龍神さまの生贄は、前世の契りを結ぶ花嫁でした



 陰陽寮の書庫から戻って以来、蒼月さまの様子が少しおかしい。もちろん、私への態度は変わらず優しい。

 むしろ以前よりもさらに過保護に、溺愛してくださっているように感じる。けれど、ふとした瞬間に彼が見せる瞳の色が、深く、暗く沈んでいるのだ。

「……清野。寒くはないか?」

「はい、大丈夫です。蒼月さまが結界を張ってくださっていますから」

 迎賓館の一室。 蒼月さまは、窓の外を睨みつけながら、もう何度目になるか分からない結界の補強を行っていた。部屋の空気は、彼が放つ濃密な神気で満たされ、少し息苦しいほどだ。

 窓ガラスの向こうには、王都の煌びやかな景色が広がっているが、幾重にも張り巡らされた青い光の膜のせいで、まるで水底から地上を見上げているように歪んで見える。

「そうか。……ならいい」

 蒼月さまは私の方へ振り返ると、安堵したように微笑み、私の隣に座った。そして、私の手を強く、痛いほどに握りしめる。

「俺のそばを離れるなよ。トイレに行く時も、俺に声をかけろ」

「はい……。でも、蒼月さま。少し心配しすぎではありませんか?簪もありますし、ここには誰も入れないはずです」

 私が努めて明るく言うと、蒼月さまは首を横に振った。

「油断はできん。この都は、腐った泥沼だ。美しい花が咲いているように見えても、その下には底なしの悪意が口を開けている」

 彼の言葉には単なる警戒心以上の、激しい憎悪が滲んでいた。あの日、書庫で何を読まれたのか。

「ただの古い記録だ」と仰っていたけれど、それが嘘であることは私にも分かっていた。蒼月さまは、私を傷つけないために、恐ろしい真実を一人で飲み込んでいらっしゃるのだ。

(私がもっと強ければ、蒼月さまの荷物を半分持てるのに……)

 私は、握られた大きな手に自分の手を重ねた。神様である彼を、人間である私が心配するなんて不敬かもしれない。けれど、今の彼は、どこか張り詰めた糸のように危うく見えた。

「蒼月さま。私は大丈夫です。あなたが守ってくださることを、誰よりも信じていますから」

「……ああ。そうだな。俺が必ず守る」

 蒼月さまは、私の髪に挿した青龍の簪に指で触れ、祈るように目を閉じた。その横顔があまりに切実で、私は胸が締め付けられるような愛しさを感じた。

 この穏やかで、少し閉塞感のある時間が、ずっと続くと思っていた。少なくとも、私たちがこの都を去るまでは。

 けれど、運命の歯車は、私たちが思うよりも早く、残酷に回り始めた。

 カンカンカンカンカンッ――!!

 突如として、けたたましい警鐘の音が鳴り響いた。それは遠くの寺院から聞こえてくるような悠長なものではなく、宮殿の敷地内、すぐ近くから発せられる非常事態の合図だった。

「な……っ!?」

 私が驚いて顔を上げると同時に、窓の外が赤く染まった。夕焼けではない。

  王都の上空、結界のドームの一部が焼け焦げたように変色し、そこからどす黒い煙と炎が噴き出しているのだ。

「……始まったか」

 蒼月さまが、低く唸った。その声には驚きはなく、予想していた事態が起きたことへの不快感だけがあった。

「蒼月さま、あれは……!」

「見るな、清野」

 蒼月さまは私を抱き寄せ、私の目を掌で覆った。けれど、耳までは塞げない。風に乗って、人々の悲鳴と、何かが破壊される轟音が響いてくる。

『ギャアアアアアッ!!』

『妖だ!結界が破られたぞ!』

『陰陽師はまだか!火を消せ!』

 ただ事ではない。私は蒼月さまの手をそっと外し、窓の外を見て息を呑んだ。

  王都の北側、商店が立ち並ぶ区画に巨大な影が蠢いていた。それは、蜘蛛のような、あるいは百足のような形をした黒い瘴気の塊だった。体長は迎賓館の屋根よりも高く、その足が動くたびに建物が崩れ、火の手が上がっている。

「妖……?あんなに大きなものが、どうして……」

「陰陽寮の連中が飼っていた『失敗作』か、あるいは俺を引きずり出すために用意した『舞台装置』だろうな」

 蒼月さまは冷ややかに言い放った。

「放っておけ。陰陽師が数百人もいるのだ。自分たちの不始末くらい、自分たちで拭わせればいい」

 蒼月さまは、窓のカーテンを閉めようとした。その時だった。

 ドンドンドンドンッ!!

 部屋の扉が激しく叩かれた。

「蒼月様!!申し上げます!!」

 切羽詰まった男の声、帝の勅使だ。蒼月さまが指を弾くと、扉の鍵が外れ、汗だくになった官吏が転がり込んできた。

「はぁ、はぁ……!龍神様!緊急事態でございます!北区画に『特級妖魔』が出現!都の守護結界が食い破られました!」

「それで?」

 蒼月さまは座ったまま、氷のような視線を向けた。

「俺にどうしろと言うのだ。俺は今、妻との茶を楽しんでいる。邪魔をするな」

「そ、そんな……!現在、陰陽寮の主力部隊が迎撃にあたっておりますが、奴の再生能力に歯が立ちません!このままでは、被害が王城にまで及びます!どうか……どうか龍神様の御力で、あの化け物を討ち滅ぼしてください!」

 官吏は床に額を擦り付けて懇願した。外からは、先ほどよりも大きな爆発音が聞こえる。悲鳴も近くなっている。

「断る」

 蒼月さまの答えは即答だった。

「この都の人間が何千人死のうと、俺の知ったことではない。俺の役目は、ここにいる妻一人を守ることだけだ」

「なっ……見殺しになさるのですか!?あなたは、この国の守護神であらせられるはず!」

「守護神?笑わせるな。俺たちを『異物』扱いし、排除しようとしたのは貴様らだろう。都合の良い時だけ神と崇め、不都合になれば毒と罵る。……勝手に滅びるがいい」

 蒼月さまの全身から、凄まじい威圧感が放たれた。官吏は「ひぃっ」と悲鳴を上げて後ずさる。

 私は、蒼月さまの横顔を見つめた。その瞳は、怒りで青く燃えている。けれど、私には分かってしまった。 彼は本心から「どうでもいい」と思っているわけではない。

 もし本当に冷酷な神なら、こんなに苦しそうな顔はしない。彼は、行かなければならないと分かっているのだ。けれど、私を一人にすることへの恐怖と、人間への不信感が、彼をこの部屋に縛り付けている。

(このままでは……蒼月さまが、本当に『悪神』になってしまう)

 都の人々が見殺しにされれば、後世に残るのは「民を見捨てた龍神」という汚名だけだ。そして何より、蒼月さま自身の誇りが傷つく。彼は、愛する者を守るために戦う、気高い神様なのだから。

 私は、震える足を抑えて立ち上がった。

「……行ってください、蒼月さま」

「清野?」

 蒼月さまが驚いたように私を見た。

「何を言っている。俺にお前を置いて行けと言うのか?」

「はい。……あの煙が見えますか?あそこには、何の罪もない人々がいるはずです。子供や、お年寄りも」

 私は、窓の外を指差した。

「私たちが憎むべきは、陰陽寮の一部の人たちであって、この都に住む全ての人ではありません。……蒼月さま。私は、あなたが『人殺しを見過ごした神』として人々に記憶されるのが嫌なのです」

「だが、これは罠だ!俺がここを離れれば、奴らは必ずお前を狙ってくる!」

 蒼月さまが私の肩を掴み、叫んだ。その通りだ。これはあまりにタイミングが良すぎる。蒼月さまを誘い出すための陽動作戦であることは明白だ。それでも放っておくことはできない。

「大丈夫です」

 私は精一杯の笑顔を作った。

「私には、この簪があります。そして、蒼月さまが張ってくださった、この最強の結界もあります。……私、ここで良い子にして待っていますから」

 私は、蒼月さまの胸に手を当てた。

「お願いです。あなたの力を、正しいことのために使ってください。そして、胸を張って私の元へ帰ってきてください。『俺はすごいだろう』って、自慢しにきてください」

 蒼月さまは、苦渋の表情で私を見つめ、そして強く歯を食いしばった。 数秒の沈黙が、永遠のように感じられた。

 やがて、彼は深く息を吐き、私を強く抱きしめた。骨が軋むほどの、痛い抱擁。

「……すぐに戻る。あの雑魚を消し炭にするのに、時間はかからん」

「はい。信じています」

「結界からは一歩も出るな。誰が来ても、決して扉を開けるな。いいな?」

「はい、約束します」

 蒼月さまは私を離すと、私の額、瞼、頬、そして唇に、祈るような口づけを落とした。 そして、私の髪の簪に指で触れ、膨大な霊力を注ぎ込んだ。

「守れ。我が半身よ。命に代えても、この娘を守り抜け」

 簪が青く輝き、私の全身を温かな光の膜が包み込む。蒼月さまは、最後に一度だけ振り返り、そして窓を開け放って空へと飛び出した。

 グオオオオオオオオッ!!

 天を揺るがす龍の咆哮。窓の外で、蒼月さまの姿が巨大な青龍へと変化し、黒い煙の上がる北の方角へと矢のように飛んでいくのが見えた。その背中は、頼もしく、そして涙が出るほど美しかった。

「……ご武運を」

 私は窓を閉め、鍵をかけた。部屋の中は、再び静寂に包まれた。蒼月さまの気配が遠ざかっていく。心細さが、冷たい水のように足元から這い上がってくる。

(大丈夫。ここには誰も入れない。蒼月さまの結界があるもの)

 私は長椅子に座り、膝を抱えた。簪に触れる。まだ温かい。大丈夫。すぐに戻ってくる。数分、あるいは数十分の辛抱だ。

 そう自分に言い聞かせていた時だった。

 カチャリ。

 背後で、音がした。扉の鍵が開く音。

 心臓が跳ね上がった。私は振り返った。そこには、誰もいないはずの廊下が続いているはずだった。

 扉は、蹴破られたわけでも、破壊されたわけでもない。まるで「正しい合言葉」を使ったかのように、音もなく、滑らかに開いていた。

「……失礼いたします」

 現れたのは、あの氷のような美貌を持つ男。 陰陽頭・土御門晴明つちみかど はるあき。

 彼の背後には、武装した数名の陰陽師たちが控えている。

「な……どうして……!」

 私は後ずさった。蒼月さまの結界は絶対のはずだ。人間ごときに破れるはずがない。

「不思議ですか?」

 晴明は、まるで天気の話でもするように穏やかに微笑んだ。

「龍神様の結界は強固ですが、その基盤となっているのは、この国の地脈です。……この迎賓館の設計段階から、我々陰陽寮が『裏口』を仕込んでいたとしたら?鍵穴さえあれば、開けるのは造作もないことですよ」

「こ、来ないで……!」

 私は叫んだ。簪が反応し、青い光が強く輝く。蒼月さまの守護が発動しようとしている。

「おや、やはりその簪が要でしたか」

 晴明は懐から、一枚の鏡を取り出した。古びた青銅の鏡。その表面は黒く濁り、不気味な光を放っている。

「『八咫鏡やたのかがみ』の模造品ですが、神気を反転させる呪いを込めてあります」

 彼が鏡を私に向けた瞬間。

 キィィィィン……

 耳鳴りのような音がして、簪の光が急速に萎んでいった。温かかった簪が、急激に冷たくなっていく。

「あ……力が……」

「完全に無効化はできませんが、一時的に眠らせることは可能です」

 晴明が一歩踏み出す。 私は逃げようとしたが、足が動かなかった。金縛りだ。鏡から放たれる見えない鎖が、私の四肢を拘束している。

「龍神様が不在の間、清野殿を『保護』するために参りました。ここは妖魔の脅威に晒されていますからね。……安全な場所へご案内しましょう」

「嘘つき……!あの妖を作ったのは、あなたたちでしょう!」

 私が睨みつけると、晴明は少しだけ目を見開いた。

「ほう。龍神様から聞かされましたか。……聡い娘だ。だが、それも国を守るための必要経費です」

 彼は私の目の前まで来ると、冷たい手で私の顎を持ち上げた。

「大人しくしていれば、手荒な真似はしません。貴女は貴重な『サンプル』ですから」

「嫌……!蒼月さま!蒼月さま!!」

 私は心の中で叫んだ。簪を通じて、彼に危機を伝えようとした。けれど、簪は凍りついたように沈黙し、私の声はどこにも届かない。

 意識が遠のいていく。晴明が何か呪文を唱えたのか、視界が白く霞んでいく。

  薄れゆく意識の中で、窓の外の空が、青い閃光に包まれるのが見えた。蒼月さまが、妖を倒したのだ。彼は勝った。けれど、戻るべき場所には、もう私がいない。

(ごめんなさい……蒼月さま……)

 私の体は崩れ落ち、黒装束の男たちに抱え上げられた。

 

 目が覚めた時、そこは冷たい石造りの部屋だった。窓はなく、壁一面に赤い文字でびっしりと呪符が貼られている。空気は乾燥し、重苦しい霊気に満ちていた。

「……っ」

 私は飛び起きた、体は動く。金縛りは解けているようだ。だが、周囲を見渡して、ここがどこかすぐに理解した。牢獄だ。

 鉄格子の向こうには、松明の明かりだけが揺れる暗い回廊が続いている。

「気がつきましたか」

 格子の向こうに、晴明が立っていた。彼は私を見下ろし、満足そうに頷いた。

「ここは陰陽寮の最深部、儀式の間です。龍神様の目は届きませんし、声も届きません」

「私をここから出して……!」

 私は鉄格子に駆け寄り、叫んだ。格子に触れた瞬間、バチッという音と共に電撃が走り、私は弾き飛ばされた。

「無駄ですよ。その檻は、神気そのものを遮断する結界でできています。……しばらくの間、そこで頭を冷やしていただきましょう。『愛』などという感情が、いかに無力かを悟るまで」

 晴明は背を向けた。

「待って!蒼月さまは……彼は、必ずここに来ます!あなたたちがどんな罠を張ろうと、彼は全て壊して私を助けに来てくれます!」

 私の言葉に、晴明は足を止め、肩越しに振り返った。

「来れば、それもまた一興。……ですが、その時には、貴女が彼を殺す『凶器』になっているかもしれませんよ」

 意味深な言葉を残し、彼は闇の奥へと消えていった。 重い足音が遠ざかり、静寂が訪れる。

 私は、冷たい床に座り込んだ。怖い。手足が震える、涙が溢れてくる。ここは寒い。

 神域の温かさも、迎賓館の華やかさもない、ただの孤独な闇だ。かつて、親戚の家の蔵に閉じ込められていた時と同じ、絶望の匂いがする。

 私は、震える手で自分の髪に触れた。あった、簪はまだここにある。晴明の鏡によって光は失われ、冷たくなってしまっているけれど、砕けてはいない。

(繋がっている……)

 私は簪を両手で握りしめた。微かだが、脈打つような感覚がある。これは蒼月さまの魂の一部。

 彼が生きている限り、この簪は死なない。そして、私がこれを握りしめている限り、私の心も死なない。

「蒼月さま……」

 私は涙を拭った。泣いている場合じゃない。私は、自分で彼に行けと言ったのだ。 彼が誇り高い神様でいられるように、私が背中を押したのだ。

 ならば、私がここで絶望してしまえば、彼の戦いは無駄になってしまう。

(私は、待つ)

 暗闇の中で、私は顔を上げた。かつての弱虫な生贄は、もういない。ここにいるのは、世界最強の龍神に愛され、彼を愛した妻だ。

「私は諦めない。……絶対に」

 簪が、ほんの一瞬だけ、蛍のような光を灯した気がした。王都の地下深く、冷たい檻の中で、私は小さな希望を胸に、戦いの時を待つことにした。