白い百合が黒く萎れたあの朝から、神域の空気はわずかに変わった。
目に見える変化はない。美しい庭園も、清らかな水もそのままだ。けれど、清野の肌には、どこか張り詰めた気配が常に感じられた。
それは、蒼月が神域全体に張り巡らせた結界の強度が、極限まで高められたせいだった。
「清野、今日は書物を読んで過ごそう」
蒼月は、清野が不安な顔をしないよう、努めて穏やかに振る舞っていた。
しかし、彼が清野のそばを離れる時間は極端に減った。片時も目を離さず、まるで清野がふいに消えてしまうことを恐れるかのように、常に手や体に触れている。
「はい、蒼月さま」
清野は素直に従ったが、胸の奥には小さな棘が刺さったままだ。
(私のせいで、蒼月さまは神経をすり減らしている…)
蒼月に案内されたのは、社殿の奥深くにある書庫だった。
重厚な扉が開かれると、古紙と墨、そして乾燥した薬草のような香りがふわりと漂ってきた。高い天井まで届く書架には、膨大な数の巻物や書物が整然と並んでいる。
「ここは、歴代の龍神が記した記録や、神域の理(ことわり)が記された書庫だ。ここなら結界も強固で、外の気配に煩わされることもない」
蒼月は部屋の中央にある長椅子に清野を座らせると、自分もその隣に腰を下ろした。
「何か、読みたいものはあるか? 絵巻物もあるぞ」
蒼月は子供をあやすように言ったが、清野は膝の上で拳を握りしめ、意を決して顔を上げた。
「あの…蒼月さま。私、知りたいのです」
「何をだ?」
「呪いのことです」
蒼月の眉がピクリと動いた。
「昨日の、あの花のこと…そして、私たちが結ばれると起きるという災厄のこと。私は何も知りません。ただ守られているだけでは、怖くて…」
清野の声は震えていたが、その瞳は真剣だった。
自分は無力かもしれない。けれど、無知なまま、ただ愛され、守られるだけの存在でいたくなかった。それが、命懸けで自分を愛してくれる夫への、せめてもの誠意だと思ったからだ。
蒼月はしばらく沈黙し、複雑な表情で清野を見つめていたが、やがて深くため息をついた。
「…お前は、強いな。昔と変わらない」
蒼月は立ち上がり、書架の一角から、一巻の古い巻物を取り出した。その装丁はボロボロだが、大切に保管されていたことがわかる。
「これは、数百年前…俺たちが引き裂かれた時の記録だ」
蒼月は巻物を机の上に広げた。そこに描かれていたのは、荒れ狂う嵐と、氾濫する川、そして天に昇る巨大な青い龍と、地上で祈りを捧げる巫女の姿だった。
「この世界には、天の理というものがある。神は神、人は人。その境界を侵すほどの強い交わりは、世界の均衡を崩す歪みとなる」
蒼月は、絵巻の中の巫女の姿を、指先で愛おしそうになぞった。
「俺たちの魂の結びつきは、あまりに強すぎた。それが許容範囲を超えた時、世界は自浄作用として災害を起こし、原因である俺たちを排除しようとしたのだ」
「それが…呪いの正体…」
清野は、その理不尽さに息を呑んだ。ただ愛し合っているだけなのに。誰を傷つけるつもりもないのに。
「前世の俺は、若く、愚かだった。力でねじ伏せられると過信していた。その結果、お前を死なせてしまった」
蒼月の声が苦渋に歪む。
「だが、今世は違う。俺はこの数百年間、ただ眠っていたわけではない。神域の構造を組み替え、俺自身の霊格を上げ、天の理に干渉できるだけの力を蓄えてきた」
彼は清野の手を取り、自分の胸に当てた。トクトクと、力強い鼓動が伝わってくる。
「この心臓には、古の神々の力の一部を取り込んである。もし再び災厄が起ころうとも、俺がそのすべてを食い止める。お前は何も心配いらない」
「蒼月さま…そんな、ご自身の命を削るようなことを…」
清野は涙ぐんだ。彼は、清野と結ばれる日のために、数百年もの間、たった一人で準備を続けてきたのだ。その執念と愛の深さに、清野の心は震えた。
「約束してくれ、清野」
蒼月は真剣な眼差しで清野を見つめた。
「何があっても、自己犠牲など考えるな。お前が傷つけば、俺は狂う。世界などどうでもよくなるほどにな。だから、お前が生きていること。それだけが、この世界を守る唯一の方法なのだ」
清野は、その言葉の意味を噛み締めた。
自分が”申し訳ない」 ”と思って身を引いたり、犠牲になろうとすれば、それが逆に蒼月を追い詰め、世界を破滅させることになる。
ならば、自分の役割は一つだ。
(私は、この人の愛をすべて受け入れて、幸せにならなきゃいけない。それが、私の戦いなんだ)
「…はい。約束します。私は、もう『贄』として死ぬことは考えません。蒼月さまの妻として、あなたの隣で生きます」
清野が力強く答えると、蒼月は安堵したように目を細め、清野を抱き寄せた。
「いい子だ。…それでこそ、俺が愛した魂だ」
書庫の静寂の中、二人は互いの温もりを確かめ合った。
外の世界がどうあろうと、この腕の中だけは絶対的な聖域だ。
だが、蒼月はまだ一つ、清野に伝えていないことがあった。
力を蓄えたとはいえ、運命の反発は、時として予想を超える形で現れること。
そして、その予兆が、神域の外――かつて清野を虐げていた人間たちの住む里の方角から、微かに漂い始めていることを。
「さて、難しい話はこれまでだ」
蒼月は空気を変えるように、明るい声を出した。
「せっかく書庫に来たのだ。お前の好きな物語でも探そう。昔、お前は異国の冒険譚が好きだっただろう?」
「え、前世の私、そんなものが好きだったのですか?」
「ああ。目を輝かせて聞いていたぞ。…ふふ、顔が赤いぞ」
蒼月は清野をからかいながら、別の棚から美しい装丁の本を取り出した。
二人の時間は、再び穏やかなものに戻った。
しかし、清野の心には、先ほどの”約束”が強く刻まれていた。
何があっても生きる。彼の愛を信じる。
その決意が、臆病だった清野の瞳に、小さな、しかし消えない光を灯していた。
(私は、もう逃げない。この人の愛からも、運命からも)
書庫の窓の外で、風が少しだけ強く吹き始めたことには、まだ二人とも気づいていなかった。

