龍神さまの生贄は、前世の契りを結ぶ花嫁でした

 清野が目を覚ますと、そこはまだ温かい夢の続きのようだった。
 
重厚な天蓋の隙間から、青白い朝の光が差し込んでいる。いつもなら、冷え切った蔵の中で、凍えるような寒さと共に目覚めるはずの朝。

しかし今は、全身が毛布のような温もりと、清らかな香りに包まれていた。
(暖かい…)

 清野は無意識にその温もりの源に頬をすり寄せた。硬いが、安心できる温かさ。
 
その時、頭上から低い、静かな声が降ってきた。
「目覚めたか、清野」

 清野はハッとして顔を上げた。目の前にあったのは、蒼月の広い胸板だった。

自分が、龍神の腕の中に抱かれ、一晩中守られていたのだという事実に、清野の思考が一瞬停止し、次の瞬間、顔が一気に沸騰した。

「あ、あ、蒼月さま! も、申し訳ありません! 私、寝過ごしてしまって…!」

 清野は慌てて飛び起きようとしたが、蒼月の腕がそれを許さなかった。彼は清野の腰をしっかりと抱いたまま、愛おしそうにその目を見つめている。

「謝るなと言ったはずだ。お前の寝顔は、見ていて飽きない。昨夜は、うなされることもなく、穏やかな呼吸をしていたな」

 蒼月は、清野の乱れた前髪を、長い指先で優しく直した。

「神域の朝は遅い。誰も、お前を急かしたり、労働を強いたりはしない。もっと眠りたければ、眠っていてもいいのだぞ」

「そ、そんなわけには…! 朝餉の支度や、お掃除をしなければ…私は、そのためにここに…」

 言いかけて、清野は口をつぐんだ。

「私は贄としてここに来た」という言葉を、蒼月がどれほど嫌うか、昨日の会話で痛いほど理解していたからだ。
 
蒼月は、清野が言葉を飲み込んだことに気づき、満足そうに微笑んだ。

「学習したようだな。そうだ。お前は侍女でも下働きでもない。俺の妻だ。食事の支度も、掃除も、すべて神域の精霊たちが執り行う。お前の仕事は、ただ一つ」

 蒼月は体を起こし、清野の顔を両手で包み込んだ。

「俺に愛され、心身を健やかに保つこと。それだけだ」
 その甘やかで絶対的な命令に、清野の胸は甘く締め付けられた。

「…はい、蒼月さま…」

 清野が小さく頷くと、蒼月は寝台から降り、清野に手を差し出した。

「さあ、顔を洗ってこよう。今日も、お前の髪を梳いてやりたい」

 洗面のために用意された水盤の水は、驚くほど澄んでおり、肌に触れると心地よい清涼感があった。

 蒼月は清野を椅子に座らせると、櫛を手に取り、清野の長く艶のない黒髪を、丁寧に梳き始めた。

 かつて、美緒や綾乃には「汚い髪」「邪魔だ」と罵られ、無理やり切られそうになったこともある髪。それを、神である蒼月が、まるで最高級の絹糸を扱うかのように、慈しんで梳いてくれる。

「お前の髪は、本来美しい。栄養が行き渡れば、夜空のような艶を取り戻すだろう」

 櫛が通るたびに、蒼月の指先から微かな霊力が流れ込み、清野の頭皮をじんわりと温める。その心地よさに、清野はうっとりと目を細めた。

「蒼月さまは…本当にお優しいのですね」

 清野が鏡越しに蒼月を見つめて呟くと、蒼月の手がぴたりと止まった。

 鏡の中の蒼月の表情が、一瞬だけ、苦しげに歪んだように見えた。

「…優しい、か。俺は、お前が思うほど清廉な神ではない」

 蒼月は自嘲気味に呟き、清野の髪に口づけを落とした。

「俺は、お前を縛り付けているだけだ。過去の因縁と、俺の勝手な執着でな。…だが、それでもお前を手放すつもりはない」

 その言葉に含まれる「執着」の重さに、清野は昨日の神湖での話を思い出した。

 数百年の孤独。愛する者を失った絶望。

 この優しさは、彼の深い傷跡から来るものなのだ。

「私は…縛られているとは、思いません」

 清野は勇気を出して言った。

「蒼月さまが私を求めてくださるから、私は初めて、生きていてもいいのだと思えました。この温かさが執着だとしても…私は、嬉しいのです」

 清野の言葉に、蒼月の瞳が大きく見開かれた。金色の瞳孔が一瞬だけ現れ、すぐに青い瞳に戻る。彼は櫛を置き、背後から清野を強く抱きしめた。

「清野…」

 その声は震えていた。

「お前は、本当に…俺の救いだ」

 二人の間に、穏やかで、しかし密度の高い時間が流れた。
 窓の外では、小鳥のさえずりが聞こえ、神域の平和な朝が続くかに思われた。

 ――その時だった。
『ガタッ……』

 微かな、しかし不吉な音が響いた。

 建物が揺れたわけではない。空気そのものが、何かに怯えるように震えたのだ。

 蒼月の表情が、瞬時に凍りついた。
 抱きしめていた腕を解き、鋭い視線を窓の外へと向ける。
「…始まったか」

 蒼月の声から、先ほどまでの甘い響きが消え失せ、冷徹な神の声色に変わっていた。

「蒼月さま…? 今のは…?」

 清野が不安げに尋ねると、蒼月はすぐに清野の肩を抱き寄せ、守るような体勢をとった。

「清野、俺のそばを離れるな」

 蒼月は清野を連れて、テラスへと出た。

 そこから見える神域の庭園――昨日までは色とりどりの花が咲き乱れ、永遠の春を謳歌していた美しい楽園に、異変が起きていた。

 庭の片隅にある、一本の白い百合の花。
 それが、二人の目の前で、音を立てて黒く萎れていったのだ。

 まるで、見えない毒気がそこだけを蝕んだかのように、純白の花弁が瞬く間に灰色の塵となって崩れ落ちる。

「あ…!」

 清野は息を呑んだ。

 美しい神域の中で、そこだけが死の匂いを漂わせていた。

「恐れるな」

 蒼月が強く言い聞かせるように言ったが、その眉間には深い皺が刻まれていた。

「俺とお前の魂が近づき、愛が深まるほど…運命の呪いが反発する。かつて世界を襲った災厄の予兆だ」

「災厄…」

 清野の脳裏に、昨日の蒼月の言葉が蘇る。

『結ばれてはならない運命』『大いなる災厄』。
 自分たちが幸せになろうとすればするほど、世界がそれを拒絶するというのか。

「私の…せいでしょうか。私がここにいるから…」

 清野の身体が震えだした。自分の存在が、この美しい神域を、そして蒼月を傷つけるのではないかという恐怖。

 しかし、蒼月は清野の顎を強引に持ち上げ、その瞳を覗き込んだ。

「違う。これは試練だ。数百年前、俺たちはこの力に屈し、引き裂かれた。だが、今回は違う」

 蒼月の瞳に、凄まじい力が宿る。それは、神としての威厳と、運命に抗う戦士の瞳だった。

「俺はこの数百年、ただ嘆いていたわけではない。この呪いを抑え込み、お前を護り抜くための力を蓄えてきた。たとえ花が枯れようと、天地が揺るごうと、俺はお前を絶対に離さない」

 蒼月は片手を掲げた。

 すると、彼の掌から青白い光が放たれ、萎れた百合があった場所へと飛んでいった。光は浄化の波動となり、黒い塵を包み込む。

 だが、枯れた花が元に戻ることはなかった。呪いの力は、神の力をもってしても、完全には消し去れないのだ。

 蒼月は舌打ちし、拳を握りしめた。

「…少し、力が強まっているな。清野、今日は社殿の外へ出ることは禁ずる。俺の結界の中で過ごせ」

「はい…」

 清野は頷いたが、胸の奥に冷たい石が居座ったような感覚が拭えなかった。

 蒼月は「守る」と言ってくれた。その言葉は嬉しい。
 けれど、自分の存在そのものが、彼にとっての「毒」になってしまうのなら?

 愛されれば愛されるほど、彼を苦しめることになるのなら?

(私は、本当にここにいていいの…?)

 朝の安らぎは消え去り、忍び寄る影が、清野の心に再び小さな亀裂を生んでいた。

 だが、その亀裂に気づかないふりをするように、蒼月は再び清野を強く、痛いほどに抱きしめた。まるで、そうしていなければ、清野がどこかへ消えてしまうと恐れるかのように。

「大丈夫だ。俺が全てをねじ伏せる。お前はただ、俺を信じていればいい」

 その言葉は、清野に向けたものであり、同時に、蒼月自身に向けた必死の祈りのようにも聞こえた。

 神域の空が、ほんの少しだけ、灰色に曇り始めていた。