親族たちを追い払い、再び静寂が戻ったはずの神域に、異質な音が響いたのは、それから間もなくのことだった。
――ミシッ
それは、硬質なガラスに無理な力を加えたときのような、悲鳴にも似た軋み音だった。
蒼月が咄嗟に空を見上げた。その美しい顔から、先ほどまでの余裕と安堵が瞬時に消え失せ、焦燥の色が浮かび上がる。
「…来たか」
清野も釣られて空を見た。
息を呑んだ。
さきほどまで青く澄み渡り、永遠の春を湛えていたはずの神域の空が、まるで墨汁を垂らしたように、どす黒く濁り始めていたのだ。
黒い雲は渦を巻き、その中心から赤黒い雷が、音もなく空を切り裂いている。
それは、自然の嵐などではない。
明確な悪意と、拒絶の意志を持った、世界の歪みそのものだった。
「蒼月さま、これは…」
「俺から離れるな!」
蒼月が叫ぶと同時に、彼は清野の腰を強く引き寄せ、自身の広い背中で覆い隠すように抱き込んだ。
その直後だった。
ドォォォォォンッ!!
天地を揺るがす轟音と共に、神域全体が激しく振動した。
見えない巨大なハンマーが、神域を守る透明な結界を外側から殴りつけたかのような衝撃。
「くっ…!」
蒼月の喉から、苦悶の声が漏れた。
彼は清野を抱きしめたまま、ガクリと膝を折った。
「蒼月さま!?」
清野は悲鳴を上げた。
彼が膝をつく姿など、今まで一度も見たことがなかった。絶対的な強者であり、神である彼が、苦痛に顔を歪めている。
「大丈夫だ…これしきの事…」
蒼月は顔を上げ、強がって微笑もうとした。しかし、その端正な口元から、一筋の鮮血がツーと流れ落ち、顎を伝って清野の白い衣に落ちた。
赤い染みが、白い絹の上で花のように広がる。
「蒼月さま、血が!」
清野の手が震えた。
どうして。彼は攻撃を受けたわけではないはずだ。ただ、空が鳴っただけなのに。
「結界は…俺の命そのものだ…」
蒼月は荒い息を吐きながら、それでも清野を抱く腕を緩めようとしなかった。
「この神域を維持し、お前を外敵から隠すために、俺は自身の霊核を結界と同化させている…結界が叩かれれば、その衝撃は全て、俺の肉体に返ってくる…」
清野の顔から血の気が引いた。
彼は、自分の命を壁にして、清野を守っていたのだ。
そして今、その壁が壊されようとしているということは、彼の命が削られているということだ。
ガガガガガッ!! パリンッ!!
再び、空が悲鳴を上げた。
見上げると、空中の何もない空間に、蜘蛛の巣のような亀裂が走っているのが見えた。その亀裂の隙間から、ドロリとした黒い泥のような瘴気が、神域の美しい庭園へと滴り落ちてくる。
黒い泥が触れた場所から、色鮮やかな花々は瞬く間に腐り落ち、緑の芝生は灰色の砂漠へと変わっていく。
死が、侵食してくる。
二人の愛を拒絶する、世界の理が、物理的な形をとって襲いかかってきたのだ。
「あ…ああ……」
清野は震え上がった。
自分のせいだ。
自分がここにいるから。自分が彼に愛されてしまったから。
親族が言った通り、自分は災厄を呼ぶ存在だったのだ。
「私のせいです…! 蒼月さま、私を離してください! 私がここから消えれば、あなたは傷つかずに済む…!」
清野は泣き叫びながら、蒼月の腕から抜け出そうともがいた。
このままでは、彼は死んでしまう。自分が愛されることは、彼を殺すことと同じなのだ。
そんな罪悪感と絶望が、清野の理性を焼き尽くそうとしていた。
しかし。
蒼月の腕は、鋼鉄の枷のように清野を離さなかった。
「ふざけるなッ!!」
蒼月が、血を吐くような声で怒鳴った。
その瞳孔は金色に収縮し、凄まじい怒りの炎が燃え盛っていた。
「お前が消えて、俺が無事でいられるとでも思うのか!? お前を失う痛みに比べれば、身が裂ける痛みなど、蚊に刺されたほどにも感じん!」
「でも…! でも、あなたが…!」
「黙って俺の後ろにいろ! 俺は、数百年前の過ちは繰り返さない。神だろうが運命だろうが、二度と俺からお前を奪わせはしない!!」
蒼月は清野を背中にかばいながら、立ち上がった。
その背中から、青白い燐光が立ち上る。
彼は片手を空へとかざした。
「消え失せろ、穢れどもッ!!」
蒼月の掌から、極太の青い雷撃が放たれた。
龍神の神罰。
雷撃は空の亀裂に直撃し、そこから這い出ようとしていた黒い瘴気の大群を、一瞬にして蒸発させた。
凄まじい閃光と衝撃波が、神域を駆け抜ける。
圧倒的な力だった。神そのものの力だった。
しかし、敵は「個体」ではない。世界そのものだ。蒸発したそばから、新たな瘴気が湧き出し、亀裂をさらに広げていく。
ミシッ…バリンッ!!
ついに、決定的な音が響いた。
神域の空の半分が、音を立てて砕け散った。
防御壁が消失し、外界の荒れ狂う嵐と、凝縮された「呪い」の奔流が、堰を切ったように社殿へと雪崩れ込んでくる。
それは、形を持たない無数の黒い影となって、明確に清野を狙って殺到した。
「させんッ!」
蒼月が吠える。
彼の右腕が、人間の形を保てなくなり、瞬時に青い鱗に覆われた巨大な龍の腕へと変化した。
鋭利な爪が、空間ごと影を切り裂く。
一振りで百の影を消滅させるが、影は千の数で押し寄せる。
「はぁッ…はぁッ…!」
蒼月は清野の前で仁王立ちになり、全方位から迫る影を、その身一つで受け止めていた。
影が蒼月の体に触れるたび、ジュッという肉が焼けるような音と、白煙が上がる。
呪いの影は、神の肉体をも蝕む猛毒なのだ。
蒼月の神衣はすでにボロボロに裂け、その下の白い肌は、無数の火傷と切り傷で赤黒く染まっていた。
それでも、彼は一歩も引かない。
後ろにいる清野には、塵一つ、風圧一つ届かせない。清野は、その背中を呆然と見つめていた。
涙が止まらなかった。
どうして。どうしてここまでしてくれるの。
私は、ただの捨てられた娘なのに。
親にも、親族にも、誰にも必要とされなかった命なのに。
どうしてこの高貴な神様は、自分の命をゴミ屑のように使い捨ててまで、私を守ろうとするの。
「蒼月さま…もう、やめて…」
清野の声は、轟音にかき消された。
その時だった。
一際巨大な、槍のような形をした黒い影が、蒼月の死角から清野を狙って飛来した。
「――っ!?」
蒼月は反応した。しかし、他の影を払った直後で、体勢が崩れていた。
間に合わない。
そう判断した瞬間、蒼月は迎撃を捨て、自らの背中を、その黒い槍へと差し出した。
ドスッ!!
鈍く、重い音が響いた。
黒い影の槍が、蒼月の背中を深々と貫いた。
「が…はっ……」
蒼月の口から、大量の血が噴き出した。
彼はゆっくりと、清野の方を向いて倒れ込んだ。
その瞳は、貫かれた激痛よりも、清野が無事かどうかの確認を優先していた。
「蒼月さまっ!!」
清野の絶叫が響いた。
蒼月の巨体が、清野の足元に崩れ落ちる。
背中からは黒い煙が上がり、傷口がどす黒く変色している。猛毒が回っているのだ。
「無事か…清野…」
蒼月は、泥のような血にまみれた手で、清野の頬に触れようとした。しかし、その手は震え、途中で力を失って地面に落ちた。
「嫌…嫌です…! 死なないで…!」
清野は蒼月の体に覆いかぶさった。
温かい。まだ温かいけれど、その命の灯火が、急速に小さくなっていくのがわかる。
神である彼が、死にかけている。
自分のために。
(私が…私が弱かったから…)
清野の心の中で、何かが弾けた。
後悔。懺悔。自己否定。
そんなものは、今のこの惨状の前では何の意味もなかった。
「ごめんなさい」ではない。
「許してください」でもない。
今、清野の心を支配したのは、もっと激しく、もっと根源的な感情だった。
――助けたい。
この人を失いたくない。
私を愛してくれた、たった一人のこの人を、絶対に死なせたくない。
「お願い…!」
清野は、血まみれの蒼月の手を両手で強く握りしめた。
涙が、蒼月の頬に落ちる。
「私を愛してくれた命を、こんな理不尽な運命なんかに奪わせない! 私が守る…今度は、私があなたを守る!」
清野は叫んだ。
それは、誰かへの懇願ではなく、世界への宣戦布告だった。
その瞬間。
清野の首筋にある青玉の欠片の痣が、カッと熱く焼き付くような感覚に襲われた。
『応えよう、我が半身よ』
頭の中に、凛とした、どこか懐かしい声が響いた。それは、前世の自分。
龍神を愛し、その身を捧げた巫女姫の記憶。
ドクンッ!!
清野の心臓が大きく跳ねた。
首筋の痣から、目も眩むような鮮烈な蒼い光が奔流となって噴き出した。
「え…?」
清野が驚く間もなく、その光はドーム状に広がり、周囲を取り囲んでいた無数の黒い影たちを、一瞬にして彼方へと弾き飛ばした。
光はただの物理的なエネルギーではない。
もっと清浄で、暖かく、そして何よりも深い慈愛に満ちた波動だった。
「これは…」
地面に伏していた蒼月が、薄く目を開けた。
彼の目に映ったのは、青い光の粒子に包まれ、長い黒髪を重力に逆らって揺らめかせている清野の姿だった。
彼女の瞳は、いつもの自信なげな焦茶色ではなく、透き通るようなサファイアブルーに輝いていた。
清野は無意識のうちに、蒼月の傷口に手をかざした。
「治って…!」
彼女の掌から、濃密な青い光が蒼月の傷へと吸い込まれていく。
黒く蝕まれていた皮膚が、見る見るうちに浄化され、裂けた肉が塞がっていく。
それは、龍神の力ではない。
龍神の力を受け入れ、調和させ、増幅させる巫女の力の覚醒だった。
周囲に渦巻いていた嵐が、清野の光に恐れをなしたかのように、急速に後退していく。
砕け散った結界の破片が、キラキラと光りながら修復され、空の亀裂が塞がっていく。
やがて。
光が収まると、そこには元の静寂が戻っていた。
ただし、美しい庭園は半壊し、あちこちに爪痕が残っている。
清野は、ガクンと力が抜けてその場に座り込んだ。瞳の色は元の焦茶色に戻り、首筋の痣の熱も引いていた。
「はぁ…はぁ…」
激しい疲労感が襲う。何が起きたのか、自分でもよく理解できていなかった。
ただ、目の前の蒼月が、穏やかな呼吸を取り戻していることだけがわかった。
「清野…」
蒼月が、ゆっくりと体を起こした。
傷は塞がっているが、消耗は激しいようだ。
彼は信じられないものを見る目で、清野を見つめていた。
「今のは…まさか、青玉の覚醒か…?」
「蒼月さま…! よかった…傷が…」
清野が泣き笑いのような顔で手を伸ばすと、蒼月はその手を掴み、強く引き寄せて抱きしめた。
今までのような庇護する抱擁ではない。
すがりつくような、求愛するような、必死な抱擁だった。
「お前が…俺を助けたのか…」
蒼月の声が震えていた。
「俺が守るはずだったのに…お前は、また俺を救うのか。前世だけでなく、今世でも…」
「私は…必死で…ただ、あなたに生きていてほしくて…」
清野は蒼月の背中に腕を回し、その温かさを確かめた。
生きている。
あの恐ろしい影に貫かれた背中は、もう冷たくない。
「私は、無力な生贄ではありません」
清野は、蒼月の胸の中で、はっきりと言葉にした。
「私はあなたの妻です。あなたが傷つくなら、私が治します。あなたが戦うなら、私も一緒に戦います。…それが、私の選び取った運命です」
蒼月は体を離し、清野の顔をじっと見つめた。
そこには、もう怯える少女の姿はなかった。
運命の理不尽さを知り、それでも愛を貫こうとする、美しく気高い一人の女性がいた。
「…ああ。そうだ」
蒼月は感極まったように微笑み、清野の額に額を押し当てた。
「お前は俺の妻だ。そして、俺の誇りだ。…愛している、清野。俺の命のすべてを懸けて、お前を愛する」
二人は、荒れ果てた庭園の中心で、互いの存在だけを確かめるように、長く口づけを交わした。
その口づけは、甘いだけのものではない。
血の味と、涙の味と、そしてこれからの過酷な運命に立ち向かう共犯の誓いの味がした。
空はまだ、完全な青空には戻っていない。
遠くの雲の切れ間からは、依然として不気味な赤黒い色が覗いている。
世界の拒絶は終わっていない。
むしろ、清野の力が覚醒したことで、世界は二人を「明確な脅威」として認識したかもしれない。
だが、今は怖くなかった。
二人なら、どんな嵐の中でも、手を取り合って立っていられる。
清野は、強く握りしめられた蒼月の手の熱を感じながら、静かに、しかし確かな覚悟を決めていた。
(私たちの戦いは、まだ始まったばかり…)
砕け散った結界の破片が、雪のように二人の周りに降り注いでいた。

