龍神さまの生贄は、前世の契りを結ぶ花嫁でした

温かい食事で飢えを満たし、清浄な霊水で穢れを洗い流した清野は、心身ともに安堵に包まれていた。だが、その心はまだ、蒼月が注ぐ途方もない愛の重さに、慣れることができていない。

「清野。少し、歩くぞ」

蒼月は立ち上がり、清野の手を取った。彼の指は長く、節くれだっているが、驚くほど優しく清野の細い手を包み込む。

「は、はい」

清野が寝台から立ち上がると、蒼月は彼女の肩に新しい白絹の衣を整えるように手を添えた。

「この神域は、俗世の空気とは異なる。お前の霊力が安定するまで、俺から離れるな」

蒼月は清野を先導し、これまで閉ざされていた部屋の奥の扉を開けた。

扉の向こうに広がっていたのは、清野が想像もしなかった美しい世界だった。石造りの社殿は、外側から見ると古びた印象だったが、内部は全てが霊気によって磨き上げられ、清浄に保たれている。

青い輝石が埋め込まれた壁には、龍の鱗を模した装飾が施され、廊下には、神域にしか咲かないのだろう、純白の神秘的な花が、静かに咲き誇っていた。


蒼月は、清野の歩調に合わせ、ゆっくりと歩を進める。彼の配慮は微に入り細を穿ち、清野がわずかに段差につまづきそうになっただけで、即座に腕を強く引いて支えた。

「大丈夫か、清野」

「だ、大丈夫です。ありがとうございます」

清野は、自分が歩くことすら、誰かの助けが必要な存在であることを再認識し、またも自己嫌悪に陥りかけた。

しかし、蒼月の視線には、苛立ちや軽蔑は一切なく、ただただ心配と愛しさだけが宿っていた。

「お前の体は、長年の飢えと虐待で、俗世の力に慣れすぎている。急に神域の霊気に触れると、負担がかかる。焦る必要はない。お前はただ、俺の庇護の元、徐々にこの環境に慣れていけば良い」

蒼月はそう言うと、清野の手を自分の腕に絡ませた。

「さあ、このまま進む。この神域の最も美しい場所、神湖へ案内する」

二人は社殿を抜け、外へと出た。そこは、深い霧に包まれた広大な敷地だった。

辺りには、樹齢数千年にもなる巨大な杉の木が立ち並び、社の屋根を覆う深い緑が、外界との接触を完全に拒絶している。清野が吸い込んだ空気は、清らかで、霊気の香りがした。

数分歩くと、霧が晴れ、目の前に壮大な光景が広がった。

湖だった。しかし、それはただの湖ではない。水面は鏡のように静謐で、深い青色を湛えている。

湖畔には、青い石が敷き詰められ、水辺の植物は、この神域の霊気によって、青や銀色に輝いていた。これが、龍神の住まう神湖(しんこ)だった。

清野は息を呑んだ。その美しさは、清野の過去の記憶にある、どんな景色とも比べ物にならなかった。

「…美しい…」

清野が思わず呟くと、蒼月は清野の耳元で囁いた。

「お前の方が、千倍美しい。だが、この湖は、俺が前世のお前と愛を育んだ場所だ。お前にも、すぐに馴染むだろう」

蒼月は清野を、湖畔の大きな岩に腰掛けさせた。清野は水面を見つめる。水の冷たさと、蒼月の存在の温かさ、二つの極端な感覚に挟まれ、清野の心は静かに揺れていた。

蒼月は清野の隣に座ると、視線を遠い湖の彼方に向けた。その瞳は、何か遠い過去を追っているようだった。

清野は、蒼月が放つ深い憂いに気づいた。それは、清野がこれまで感じたことのない、神の孤独だった。

「蒼月さま…何を、思っていらっしゃるのですか」

清野は、恐る恐る尋ねた。

蒼月は、清野の問いかけに、ゆっくりと瞼を閉じた。そして、静かに、しかし深い感情を込めて、語り始めた。

「清野。お前は、俺の隣に座っている。この温かさこそが、俺が数百年間、ただ飢え続けたものだ」

清野の目の前で、蒼月の瞳の色が、湖の底の深い闇のように変化した。

「お前は、この神域に祀られた、最も高貴な巫女姫だった。俺は龍神として、お前を守護し、お前は俺の神意を人間に伝える役目を持っていた」

蒼月は語る。それは、彼が見た、あるいは体験した前世の回想だった。

「俺たちが初めて言葉を交わしたのは、この神湖のほとりだ。お前はまだ幼く、神域の霊気に触れすぎ、高熱を出して倒れていた。俺は、神として、お前を救うことしか考えていなかった…だが、初めてお前のその瞳を見た時、全てが変わった」

蒼月の声は、切なさと懐かしさで震えていた。

「お前は、俺を恐れなかった。俺の異形の姿に、驚きこそしたが、純粋な好奇心と、深い信頼を込めて、俺を見上げていた。その時、俺は知った。お前こそが、俺が永遠に求める伴侶だと」

しかし、その愛は許されなかった。龍神と巫女姫が私的な契りを結ぶことは、神域の均衡を崩し、大いなる災厄を招く。それは、古の神々の定めた運命の呪いだった。

「俺たちは、秘密裏に愛を育んだ。神の威厳を隠し、人としての姿で、この湖で何度も逢瀬を重ねた。お前は俺の愛を受け入れ、俺の全てとなった。俺もまた、お前のために神の理を捨て、ただ一人の男としてお前を愛した」

蒼月は、清野の青玉の欠片に、そっと触れた。

「そして、運命は、俺たちに最大の試練を与えた。俺たちが愛を深め、契りを完全に結ぼうとした、その時だ。神域は激しい嵐に見舞われ、外界には大洪水が押し寄せた。人々は、その原因が、俺たち二人の禁断の愛にあると悟った」

蒼月は、その時の悲劇の瞬間を思い出し、苦痛に顔を歪めた。

「俺を庇うため、お前は自ら、その命を絶とうとした。お前は言った。『私は龍神様の生贄です。私の死をもって、災厄を鎮めてください』と。俺は、お前を失いたくない一心で、全ての神力を使い、お前の魂を強引に引き留めた」

「その時、お前の魂が砕け、その一部が、青い玉の欠片となって、お前の首筋に刻み込まれた。それは、お前が俺のために死を選んだという悲しみの証であり、俺がお前を決して手放さないという誓いの印だ」

蒼月は、手のひらに宿る微かな霊力を清野の手に注ぎ込んだ。

「俺は、お前を失ってから、数百年、ただ、その欠片が再び光を帯びるのを待っていた。お前が、この世に生まれ変わり、この神域に再び戻ってくるのを。お前が、前世の契りを結ぶ花嫁となる日を」

蒼月の視線は、清野の全てを貫いた。彼の言葉は、清野の過去のトラウマを遥かに超える、壮大で、深い悲劇の物語だった。

清野の心に巣食っていた“私は生贄だ”という自己否定の言葉は、この神の数百年の執念と愛の前で、あまりにも小さく、無力なものに感じられた。

「…蒼月さまは…そんなにも…」

「そうだ。俺の愛は、お前が想像する以上に、狂おしく、そして一途だ。だから、清野。もう二度と、俺の前で生贄という言葉を使うな。俺は、お前を救うために、神の理を捻じ曲げ、数百年の孤独を耐え抜いたのだ」

蒼月は、清野の顔を両手で優しく包み込み、熱烈な視線で訴えた。

「俺にとって、お前が腹を満たすこと、お前が安らかに眠ること、お前が過去の傷を忘れること。それだけが、俺の存在する理由だ。お前が俺の庇護を受け入れるまで、俺は何度でも、お前の過去を拭い、お前を満たし続ける」

その時、神湖の水面が、にわかに激しく揺れ始めた。蒼月の感情が高ぶったことで、神域の霊気が反応しているのだ。

清野は、その水面に映る蒼月の姿に、一瞬、変化を見た。

蒼月の背後で、黒衣の隙間から、青い光沢を放つ龍の鱗が一枚、浮かび上がった。

そして、彼の青い瞳は、瞬時に金色の縦長の瞳孔に変わり、巨大な龍の威厳を放った。

清野は、神の真の姿の一端に触れ、体が硬直した。しかし、蒼月はすぐにその変化を収め、再び人の姿に戻った。

「…怖がらせたな、清野」

蒼月の声は、少しだけ、悲しみを帯びていた。

「これが、俺の真の姿の一部だ。お前は巫女の血を引く故に、俺の真の力を感じることができる。この姿は、外界に災厄を呼ぶ。だが、お前だけは、俺のこの姿、この力、この愛の全てを受け入れてほしい」

蒼月は、湖の水を掬い上げ、清野の顔に優しく触れた。

「俺は、お前を二度と失わない。二度と悲劇を繰り返さない。そのためなら、たとえ運命の呪いが再び発動しようとも、この神域ごと、お前を護り抜く」

蒼月は、清野を優しく抱きしめた。その抱擁は、清野の全身の恐怖と戸惑いを、一瞬で溶かしていくようだった。

蒼月が自分を求める理由が、これほど深く、壮絶な過去にあったことを知り、清野の心は、初めて”生贄”という枠組みから解放されかけていた。

(私は…生贄じゃない。私は…この人の、巫女姫だった…)

清野は、蒼月の背中に、震える腕を回した。

「蒼月さま…私…逃げません。あなたの隣に、います」

それは、清野が自分自身に言い聞かせた、初めての存在の肯定だった。