃあ、こちらへどうぞ」
 そう言って、蒼くんのお姉さんはあたしを奥の部屋へと誘導する。
 蒼くんは螺旋階段を昇っていった。
「じゃあ紬。あとでね」
「う……うん」
 あたしは蒼くんのお姉さんのあとを着いていく。
 お姉さんは廊下を歩きながら、何も話してくれない。
 長い廊下を歩いてゆく。
 そして、お姉さんは途中にあった左側のドアを開けた。
「ここは客間です。防音室なので、他のひとに話を聞かれることはありません」
 お姉さんはそう言った。
 防音室。
 あたしはその響きに、一気に心臓の鼓動が早くなるのを感じていた。
 なぜ、防音である必要があるのか。それは、おそらくこれから話される内容を、他人に聞かれないためだろう。
 あたしは、これからいったい何を聞かされるのだろう。
 お姉さんが客間だと言った部屋は広かった。蒼くんの部屋の倍以上は優にある。
 その部屋の、ドアから一番遠くにある角のソファまでお姉さんはいくと、ソファを指さした。
「どうぞ、お座りください」
「はい」
 あたしはまるで叱られる前のような気分でソファに座る。
 怖い。なんだろう。彼氏のお姉さんから、ふたりきりで話される内容というのは、どんなことなんだろう。
 ふたりきりということは、蒼くんには聞かせられないということだろうか。おそらくそうなのだろう。
 ということは、蒼くんに関する重大な話なのだろうか。
 そこまで考えると、あたしは逃げ出したくなってくる。
 いや。だめだ。ここで逃げては。あたしは余命半年。いや、もう数ヵ月しか余命はない。そのことを自分の彼氏に背負わせているのだ。ならば、彼が背負っている何かも、あたしは負う義務があると思う。
 お姉さんはソファに腰かけると、視線を床に落としていた。
 あたしの斜め前に、お姉さんは座っている。あたしの座っているソファとお姉さんの座っているソファは別だ。
 お姉さんは口を半開きにして、あたしに伝わらないようにしたのか、わずかにため息をついた。
 お姉さんも緊張しているのだろうか。その表情は暗い。
 お姉さん、あなたは、今から何を伝えようとしているのですか。
 お姉さんは下を向いたまま、ついに切り出した。
「紬さん。蒼くんのことをいつも大切にしてくださって、ありがとうございます」
 お姉さんはあたしのほうを向くと、頭を下げた。
 あたしも慌ててお姉さんのほうへ身体を向けると、お辞儀をした。
「いえいえ。あたしのほうこそ。蒼くんには大切にしてもらっています」
「紬さんは、蒼くんとお付き合いしてるんですよね」
 それは何か、念には念を入れた確認をしているような聞き方だった。
「あ、はい」
「ではやはり。話ししておかないといけないことがあります」
 あたしは何も言い返すことができなかった。
 何。あなたは今から、何を話すの。
 そしてついにお姉さんは核心めいたことを口にする。
「紬さんもお気づきのとおり、あたしは蒼くんの姉ではありません」
 あたしは無言で口元に両手を持っていった。
 そして、思わず「そうですよね」と言いそうになったのを、なんとかこらえる。
「わたしは、蒼くんの実の妹です。兵藤茜と言います」
「い……妹さん」
 それならすんなりとわかる。だって、どう見ても、目の前にいる少女は蒼くんやあたしよりも年下にしか見えないから。顔から滲み出るあどけなさを隠せていないのだ。
「あ……あたしと蒼くんは十七歳です。失礼ですけど、妹さんは、何歳なのですか」
「あたしは十三歳。中学一年です」
「あの。なぜ、蒼くんは、あなたのことを、姉さん、と呼ぶのでしょうか」
「それが、今日話したかったことです」
 その話の先を聞いてしまうのが怖い。でも、あたしは彼にいつも支えてもらってばかり。彼が何か抱えているなら、あたしだって、彼の支えになってあげたい。
 そして、蒼くんの妹さんは、言った。
「蒼くんは。あたしの兄は。過去のトラウマを抱えたまま生きています」
 トラウマ。その言葉は知っている。しかしいきなり出されたその言葉に、あたしは現実感を伴わせることができなかった。
「ど……どういうことなんですか」
「わたしは当時三歳だったので、覚えていないのですが。兄が七歳のときです。太田川の上流で遊んでいたときでした。そのとき、兄は流れの早くて底の深いところに足を踏み入れてしまったんです」
 あたしは口をぽかんと開けたまま、その続きを待つ。
「兄は急流に流されました。それを助けたのが、あたしの実の姉、祭でした。兄は、姉によって助けられました。ですが、姉はその事故によって、帰らぬひとになってしまいました」
「そんな……」
 あたしは驚きのあまり、それだけしか言うことができなかった。
「兄は助かりました。ですが、事故後、兄の様子がおかしくなりました。実の母のことを、姉さんと呼ぶようになったのです」
「お母さん?」
「そうです。わたしたちの母は広島市内の別のところで一人暮らししています」
 あれ……。あたしは自分の記憶を手繰り寄せる。
 確か、蒼くんは、母は行方不明だと言っていたような。
 あたしは思ったことをそのまま口にする。
「あの、妹さん。あの……蒼くんからは、お母さんは行方不明だと聞かされたんですけど」
「そうです。兄の頭の中ではそういう認識になっているらしいです」
「えっ」
 あたしは絶句していた。頭の整理が追いつかない。
「実は、あたしと兄、それから水難事故で死んだ姉は、三人ともここに住んでいる母の子ではありません」
「ちょっと待ってください。話が、見えないのですが……」
「父は国会議員です。若いころ、愛人を作りました。その愛人との間に三人の子供をもうけました。それが、死んだ姉を含めた、わたしたち三人なんです」
 そ、そんな……。
「しかし父と母、つまり正妻との間には子供は生まれませんでした。わたしの実母は愛人だったため、この家に近づくことは許されていませんでした」
 中学一年生の口から「正妻」という、およそ似つかわしくない言葉が出てくることにあたしは驚きを隠せなかった。
「そ、そんな」
「しかし、愛人だった実母は、三人も子供をひとりで育てていくことはできないと言って、三人目のわたしが生まれた直後に、父にあたしたち三人を引き取ってもらったんです」
 今のあたしには情報量が多すぎて、頭がパンクしそうだった。
 あたしはなんとか思い付いたことを、質問する。
「じゃあ、あなたはいま、実のお母さんとは離れて暮らしているわけですね」
「そうです。実母は、市内でスナックを経営しています」
 うそでしょ。それって……。
「あの……スナックを経営しているのは、蒼くんのお姉さんではないんですか」
「スナックを経営しているのがわたしたちの実母です。実母はスナックの経営で生計をたてています」
 なんてことだろう。昨日スナックに行ったとき、少なくとも十歳以上は歳の離れたお姉さんなのだな、と気がついてはいたが。実際は、あのひとは蒼くんの実のお母さんだったのだ。お父さんの愛人だったという、お母さんなのだ。
「昨日、会ってきたんです。その……あなたのお母さんに」
「そうでしたか。蒼くんは……兄は、実の母のことを自分の姉だと思っています。それから。あたしが七歳になった日、突然、あたしのことも姉さんと呼ぶようになりました。その日のことはいまでもよく覚えています。突然、兄はあたしを見て錯乱し、病院に運ばれました。昏睡状態から回復した兄は、わたしのことを、『姉さん』と呼ぶようになりました」
 そこであたしは矛盾に気がつく。それをそのまま、勢いのまま口にしてしまう。
「ちょっと待ってください。あなたたちのお姉さんはひとりだったんですよね。お母さんのこともお姉さんと呼び、あなたのこともお姉さんだと呼ぶ。ふたりも同じお姉さんがいると蒼くんは思っているんですか。そ……そんなことって、ありえるんですか」
「わたしには専門的なことはわかりません。ですが、それくらい兄の精神は不安定ということなんです」
 さっきから聞いていて思うが、妹さんの口調は、中学一年生にしてはずいぶんと大人びている。その言い方から、蒼くんへの気遣いで普段からしっかりしなきゃいけなかったのではないか、と推測してしまう。
「紬さん。お願いがあります」
「はい……」
「兄はひとりしかいない姉がこの世にふたりいると思い込んでいます。しかし、わたしとお母さんを別の人格だと認識してはいます。医者が言うには、それはあまりに不安定な状態だということです。ですから、紬さんにお願いがあります」
「はい!なんでしょう」
「兄に……蒼くんに……『あなたの姉はもうこの世にはいないのよ』みたいに言うことだけは、絶対に避けてください」
 あたしは絶句する。
 再び妹さんが口を開く。膝の上にしっかりと手を置いて姿勢を正している姿も、やはり、歳の割には大人びて見える。
「もしそのようなことを言ったら、兄は錯乱を起こし、精神が崩壊してしまうかもしれない。医者にはそう言われています。だから、あたしは兄に、『蒼くん』と言って、お姉さんの役を引き受けているんです」
「そうだったんですね……」
 信じられない思いだった。
 何か、もっと質問すべきことがあるような気がするが、なにしろ一度に多くの真実を知ってしまったために、頭の整理が追いつかない。
 妹さんのことを下からうかがうように見つめていると、妹さんは顎をあげて真剣な眼差しをあたしに向けてくる。
「紬さん。お願いがあります」
「は……はい。なんでしょう」
「わたしは中学生です。しかも兄の事故のときはまだわたしは小さかったので、兄のトラウマも含めて細かいことはわかりません。そこで。もう一度、わたしの母に会ってはくれませんか。母から、紬さんに、兄のトラウマのさらに詳しい事情を聞いてください」
「あ……わかりました」
 あたしは二度も頭を下げて妹さんの言葉に応じた。
 蒼くんのためになることなら、あたしは進んでなんだってしてあげたい。そう思った。
 その後、あたしと妹さんは、何かあったときのためにと、お互いの連絡先を交換することにした。もちろん、この前スナックで出会ったばかりの蒼くんのお母さんの連絡先も教えてもらった。
 あたしはキッチンへカレーを作りに向かう。
 そして、あたしがキッチンに行くとカレー用の野菜はすっかり切られていた。
 あたしは調理を開始する。
 切られていた野菜と、スパイスを鍋に放り込むだけなので、カレーはすぐに出来あがった。
 キッチン横の食堂にはすでに蒼くんが待っていた。
 カレーをお皿に盛ると、それを蒼くんのところに持っていく。
「お待たせ」
「わあ。相変わらずいい匂いだね」
「スパイスが効いてるからね」
「紬も自分の分早く持ってこいよ」
「うん」
 あたしは自分のカレーをお皿に盛って、彼の隣に座る。
「いただきます」
 とお互いに言い、カレーをすくって食べる。
「んー!うまい」
 カレーは飲み物と言われる。蒼くんはあっという間に半分ほどを平らげてしまう。