社殿の奥深く、清野は柔らかな温もりに包まれて目覚めた。瞼を上げると、まず飛び込んできたのは、見たこともないほど豪華な寝台の天蓋だった。

薄い絹の布が幾重にも重なり、天井に埋め込まれた青い輝石が、まるで星空のように瞬いている。

(…ここは…どこ…?)

昨夜の出来事が、夢のように朧げに蘇る。贄として捧げられた自分。

目の前に現れた青い瞳の龍神、蒼月。そして、『俺の花嫁』という、甘くも決定的な言葉。

清野はゆっくりと上体を起こした。体にまとわりついていたのは、贄として着せられた粗末な晒しではなく、肌触りの良い上質な白絹の寝間着だった。腕や足に感じていた擦り傷や打撲の痛みも、不思議と消えている。

「…夢…だったのかしら…」

そっと首筋に手を当てる。そこには、確かに小さな青い痣があった。しかし、かつて”忌々しい”と罵られたその痣は、昨夜、蒼月の指先が触れた時の熱をまだ宿しているかのように、じんわりと温かかった。

その時、寝台の横に置かれた螺鈿細工の卓の上に、清野の目に留まるものがあった。透き通った水が入った美しいガラスの器と、瑞々しい果物が盛られた銀の皿。そして、その横には、折り畳まれた手紙が置かれている。

清野は震える手で手紙を開いた。整然とした、しかし力強い筆跡で書かれていた。

「──清野よ。目覚めたか。 お前の体の傷は、俺の力で癒やしておいた。心の傷は、そう容易くはいかぬだろうが、俺が必ず癒やす。 しばらくは、この寝台から動かずとも良い。 お前はもう、誰かに命じられるまま働く必要などないのだ。 俺は隣の部屋にいる。何か望むことがあれば、躊躇せず声を上げよ。 俺の花嫁よ、二度と恐れるな。 蒼月」

手紙を読み終えた清野の目から、はらはらと涙が零れ落ちた。”誰かに命じられるまま働く必要などない”その言葉は、清野の人生で最も温かく、そして、最も恐ろしい響きを持っていた。

彼女の人生は常に、親戚一家の指示に従うこと、彼らの理不尽な要求に応えることでしか成り立たなかったからだ。

「…私に、働く必要がないなんて…」

清野の口から嗚咽が漏れた。それは喜びではない。今までの人生を否定されたような、そして、これからどう生きていけば良いのか分からないという、途方もない不安が押し寄せたのだ。

その時、部屋の扉がすっと音もなく開いた。

そこに立っていたのは、神衣を纏った蒼月だった。青髪と青い瞳を持つ龍神の姿は、神聖でありながらも、清野に安堵と緊張の両方をもたらす。彼の青い瞳が、清野の涙を捉えた。

「なぜ泣く」

その声は冷徹に聞こえるが、どこか深い憂いを帯びていた。蒼月はゆっくりと清野の寝台に近づき、清野の頬に触れた。

「…私は、どうすれば良いか、分かりません…」

清野はか細い声で答えた。

「何を恐れている」

「私は…ずっと、誰かの命令に従って生きてきました。働くことが、私の価値でした。でも、蒼月さまは、もう働く必要はないと…」

蒼月は清野の言葉に、小さく息を吐いた。

「お前の価値は、労働によって測られるものではない。お前は、私の花嫁であること。それこそが、お前の、そして俺の、今世における最大の価値だ」

その言葉は、清野の存在全てを肯定するかのようだった。しかし、長年の虐待で染み付いた自己否定感は、そう簡単に拭い去れるものではない。

「でも…私は何もできません。巫女の血を引くと言われてきましたが、霊力があるわけでもなく…ただの役立たずです。私のような者が、この神域にいては、龍神さまのご迷惑に…」

蒼月は清野の首筋の青い痣に、そっと指を滑らせた。

「お前が役立たずだと?馬鹿なことを言うな。お前の霊力は、計り知れないほど強い。故にこそ、前世では俺と結ばれることが、大いなる災厄を呼ぶとされたのだ」

その言葉に、清野ははっとした。霊力。巫女の血。確かに、幼い頃、人には見えないものが見えることがあった。だが、それは親戚に”気味が悪い”と罵られ、無理やり抑え込んできた力だった。

「その力は、お前が私と再会したことで、今、覚醒しようとしている。だからこそ、あの忌々しい親族どもは、お前を贄として私に押し付け、その厄介な力を遠ざけようとしたのだ」

蒼月の瞳の奥で、激しい怒りの炎が揺れる。彼の視線は、社殿の外、人里の方を向いている。

「あの者どもには、既に相応の報いを与え始めている。お前を傷つけ、蔑み、利用しようとした罪。その償いは、命をもってしても足りぬだろう。だが、お前はもう、彼らを恐れる必要はない。お前は、この神域において、俺にのみ従えば良い。そして、俺の愛を受け入れ、満たされることだけを考えれば良い」

蒼月は清野をそっと抱きしめた。その抱擁は、清野が今まで経験したことのない、温かく、そして絶対的なものだった。蒼月の体からは、清冽な湖の水の香りと、微かな白檀のような香りがした。

「体の傷は癒えたはずだが、痛みは残っていないか?」

蒼月は清野を寝台に優しく横たわらせ、その体をゆっくりと見つめた。清野は羞恥で顔を赤らめるが、蒼月の目は、清野の体を慈しむように見つめているだけだった。

「ここには、痣が…」

蒼月は清野の痩せた腕に残る、薄い青痣に触れた。それは、美緒に熱い湯をかけられた時の火傷の痕だった。

本来なら消えないはずの痕が、蒼月の神力で薄れて、ほとんど見えなくなっている。

「許せぬ。こんな傷を、お前につけた者どもを…」

蒼月の指先が痣をなぞるたびに、清野の心に温かいものが広がっていく。今まで、誰にも気遣われることのなかった傷が、彼にとっては、清野が受けた苦痛の証であり、許されざる罪だった。

「もう、大丈夫です…蒼月さまが、癒やしてくださったから…」

清野がそう言うと、蒼月の表情がわずかに和らいだ。

「そうか。ならば良い」

彼は清野の額にそっと唇を寄せた。それは、清野にとって初めての、痛みも恐怖もない、ただ純粋な慈愛に満ちた口づけだった。

「お前は、贄ではない。俺の、前世より定まりし、ただ一人の花嫁だ。」

彼は清野の傷ついた手をそっと包み込む。

「二度と、恐れなくていい。ここは、お前の家だ。もう誰にも、お前を傷つけさせはしない。…たとえ、それが、お前自身を贄として捧げた、お前の親族であったとしてもだ」

龍神の冷酷な威圧と、夫の極限の溺愛が混ざり合った、その強烈な愛の圧力に、清野はただ息を呑むことしかできなかった。

(この人は、本当に私を守ってくれる…。でも、私が、この人の花嫁なんて…そんな資格、あるはずがない)

清野の孤独だった心に、初めて温かな光が灯った瞬間だった。しかし、その光は”花嫁”というにはあまりにも畏れ多く、自分には相応しくないという強い拒否感によって覆い隠されていた。長年の虐待で、彼女の存在は”生贄”という枠組みから抜け出せなくなっていたのだ。

清野は静かに、首を振った。

「蒼月さま…わ、私は…まだ、その…花嫁などと、呼ばれる資格はありません。私は…ただの贄です。贄として、お仕えすることなら…」

清野の自己否定的な言葉に、蒼月の青い瞳が一瞬、激しく揺らいだ。彼は、清野を抱く腕の力を強め、切なげに囁いた。

「…構わぬ。お前がそう思うのならば、時間の限り、そう思っていれば良い。お前がその心を完全に開き、俺を受け入れるまで、俺は何度でも、私の花嫁だと証明し続ける」

蒼月は清野の細い指にキスをした。

「だが、覚えておけ、清野。俺の隣はお前以外にはありえない。お前が贄であろうと、巫女であろうと、何であろうと、俺には関係ない。お前は俺にとって、唯一の愛しい人なのだ」

その決意に満ちた言葉を最後に、清野は深い静かな眠りに落ちていった。それは、長年の心労から解き放たれ、初めて得た、安全で温かい眠りだった。

蒼月は、安らかに眠る清野の顔を見つめながら、静かに、そして激しく、『必ず、お前を救う』と心の中で誓った。この神域で、清野の心が完全に満たされるまで、彼の愛は注がれ続けるだろう。