龍神さまの生贄は、前世の契りを結ぶ花嫁でした

 書庫での約束から数日が過ぎた。

 神域は変わらず穏やかな時間が流れていたが、その静寂は、以前よりもどこか重く、密度の高いものになっていた。蒼月が常に張り巡らせている結界が、外部からの干渉を拒絶するように唸りを上げているからだ。

 「清野。顔色が少し良いな。こちらの食事にも慣れてきたか」

 昼下がりの広間。蒼月は、膝の上に清野を座らせ、まるで愛玩動物を愛でるように、その背中を撫でていた。

 最初の頃は、このように触れられるだけで体が強張り、恐怖で震えていた清野だったが、今ではその温もりに身を預けることができるようになっていた。

 「はい。毎日、とても美味しいものを頂いていますから…それに、夜もよく眠れています」

 清野が答えると、蒼月は満足そうに目を細め、清野の首筋に顔を埋めた。

 「良い香りだ。お前の魂が満たされていくのがわかる。…ずっと、こうしていたいな」

 蒼月の甘えたような声。外では荒ぶる神である彼が、清野の前だけで見せる、無防備な姿。

 清野は、そのギャップに胸をときめかせながら、彼の黒髪にそっと指を通した。

 「蒼月さま。今日は、お仕事に行かなくてもよろしいのですか?」

 「ああ。今日は結界の維持に集中する必要がある。それに、お前を一人にするわけにはいかない」

 蒼月の言葉の端々に、微かな緊張感が滲む。

 ここ数日、空の色が少しずつ濁り始めていた。神域の外、つまり人里の方角から、どす黒い雲が湧き上がり、こちらを窺うように広がっているのだ。

 「…外の世界は、どうなっているのでしょうか」

 清野が不安げに呟くと、蒼月は抱きしめる腕に力を込めた。

 「気にするな。外がどうなろうと、ここは聖域だ。誰の声も、お前には届かせない」

 その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせる誓いのようだった。

 しかし、運命の悪戯か、あるいは呪いの力か。

 その「誓い」を破るような、不快な音が、風に乗って微かに届いた。

 『――……ねえ! いるんでしょう!』

 『清野! 出てきなさい!』

 「ッ……!」

 清野の体が、反射的に跳ねた。

 聞き間違えるはずがない。その金切り声は、長年、清野を罵倒し、支配し続けてきた叔母・美緒の声だった。そして、もう一つは、従姉妹の綾乃の声だ。

 「どうして…ここには、誰も入れないはずじゃ…」

 清野の顔から血の気が引く。

 神域の入り口にある鳥居。そこは人間には越えられない結界があるはずだ。しかし、彼女たちの声は、まるで直ぐ側で叫んでいるかのように、鮮明に響いてきた。

 蒼月の瞳が、瞬時に凍てつくような冷気を帯びた。

 その瞳孔が金色に収縮し、人ならざる怒りが露わになる。

 「…鼠どもが。結界の綻びを嗅ぎつけてきたか」

 蒼月は清野を椅子に座らせると、低い声で命じた。

 「清野。ここで耳を塞いでいろ。決して外には出るな。俺がすぐに黙らせてくる」

 「ま、待ってください! 蒼月さま!」

 清野は震える手で、蒼月の袖を掴んだ。

 「あの方たちは…私の親族です。もし、私がここにいることで、里に何か起きているのなら…私が話を…」

 「話など必要ない!」

 蒼月が激昂した。その声の圧力に、部屋の窓ガラスがビリビリと震える。

 「あやつらは、お前を虐げ、利用し、最後には俺への生贄として捨てた者どもだ! 今さら何の用があろうと、お前に会わせるわけにはいかない! お前の心に、二度と泥を塗らせるものか!」

 蒼月の怒りは、清野に向けられたものではなく、清野を傷つけようとする「過去」全てに向けられたものだった。

 しかし、清野は首を振った。

 「いいえ…蒼月さま。私は、約束しました。もう逃げないと」

 清野は立ち上がり、蒼月の目を真っ直ぐに見つめた。足は震えている。声も掠れている。それでも、彼女の瞳には、かつてない強い光が宿っていた。

 「あの方たちの声を聞くだけで、怖くて動けなくなっていた昔の私とは、決別したいのです。蒼月さまが隣にいてくださるなら…私は、あの方たちと向き合えます」

 蒼月は、清野の決意に満ちた表情を見て、息を呑んだ。

 庇護すべき弱き存在だと思っていた少女が、自分の愛を糧に、これほど強く成長しようとしている。

 彼は深く息を吐き、狂気じみた怒りを静めた。

 「…分かった。だが、俺の後ろにいろ。指一本でも触れようとすれば、その場で灰にする」

 「はい」

 二人は広間を出て、神域の入り口である大鳥居へと向かった。

 鳥居の前には、二人の女が立っていた。

 派手な着物を着た叔母の美緒と、その娘の綾乃だ。彼女たちの背後には、荒れた天候のせいか、泥だらけになった里の景色が見える。

 「あ! いたわ! 清野!」

 美緒が清野の姿を見つけ、金切り声を上げた。

 彼女の形相は、以前のような傲慢さだけでなく、焦燥と恐怖で歪んでいた。

 「あんた、生きてたのね! 龍神さまに食われたと思ってたのに!」

 「お母さん、見てよあの着物! あれ、すっごい上等な絹じゃない!?」

 綾乃が、清野の着ている白絹の着物を指差し、嫉妬に歪んだ声を上げる。

 「清野! あんた、何様のつもり!? 里は大雨と日照りの繰り返しで、田んぼも畑も全滅しかけてるのよ! あんたがちゃんと『生贄』としての役目を果たさないから、龍神さまがお怒りなんでしょう!?」

 美緒が喚き散らす。その理屈はあまりに身勝手で、支離滅裂だった。

 自分たちが清野を捨てたくせに、災いが起きれば清野のせいにする。その変わらない醜悪さに、清野は恐怖よりも先に、冷めた悲しみを感じた。

 (ああ…この人たちは、本当に私のことを、道具としか思っていなかったんだ…)

 清野が口を開こうとした時、それより早く、黒い影が動いた。

 「――黙れ」

 蒼月が、一歩前に出た。

 ただの一言。それだけで、周囲の空気が一変した。

 大気が重くのしかかり、美緒と綾乃は、見えない巨人の手で喉を締め上げられたように、声を詰まらせてその場にへたり込んだ。

 「ひっ…!?」

 「あ…あ……」

 二人は、蒼月の姿を直視し、全身をガタガタと震わせた。

 美しいが、この世の者とは思えない冷酷な美貌。そして、その背後に揺らめく、巨大な青い龍の幻影。

 それが、自分たちが「贄」を捧げた相手、龍神そのものであることを、本能が理解したのだ。

 「よくも…俺の庭で、その汚い声を張り上げられたものだ」

 蒼月は見下ろす。その目は、虫ケラを見る目ですらない。無機質な、絶対的な断罪の目だ。

 「里が荒れているだと? 当然だ。それは俺が下した罰だ。お前たちが、俺の愛しい花嫁を虐げ、傷つけた罪に対する、ほんの序章に過ぎない」

 「は…花嫁…?」

 美緒が震える声で呟く。

 「そうだ。清野は生贄ではない。俺が数百年待ち焦がれた、唯一無二の妻だ。その妻に対し、残飯を与え、蔵に閉じ込め、罵声を浴びせたお前たちの罪は、万死に値する」

 蒼月が指を軽く振ると、突風が巻き起こり、美緒と綾乃の体は木の葉のように吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。

 「ぎゃああっ!」

 「痛いぃっ!」

 「蒼月さま…!」

 清野が思わず声を上げると、蒼月はすぐに清野の方を向き、表情を和らげた。

 「殺しはしない。汚れるからな。…だが、二度とこの神域に近づこうと思わないよう、恐怖を刻んでやる必要がある」

 蒼月は再び二人に向き直る。

 「聞け。里の災厄を止めたければ、今すぐ去れ。そして、二度と清野の名を口にするな。清野はもう、お前たちの家族ではない。俺のものだ」

 その声は雷鳴のように轟いた。

 「これ以上、俺の妻を煩わせるなら、次は里ごと地図から消す。…失せろ!!」

 美緒と綾乃は、恐怖のあまり悲鳴すら上げられず、泥まみれになって這いつくばりながら、逃げるように去っていった。

 嵐のような時間が過ぎ去り、静寂が戻った鳥居の前で、蒼月は深く息を吐き、清野の方を向いた。

 その表情には、激昂の余韻と、清野に見せてしまった暴力的な一面への懸念が混じっていた。

 「…怖かったか、清野」

 蒼月が恐る恐る手を伸ばすと、清野はその手を両手で包み込んだ。
 彼の手は、怒りの熱で熱くなっていた。

 「いいえ。…怖くありませんでした」

 清野は、逃げ去っていった親族の背中を見つめ、静かに言った。

 「あの方たちが去っていくのを見て…私の胸の中の重い石が、一つ消えたような気がします。蒼月さまが、私のために怒ってくださったから…私は、本当に救われました」

 清野は蒼月の胸に顔を埋めた。

 「ありがとうございます。私を…『俺のもの』と言ってくださって」

 その言葉は、清野にとって何よりの救いだった。誰のものでもなかった孤独な魂が、初めて帰るべき場所を得た瞬間だった。

 蒼月は、清野を強く、強く抱きしめ返した。

 「ああ。お前は俺のものだ。魂の果てまで、絶対に離さない」

 二人の絆は、過去との決別を経て、より強固なものとなった。

 しかし、親族が去った方向の空は、まだ不気味に淀んでいた。

 呪いの力は、親族の怨嗟や欲望を糧に、より複雑な形を取ろうとしていた。

 二人の愛が深まれば深まるほど、世界はそれを拒絶する――その残酷な理(ことわり)が、次なる試練を用意して待ち構えていた。