神湖のほとりでの蒼月の告白は、清野の心を深く揺さぶった。彼はただの龍神ではなく、数百年にわたる悲劇と孤独を背負い、ただ自分一人を待ち続けた伴侶だった。
その途方もない愛の重さと、過去の巫女姫としての自分の存在意義を知った清野の心は、もはや”生贄”という殻に閉じこもることを許さなかった。
社殿に戻った清野は、蒼月に促されて、彼の寝所である広間に向かった。それは、清野が目覚めた豪華な寝室よりもさらに広く、部屋の中央には、黒檀の柱と青い絹の天蓋を持つ、堂々とした寝台が据えられていた。
「清野。今日から、お前はここで眠る」
蒼月が示したのは、その巨大な寝台だった。
清野は動揺した。その寝台は、明らかに二人で眠るための大きさだ。
「えっ…あ、あの…私は、別の部屋で…」
清野は、蒼月の愛情がいくら深かろうと、まだ心身ともに彼を受け入れる準備ができていなかった。
長年、虐げられてきた清野にとって、誰かと肌を接して眠ることは、恐怖以外の何物でもなかったのだ。
蒼月は清野の緊張を瞬時に察し、静かに彼女に近づいた。
「何を恐れている。俺は、言っただろう。お前が望まぬ限り、指一本触れない、と」
彼の声は優しかったが、その青い瞳は、清野の魂の奥底まで見透かしているようだった。
「だが、清野。お前は今、俺の神域の霊気に完全に包まれている。お前の霊力は、前世の契りによって、俺の力と深く結びついている」
蒼月は、清野の首筋の青玉の欠片に、そっと触れた。
「お前が俺から離れた場所で眠れば、霊力の連鎖が不安定になり、お前の霊体が傷つく。そして、それは即ち、俺の命を削ることになる」
清野はハッとした。蒼月は、肉体的、あるいは精神的な欲求を満たすためではなく、清野自身の安全と、彼自身の命のために、清野が隣で眠ることを求めているのだ。
「そんな…蒼月さまの命を削るなんて…」
清野の顔が青ざめた。自己否定の強い清野にとって、自分のせいで大切な人を傷つけることは、何よりも恐ろしいことだった。
「分かっただろう。お前はもう、俺の庇護なしに生きられない。そして俺もまた、お前なしでは生きられない。これは、運命の契りだ。お前が俺の隣で眠ることは、俺の命を守る唯一の務めだと思え」
蒼月は清野の手を取り、寝台へと導いた。
「さあ。衣を脱ぎ、寝台に入れ。俺が、お前のそばで、お前を霊気で護ってやる」
清野は観念し、与えられた薄い絹の寝間着に着替え、震える足取りで寝台に上がった。
蒼月は清野の隣に静かに横たわった。彼からは、清らかな湖の香りと、微かな白檀の香りがした。
寝台は、清野が想像していたよりも遥かに広く、二人が横たわっても間に十分な空間があった。
しかし、蒼月の体から放たれる圧倒的な熱と霊気が、清野の全身を包み込み、まるで火を灯されたかのように、清野の体を芯から温めた。
「…暖かい…」
清野は思わず呟いた。今まで、冷たい蔵や、隙間風の入る部屋で震えて眠ることが常だった清野にとって、この温かさは、まさに神の恵みだった。
蒼月は、清野の背中にそっと手を回した。触れているのは、清野の寝間着の上からだけだ。
「これでいい。俺の霊気が、お前の傷ついた魂を癒やすだろう」
蒼月の霊気は、清野の肌を通して、体内にゆっくりと浸透していく。それは、清野の体の奥に眠っていた巫女の霊力を刺激し、清野の疲弊した魂に、力強い回復をもたらした。
清野は、その温かさに、生まれて初めて感じる安全と満たされている感覚を得た。
長年の恐怖や、親戚に虐げられた記憶が、その温かさによって、少しずつ溶かされていくのを感じた。
(この人は、本当に私を護ってくれている…)
清野は、その安心感から、蒼月の胸元に、そっと顔を近づけた。それは、恐怖からの逃避ではなく、本能的な愛の要求だった。
蒼月は、清野の小さな動きに気づき、静かに清野を抱き寄せた。彼の腕は強く、清野を完全に包み込み、外界から遮断する。
「怖がらなくていい。俺は、お前が心の底から望むまで、それ以上のことはしない。だが、この抱擁は、俺の愛の証だ。拒絶するな」
彼の抱擁は、ただの愛情表現ではなく、清野への絶対的な守護の誓いだった。清野は、その温もりの中で、初めて心の底から安らぎを感じた。
「…蒼月さま」
清野が蒼月の名を呼ぶと、蒼月は清野の髪に、深く口づけを落とした。
「俺を信じろ、清野。この神域の全てを懸けて、お前を護り、愛し抜く」
その夜、清野は、初めて恐怖のない、深く安らかな眠りについた。
蒼月の腕の中で、清野の魂は、数百年の時を超えた愛の熱に包まれ、静かに、そして確実に癒され始めたのだった。

