王都の中心部に位置する迎賓館「紫雲閣」は、その名の通り、紫色の瓦と朱塗りの柱が美しい、豪華絢爛な離宮だった。
床には磨き上げられた大理石が敷き詰められ、壁には名だたる絵師による金碧画きんぺきがが描かれている。
どこを見ても、清野が育った寒村の全てを売り払っても買えないような調度品ばかりだ。しかし、その煌びやかさは、清野の肌には冷たく感じられた。
神域にあった、あの清らかで温かい空気とは違う。ここは、値踏みするような視線と、甘い香に隠された悪意が澱よどむ、巨大な鳥籠のようだった。
「……清野」
広間に通された直後、蒼月が清野の手を握った。
「帝への謁見の儀がある。形式的なものだが、神域の主として顔を出さぬわけにはいかん。すぐに戻る」
蒼月は不満げに眉を寄せている。彼にとって、清野をこの場に残していくことは不本意極まりないのだろう。
「はい、蒼月さま。お待ちしております」
清野が努めて明るく答えると、蒼月は清野の髪に挿した青龍の簪に指先で触れた。
「何かあれば、この簪に念じろ。俺の魂は常にお前のそばにある。誰にも、指一本触れさせん」
「はい……行ってらっしゃいませ」
蒼月は名残惜しそうに清野の頬を一度撫でると、案内役の官吏たちと共に部屋を出て行った。
重厚な扉が閉まる音が、ずしりと響く。
その瞬間、部屋の空気が一変した。
それまで壁の花のように控えていた数名の女官たちが、音もなく清野に近づいてきた。彼女たちは皆、色鮮やかな十二単を身にまとい、白粉おしろいで顔を白く塗っている。
「……龍神さまのお気に入りと聞いておりましたが」
一人の女官が、扇子で口元を隠しながら、クスクスと笑い声を漏らした。
「随分とまあ、素朴な方ですこと。あのような田舎娘が、天衣を纏うなど、猿が人間の真似事をしているようで滑稽ですわ」
「しっ、聞こえますわよ。……まあ、聞こえたところで、作法も知らぬでしょうけれど」
ヒソヒソという囁き声。しかし、それは明らかに清野に聞かせるための音量だった。清野は膝の上で拳を握りしめた。
(知っている……この空気)
かつて、親戚の家で味わったものと同じだ。自分を「異物」として排除しようとする、粘着質な悪意。
「お茶をお持ちしました」
女官の一人が、盆を持って前に出た。
出された湯呑みからは、湯気が立っていない。清野が礼を言って口をつけると、それは舌が痺れるほど熱い、沸騰したばかりの熱湯だった。
「っ……!」
清野は慌てて口を離した。唇が焼けつくように痛む。
「あら、申し訳ありません。田舎の方では、温度の加減もご存じないかと思いまして」
女官は悪びれもせず、冷ややかな目で見下ろしている。
清野は、じわりと涙が滲みそうになるのを堪えた。
泣いてはいけない。ここで泣けば、蒼月様の顔に泥を塗ることになる。
私は、龍神の妻なのだ。
「……いいえ。結構なお点前でした」
清野は震える声でそう言うと、湯呑みを静かに置いた。
女官たちは、清野が言い返さなかったことに詰まらなそうな顔をし、またヒソヒソと陰口を再開した。
息が詰まる。
清野は逃げるように立ち上がった。
「……少し、風に当たってまいります」
女官たちの嘲笑を背に受けながら、清野は広間を出て、庭園へと続く回廊を歩いた。簪に手を触れる。蒼月の温かさが伝わってくる。
(大丈夫。蒼月さまがいる。私は負けない)
自分に言い聞かせるが、心臓の鼓動は早いままだ。
庭園に出ると、そこには手入れの行き届いた牡丹の花が咲き乱れていた。
その美しさに少しだけ心が安らいだ時だった。
「そこの者。……どきなさい」
凛とした、しかし棘のある声が降ってきた。
清野が顔を上げると、回廊の向こうから、数人の侍女を引き連れた、一際豪奢な着物を着た若い女性が歩いてきていた。
髪には黄金の飾りをちりばめ、その美貌には強い自尊心が張り付いている。
彼女は、陰陽寮の筆頭、この国の霊的守護を司る名家・土御門家の令嬢、沙耶だった。
清野は慌てて道の端に寄ろうとしたが、沙耶は清野の前で足を止めた。
「あなたね。龍神さまをたぶらかしたという、生贄上がりの娘は」
沙耶の視線が、清野の頭からつま先までを舐めるように往復する。そして、清野が身につけている群青の天衣を見て、その柳眉を吊り上げた。
「……信じられない。その衣は、本来なら帝の后きさきか、我ら五摂家ごせっけの者しか着ることを許されない高貴なもの。それを、どこの馬の骨とも知れぬ穢らわしい娘が着るなど……龍神さまも、魔が差したとしか思えないわ」
「私は……穢れてなどいません」
清野は、勇気を振り絞って口を開いた。
「蒼月さまは、私を妻として選んでくださいました。この衣も、あの方が私に贈ってくださったものです」
「口答えをするな!」
沙耶が激昂した。
「龍神さまは、この国の守り神! 本来なら、我ら土御門家の選んだ清浄な巫女と契りを結ぶはずだったのよ!それを、あんたみたいな『残り物の生贄』が横取りして……この泥棒猫!」
沙耶が、手に持っていた扇子を振り上げた。
扇子の骨組みは鉄でできており、打たれれば顔に傷が残るだろう。
清野は目を瞑り、身を強張らせた。
(蒼月さま……っ!)
バチィィィンッ!!
硬い音が響いた。
しかし、痛みはなかった。
「……え?」
清野が目を開けると、そこには信じられない光景があった。
沙耶が、数メートル後ろに弾き飛ばされ、尻餅をついていたのだ。彼女の手からは扇子が滑り落ち、手のひらが赤く腫れ上がっている。
「きゃあっ!?」
「ひ、姫さま!?」
侍女たちが悲鳴を上げて駆け寄る。
「な、なによこれ……!?あんた、私に何をしたの!?」
沙耶が涙目で睨みつける。
清野の髪に挿された青龍の簪が、淡く青い光を放っていた。
蒼月が込めた「守護の理」が、清野に害をなそうとした悪意を物理的に弾き返したのだ。
「私……私は何も……」
「黙りなさい!妖術使いめ!この私が誰だか分かっているの!?無礼者!誰か、この女を捕らえなさい!」
沙耶のヒステリックな叫び声に、周囲にいた護衛の兵士たちが、困惑しながらも清野を取り囲もうとした。
清野は青ざめ、後ずさる。
簪が守ってくれたとはいえ、この状況はどうすればいいのか。
その時だった。
「――ほう。誰を捕らえるだと?」
地獄の底から響くような、低く、冷徹な声が庭園の空気を凍りつかせた。
兵士たちの動きがピタリと止まる。
全員の視線が、回廊の入り口に釘付けになった。
そこには、謁見を終えた蒼月が立っていた。
しかし、その姿は先ほどまでの優雅な貴公子ではない。
全身から蒼白い怒気のオーラを噴出させ、背後には、建物を飲み込むほど巨大な龍の幻影が、鎌首をもたげてこちらを睨み下ろしていた。
「そ、蒼月……さま……」
清野が安堵でへなへなと座り込みそうになる。
蒼月は一瞬で距離を詰め、清野の体を抱き留めた。
「遅くなってすまない、清野。……怪我はないか」
「はい、私は大丈夫です。でも、あの方が……」
蒼月は清野の無事を確認すると、その表情から一切の慈悲を消し去り、尻餅をついている沙耶を見下ろした。
「ひっ……」
沙耶は、蒼月の瞳に見据えられ、悲鳴すら上げられずに凍りついた。
その瞳孔は金色に収縮し、人間という種そのものを殲滅しかねないほどの殺意が渦巻いている。
「土御門の娘か。……俺の妻に扇を振り上げるとは、良い度胸だ。その右腕、不要ならば今ここでねじ切り、犬の餌にしてやろうか?」
「あ……あ、あ……」
沙耶はガチガチと歯を鳴らし、顔面蒼白になって首を横に振った。恐怖で失禁寸前だ。
「申し訳ございません!龍神さま!姫様は、ただ少し気が動転して……!」
侍女たちが額を地面に擦り付けて懇願する。
蒼月は鼻で笑い、蔑むように言い捨てた。
「身の程を知れ。お前たちの家柄がどれほど高かろうと、霊力がどれほどあろうと、俺にとっては路傍の石ころ以下の価値もない」
蒼月は、わざとらしく清野の肩を抱き寄せ、その髪に挿された簪に口づけを落とした。
「この清野は、俺の魂の伴侶だ。彼女の髪一筋を傷つけることは、この蒼月に剣を向けるのと同じ意味を持つ。……次に同じ真似をすれば、土御門の家ごと消し炭にするぞ」
その言葉は、脅しではなく、確定した未来の宣告のように響いた。
「ゆ、許して……お許しください……」
沙耶は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、這いつくばって震え続けた。
先ほどの傲慢さは見る影もない。
蒼月はもう彼女に興味を失ったように視線を外し、清野を優しく抱き上げた。
「行くぞ、清野。ここは空気が悪い。俺の妻がいるべき場所ではない」
「……はい」
清野は、蒼月の腕の中で小さく頷いた。
周囲の兵士や女官たちは、道を空けるように一斉に平伏する。
その背中に浴びせられる視線は、もはや「嘲笑」ではない。底知れぬ「恐怖」と、絶対的な力への「畏怖」に変わっていた。
部屋に戻ると、蒼月は清野を長椅子に座らせ、その足元に跪いた。
「怖かったな。俺がそばにいながら、不快な思いをさせた。……すまない」
蒼月は、清野の手を自分の頬に当て、苦しげに眉を寄せた。
あの冷酷な龍神が、清野の前だけで見せる、弱く、甘い顔。
「いいえ、蒼月さま。……私、言い返せませんでした。悔しいです」
清野の目から、一粒の涙がこぼれた。
守られた嬉しさと、自分の弱さへの不甲斐なさ。
「私は、あなたの妻として、堂々としていたかったのに……」
「十分に立派だったぞ」
蒼月は清野の涙を指ですくい、舐め取った。
「簪が発動したのは、お前が心の中で戦っていたからだ。お前が恐怖に屈していれば、簪の光はあそこまで輝かなかった」
蒼月は清野を抱きしめ、子供をあやすように背中を撫でた。
「明日の夜会では、こんなものでは済まさん。今日お前を見下した全ての有象無象を、その足元にひれ伏させてやる。……だから今夜は、俺の腕の中で、嫌な記憶をすべて忘れて眠れ」
清野は、蒼月の胸の鼓動を聞きながら、深く頷いた。
窓の外には、煌びやかな王都の夜景が広がっている。
その光の数だけ、敵がいるかもしれない。
だが、この腕の中にいれば、どんな闇も恐れることはない。
夜風が、明日の波乱を予感させるように、窓をカタカタと揺らしていた。
床には磨き上げられた大理石が敷き詰められ、壁には名だたる絵師による金碧画きんぺきがが描かれている。
どこを見ても、清野が育った寒村の全てを売り払っても買えないような調度品ばかりだ。しかし、その煌びやかさは、清野の肌には冷たく感じられた。
神域にあった、あの清らかで温かい空気とは違う。ここは、値踏みするような視線と、甘い香に隠された悪意が澱よどむ、巨大な鳥籠のようだった。
「……清野」
広間に通された直後、蒼月が清野の手を握った。
「帝への謁見の儀がある。形式的なものだが、神域の主として顔を出さぬわけにはいかん。すぐに戻る」
蒼月は不満げに眉を寄せている。彼にとって、清野をこの場に残していくことは不本意極まりないのだろう。
「はい、蒼月さま。お待ちしております」
清野が努めて明るく答えると、蒼月は清野の髪に挿した青龍の簪に指先で触れた。
「何かあれば、この簪に念じろ。俺の魂は常にお前のそばにある。誰にも、指一本触れさせん」
「はい……行ってらっしゃいませ」
蒼月は名残惜しそうに清野の頬を一度撫でると、案内役の官吏たちと共に部屋を出て行った。
重厚な扉が閉まる音が、ずしりと響く。
その瞬間、部屋の空気が一変した。
それまで壁の花のように控えていた数名の女官たちが、音もなく清野に近づいてきた。彼女たちは皆、色鮮やかな十二単を身にまとい、白粉おしろいで顔を白く塗っている。
「……龍神さまのお気に入りと聞いておりましたが」
一人の女官が、扇子で口元を隠しながら、クスクスと笑い声を漏らした。
「随分とまあ、素朴な方ですこと。あのような田舎娘が、天衣を纏うなど、猿が人間の真似事をしているようで滑稽ですわ」
「しっ、聞こえますわよ。……まあ、聞こえたところで、作法も知らぬでしょうけれど」
ヒソヒソという囁き声。しかし、それは明らかに清野に聞かせるための音量だった。清野は膝の上で拳を握りしめた。
(知っている……この空気)
かつて、親戚の家で味わったものと同じだ。自分を「異物」として排除しようとする、粘着質な悪意。
「お茶をお持ちしました」
女官の一人が、盆を持って前に出た。
出された湯呑みからは、湯気が立っていない。清野が礼を言って口をつけると、それは舌が痺れるほど熱い、沸騰したばかりの熱湯だった。
「っ……!」
清野は慌てて口を離した。唇が焼けつくように痛む。
「あら、申し訳ありません。田舎の方では、温度の加減もご存じないかと思いまして」
女官は悪びれもせず、冷ややかな目で見下ろしている。
清野は、じわりと涙が滲みそうになるのを堪えた。
泣いてはいけない。ここで泣けば、蒼月様の顔に泥を塗ることになる。
私は、龍神の妻なのだ。
「……いいえ。結構なお点前でした」
清野は震える声でそう言うと、湯呑みを静かに置いた。
女官たちは、清野が言い返さなかったことに詰まらなそうな顔をし、またヒソヒソと陰口を再開した。
息が詰まる。
清野は逃げるように立ち上がった。
「……少し、風に当たってまいります」
女官たちの嘲笑を背に受けながら、清野は広間を出て、庭園へと続く回廊を歩いた。簪に手を触れる。蒼月の温かさが伝わってくる。
(大丈夫。蒼月さまがいる。私は負けない)
自分に言い聞かせるが、心臓の鼓動は早いままだ。
庭園に出ると、そこには手入れの行き届いた牡丹の花が咲き乱れていた。
その美しさに少しだけ心が安らいだ時だった。
「そこの者。……どきなさい」
凛とした、しかし棘のある声が降ってきた。
清野が顔を上げると、回廊の向こうから、数人の侍女を引き連れた、一際豪奢な着物を着た若い女性が歩いてきていた。
髪には黄金の飾りをちりばめ、その美貌には強い自尊心が張り付いている。
彼女は、陰陽寮の筆頭、この国の霊的守護を司る名家・土御門家の令嬢、沙耶だった。
清野は慌てて道の端に寄ろうとしたが、沙耶は清野の前で足を止めた。
「あなたね。龍神さまをたぶらかしたという、生贄上がりの娘は」
沙耶の視線が、清野の頭からつま先までを舐めるように往復する。そして、清野が身につけている群青の天衣を見て、その柳眉を吊り上げた。
「……信じられない。その衣は、本来なら帝の后きさきか、我ら五摂家ごせっけの者しか着ることを許されない高貴なもの。それを、どこの馬の骨とも知れぬ穢らわしい娘が着るなど……龍神さまも、魔が差したとしか思えないわ」
「私は……穢れてなどいません」
清野は、勇気を振り絞って口を開いた。
「蒼月さまは、私を妻として選んでくださいました。この衣も、あの方が私に贈ってくださったものです」
「口答えをするな!」
沙耶が激昂した。
「龍神さまは、この国の守り神! 本来なら、我ら土御門家の選んだ清浄な巫女と契りを結ぶはずだったのよ!それを、あんたみたいな『残り物の生贄』が横取りして……この泥棒猫!」
沙耶が、手に持っていた扇子を振り上げた。
扇子の骨組みは鉄でできており、打たれれば顔に傷が残るだろう。
清野は目を瞑り、身を強張らせた。
(蒼月さま……っ!)
バチィィィンッ!!
硬い音が響いた。
しかし、痛みはなかった。
「……え?」
清野が目を開けると、そこには信じられない光景があった。
沙耶が、数メートル後ろに弾き飛ばされ、尻餅をついていたのだ。彼女の手からは扇子が滑り落ち、手のひらが赤く腫れ上がっている。
「きゃあっ!?」
「ひ、姫さま!?」
侍女たちが悲鳴を上げて駆け寄る。
「な、なによこれ……!?あんた、私に何をしたの!?」
沙耶が涙目で睨みつける。
清野の髪に挿された青龍の簪が、淡く青い光を放っていた。
蒼月が込めた「守護の理」が、清野に害をなそうとした悪意を物理的に弾き返したのだ。
「私……私は何も……」
「黙りなさい!妖術使いめ!この私が誰だか分かっているの!?無礼者!誰か、この女を捕らえなさい!」
沙耶のヒステリックな叫び声に、周囲にいた護衛の兵士たちが、困惑しながらも清野を取り囲もうとした。
清野は青ざめ、後ずさる。
簪が守ってくれたとはいえ、この状況はどうすればいいのか。
その時だった。
「――ほう。誰を捕らえるだと?」
地獄の底から響くような、低く、冷徹な声が庭園の空気を凍りつかせた。
兵士たちの動きがピタリと止まる。
全員の視線が、回廊の入り口に釘付けになった。
そこには、謁見を終えた蒼月が立っていた。
しかし、その姿は先ほどまでの優雅な貴公子ではない。
全身から蒼白い怒気のオーラを噴出させ、背後には、建物を飲み込むほど巨大な龍の幻影が、鎌首をもたげてこちらを睨み下ろしていた。
「そ、蒼月……さま……」
清野が安堵でへなへなと座り込みそうになる。
蒼月は一瞬で距離を詰め、清野の体を抱き留めた。
「遅くなってすまない、清野。……怪我はないか」
「はい、私は大丈夫です。でも、あの方が……」
蒼月は清野の無事を確認すると、その表情から一切の慈悲を消し去り、尻餅をついている沙耶を見下ろした。
「ひっ……」
沙耶は、蒼月の瞳に見据えられ、悲鳴すら上げられずに凍りついた。
その瞳孔は金色に収縮し、人間という種そのものを殲滅しかねないほどの殺意が渦巻いている。
「土御門の娘か。……俺の妻に扇を振り上げるとは、良い度胸だ。その右腕、不要ならば今ここでねじ切り、犬の餌にしてやろうか?」
「あ……あ、あ……」
沙耶はガチガチと歯を鳴らし、顔面蒼白になって首を横に振った。恐怖で失禁寸前だ。
「申し訳ございません!龍神さま!姫様は、ただ少し気が動転して……!」
侍女たちが額を地面に擦り付けて懇願する。
蒼月は鼻で笑い、蔑むように言い捨てた。
「身の程を知れ。お前たちの家柄がどれほど高かろうと、霊力がどれほどあろうと、俺にとっては路傍の石ころ以下の価値もない」
蒼月は、わざとらしく清野の肩を抱き寄せ、その髪に挿された簪に口づけを落とした。
「この清野は、俺の魂の伴侶だ。彼女の髪一筋を傷つけることは、この蒼月に剣を向けるのと同じ意味を持つ。……次に同じ真似をすれば、土御門の家ごと消し炭にするぞ」
その言葉は、脅しではなく、確定した未来の宣告のように響いた。
「ゆ、許して……お許しください……」
沙耶は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、這いつくばって震え続けた。
先ほどの傲慢さは見る影もない。
蒼月はもう彼女に興味を失ったように視線を外し、清野を優しく抱き上げた。
「行くぞ、清野。ここは空気が悪い。俺の妻がいるべき場所ではない」
「……はい」
清野は、蒼月の腕の中で小さく頷いた。
周囲の兵士や女官たちは、道を空けるように一斉に平伏する。
その背中に浴びせられる視線は、もはや「嘲笑」ではない。底知れぬ「恐怖」と、絶対的な力への「畏怖」に変わっていた。
部屋に戻ると、蒼月は清野を長椅子に座らせ、その足元に跪いた。
「怖かったな。俺がそばにいながら、不快な思いをさせた。……すまない」
蒼月は、清野の手を自分の頬に当て、苦しげに眉を寄せた。
あの冷酷な龍神が、清野の前だけで見せる、弱く、甘い顔。
「いいえ、蒼月さま。……私、言い返せませんでした。悔しいです」
清野の目から、一粒の涙がこぼれた。
守られた嬉しさと、自分の弱さへの不甲斐なさ。
「私は、あなたの妻として、堂々としていたかったのに……」
「十分に立派だったぞ」
蒼月は清野の涙を指ですくい、舐め取った。
「簪が発動したのは、お前が心の中で戦っていたからだ。お前が恐怖に屈していれば、簪の光はあそこまで輝かなかった」
蒼月は清野を抱きしめ、子供をあやすように背中を撫でた。
「明日の夜会では、こんなものでは済まさん。今日お前を見下した全ての有象無象を、その足元にひれ伏させてやる。……だから今夜は、俺の腕の中で、嫌な記憶をすべて忘れて眠れ」
清野は、蒼月の胸の鼓動を聞きながら、深く頷いた。
窓の外には、煌びやかな王都の夜景が広がっている。
その光の数だけ、敵がいるかもしれない。
だが、この腕の中にいれば、どんな闇も恐れることはない。
夜風が、明日の波乱を予感させるように、窓をカタカタと揺らしていた。

