神域の空は、突き抜けるように青かった。
先日までの、世界が軋むような不穏な嵐は嘘のように消え去り、あるのはただ、清浄で力強い光だけだ。
しかし、その静寂は平和の訪れではなく、これから始まる激動の予兆であることを、神域の主と花嫁は知っていた。
広間の卓上には、一通の書状が置かれている。
帝の紋章が押されたその紙片は、神域の澄んだ空気の中で、異物のように禍々しい存在感を放っていた。
「……くだらん」
蒼月は、卓上の茶器を手に取りながら、冷ややかな声で吐き捨てた。
「『都にて怪異の兆しあり。龍神の神域より発せられたる強大な霊波、これに関連あるものと推察す。速やかに参内し、釈明せよ』……だと?人間ごときが、神に釈明を求めるとは、世も末だな」
蒼月の美しい指先が触れた瞬間、茶器の中の水が微かに波紋を描いた。彼の内なる怒りが、無意識に霊気となって漏れ出ているのだ。
清野は、蒼月の隣に静かに座り、彼の手の甲にそっと自分の手を重ねた。
「蒼月さま。……やはり、私の力が原因なのですね」
清野の声には、以前のような怯えはなかった。あるのは、事実を受け止めようとする静かな覚悟だ。
先日の戦いで覚醒した「青玉」の力。それは神域を守り、蒼月を救ったが、同時にあまりにも強大な光となって、外界の人間の目をも焼いてしまったのだ。
「お前のせいではない」
蒼月は即座に否定し、重ねられた清野の手を優しく握り返した。その手つきは、怒りを露わにしていた先ほどとは打って変わり、壊れ物を慈しむように甘やかだ。
「悪いのは、身の程を知らず、俺たちの愛に干渉しようとする人間どもの欲望だ。……だが、無視を決め込めば、奴らはさらに騒ぎ立て、いずれは討伐隊などという愚かな軍勢を差し向けてくるだろう」
「戦いに……なりますか?」
「俺とお前がいれば、国一つ滅ぼすことなど造作もない。だが、それではお前が悲しむだろう?お前は優しいからな」
蒼月は立ち上がり、テラスへと歩み出た。風が彼の黒髪と、神衣の裾を揺らす。その背中からは、隠しきれない王者の覇気が立ち昇っていた。
「行こう、清野。王都へ」
蒼月は振り返り、ニヤリと不敵に笑った。その笑顔は、かつて清野を震え上がらせた「冷酷な神」のものではなく、愛する女と共に運命を切り拓こうとする「英雄」の顔だった。
「呼び出しに応じるふりをして、奴らの度肝を抜いてやるのだ。俺の妻が、どれほど美しく、尊い存在であるかを、あの薄汚れた都の人間どもに骨の髄まで理解させてやる」
「はい……! 私も、行きます。どこへでも」
清野が力強く頷くと、蒼月は満足そうに目を細めた。
そして、彼はふと思い出したように、指をパチンと鳴らした。
「そうと決まれば、支度だ。今のままの衣でも十分に美しいが……あの古狸や女狐が跋扈する王都へ乗り込むには、少々『武装』が足りん」
「武装、ですか?武器を持つのですか?」
清野が首を傾げると、蒼月は楽しげに笑い、清野の手を取って衣裳部屋へと導いた。
「違う。女の武器とは、剣や弓のことではない。……『美しさ』と『品格』、そして夫からの『愛の証』だ」
衣裳部屋の扉が開かれると、そこには目が眩むような光景が広がっていた。
以前、清野が与えられた白絹の衣も最上級のものだったが、今、蒼月が空間から次々と取り出している着物は、次元が違った。
「これは、神域の深層で、千年の時をかけて織らせた天衣だ。人間の技術では決して再現できん」
蒼月が広げたのは、夜空をそのまま切り取ったような、深い群青色の打掛だった。
生地には、見る角度によって色が移ろう銀糸で、雲海を泳ぐ龍の姿が刺繍されている。龍の目は本物の宝石で彩られ、鱗の一枚一枚にまで防護の術式が編み込まれていた。
「あ、蒼月さま……こんな、高価なものを……私には勿体ないです……!」
清野は思わず後ずさった。
かつて、色のくすんだお下がりの着物一枚で冬を越していた自分。ボロ布を纏うのがお似合いだと罵られ続けてきた自分が、これほど神々しい衣を身に纏って良いはずがない。
しかし、蒼月は逃げる清野を許さなかった。
彼は清野の腰を抱き寄せ、耳元で甘く囁いた。
「『勿体ない』などと言うな。この世のすべての財宝を集めても、お前の髪一筋の価値にも及ばない」
蒼月の熱い吐息が耳にかかり、清野の背筋が甘く痺れる。
「お前は、龍神の正妃だ。都の人間どもは、お前を『元・生贄』として見下そうと待ち構えているだろう。……だからこそ、だ」
蒼月の瞳が、金色の光を帯びて鋭く輝いた。
「誰の目にも明らかな『格の違い』を見せつけろ。お前が纏うのは、ただの布ではない。俺の権威そのものだ。これを身につけて堂々と歩くことこそが、奴らへの最初の攻撃となる」
清野は、蒼月の言葉にハッとさせられた。
自分を飾ることは、贅沢ではない。それは、自分を選んでくれた夫の顔を立て、彼を守るための戦いなのだ。
「……分かりました。私、着ます。あなたが選んでくださった、この衣を」
清野が覚悟を決めると、蒼月は嬉しそうに微笑み、自らの手で清野の着付けを始めた。
精霊たちに任せることもできるはずだが、彼はそれをしなかった。
襦袢の紐を結び、襟を整え、帯を締める。その一つ一つの動作が、儀式のように厳かで、かつ情熱的だった。
帯を巻く際、蒼月の腕が清野の体を一周し、背後から抱きしめる形になる。
「……細いな。もっと食べさせねば」
「もう十分いただいています……これ以上太ったら、おんぶして頂けなくなります」
清野が冗談めかして言うと、蒼月はクツクツと喉を鳴らして笑った。
「何キロになろうと、俺はお前を軽々と抱え上げるぞ。……よし、衣はこれでいい」
着付けを終えた清野を、蒼月は大きな鏡の前に立たせた。
鏡の中には、見知らぬ高貴な女性が立っていた。
艶やかな黒髪に映える群青の衣。凛とした表情。それは、田舎娘の面影など微塵もない、神の伴侶としての威厳に満ちた姿だった。
「きれい……」
清野が自分の姿に見惚れていると、蒼月は背後からそっと近づき、懐から小さな桐箱を取り出した。
「仕上げだ、清野」
蒼月が箱を開けると、そこには一本の簪が収められていた。
それは、透き通るような青い結晶で作られており、先端には二輪の華が咲き乱れる意匠が施されている。華の中心には、清野の首筋の痣と同じ色をした、小さな青玉が埋め込まれていた。
ただ美しいだけではない。その簪からは、清野の肌が粟立つほどの、濃密で強大な神気が漂っていた。
「これは……?」
「俺の角の一部と、お前の前世の記憶が眠る神湖の底から採取した輝石を練り上げて作った。……俺の魂の片割れだ」
蒼月は、清野の結い上げた髪に、その簪をゆっくりと挿した。
シャラリ、と涼やかな音が鳴る。
その瞬間、簪を中心にして、清野の全身を薄い青色の膜が包み込んだ。
「王都には、陰陽師や呪術師といった、小賢しい術を使う輩が多い。奴らの視線や、悪意ある言葉、そして呪いの一つに至るまで、この簪がある限りお前には指一本触れさせない」
蒼月は鏡越しに清野と目を合わせ、真剣な眼差しで告げた。
「これは、俺そのものだ。たとえ物理的に離れることがあっても、俺は常にこの簪を通してお前を守っている。だから、堂々としていろ。誰に何を言われようと、お前の背後には俺がいる」
清野は、髪に挿された簪にそっと触れた。
冷たいはずの石から、蒼月の体温と同じ、熱いほどの温もりが伝わってくる。
これは装飾品ではない。彼の命そのものだ。
「はい……。蒼月さま、ありがとうございます。この簪にかけて、私はあなたに恥じない妻でいます」
清野が振り返り、蒼月を見上げると、彼は耐えきれないといった様子で清野を強く抱きしめた。
「ああ、愛している……。お前を都の衆目に晒すのが惜しいほどだ。本当はこのまま、神域の奥深くに閉じ込めて、俺だけで独占していたい」
蒼月の本音が漏れる。
独占欲と、それを上回る「妻を誇りたい」という顕示欲。矛盾する二つの感情が、彼の中で渦巻いている。
「でも、行かねばなりませんね。……私たちの『未来』のために」
清野が蒼月の胸に顔を埋めて言うと、蒼月は大きく頷き、彼女を離した。
「ああ、行くぞ。……派手にな」
蒼月が指を鳴らすと、衣裳部屋の空気が一変した。
彼の姿が揺らぎ、黒い神衣が、戦闘用の儀礼服へと変化する。漆黒の生地に金の刺繍、肩には龍の毛皮を模した豪奢な羽織。
そして、彼の背後に、巨大な青い龍の幻影が重なった。
二人は手を取り合い、神域のテラスから空へと飛び立った。
眼下には、見慣れた森や山々が小さくなっていく。
風が唸りを上げるが、蒼月の張った結界の中は無風で、清野の髪一筋乱れることはない。
二人は雲を突き抜け、蒼穹を駆けた。
やがて、遠くに巨大な都市の輪郭が見えてきた。碁盤の目のように整備された街路。中央に鎮座する壮麗な朱色の宮殿。
そして、街全体を覆うように張り巡らされた、薄い結界のドーム。あれが、人間の権力の頂点、王都だ。
「……大きい……」
清野は息を呑んだ。
彼女が育った寒村とは比べ物にならない。無数の家々、行き交う人々、そこから立ち上る欲望と活気のエネルギー。
あの中に、自分たちを「敵」と見なす者たちがいる。
「怯むな、清野。あれらは全て、俺たちの足元にある」
蒼月は清野の腰を抱き寄せると、都の上空で静止した。
そして、わざと自身の強大な霊圧を解放した。
ドォン……ッ!
空気が重く振動し、都全体を覆っていた結界が、悲鳴を上げて軋んだ。
都の人々が、一斉に空を見上げる。
晴天の空に突如現れた、巨大な影。
太陽を背にして浮かぶ、美しい男女と、その背後に鎌首をもたげる、山よりも巨大な青龍の幻影。
「な、なんだあれは!?」
「り、龍……!?龍神さまだ!」
「ひいいっ!空が、空が落ちてくるぞ!」
地上の喧騒が、風に乗って聞こえてくる。
陰陽寮のある区画からは、慌てふためく術者たちの気配が感知できた。
警報の鐘が鳴り響き、武装した兵士たちが宮殿の周りに集まり始める。
蒼月はそれらを鼻で笑い、清野の手を引いて、ゆっくりと、階段を下りるように空中を歩き始めた。
彼が足を下ろすたびに、空中に青い波紋が広がり、それが足場となる。
「見ろ、清野。あれが人間どもの本性だ。未知なる力、理解できない存在を前にすれば、奴らはただ平伏し、恐れおののく」
二人は、宮殿の正門前広場へと、悠然と舞い降りた。
そこには既に、何百人もの兵士と、烏帽子を被った陰陽師たちが待ち構えていた。彼らは槍や弓、呪符を構えているが、その手はガタガタと震え、誰一人として攻撃を仕掛ける勇気を持てないでいた。
圧倒的な静寂。
その中を、蒼月と清野は、レッドカーペットを歩くかのように堂々と進んだ。
群青の天衣を翻し、青龍の簪を煌めかせる清野の姿に、兵士たちの中から感嘆の溜息が漏れる。
「あ、あれが……龍神の花嫁……?」
「なんて美しいんだ……」
「元は生贄の娘だと聞いていたが……まるで天女ではないか」
ざわめきが広がる。
清野は、無数の視線が突き刺さるのを感じた。好奇心、畏怖、嫉妬、そして欲望。
以前の彼女なら、足がすくんで動けなくなっていただろう。
だが今は、髪に挿された簪が熱を帯び、蒼月の「俺がいる」という言葉を思い出させてくれる。
清野は背筋を伸ばし、顔を上げた。
その瞳は、蒼月と同じ、揺るぎない光を湛えている。
(私は、龍神さまの妻。恥ずべきことなど、何一つない)
その堂々たる姿に、蒼月は満足そうに微笑み、兵士たちの前に立ちはだかる一人の男、煌びやかな装束を纏った筆頭陰陽師と思わしき人物に向かって、傲然と言い放った。
「帝からの招きに応じ、参上した。出迎えご苦労」
蒼月の声は、広場全体に朗々と響き渡った。
「だが、よく覚えておけ。俺たちが来たのは、釈明のためでも、恭順のためでもない」
蒼月は清野の肩を抱き寄せ、広場にいる全員、いや、この都に住む全ての人間聞かせるつもりで宣言した。
「俺の愛する妻、清野。彼女の平穏を害する者がいれば、それが帝であろうと、陰陽師であろうと、あるいは国そのものであろうと……俺はこの都を一夜にして灰燼に帰す用意がある」
宣言と同時に、背後の青龍の幻影が『グオオオオオッ!』と天を揺るがす咆哮を上げた。
兵士たちは悲鳴を上げて尻餅をつき、陰陽師たちは顔面蒼白になって後ずさる。
宣戦布告。
それは、あまりにも一方的で、圧倒的な力の誇示だった。
蒼月は、凍りついた空気など意に介さず、清野に優しく微笑みかけた。
「さあ、行こうか、清野。迎賓館へ案内させよう」
「はい、蒼月さま」
清野は微笑み返した。
その笑顔は、都の人々にとって、龍神の怒りを唯一鎮めることのできる「慈悲の女神」のように映ったことだろう。
王都の門は開かれた。
しかしそれは、人間たちが彼らを招き入れたのではない。
龍神と花嫁が、その愛の力で、閉ざされた扉をこじ開けたのだ。
二人の歩む先には、華やかな夜会と、渦巻く陰謀、そしてまだ見ぬ真実が待ち受けている。
だが、固く繋がれたその手が離れない限り、いかなる闇も彼らを飲み込むことはできないだろう。
先日までの、世界が軋むような不穏な嵐は嘘のように消え去り、あるのはただ、清浄で力強い光だけだ。
しかし、その静寂は平和の訪れではなく、これから始まる激動の予兆であることを、神域の主と花嫁は知っていた。
広間の卓上には、一通の書状が置かれている。
帝の紋章が押されたその紙片は、神域の澄んだ空気の中で、異物のように禍々しい存在感を放っていた。
「……くだらん」
蒼月は、卓上の茶器を手に取りながら、冷ややかな声で吐き捨てた。
「『都にて怪異の兆しあり。龍神の神域より発せられたる強大な霊波、これに関連あるものと推察す。速やかに参内し、釈明せよ』……だと?人間ごときが、神に釈明を求めるとは、世も末だな」
蒼月の美しい指先が触れた瞬間、茶器の中の水が微かに波紋を描いた。彼の内なる怒りが、無意識に霊気となって漏れ出ているのだ。
清野は、蒼月の隣に静かに座り、彼の手の甲にそっと自分の手を重ねた。
「蒼月さま。……やはり、私の力が原因なのですね」
清野の声には、以前のような怯えはなかった。あるのは、事実を受け止めようとする静かな覚悟だ。
先日の戦いで覚醒した「青玉」の力。それは神域を守り、蒼月を救ったが、同時にあまりにも強大な光となって、外界の人間の目をも焼いてしまったのだ。
「お前のせいではない」
蒼月は即座に否定し、重ねられた清野の手を優しく握り返した。その手つきは、怒りを露わにしていた先ほどとは打って変わり、壊れ物を慈しむように甘やかだ。
「悪いのは、身の程を知らず、俺たちの愛に干渉しようとする人間どもの欲望だ。……だが、無視を決め込めば、奴らはさらに騒ぎ立て、いずれは討伐隊などという愚かな軍勢を差し向けてくるだろう」
「戦いに……なりますか?」
「俺とお前がいれば、国一つ滅ぼすことなど造作もない。だが、それではお前が悲しむだろう?お前は優しいからな」
蒼月は立ち上がり、テラスへと歩み出た。風が彼の黒髪と、神衣の裾を揺らす。その背中からは、隠しきれない王者の覇気が立ち昇っていた。
「行こう、清野。王都へ」
蒼月は振り返り、ニヤリと不敵に笑った。その笑顔は、かつて清野を震え上がらせた「冷酷な神」のものではなく、愛する女と共に運命を切り拓こうとする「英雄」の顔だった。
「呼び出しに応じるふりをして、奴らの度肝を抜いてやるのだ。俺の妻が、どれほど美しく、尊い存在であるかを、あの薄汚れた都の人間どもに骨の髄まで理解させてやる」
「はい……! 私も、行きます。どこへでも」
清野が力強く頷くと、蒼月は満足そうに目を細めた。
そして、彼はふと思い出したように、指をパチンと鳴らした。
「そうと決まれば、支度だ。今のままの衣でも十分に美しいが……あの古狸や女狐が跋扈する王都へ乗り込むには、少々『武装』が足りん」
「武装、ですか?武器を持つのですか?」
清野が首を傾げると、蒼月は楽しげに笑い、清野の手を取って衣裳部屋へと導いた。
「違う。女の武器とは、剣や弓のことではない。……『美しさ』と『品格』、そして夫からの『愛の証』だ」
衣裳部屋の扉が開かれると、そこには目が眩むような光景が広がっていた。
以前、清野が与えられた白絹の衣も最上級のものだったが、今、蒼月が空間から次々と取り出している着物は、次元が違った。
「これは、神域の深層で、千年の時をかけて織らせた天衣だ。人間の技術では決して再現できん」
蒼月が広げたのは、夜空をそのまま切り取ったような、深い群青色の打掛だった。
生地には、見る角度によって色が移ろう銀糸で、雲海を泳ぐ龍の姿が刺繍されている。龍の目は本物の宝石で彩られ、鱗の一枚一枚にまで防護の術式が編み込まれていた。
「あ、蒼月さま……こんな、高価なものを……私には勿体ないです……!」
清野は思わず後ずさった。
かつて、色のくすんだお下がりの着物一枚で冬を越していた自分。ボロ布を纏うのがお似合いだと罵られ続けてきた自分が、これほど神々しい衣を身に纏って良いはずがない。
しかし、蒼月は逃げる清野を許さなかった。
彼は清野の腰を抱き寄せ、耳元で甘く囁いた。
「『勿体ない』などと言うな。この世のすべての財宝を集めても、お前の髪一筋の価値にも及ばない」
蒼月の熱い吐息が耳にかかり、清野の背筋が甘く痺れる。
「お前は、龍神の正妃だ。都の人間どもは、お前を『元・生贄』として見下そうと待ち構えているだろう。……だからこそ、だ」
蒼月の瞳が、金色の光を帯びて鋭く輝いた。
「誰の目にも明らかな『格の違い』を見せつけろ。お前が纏うのは、ただの布ではない。俺の権威そのものだ。これを身につけて堂々と歩くことこそが、奴らへの最初の攻撃となる」
清野は、蒼月の言葉にハッとさせられた。
自分を飾ることは、贅沢ではない。それは、自分を選んでくれた夫の顔を立て、彼を守るための戦いなのだ。
「……分かりました。私、着ます。あなたが選んでくださった、この衣を」
清野が覚悟を決めると、蒼月は嬉しそうに微笑み、自らの手で清野の着付けを始めた。
精霊たちに任せることもできるはずだが、彼はそれをしなかった。
襦袢の紐を結び、襟を整え、帯を締める。その一つ一つの動作が、儀式のように厳かで、かつ情熱的だった。
帯を巻く際、蒼月の腕が清野の体を一周し、背後から抱きしめる形になる。
「……細いな。もっと食べさせねば」
「もう十分いただいています……これ以上太ったら、おんぶして頂けなくなります」
清野が冗談めかして言うと、蒼月はクツクツと喉を鳴らして笑った。
「何キロになろうと、俺はお前を軽々と抱え上げるぞ。……よし、衣はこれでいい」
着付けを終えた清野を、蒼月は大きな鏡の前に立たせた。
鏡の中には、見知らぬ高貴な女性が立っていた。
艶やかな黒髪に映える群青の衣。凛とした表情。それは、田舎娘の面影など微塵もない、神の伴侶としての威厳に満ちた姿だった。
「きれい……」
清野が自分の姿に見惚れていると、蒼月は背後からそっと近づき、懐から小さな桐箱を取り出した。
「仕上げだ、清野」
蒼月が箱を開けると、そこには一本の簪が収められていた。
それは、透き通るような青い結晶で作られており、先端には二輪の華が咲き乱れる意匠が施されている。華の中心には、清野の首筋の痣と同じ色をした、小さな青玉が埋め込まれていた。
ただ美しいだけではない。その簪からは、清野の肌が粟立つほどの、濃密で強大な神気が漂っていた。
「これは……?」
「俺の角の一部と、お前の前世の記憶が眠る神湖の底から採取した輝石を練り上げて作った。……俺の魂の片割れだ」
蒼月は、清野の結い上げた髪に、その簪をゆっくりと挿した。
シャラリ、と涼やかな音が鳴る。
その瞬間、簪を中心にして、清野の全身を薄い青色の膜が包み込んだ。
「王都には、陰陽師や呪術師といった、小賢しい術を使う輩が多い。奴らの視線や、悪意ある言葉、そして呪いの一つに至るまで、この簪がある限りお前には指一本触れさせない」
蒼月は鏡越しに清野と目を合わせ、真剣な眼差しで告げた。
「これは、俺そのものだ。たとえ物理的に離れることがあっても、俺は常にこの簪を通してお前を守っている。だから、堂々としていろ。誰に何を言われようと、お前の背後には俺がいる」
清野は、髪に挿された簪にそっと触れた。
冷たいはずの石から、蒼月の体温と同じ、熱いほどの温もりが伝わってくる。
これは装飾品ではない。彼の命そのものだ。
「はい……。蒼月さま、ありがとうございます。この簪にかけて、私はあなたに恥じない妻でいます」
清野が振り返り、蒼月を見上げると、彼は耐えきれないといった様子で清野を強く抱きしめた。
「ああ、愛している……。お前を都の衆目に晒すのが惜しいほどだ。本当はこのまま、神域の奥深くに閉じ込めて、俺だけで独占していたい」
蒼月の本音が漏れる。
独占欲と、それを上回る「妻を誇りたい」という顕示欲。矛盾する二つの感情が、彼の中で渦巻いている。
「でも、行かねばなりませんね。……私たちの『未来』のために」
清野が蒼月の胸に顔を埋めて言うと、蒼月は大きく頷き、彼女を離した。
「ああ、行くぞ。……派手にな」
蒼月が指を鳴らすと、衣裳部屋の空気が一変した。
彼の姿が揺らぎ、黒い神衣が、戦闘用の儀礼服へと変化する。漆黒の生地に金の刺繍、肩には龍の毛皮を模した豪奢な羽織。
そして、彼の背後に、巨大な青い龍の幻影が重なった。
二人は手を取り合い、神域のテラスから空へと飛び立った。
眼下には、見慣れた森や山々が小さくなっていく。
風が唸りを上げるが、蒼月の張った結界の中は無風で、清野の髪一筋乱れることはない。
二人は雲を突き抜け、蒼穹を駆けた。
やがて、遠くに巨大な都市の輪郭が見えてきた。碁盤の目のように整備された街路。中央に鎮座する壮麗な朱色の宮殿。
そして、街全体を覆うように張り巡らされた、薄い結界のドーム。あれが、人間の権力の頂点、王都だ。
「……大きい……」
清野は息を呑んだ。
彼女が育った寒村とは比べ物にならない。無数の家々、行き交う人々、そこから立ち上る欲望と活気のエネルギー。
あの中に、自分たちを「敵」と見なす者たちがいる。
「怯むな、清野。あれらは全て、俺たちの足元にある」
蒼月は清野の腰を抱き寄せると、都の上空で静止した。
そして、わざと自身の強大な霊圧を解放した。
ドォン……ッ!
空気が重く振動し、都全体を覆っていた結界が、悲鳴を上げて軋んだ。
都の人々が、一斉に空を見上げる。
晴天の空に突如現れた、巨大な影。
太陽を背にして浮かぶ、美しい男女と、その背後に鎌首をもたげる、山よりも巨大な青龍の幻影。
「な、なんだあれは!?」
「り、龍……!?龍神さまだ!」
「ひいいっ!空が、空が落ちてくるぞ!」
地上の喧騒が、風に乗って聞こえてくる。
陰陽寮のある区画からは、慌てふためく術者たちの気配が感知できた。
警報の鐘が鳴り響き、武装した兵士たちが宮殿の周りに集まり始める。
蒼月はそれらを鼻で笑い、清野の手を引いて、ゆっくりと、階段を下りるように空中を歩き始めた。
彼が足を下ろすたびに、空中に青い波紋が広がり、それが足場となる。
「見ろ、清野。あれが人間どもの本性だ。未知なる力、理解できない存在を前にすれば、奴らはただ平伏し、恐れおののく」
二人は、宮殿の正門前広場へと、悠然と舞い降りた。
そこには既に、何百人もの兵士と、烏帽子を被った陰陽師たちが待ち構えていた。彼らは槍や弓、呪符を構えているが、その手はガタガタと震え、誰一人として攻撃を仕掛ける勇気を持てないでいた。
圧倒的な静寂。
その中を、蒼月と清野は、レッドカーペットを歩くかのように堂々と進んだ。
群青の天衣を翻し、青龍の簪を煌めかせる清野の姿に、兵士たちの中から感嘆の溜息が漏れる。
「あ、あれが……龍神の花嫁……?」
「なんて美しいんだ……」
「元は生贄の娘だと聞いていたが……まるで天女ではないか」
ざわめきが広がる。
清野は、無数の視線が突き刺さるのを感じた。好奇心、畏怖、嫉妬、そして欲望。
以前の彼女なら、足がすくんで動けなくなっていただろう。
だが今は、髪に挿された簪が熱を帯び、蒼月の「俺がいる」という言葉を思い出させてくれる。
清野は背筋を伸ばし、顔を上げた。
その瞳は、蒼月と同じ、揺るぎない光を湛えている。
(私は、龍神さまの妻。恥ずべきことなど、何一つない)
その堂々たる姿に、蒼月は満足そうに微笑み、兵士たちの前に立ちはだかる一人の男、煌びやかな装束を纏った筆頭陰陽師と思わしき人物に向かって、傲然と言い放った。
「帝からの招きに応じ、参上した。出迎えご苦労」
蒼月の声は、広場全体に朗々と響き渡った。
「だが、よく覚えておけ。俺たちが来たのは、釈明のためでも、恭順のためでもない」
蒼月は清野の肩を抱き寄せ、広場にいる全員、いや、この都に住む全ての人間聞かせるつもりで宣言した。
「俺の愛する妻、清野。彼女の平穏を害する者がいれば、それが帝であろうと、陰陽師であろうと、あるいは国そのものであろうと……俺はこの都を一夜にして灰燼に帰す用意がある」
宣言と同時に、背後の青龍の幻影が『グオオオオオッ!』と天を揺るがす咆哮を上げた。
兵士たちは悲鳴を上げて尻餅をつき、陰陽師たちは顔面蒼白になって後ずさる。
宣戦布告。
それは、あまりにも一方的で、圧倒的な力の誇示だった。
蒼月は、凍りついた空気など意に介さず、清野に優しく微笑みかけた。
「さあ、行こうか、清野。迎賓館へ案内させよう」
「はい、蒼月さま」
清野は微笑み返した。
その笑顔は、都の人々にとって、龍神の怒りを唯一鎮めることのできる「慈悲の女神」のように映ったことだろう。
王都の門は開かれた。
しかしそれは、人間たちが彼らを招き入れたのではない。
龍神と花嫁が、その愛の力で、閉ざされた扉をこじ開けたのだ。
二人の歩む先には、華やかな夜会と、渦巻く陰謀、そしてまだ見ぬ真実が待ち受けている。
だが、固く繋がれたその手が離れない限り、いかなる闇も彼らを飲み込むことはできないだろう。

