龍神さまの生贄は、前世の契りを結ぶ花嫁でした

清野が新しい白絹の衣を身に纏ってから、およそ半時が過ぎた。神域の時間はゆったりと流れているようで、外の世界のような慌ただしさは微塵も感じられない。

清野は、寝台の上でそっと膝を抱えていた。体は暖かい。傷も癒えている。しかし、どうにも居心地が悪かった。

(私のような者が、こんなに尊い衣を着ていていいのだろうか)

長年の染み付いた思考は、高貴な衣が持つ霊的な守護の力をもってしても、簡単には消えなかった。

その時、扉の外から清らかな水の流れるような音が聞こえた。蒼月が戻ってきたのだ。彼は、清野を優しく見つめながら、部屋の奥にある、外からは見えなかった仕切りの向こうを指し示した。

「清野。衣を着たなら、あちらへ来い。食事の準備ができた」

清野は、反射的に体を硬直させた。食事。その二文字は、清野にとって、安らぎとは最も遠い単語だった。

親戚一家の家では、清野の食事は常に最低限だった。残飯、または一日一握りの米。その米すら、叔母の美緒に『お前のような役立たずが食べる飯は、私たち一家の血税だ』と罵られながら与えられた。

食卓を共にすることは許されず、清野はいつも、家族が食後に去った台所の隅で、冷えた残飯を急いで掻き込むのが常だった。

食事は、清野の貧しさと、存在価値の低さを突きつける儀式だった。

「あの…蒼月さま。私は、食事は…」

清野は言葉を濁した。食欲がないわけではない。むしろ、腹の底は空腹で痛む。だが、”食を要求する”こと自体が、長年のトラウマで許されない行為だと感じていた。

蒼月は清野の小さな反応を見逃さなかった。彼の青い瞳は、清野の微かな震えと、言葉にできない戸惑いを読み取っていた。

「どうした。腹が減っていないのか」

「い、いえ…その…」

清野は俯いたまま、口ごもった。

「私は、その…食を所望する資格は、ありません。残飯があれば、後で…」

清野が”残飯”という言葉を口にした瞬間、蒼月の表情が凍りついた。彼の周囲の霊気が一瞬にして冷え込み、空気が張り詰めた。

「清野」

その声は、静かだったが、低く、威圧的だった。

「お前はもう、あの穢れた俗世にはいない。俺の神域に、残飯などという言葉は存在しない。お前の口から二度と、そのような言葉を聞きたくない」

清野は蒼月の怒りに、全身が震えた。彼を怒らせてしまった。また、自分が悪いことをしたのだ。

蒼月は一つ深く息を吸い込み、冷たくなった霊気を制御した。そして、清野の前に静かに膝をついた。

「清野。よく聞け。お前が飢えることは、俺が飢えることと同じだ。お前が満たされないことは、俺の力が満たされないことを意味する。お前が、俺の隣で、豊かに生きること。それこそが、この神域の、そして俺の安寧だ」

蒼月は清野の痩せた手をそっと包み込んだ。

「俺は、お前を生贄として迎えたのではない。お前は俺の花嫁だ。花嫁が、飢えることなど許されない。さあ、立って、俺と共に食卓に向かえ。そこにあるのは、お前を満たすために用意された、神域の恵みだ」

清野は、蒼月の真剣な瞳に、逃げ場がないことを悟った。彼を怒らせたくないという畏怖と、彼が自分を飢えさせないと言ってくれたことへの安堵が、清野の心をぐちゃぐちゃにかき乱した。

蒼月に促され、清野は仕切りの向こうにある部屋へ入った。そこは、小さな畳敷きの広間になっており、清らかな木製の卓が置かれていた。

卓の上に並べられた食事は、清野の想像を遥かに超えていた。

湯気を立てる白いご飯。それは、一粒一粒が輝き、霊気が宿っているように見えた。

清冽な湖の水で育ったのだろう、鮮やかな色彩の野菜や、見たこともない魚の焼き物。

それらは全て、清野の健康と霊力を高めるために、蒼月が神力で選んだものに違いなかった。

「座れ、清野」

蒼月は清野の向かい側に座ると、箸を清野に差し出した。

「さあ、遠慮はいらない。温かいものを温かいうちに食べろ」

清野は座ったものの、箸を持つ手が震えて動かない。箸を握る感覚、皿に手を伸ばす動作、その全てが、清野には許されない贅沢のように感じられた。

「…あ、あの。先に、蒼月さまが…」

清野は、親戚一家の家で、常に自分よりも先に主人が食事を始めるのを待つよう命じられていた習慣から、つい口にしてしまった。

蒼月は首を横に振った。

「俺は、龍神だ。人のように、腹を満たすためだけに食を必要としない。だが、お前が食べる姿を見たい。お前が、この食事によって満たされ、生きる力を得ていく姿を、俺は最も愛おしく思うのだ」

蒼月はそう言うと、清野の手に箸を握らせ、焼き魚の身を優しくほぐして、清野の皿に置いた。

「さあ、食べろ。清野」

そのあまりにも献身的な行為に、清野の瞳からまた涙が溢れた。誰かの食事を世話されるどころか、今まで自分のために食べ物を分け与えてくれる人間など、いなかったのだ。

「…あ…」

清野は震えながら、魚を一切れ口に運んだ。魚の身は、今まで食べたこともないほど滋味深く、温かかった。そして何よりも、安心する味がした。

しかし、清野はそこで箸を止めてしまった。

「清野。どうした」

蒼月は心配そうに尋ねた。

「あの…私…このご飯、全部食べてしまっても、怒られませんか…?」

清野の問いかけは、あまりにも哀れで、あまりにも切実だった。

過去、彼女が食事を全て食べ尽くすと、美緒に”大食い” ”図々しい”と罵られ、翌日の食事が減らされたことが何度もあるのだ。

蒼月は目を閉じ、深く息を吐いた。彼の心には、清野の過去の苦痛が、激しい怒りとなって押し寄せていた。

「清野。この食事は、お前一人で食べ尽くしても、まだ余るほど用意されている。怒るどころか、俺は、お前が腹一杯になり、一つも残さず食べてくれることを願っている」

蒼月は立ち上がり、清野の隣に座り直した。そして、自分の碗を持ち、清野の白飯に、丁寧に神域で採れた山菜を添え、それを清野の口元に持っていった。

「さあ、開けろ。清野。俺の手から受け取ってくれ。俺が、お前の過去の飢えを、一つ一つ埋めていく」

清野は羞恥と感動で顔を赤くしたが、蒼月の拒否できないほどの強い愛の視線に抗うことができなかった。清野は小さく口を開けた。

蒼月は、清野が食べるのを待ってから、ゆっくりと話しかけた。

「お前がこの神域に来てから、まだ二十四時間も経っていない。お前が生贄として捧げられた夜から、もう二度と、お前は飢えや痛みに苦しむ必要はないのだ」

「…蒼月さまは、なぜ、私に、ここまで…」

清野は、自分の価値を信じられず、その理由を尋ねた。

蒼月は清野の手をそっと取り、自分の唇に近づけた。

「理由か。そんなもの、決まっているだろう」

彼の青い瞳は、清野の瞳を深く見つめ返した。

「愛しているからだ。それ以外に、何がある。前世から今世に至るまで、俺の魂は、お前を探し、お前を待ち焦がれていた。お前が呼吸していること、お前が温かい食事をとること、お前が笑うこと、その全てが、俺にとっての存在理由だ」

清野の心が、また一つ、強く揺さぶられた。

「…前世の契り、と、おっしゃっていましたが…」

「ああ。お前は覚えていない。だが、俺は覚えている。お前は、俺の神域の、巫女姫だった。そして、俺とお前は、結ばれてはならない運命の中で、愛し合った。その愛が強すぎた故に、この世に大いなる災厄を招き、俺たちは離された」

蒼月の瞳の奥に、遠い過去の、深い悲しみが宿る。

「お前の首筋の青玉の欠片は、その時の愛と別れの証。その欠片を持つお前を、俺は数百年間、ずっと待っていたのだ」

蒼月は、悲しみを振り払うように顔を上げ、清野に再び焼き魚の身を差し出した。

「今は、過去のことは気に病むな。今は、ただこの温かい食事を全て食べろ。お前が満たされることが、俺の過去の悲しみを癒やす唯一の薬だ」

清野は蒼月の言う通り、彼の差し出す食事を、ゆっくりと、しかし確実に食べ続けた。

美味しい。温かい。そして、何よりも、誰にも奪われない、自分だけの食事であるという事実が、清野の心を優しく満たしていった。

清野は、初めて、誰かの前で完食した。

「…ごちそうさま、でした…」

清野がそう言うと、蒼月の表情が、花が咲くように明るくなった。

それは、清野が今まで見た彼のどの表情よりも、美しく、優しいものだった。

「ああ、よく食べた。本当に、よくやった、清野」

蒼月は心底嬉しそうに清野の頭を撫でた。その手つきは、清野の全てを肯定しているかのようだった。

「お前の体は、飢えから解き放たれる。だが、お前の心に残る傷は、まだ深い。俺と共にいることに、まだ恐怖と戸惑いがあるのだろう」

蒼月は清野の目をまっすぐに見つめた。

「清野。お前が生贄だという過去の意識を完全に捨てるまで、時間はかかるだろう。だが、俺はお前を急かさない。お前が俺の花嫁であることを、時間をかけて、この身と、この愛で証明していく。お前がこの神域で安らぎを得て、心から笑う日が来るまで、俺は待つ」

蒼月は、卓の上に置いてあった水が満たされた美しいガラスの器を清野に差し出した。

「さあ、この水を飲め。この水は、俺の神域の霊水だ。お前の霊力を活性化させ、お前の体に宿った、俗世の穢れを洗い流す」

清野は霊水を飲んだ。それは、驚くほど清涼で、喉を通ると、体の奥から温かい力が湧き上がってくるのを感じた。

「これで、もう大丈夫だ」

蒼月は満足そうに微笑んだ。

「お前の過去の全ては、この神域で洗い流された。お前はもう、俺のものだ。誰にも、指一本触れさせない」

その言葉は、優しく、しかし、清野に対する途方もない執着を秘めていた。

清野は、蒼月の愛情が、ただ優しいだけではない、強大で、時には理不尽なまでの独占欲に裏打ちされていることを感じ始めていた。

だが、その独占欲が、今の清野にとっては、絶対的な安全を意味していることも、清野は理解していた。

この日、清野は、初めての温かい食事によって、身体だけでなく、心の一部も満たされた。

そして、龍神・蒼月が彼女に注ぐ愛が、運命をも捻じ曲げるほどの、深く、一途な溺愛であることを、肌で感じたのだった。