龍神さまの生贄は、前世の契りを結ぶ花嫁でした

  清野が深く安らかな眠りから覚めると、部屋は昨日と変わらず、青い輝石の光に満たされていた。隣には蒼月の姿はない。

 (蒼月さま…)

  昨夜の出来事を思い出すたび、清野の胸は締め付けられた。

  優しく、しかし絶対的な愛を注いでくれた龍神。それに対し、”私には資格がない”と拒否してしまった自分。

  (私はなんて失礼なことを…せっかく優しくしてくださったのに。やはり、私は贄として、お仕えするしかない)

  清野は慌てて体を起こした。寝台から降りようとしたとき、部屋の扉がすっと音もなく開いた。

  蒼月が、簡素な黒い神衣を纏い、部屋に入ってきた。その手には、白く、優雅な布地が重ねられた衣が抱えられている。

  「目覚めたか、清野。よく眠れたか?」

  蒼月の声は静かだが、清野に向けられる視線には、深い慈愛が宿っている。

 「は、はい…あの、蒼月さま。大変申し訳ありません。昨夜は、私…」

  清野が立ち上がり、慌てて頭を下げようとすると、蒼月はすぐに彼女の肩に手を置き、その動きを制した。

 「謝罪は不要だ。お前は俺の妻となるべき者。謝る必要など、もうどこにもない。だが、その癖は、親族の虐待の名残だろう。時間をかけて、直せばいい」

  蒼月はそう言って、抱えていた衣を寝台の上に広げた。

 「今日は、これを着ろ」

  清野が顔を上げると、そこに広げられていたは、神域で織られたのだろう、清らかで艶のある美しい白絹の着物だった。

  淡い桜色の帯が添えられ、袖口には銀糸で龍の鱗のような模様が控えめに織り込まれている。それは、清野が今まで見たどんな着物よりも美しかった。

 「これは…?」

 「お前の衣だ。今着ているものは、贄として捧げられた際に着せられたものだろう。穢らわしい。もう二度と、それに触れる必要はない」

  蒼月の声音には、清野が着ていた衣に対する明確な嫌悪と、清野への強い庇護欲が滲んでいた。

  清野は思わず自分の胸元を見た。巫女の血を引く清野に、親戚が儀式のために無理やり着せた晒しと緋色の袴。それは、自分が贄であったことの象徴だ。

 「ですが、蒼月さま。このような高貴な衣は、私には…畏れ多いです。私は…贄として捧げられた、ただの娘ですから…」

  清野は再び自己否定の言葉を口にした。

  蒼月の青い瞳が、わずかに鋭くなった。

 「その言葉は聞き飽きたぞ、清野。俺が認めている。お前は俺の花嫁だ。贄などではない」

  蒼月の声には、神としての揺るぎない決意と、清野の存在を何があっても肯定するという一途な愛が込められていた。清野はその強大な意志の前に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

 「この衣は、お前が俺の神域で生きるための証だ。お前が持つ、稀有な霊力を守るための衣でもある。これを着なければ、お前の体は神域の霊気に耐えきれない」

  清野は、それがただの贅沢品ではなく、この神域で生きるために必要なものだと知ると、戸惑いながらも納得せざるを得なかった。

 「わ、分かりました…お着替え、いたします」

  蒼月は静かに頷き、部屋を出ようとした。しかし、振り返り、清野の目の前にそっと立ち止まった。

 「清野。お前は、人前で衣を脱ぐことに恐怖があるのだろう」

  清野の体がびくりと震えた。親戚の家では、冬でも冷たい蔵で着替えさせられ、時には美緒や綾乃に見られながら嘲笑された。そのトラウマが、今も清野の心に影を落としている。

 「…その…」

 「心配するな。俺は、お前が心の底から望まない限り、お前の体に指一本触れない。だが、虐げられた過去の傷は、衣を脱ぐたびに蘇るのだろう」

  蒼月はそう言うと、清野の背後に回り、その手で清野の晒しに結ばれた紐を、ゆっくりと解いた。彼の指先が、紐をなぞる際に清野の背中に触れる。その霊的な温かさに、清野の体が熱を帯びた。

 「お前が自力で衣を脱ぎ、着替えることが辛いならば、俺が手伝おう。これは夫としての務めだ」

 清野は、夫としての務め、という言葉に顔が熱くなるのを感じた。

 「い、いえ!大丈夫です!自分でやります!」

  清野は慌てて蒼月から距離を取った。蒼月は清野の反応を見て、僅かに口元を緩めた。それは、冷徹な神からは想像できない、どこか人間らしい微笑みだった。

 「…そうか。無理はするな。衣はそこに置いておく。着替えが終わったら声を上げろ。その贄の衣は、二度と身につけられないよう、この神域から消し去る」

  蒼月が部屋を出ていくと、清野は安堵の息をついた。彼の前では常に緊張してしまうが、彼は清野の小さな恐怖や傷まで見抜き、配慮してくれている。それは、親戚一家から受けた仕打ちとは対極にあるものだった。

  清野は戸惑いながらも、静かに着替えを始めた。晒しを脱ぎ、新しい白絹の衣を身に纏う。その瞬間、清野の全身を清浄な霊気が包み込んだ。

  衣に込められた蒼月の力が、清野の体の奥にある巫女の霊力と呼応し、まるで守護されているかのような感覚に襲われた。

 (これが…蒼月さまの…花嫁の衣…)

  鏡がないため姿を見ることはできないが、身に纏った衣の柔らかさと、蒼月の霊気が清野を包み込む感覚は、清野の自己否定の心を少しだけ揺るがした。

  ”贄の服”を脱ぎ捨て、”花嫁の衣”を着た清野は、意を決して蒼月を呼んだ。

 「あ、蒼月さま。着替えが終わりました」


  蒼月が再び部屋に入ってきた。

  彼の青い瞳が清野の姿を捉えた瞬間、その瞳の色が、夜空の青よりも深く、濃い色に変わった。

 「…美しい」

  蒼月はそう呟くと、一歩、清野に近づいた。

 「この衣は、お前が持つ霊力を鎮めるためのものだ。だが、それ以上に、お前に最も相応しい衣だ。もう、粗末な布に身をやつす必要はない」

  蒼月は清野の前に膝をつき、清野の足元から視線を清野の顔へゆっくりと上げた。その途中で、彼の視線は清野の首筋に留まる。

 「青玉の欠片は、お前が美しくなるほどに、強く光を宿す。この痣は、お前の存在がどれほど稀有で、俺にとって不可欠であるかの証だ」

  蒼月は清野の首筋に再び触れると、清野の耳元に唇を寄せた。

 「清野。お前は贄ではない。この神域で、この蒼月の愛を受け、ただ満たされれば良い。それが、お前の唯一の役割だ」

  清野は、その激しい溺愛に、心臓が大きく高鳴るのを感じた。彼の愛は、清野の過去のトラウマを打ち消し、新たな価値を植え付けようとしている。

 「ですが…私は、本当に、その…花嫁として、ここにいていいのでしょうか」

  清野の問いかけに、蒼月は優しく微笑み、清野の手を取り、自分の頬に当てた。

 「俺がそう定めた。それ以外に、理由が必要か?前世、お前を失ってからの数百年間、俺はただお前だけを待ち続けた。この神域も、この力も、全てはお前を庇護(まも)るためにある。お前は、俺の全てを愛で満たすのだ」

  蒼月の瞳は、一途な、狂気にも近い愛に満ちていた。清野は、この強すぎる愛情に、喜びと同時に、少しの恐怖も感じた。

  彼がこれほどまでに自分を求めるのは、本当に純粋な愛だけなのだろうか、と。前世で”結ばれると大災害を呼ぶ”と言われた、その運命の呪いの片鱗を、清野はまだ知らない。