あれ?姉さん?
 ドキン、と胸が高鳴る。
 いや違う。姉さんなわけない。だってさっき、姉さんには『いってきます』と言ったばかりだ。まさかぼくを追い越してこの電車に先に乗ったわけじゃないだろう。
 ということは、あれは姉さんに似た誰か。それだけではない。これは以前にも味わったことがある感情だ。強烈な既視感。このまま彼女を見失ってはいけないと、理性を超えた衝動が胸を占める。
 最近のぼくの日常は、まるで水の抜けたプールのようだった。何を見ても感動せず、何も感じず、ただ義務と惰性だけで生きている。このまま一生、ぼくの心は動かないのかもしれないと、諦めすら抱いていた。
 それなのに、どうだろう。
 たった今、心臓が爆発しそうなほどの激しい波が、ぼくの空虚なプールに満ちていく。
 それにしても。キレイな人だな。ドキドキしてしまう。ちょっとぼくの心臓、静まってくれないかな。まずいぞ。もうぼくも十七歳だ。これが何か、ぼくは知っている。
 そう。恋だよ。恋。え、まさかこんなところで一目惚れなんてしちゃう?うそでしょ。
 いや、しかし。
 彼女は本当にキレイだ。ただ顔が整っているとかそういうことだけじゃない。
 顎をあげて、口を少しへの字に曲げ、その瞳は切れ長で、車窓の外に流れる景色を横目に眺めている。彼方を見つめる瞳は自信に満ち溢れているように見える。
 あの目で流し目なんてされたらもうぼくの心は虜になるどころではないだろう。
 ぼくは車両の端にいて、彼女はドア付近の壁に寄りかかっている。彼女がこちらを見てこないので、ぼくはじっと彼女の顔を見つめていた。
 あれ、なんていう髪型だろう。髪の毛先がくるりんと曲がっていて、両頬にかかっているのだ。彼女の卵型の顎のラインをうまく引き立てている。すごい似合っている。
 いつの間にかぼくは口をぽかんと開けて彼女のことを凝視していた。
 すると。
 突然、彼女が顎を下げて、ぼくのほうを見てきた。
 やばい!
 目が合った!
 心臓が口から飛び出るかと思った。
 ぼくは下を見ている。彼女の表情を見れない。
 穴が空くほど彼女の顔を見ていたものだから警戒されたのかもしれない。
 し……視線を上げられない。でも、あの美しい顔をまた見たい。
 ああ、なんてことだろう。こんなところでシスコン全開にして一目惚れまでしてしまうなんて。
 ぼくは自分の耳まで赤くなっているだろうことを予見して、ただ視線を下方向に下げるしかなかった。
「まもなく~、新白島~新白島~。お出口は左側です」
 車内アナウンスが聞こえる。新白島駅に着いた。ぼくは緊張しすぎて顔を上げられなかった。
 視界の端に、ローファーの足元が見える。
「あ……」
 ぼくは視線をあげる。彼女がちょうど電車の扉を抜けていくところだった。
 や……やばい。美しい。その横顔。やたらと通った鼻筋。姉さんにそっくりだ。あんなに姉さんに似てるひとがこの世に他にもいるなんて。
 その横一線に引き結ばれている、意志の強そうな口元。
 彼女は電車を降りるとまっすぐにぼくから遠ざかって行った。
 やがて乗客が乗ってきて、ぼくの視界を塞ぐ。
 姉さんじゃないのはわかった。けど、すごく似てる。
 扉が閉まり、電車が走り始める。
「本日もJRをご利用くださいまして、ありがとうございます」
 ゆっくりと駅のホームを横切ってゆく車内から、彼女の姿を探す。
 いた。
 と思った瞬間にはすぐに見えなくなってしまう。
 ふう。とぼくは一息つく。
 一目惚れしたけど、声をかけられなかった。うう。もうちょっと早く気がついていれば。
 でも、たとえすぐに気がついたとしても、同じ車内に居合わせたひとに声をかけるなんて勇気、ぼくにあるわけがない。
 これで良かったのだろうか。ぼくはそう安心し、電車の通用口のドアにもたれかかる。
 ……よくはない。見えなくなった瞬間、急に後悔と焦燥感が押し寄せる。
 そうだよ。この衝動は、ぼくが心の底で渇望していた「生きる理由」の具現化だ。ぼくの人生にはずっと大きな穴が開いたままだ。あの空虚さを埋めることができるとしたら、彼女しかいない。
 いやだ。このままじゃだめだ。見つけ出さなきゃ。どうしても…!
「まもなく終点~広島~。広島でございます」
 終点の広島駅に着くと同時に、ぼくは他の乗客を押し退けて何も考えず、走り出していた。先ほど彼女が降りた新白島駅のホームへ、どうやって戻るかだけを考えながら。
 新白島駅方面は一番線からだ。いつも帰りに乗る電車に乗ればいい。
 ぼくは慌てて新白島駅へ向かう電車の乗り場に到着する。
 そこで、はたと気がつく。
 新白島駅に着いてどこに行けばいいというのか。
 ……彼女がどこに向かったのか、ぼくにわかるはずもない。
 そこでぼくはようやく冷静になる。
 心臓の鼓動はうるさいくらいにドラムを打っていた。
 ぼくは、最大のチャンスを逃してしまった。
 人生なんて虚しい。
 そんなふうに毎日思っている。その空虚さを埋められる可能性のあった彼女との出会いを、みすみす逃してしまった。

 ぼくは家に帰ると開口一番に姉さんに聞いた。
「姉さん!」
「う……あ……蒼(あおい)くん?なに?」
 いきなり声をかけられた姉さんは一瞬戸惑ったようだった。
「姉さん、わかるかな?こう、両頬の内側にくるりん、っと毛先が曲がっている髪型の名前」
「内側に、くるりん?」
 姉さんは怪訝そうな表情をする。
「そう」
「どれくらい曲がってるの?」
「え?ちょっとそれは。うーん」
 ぼくは顎に指を持っていって思案する。
 考えるよりも実践してみたほうが早いんじゃないだろうか、と思い、ぼくは思いきって憧れの姉さんに尋ねる。
「姉さんの髪の毛で実践してみていい?」
「へ?……あ、ああ……いいけど」
 快諾。やった。姉さんの髪に触れられるぞ。
 姉さん。姉さん。
 ああ。
 昼間に出会った、姉さんに似た美女のことを思い出す。
 姉さんに似ている美人さん。ああいうひととぼくは付き合いたいと思っている。
 彼女は、ぼくが失った、生きていくための「何か」を埋めてくれる唯一の存在のように感じた。彼女を傍に置かなければ、ぼくの心臓はいつか止まってしまうのではないかという、理性を超えた渇望だ。あの衝動は、ぼくの心の悲鳴だった。
 ぼくの人生はどこか空虚なのだ。常にどこか、毎日が退屈だった。退屈をまぎらわすように、ぼくは勉強に没頭していた。
 でもそれでぼくの空虚さが埋まるわけではない。
 やはり、あの電車に乗ったとき、ぼくの空虚な毎日を変えるためには、あの電車の美女に声をかけるべきだった。
 本当に惜しいことをした。
 もしも次に見かけたら、絶対に声をかけないといけない。
 ぼくは目の前にいる本物の姉さんの背中を見ながら奮起していた。
 でも。電車の中でまた同じになることなんて、そう滅多にあることではない。
 ぼくは小さくため息をついた。
 ぼくは姉さんを誘導する。
「鏡の前に行こうよ」
「う、うん」
 我が家はやたらと広いので洗面所までが遠い。しばらく歩くと洗面台の鏡の前に立った。ぼくのほうが姉さんよりもだいぶ背が高い。
 ぼくは姉さんに尋ねる。
「姉さんの髪の毛、さわるよ」
「う、うん!いいよ」
 なぜか姉さんは緊張しているようだった。
 ぼくは姉さんのショートボブの毛先の一部をつかまえると、それを両頬の内側にくるりんと曲げてみせた。
 鏡に、姉さんとぼくの姿が映る。
 姉さんの毛先からはシャンプーかリンスのいい匂いが漂ってきていた。
「こんな感じ」
「あー」
 姉さんは声をあげるのと同時に肩の力を抜いた。
 そして、ひらっと体をぼくのほうに向けると、姉さんは言った。
「たぶん、ウルフカットってやつだよ」
「ウルフカット?」
 ウルフ?つまり、オオカミ?
「なんでそんな名前なの?」
「オオカミっぽいからじゃない?」
 姉さんは首を傾げてそんな誰でも思いつきそうなことを平然と言ってのける。
 ウルフ。
 ぼくは昼間、電車の中で見た彼女のことを思い出していた。
 オオカミって感じかな?どうなんだろ?確かに、あの自信に満ちたような表情はオオカミっぽいかもしれない。オオカミだから、一匹オオカミ?
 っぽいのかな?うーん。
 ぼくはズボンのポケットからスマホを取り出し、「ウルフカット」と検索した。
 すぐに画像検索に切り替える。
 ずらっと女性の画像が縦に並ぶ。
 うわ。すごい美人の画像がいっぱいだ。
 そして。確かに。このカットだ。ウルフカット。頬の内側に髪の毛の先がくるりんと曲がっている。
 昼間見た彼女の卵型の顎のラインを引き立てる、見事な髪型のチョイスだと思う。自分の魅力をよくわかっているのだろう。
 ぼくはうしろを振り返って姉さんに問いかける。
「ねえ、姉さんもこのウルフカットにしてみてよ」
「え。あたしが?でもあたしくせっ毛じゃないから、パーマかけないと無理だと思うよ」
「パーマかければいいじゃん」
「だめだよ。校則で禁止されてるから」
「ああ、そういうことか」
 昼間の美女を改めて思い出す。
 ウルフカット。そして卵型の理想的な顎のライン。それを引き立てるような髪型だった。あまりに美しいものだから、ぼくは穴が空くほど凝視してしまっていた。
 もしも次見かけることがあったら。
 次こそは、次こそは声をかけなければ。
 彼女はぼくにとっての生命線になるかもしれないのだから。

 今日は学校のある日だ。
「この前の模試の結果返すぞ~」
 クラス担任の田中先生が騒いでいる生徒たちを静かにさせる。
 ぼくはこのときを待っていた。
「おい、兵藤。模試が返ってくるぞ!楽しみだなぁ」
 と言って下卑た笑みを浮かべてくるのはクラスメイトでぼくの前の席に座っている佐藤だ。
「成績が良かったらいいなー」
 右隣の席から話しかけてくるのは高橋。
 このふたりに限らず、ぼくのクラスメイトたちはぼくのことをバカにしていた。
「ぼくは東大の医学部に行くんだ!そのために!次の模試で全国に名前を載せてやるよ」
 なんてことをぼくが言ってしまったのがきっかけだった。以来、クラスメイトからは「うちみたいな進学校でもないところから東大の医学部なんて入れるわけないだろう」と言われていた。
 確かにうちの学校はそれほど偏差値の高い学校ではないが、市内ではそこそこ上位に食い込む学校ではある。
 実のところ、ぼくは高校受験に失敗していた。だからこの高校に入学したのはすべり止めだったのだ。ちょうど家に近いこの高校をすべり止めとして受けていた。
勉強はぼくにとってゲームに熱中するのと同じように娯楽だった。空虚な毎日を埋めるための、ちょうどいい遊び道具だった。問題が難しければ難しいほどぼくは快感だった。
 だから本来ならぼくの実力はもっと上のはずなのだ。佐藤や高橋にバカにされるようなぼくではない。
 そして、今からそれが証明されるのだ。
 出席番号順に模擬試験の結果がみんなに返されてゆく。
「兵藤(ひょうどう)~」
 ぼくの名前が呼ばれる。そして、先生から結果を受け取った直後。
「おい!この広島・椿の坂学園の兵藤蒼って、おまえのことじゃね」
 と、クラス中に聞こえる大声でしゃべったのは高橋だった。
「あ、本当だ!全国一覧のところ!」
「すご~い!兵藤くん!全国五位だって!」
「ま、マジかよ!」
「すげ~!!」
 ぼくは急いで模試の回答用紙の後ろにつけられている全国の成績優秀者欄を確認した。
 全科目総合成績上位者。第五位・兵藤蒼(広島・椿の坂学園)と記されている。
 ホームルームが終わると、学年中のクラスからぼくのもとにひとが集まってきた。
「全国五位ってやばくね!」
「超すごいんだけど!」
「ねえ、兵藤くんって、東大の医学部狙ってるって本当?」
「絶対行けるだろ」
「間違いねーよ!」
 ぼくはたくさんのひとにたかられて、身動きができなくなってしまった。こんなことならホームルームが終わってすぐに教室を出るべきだった。
 それからもぼくはいろんなひとの質問攻めに合った。解放されたのは一時間後だった。
 ぼくはため息をつく。ああ、一時間、勉強に費やす時間が減らされてしまった。ぼくの貴重な娯楽の時間が。
 ぼくは落胆しながら帰路に着く。
 校門を出るとき、空を仰ぎ見た。
 五月の日差しはきつい。頭の上に腕を持っていき、体に悪そうな紫外線が顔に降り注ぐ中を、ぼくは自転車を押して坂を登ってゆく。ここは広島市の郊外の、山に囲まれた団地の中。椿の坂学園高等学校はその中心部に立っている。山の中の団地とあって、どこに行っても坂だらけだ。ぼくはとぼとぼと坂道を自転車を押しながら歩いてゆく。
 家に着くと、お手伝いさんが出迎えてくれる。うちは昔から政治家の家庭で、父親は衆議院議員だった。いわゆる世襲議員というやつだ。うちは周辺の家に比べてやたらと広い。
 お手伝いさんはぼくに近づくと一礼した。
「ぼっちゃま。おかえりなさいませ」
 メガネをかけた乾さんが直立不動でぼくに声をかける。
「乾さん。ただいま」
 ぼくが広い玄関で突っ立っていると、姉さんがやってきた。
「あ、おかえり、蒼くん」
「あ!姉さん!聞いてよ!全国模試でぼくの名前が成績優秀者欄に載ったんだよ!全国五位だよ!五位」
「え!それはすごいね!」
 姉さんは口のあたりに両手を持っていって、一度、ぱん、と手を叩いて喜びを表してくれた。