龍神さまの生贄は、前世の契りを結ぶ花嫁でした

 嵐のような一夜が明け、神域には、かつてないほど透明で、静謐な朝が訪れていた。

 清野がゆっくりと目を開けると、視界に飛び込んできたのは、窓の外で煌めく無数の光の粒子だった。

昨夜、清野の体から溢れ出した「青玉」の力が、砕け散った結界や荒れた庭園を修復し、神域全体を新たな霊気で満たしているのだ。

 その光景は、まるで世界が生まれ変わったかのように美しかった。

「…目覚めたか、我が愛しき妻よ」

 耳元で、甘く、深いバリトンの声が響いた。

 清野が顔を向けると、そこには蒼月がいた。彼は肘をついて横たわり、眠る清野の顔を、まるで壊れ物を扱うような手つきで撫でていた。

 その瞳には、昨夜の戦いで見せた鬼神のような激しさはなく、ただひたすらに深く、重い愛情だけが湛えられている。

「蒼月さま…おはようございます」

 清野が微笑むと、蒼月は感極まったように清野の額に唇を寄せた。

「ああ。お前がこうして、俺の腕の中で目を覚ましてくれる。それだけのことが、これほど奇跡に思えるとはな」

 蒼月の指が、清野の首筋にある青玉の欠片の痣をなぞった。かつては忌まわしい「あざ」として清野が隠し続けてきたその印は、今や淡く青い燐光を放ち、宝石のように美しく輝いている。

「昨夜、お前は俺を救った。その小さな体で、世界の理《ことわり》そのものをねじ伏せ、俺の命を拾い上げてくれたのだ」

「私は…ただ、必死でした。蒼月さまを失いたくない一心で…」

 清野が恥じらうように視線を伏せると、蒼月は首を横に振った。

「それが、どれほどの意味を持つか、お前はまだ知らない。…だが、今はいい。体は痛まないか? あれほどの力を解放したのだ、疲弊しているはずだ」

 蒼月は清野の体を気遣い、その身を軽々と抱き上げた。

「あ、あの! 蒼月さま!?」

「湯殿へ行くぞ。俺の手で、お前の疲れを洗い流し、清めてやりたい。これは、夫としての、そしてお前に救われた龍神としての、ささやかな奉仕だ」

 清野は顔を赤らめたが、彼の真剣な眼差しに拒否する言葉を持たなかった。

 蒼月に抱えられ、清野は社殿のさらに奥、神域の最深部にある「神泉《しんせん》の湯殿」へと連れて行かれた。

 そこは、清野が使っていた洗い場とは異なり天然の岩で作られた広大な浴場だった。

 岩の間からは、白濁した霊泉がこんこんと湧き出し、湯気と共に甘い香りを漂わせている。

 天井はなく、頭上には結界越しに青空が広がっていた。

 蒼月は清野を湯のふちに座らせると、自らも衣を脱ぎ捨て、一切の飾り気のない姿で清野の前に膝をついた。

 神である彼が、人の姿をした清野にかしずく。その姿は、あまりにも背徳的で、同時に神々しかった。

「さあ、力を抜いて」

 蒼月は手拭いを湯に浸し、清野の細い腕を、指先から肩へと、ゆっくりと滑らせた。

 温かい湯の感触と、蒼月の掌の熱が、清野の肌に吸い付く。

「…っ…」

 清野の口から、甘い吐息が漏れた。

 ただ体を洗われているだけなのに、蒼月の指先からは、愛撫にも似た濃密な慈しみが伝わってくる。

「この傷跡も…随分と薄くなった」

 蒼月は、清野の二の腕に残る、かつて美緒に折檻された古傷に唇を寄せた。

「お前が受けた痛みは、すべて俺が記憶している。だが、もうこの肌に新たな傷が刻まれることはない。俺が許さない」

 蒼月は清野の手を取り、その掌に、祈るように口づけを繰り返した。

 指の一本一本、爪の先まで、彼は清野の全てを崇拝するように清め、愛を注いでいく。

「蒼月さま…そんなに大切にしないでください…私は、あなたが思うほど立派なものでは…」

 清野が震える声で言うと、蒼月は顔を上げ、濡れた前髪の間から、射抜くような視線を送った。

「まだそんなことを言うのか。清野、お前は立派だ。誰よりも気高く、美しい」

 蒼月は清野の腰を引き寄せ、そのまま二人で湯船の中へと身を沈めた。

 温かい湯の中で、蒼月の腕が清野の腰に回され、二人の肌が密着する。

「お前は、前世で俺を選んだ。神と人、決して交わってはならない禁忌の壁を越え、俺を愛した。そして今世でも、お前は世界が下した『拒絶』という名の災厄を弾き飛ばし、俺を選んでくれた」

 蒼月は、水面下で清野の手を自分の胸に当てさせた。そこには、昨夜貫かれたはずの傷跡はなく、力強い鼓動だけが響いている。

「これは、罪だ」

 蒼月は、恍惚とした表情で、恐ろしい言葉を口にした。

「神域の平穏を乱し、天の理に背き、世界の均衡を揺るがすほどの執着。俺たちが愛し合うことは、この世界にとって最大の反逆であり、大罪なのだ」

「罪……」

 清野はその言葉を反芻した。

 普通なら、恐れおののく言葉だ。しかし、蒼月の口から紡がれると、それはどんな誓いの言葉よりも甘美で、抗いがたい響きを持っていた。

「そうだ。俺たちは共犯者だ。数百年前、お前は俺のために命を捨て、俺はお前の魂を強引に現世に縛り付けた。そして今、再び巡り合い、こうして肌を重ねている」

 蒼月は清野の濡れた髪をかき上げ、その白い項に、深い独占欲を込めて噛み付くような口づけを落とした。

「俺はもう、清廉潔白な神には戻れない。世界が滅びようとも、お前を手放すつもりはない。…お前はどうだ? 清野」

 蒼月の金色の瞳孔が、清野の魂を問いただす。

「この愛が、世界を壊すほどの『毒』だとしても…お前を離すきはない。お前は俺と共に、罪人になってくれるか?」

 清野は、蒼月の瞳を見つめ返した。

 そこにあるのは、狂気にも似た重い愛だった。

 自分をここまで求めてくれる存在は、宇宙のどこを探しても彼しかいない。

 清野の心の中にあった「常識」や「道徳」、そして「生贄としての卑屈さ」は、湯気と共に消え去っていた。

 残ったのは、一人の女としての、鮮烈な感情だけだった

「…はい」

 清野は、蒼月の首に腕を回した。

「あなたが罪人なら、私はその伴侶です。世界が私たちを許さなくても…私だけは、あなたを許し、あなたを愛します」

 清野の答えを聞いた瞬間、蒼月の表情がくしゃりと歪んだ。それは、数百年の孤独が報われた歓喜の表情だった。

「愛している…清野…ッ!」

 蒼月は清野を抱きしめ、湯の中で何度も、何度も口づけを交わした。

 互いの吐息を奪い合い、魂の形を確かめ合うような、深く、長く、熱い口づけ。

 それは単なる情欲の行為ではなく、二つの魂が溶け合い、一つの強固な「運命」へと昇華する儀式だった。

 この瞬間、二人の間には、いかなる神も、いかなる運命も引き裂くことのできない、永遠の契りが結ばれた。

 それは美しく、そして世界にとっては致命的なほどに強大な、愛の完成だった。

 湯浴みを終え、身支度を整えた二人は、広間のテラスに立っていた。

 蒼月が用意した新しい衣は、白絹ではなく、深い青色に金糸の刺繍が施された、さらに格式高いものだった。

 それはもはや「生贄」の衣ではなく、龍神の正妃としての威厳を示す装束だ。

「似合っているぞ、清野。やはり青は、お前の肌を美しく引き立てる」

 蒼月は満足そうに頷き、清野の肩を抱いた。

 清野もまた、自分の姿に違和感を感じなくなっていた。隣に立つ夫に相応しい妻でありたいと、背筋を伸ばして立っている。

「雨上がりの空は、清々しいですね」

 清野が空を見上げて言った。

 昨日の黒い雲は消え去り、突き抜けるような青空が広がっている。

 だが、蒼月の視線は、その空の彼方――神域の結界のさらに外側を見据えていた。

「ああ。だが、この青空の下で、世界は確実に動き出している」

 蒼月の声が、低く沈んだ。

「昨夜、お前が放った『青玉』の光は、強すぎた。あれほどの純粋な神気は、神域の結界をも突き抜け、外界にまで届いてしまっただろう」

「えっ…それは、つまり…」

「勘の良い術者や、霊的な存在ならば、気づいたはずだ。この地に、龍神の力を制御し、あるいは増幅させるほどの『強力な巫女』が誕生したことをな」

 清野は息を呑んだ。

 これまでは、田舎の寒村で「役立たず」として隠されていた存在だった。しかし、今は違う。

 彼女の存在は、世界にとって無視できない「力」となってしまったのだ。

 その時だった。

『――キーッ!!』

 甲高い鳴き声と共に、神域の空に一筋の光が走った。

 それは生き物ではない。紙を折り畳んで作られた、黄金色の鳥――式神だった。

 式神は、修復されたばかりの結界をすり抜けることはできなかったが、結界の外側で旋回し、口から一通の書状を吐き出した。

 書状は光の粒子となって、テラスにいる蒼月の手元へと飛来する。

「…来たか」

 蒼月は、空中でその書状を受け取った。

 書状の封には、十六八重菊《じゅうろくやえぎく》にも似た、高貴で厳めしい紋章が押されている。

「蒼月さま、それは…?」

「帝《みかど》直属の霊的機関、『陰陽寮《おおんみょうりょう》』からの召喚状だ」

 蒼月は、忌々しそうに、しかしどこか楽しげに口角を上げた。

「『龍神の神域にて強大な霊力の波動を観測せり。直ちにその正体を開示し、朝廷への恭順を示されたし』…だそうだ。相変わらず、人間というのは身の程知らずで、欲深い生き物だ」

 蒼月は、手の中の書状を青い炎で焼き払った。

「彼らは気づいたのだ。お前の力が、国をも動かせるほどのものだと。そして、俺とお前が結ばれることが、彼らの支配する世界の理にとって『脅威』になり得るとな」

 これまでは、美緒や綾乃といった、小さな個人の悪意が敵だった。

 しかし、これからは違う。

 国、権力、そして「人間界の秩序」そのものが、清野と蒼月を引き裂こうと動き出すのだ。
 清野は、一瞬だけ身を震わせた。

 かつての彼女なら、恐怖で泣き崩れていただろう。

 だが、今の彼女の腰には、蒼月の強い腕が回されている。そして彼女自身の胸にも、彼を救ったという誇りと、愛する覚悟が宿っていた。

「怖くはないか?清野」

 蒼月が試すように尋ねた。

 清野は、蒼月の腕に自分の手を重ね、しっかりと彼を見上げた。

「いいえ。怖くありません」

 その声に迷いはなかった。

「あなたが隣にいてくださるなら、相手が誰であろうと、私はもう俯きません。私たちのこの愛が『罪』だと言うのなら…その罪を背負って、世界と戦います」

 蒼月は、目を細めた。その瞳には、最愛の妻への敬意と、これから始まる戦いへの獰猛な闘志が宿っていた。

「よく言った。それでこそ、俺が数百年待ち焦がれた花嫁だ」

 蒼月はテラスの手すりに足をかけ、外界へと広がる景色を見下ろした。

「隠れるのは終わりだ。お前の存在を、世界に知らしめてやろう。そして思い知らせてやるのだ。龍神の愛が、そして俺たちの絆が、彼らの浅はかな理など容易く粉砕するものであることを」

 風が強く吹き抜けた。

 清野の長い黒髪と、蒼月の神衣が、同じ風にはためく。

 二人の前には、未知なる世界の扉が開かれようとしていた。

 それは、穏やかな隠遁生活の終わりであり、世界を揺るがす壮大な運命への第一歩だった。

「行くぞ、清野。俺たちの物語は、ここからが始まりだ」

「はい、蒼月さま。――どこまでも、あなたと共に」

 二人の影が重なり合い、神域の光の中に溶けていく。

 永遠の契りを結んだ龍神と花嫁。その美しくも罪深い愛が、やがて世界そのものを書き換える伝説となることを、今はまだ、誰も知らない。