龍神さまの生贄は、前世の契りを結ぶ花嫁でした

 豪奢だが冷たい迎賓館の寝室。天蓋から漏れる月明かりが、寝台で眠る清野の寝顔を白く照らし出していた。

「……ん……ぅ……」

 清野が小さく寝返りを打つ。その眉間には、微かな皺が寄っている。夢の中でも、何かを恐れているのだろうか。

  俺はそっと手を伸ばし、彼女の頬にかかった一房の黒髪を払った。指先に触れる肌は柔らかく、温かい。この温もりだけが、俺がこの腐敗した世界に留まる唯一の理由だった。

 昨夜の夜会での出来事を思い出すと、腹の底でどす黒い怒りのマグマが沸き立つ。 あの貴族の女ども。俺の愛しい妻に、汚らわしい酒を浴びせようとした愚か者たち。

 その場で首をねじ切ってやっても良かったが、清野の目の前で殺戮を見せるわけにはいかなかった。あの程度の恥と恐怖で済ませてやったのは、俺の最大の慈悲だ。

「……だが、それも限界に近い」

 俺は独りごちた。この王都には、悪意が充満している。清野が身につけている『青玉の簪』の力は、あまりにも純粋で強力だ。それが、泥水をすすることに慣れきった都の人間どもには、眩しすぎて目障りなのだろう。

 俺は清野の髪に挿したままの、青龍の簪に視線を落とした。青い輝石が、微かに明滅している。これは俺の角の一部であり、俺の霊核そのものだ。

 常に清野を守る結界として機能しているが、それと引き換えに、俺自身の力も削られ続けている。神域にいれば無尽蔵に湧く霊気も、この汚れた都では補充が効かない。

(疲れているのか……俺は)

 自嘲気味に笑う。神である俺が、たかだか人間ごときに警戒し、消耗しているとは。 だが、守らねばならない。三百年前、俺は守れなかった。運命という名の、正体不明の理不尽な力によって、この腕の中から彼女を奪われた。あんな絶望は、もう二度と御免だ。

 そのためには知らなければならない、敵の正体を。なぜ、俺たちが愛し合うと「災厄」が起きるのか。 なぜ、世界はこれほどまでに執拗に、俺たちを引き裂こうとするのか。

 俺は決意を固め、眠る清野の額に口づけを落とした。

「……明日は、敵の腹の中を探るぞ、清野」

 


 翌日。俺は「調べ物がある」と言って、清野を連れて陰陽寮へと向かった。本来なら、こんな呪詛の吹き溜まりのような場所に、清野の清らかな体を一歩たりとも踏み入れさせたくはない。だが、迎賓館に一人残しておく方がよほど危険だ。

 陰陽寮の巨大な門をくぐると、相変わらず湿った、カビ臭いような霊気が肌にまとわりつく。 すれ違う下級陰陽師たちは、俺の姿を見るなり青ざめて道を空け、地面に頭を擦り付ける。滑稽な光景だ。

 昨日は威勢よく俺たちを睨みつけていたくせに、主である晴明が不在と知るや、この有様だ。

「蒼月さま……ここは……」

 清野が不安げに俺の袖を掴む。彼女の顔色が優れない。繊細な彼女には、この場所の澱んだ空気は毒なのだろう。

「気にするな。俺から離れるなよ」

 俺は清野の腰を抱き寄せ、自身の霊気で結界を張り直した。晴明は不在だ。意図的に席を外したのか、それとも俺たちがここに来ることを予期して罠を張っているのか。どちらにせよ、好都合だ。

 俺たちが目指したのは、本殿の地下深くに存在する『禁書庫』だ。そこには、この国の成り立ちや、龍神に関する古い記録、表の歴史書からは抹消された「真実」が眠っている。

 重厚な封印が施された鉄扉の前に立つ。常人ならば触れただけで呪い殺される結界だが、俺にとっては紙切れ一枚にも劣る。

「開け」

 短く命じ、神気を叩きつける。幾重にも張り巡らされた術式が、悲鳴を上げて弾け飛び、鉄扉が重々しい音を立てて開いた。

 中は、ひんやりとした冷気に満ちていた。埃っぽい空気の中に、古紙と墨の匂いが漂う。俺は清野の手を引き、書架の並ぶ薄暗い通路を進んだ。

「あ、蒼月さま……ここに入って、大丈夫なのでしょうか……」

「構わん。この国の霊的守護を担っているのは、元を辿れば俺の力だ。俺が自分の記録を見て、誰が文句を言える?」

 俺は尊大な態度を崩さず、書架の奥へ進む。目当てのものはすぐに見つかった。 他の巻物とは明らかに違う、厳重な箱に収められた一巻の書。箱には『龍神鎮魂儀・秘録』と記されている。

「……これか」

 俺は箱を開け、中身を取り出した。書かれている文字は、現代の人間が使う文字ではない。神代文字と呼ばれる神と交信するために使われていた、古代の暗号だ。これならば、晴明以外の有象無象には読めまい。

 俺は巻物を広げ、視線を走らせた。そこには、三百年前に起きたあの大災害。俺と、前世の清野が引き裂かれた「あの日」の記録が、詳細に記されていた。

 読み進めるうちに、俺の体温は急速に下がっていった。怒りで、血が沸騰するどころか、凍りついていく感覚。

(……なんだ、これは)

 書かれていたのは、「運命」でも「天罰」でもなかった。それは、あまりにもおぞましく、身勝手な人間の計画書だった。

『――龍神ノ力ハ、国ノ礎ナリ。然レド、龍神ガ卑シキ巫女ニ執心スルトキ、ソノ力ハ制御ヲ失フ』

 記述は、冷静かつ事務的に続く。

 当時の朝廷と陰陽寮の上層部は、俺が「特定の巫女(前世の清野)」と恋に落ちたことを、極めて危険視していた。だが、それは「世界が乱れるから」などという高尚な理由ではない。

『卑シキ血筋ノ娘ガ、神ノ愛ヲ独占スルハ、国体ノ恥辱ナリ』 『龍神ノ血ト力ハ、我ラ選バレシ高貴ナル血脈ニ取リ込ムベシ』

 俺の手が震えた。当時の貴族たちは、俺の力を欲していた。だが、それ以上に、彼らは自分たちの娘を俺の妻にし、龍神の血を自分たちの家系に取り込むことを画策していたのだ。

 俺が選んだのが、どこの馬の骨とも知れぬ孤児の巫女だったことが、彼らのプライドと強欲な独占欲を逆撫でした。

 だから、彼らは仕組んだのだ。

『龍神ノ心ヲ巫女ヨリ引キ剥ガスベク、人為的ニ地脈ヲ刺激シ、災厄ヲ誘発セシム』

『災厄ヲ鎮メル名目ニテ、巫女ヲ人柱トシテ捧ゲ、龍神ノ執着ヲ断ツベシ』

『巫女ノ死後、速ヤカニ五摂家ノ姫ヲ新タニ献上スベシ』

(……貴様ら……ッ!!)

 俺の喉から、獣のような唸り声が漏れた。巻物を握りしめる手に力が入り、紙がミシミシと悲鳴を上げる。

 あの嵐も、あの大洪水も、自然の怒りではなかった。 俺と彼女を引き裂くために人間たちがわざと起こした人災だったのだ。清野の前世は、世界の身代わりになって死んだのではない。「自分たちの娘を神と結婚させたい」という、権力者たちの醜悪な嫉妬と欲望のために、邪魔者として殺されたのだ。

「ふざけるな……!ふざけるな……ッ!!」

 俺の中で、理性のタガが外れそうになった。これが人間の正体か。俺たちが「運命」だと思って苦しんできた数百年の孤独は、こんな……こんな汚らわしい欲望の結果だったというのか。

 今、この王都で俺たちに向けられている視線。沙耶という娘の嫉妬。

 陰陽寮の長官の冷徹な言葉。 それら全てが、三百年前と同じだ。

 「龍神は自分たちのものだ」

 「あんな田舎娘に渡してなるものか」

 本質は何も変わっていない。彼らは清野を泥棒猫と呼び、排除して自分たちの都合のいい「人形」を俺にあてがおうとしているだけだ。

「蒼月さま……?」

 清野の震える声に、俺はハッと我に返った。振り返ると、清野が青ざめた顔で俺を見ていた。俺から溢れ出した殺気が、書庫の空気をビリビリと震わせ、彼女を怯えさせてしまっていたのだ。

「……すまない」

 俺は慌てて殺気を収め、巻物を閉じた。 呼吸を整える。心臓が早鐘を打っている。

 この真実を、彼女に伝えるべきか? いいや、できない。あんなに残酷なことを言えるわけがない。

「あなたは、ただの嫉妬で殺されたのだ」などと、どうして言えようか。 彼女は優しい。知ればきっと、人間を憎むよりも、そんな汚い理由で命を落とした自分の運命を悲しみ、心を壊してしまうかもしれない。

 汚い真実は、俺だけが知っていればいい。この煮えたぎるような憎悪も、俺一人が背負えばいいのだ。

「……何か、悪いことが書かれていたのですか?」

 清野が、心配そうに俺の顔を覗き込む。俺は、強張る頬を無理やり緩め、できるだけ優しい声を作った。

「いいや。……ただの、古い儀式の記録だ。退屈な内容だった」

「そうですか……。蒼月さまが、とても怖いお顔をされていたので……」

「昔の人間たちの字が汚すぎてな。解読に腹が立っただけだ」

 俺は嘘をついた。 清野の頭に手を置き、その柔らかな髪を撫でる。この愛しい存在を、二度とあんな連中の食い物にさせてたまるか。

「清野。……俺を信じろ」

 俺は、懇願するように言った。

「この国が、この世界が、どんな理屈を並べてお前を否定しようとも、真実は一つだ。お前こそが、俺の唯一の妻だ。高貴な血筋も、家の格も、そんなものは俺の前では塵にも等しい」

「はい……。私は、蒼月さまだけを信じます」

 清野が俺の胸に寄り添ってくる。その信頼の重さが、今の俺には救いであり、同時に業火のように俺を焦がした。

 書庫を出る時、俺は背後に気配を感じた。 暗闇の奥から、ねっとりとした視線が俺たちを見送っている。

 晴明か、あるいは別の何者か。奴らも知っているのだろう。この「呪い」の正体を。そして、それを再び利用しようとしているのだ。

(上等だ……)

 俺は清野の肩を抱きながら、心の中で、この国に対する宣戦布告をした。

 これは、運命への挑戦ではない。俺の愛を「道具」として利用し、愛しい女を殺した、薄汚い人間どもへの復讐戦だ。

 もし、再び同じ手を使って清野を奪おうとするなら。今度こそ、俺はこの手で、この王都を地図から消し去る。

  たとえそれが、守り神としての堕落だとしても構わない。 彼女が生きて、笑っていてくれるなら、俺は喜んで「魔王」にでもなってやる。

「帰ろう、清野。……迎賓館で、温かい茶でも飲もう」

「はい、蒼月さま」

 俺たちは、陽の光の下へと出た。王都は相変わらず煌びやかで、一見平和に見える。 だが俺の目には、その華やかさの下に渦巻く、ドロドロとした欲望の汚泥が、はっきりと見えていた。