鬱蒼とした木々がそびえる山奥。古びた石段は苔むし、人里離れた厳かな社へと続いていた。
今宵、この場所で、村の安寧と豊穣を願う龍神・蒼月(そうげつ)への「贄(いけにえ)の儀」が執り行われる。
水尾清野(みずお きよの)は、白い晒しをまとい、緋色の袴姿で、石の鳥居の下に座らされていた。
背筋に張り付く夜風は冷たいが、清野の心はそれ以上に冷え切っていた。
「いいかい、清野。あんたはここで、黙って龍神さまに食われるのを待ってりゃいいんだよ!」
粗暴な声は、叔母である、水尾美緒(みずお みお)のものだ。美緒は顔を歪め、吐き捨てるように続けた。
「あんたみたいな疫病神、生贄にでもならなきゃ世間の役にも立たないんだからね!私たちに養ってもらった恩を、龍神さまの腹の中で返しな!」
美緒の言葉は、清野が両親を亡くしてから浴びせられ続けてきた、氷のような暴言の最後の一つだった。清野は巫女の家系に生まれたが、両親が他界してからは、この親戚一家のもとで奴隷のように扱われてきた。
叔父の宗次(そうじ)は世間体を気にするだけで何も言わず、従妹の綾乃(あやの)は清野を格下と見下し、暴言と嫌がらせを繰り返した。
食事はまともに与えられず、常に清野の心身は深く傷つけられていた。
もう、生きることを望む力も残っていなかった。
(これで、全て終わりだ…)
冷たい石畳に膝をついた清野は、静かに目を閉じた。どうせ、龍神に喰い殺される運命。それは、この世の誰にも愛されず、虐げられ続けた人生の、当然の結末だと諦めていた。
「さあ、宗次、綾乃。あんたたち、さっさと戻るわよ。龍神さまの機嫌を損ねる前にね!」
美緒に急かされ、親戚一家は社の敷居から一目散に逃げ去っていく。彼らの足音が遠ざかると、山全体が水を吸ったように静寂に包まれた。
夜空に満月が昇り、社の奥の、漆黒の拝殿の扉がゆっくりと、しかし轟音を立てて開いた。その音は、まるで雷鳴のようだった。
清野の体がびくりと震える。強烈な霊気が社殿から溢れ出し、清野の全身を包み込んだ。それは、今まで清野が感じたどの神社の霊気よりも濃く、重く、そして圧倒的だった。
巫女の血を引く清野の霊力が本能的に反応し、その神威に息が詰まる。
(来る…)
清野は身を震わせながら、ゆっくりと顔を上げた。死の恐怖ではない。あまりにも神聖で、巨大な力の存在に対する畏怖だった。
拝殿の暗闇から、静かに一人の男が現れた。
黒曜石のような濡れた黒髪。夜空の月光を閉じ込めたような、深い青い瞳。
そして、常人ではありえないほどに研ぎ澄まされた、圧倒的な威厳と力。簡素な黒い神衣を纏っているが、その完璧な容姿は、この世のどんな芸術品よりも美しく、冷たい。
その神、龍神・蒼月は、静かに清野を見下ろした。
「…来たか、贄よ」
冷たい、感情のない声。清野は自分の最期の時が来たことを悟り、ただ目を閉じて死を待った。
しかし、次に聞こえた声は、清野の予想、そして彼女の人生を根底から覆すものだった。
「待たせたな、私の花嫁」
その声は、一瞬にして冷酷な響きを失い、深い歓喜と、抑えきれないほどの愛おしさを含んでいた。
何百年、何千年も待ち焦がれた末に、ようやく探し当てた宝物を見つけたような、切実な響き。
「…っ、は…なよめ?」
清野が戸惑い目を開けると、蒼月はその完璧な顔を、信じられないほど切なげな表情に歪ませていた。彼はゆっくりと、清野の前に膝をついた。
「ようやく、会えた。この時を、永劫にも等しい時を待っていた。私の清野…」
蒼月は震える手で、清野の首筋に触れた。清野の首筋には、長年親戚に「忌々しい痣」と罵られ、常に隠し続けてきた、小さな青い痣があった。それはまるで、小さな青い龍の鱗のような形をしていた。
蒼月の指が、その痣に触れた瞬間、清野の体中を熱い電気が走り抜けた。頭の奥で、何かが音を立てて弾けた。
脳裏に一瞬だけ、誰かと誰かが強く誓い合っている、鮮烈な光景がフラッシュバックする。
「ああ…間違いない。この痕は、私がお前に贈った青玉(あおぎょく)の欠片…前世の、永遠の愛の誓いの証だ」
蒼月は清野の首筋に額を寄せ、深く、長い息を吐き出した。それは歓喜であり、長い孤独からの解放の吐息だった。
「…龍神さま。私は、水尾家から捧げられた生贄です。貴方に食われて、村に恵みをもたらす運命だと…」
清野は掠れた声で言った。長年の虐待は、彼女に”自分の価値は贄として死ぬこと以外にない”と深く刷り込んでいた。
蒼月は清野から顔を上げ、青い瞳で夜の闇を射貫く。
「贄?馬鹿なことを」
その言葉は、静かだが、逆らうことのできない威圧感が辺りを満たしていた。
「あの愚かな人間どもが、私の唯一の花嫁を贄などと。彼らは私への捧げ物という名目で、お前という巫女の血を引く厄介者を処分し、その対価に私の力を利用しようとしたに過ぎない」
蒼月の視線が向けられたのは、麓へ逃げ去った村人たちの方向だった。
「私の神域に、お前の霊力を利用しようとする悪意を持ち込んだこと。そして、何より…私の花嫁を、生贄として虐げたこと。その罪は重い。必ず、彼らには相応の報いを与える」
蒼月の冷たい言葉は、親戚一家への明確な断罪を意味していた。清野は怯えながらも、初めて誰かに”守る”と言われたことに、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「だが、結果的に、お前は私の元に来た。それでいい。もう二度と、あの忌まわしい俗世に戻る必要はない」
蒼月は立ち上がり、清野の手を取った。清野の痩せた華奢な手を包み込む彼の指は大きく、そして清野には信じられないほど温かかった。
「お前は、私の神域(しんいき)で暮らす。今日より、私の花嫁として、この社で蒼月の妻となるのだ」
彼は清野を優しく抱き上げると、巨大な社殿の奥へと進んでいった。
社殿の内部は、外の古びた印象とは全く異なっていた。そこは濃い霊気に満たされ、広大で優美な空間。石の壁には青い光を放つ玉が埋め込まれ、天井には星空が透けて見えた。
清野がふかふかの寝台の上にそっと降ろされると、蒼月は清野の傍らに膝をついた。
「清野。お前は今、全てを忘れている。前世で、私と誓い合った契りも、そして、結ばれてはならない運命のことも」
「結ばれては…いけない、運命?」
「そうだ。我らは、愛し合うほどに、この世の摂理を乱す。かつて我らの愛は、大いなる悲劇を生んだ…」
蒼月は清野の細い指にキスをした。彼の瞳は清野を慈しむ色に満ちているが、その奥には、深い苦悩と決意が渦巻いている。
「しかし、もう恐れない。今世、私は龍神としての力全てを懸け、その運命さえ乗り越えてみせる。お前を、私だけのものにするために」
清野の長年のトラウマと、自己肯定感の低さを知っているかのように、蒼月は続けた。
「お前は生贄ではない。お前の価値は、誰かに食われることや、奉仕することではない。お前は、私に愛されるためにいる。私に、その傷ついた心を癒やさせてくれ」
彼は清野の傷ついた手をそっと包み込む。
「二度と、恐れなくていい。ここは、お前の家だ。もう誰にも、お前を傷つけさせはしない。…たとえ、それが、お前自身を生贄として捧げた、お前の親族であったとしてもだ」
龍神の冷酷な威圧と、夫の極限の溺愛が混ざり合った、その強烈な愛の圧力に、清野はただ息を呑むことしかできなかった。
(この人は、私を守ってくれる…?)
清野の孤独だった心に、初めて温かな光が灯った瞬間だった。しかし、その光は、同時に「結ばれてはいけない運命」という、巨大な影を背負っていた。
この日から、水尾清野の人生は、生贄から龍神の禁断の花嫁へと、大きく舵を切るのだった。
今宵、この場所で、村の安寧と豊穣を願う龍神・蒼月(そうげつ)への「贄(いけにえ)の儀」が執り行われる。
水尾清野(みずお きよの)は、白い晒しをまとい、緋色の袴姿で、石の鳥居の下に座らされていた。
背筋に張り付く夜風は冷たいが、清野の心はそれ以上に冷え切っていた。
「いいかい、清野。あんたはここで、黙って龍神さまに食われるのを待ってりゃいいんだよ!」
粗暴な声は、叔母である、水尾美緒(みずお みお)のものだ。美緒は顔を歪め、吐き捨てるように続けた。
「あんたみたいな疫病神、生贄にでもならなきゃ世間の役にも立たないんだからね!私たちに養ってもらった恩を、龍神さまの腹の中で返しな!」
美緒の言葉は、清野が両親を亡くしてから浴びせられ続けてきた、氷のような暴言の最後の一つだった。清野は巫女の家系に生まれたが、両親が他界してからは、この親戚一家のもとで奴隷のように扱われてきた。
叔父の宗次(そうじ)は世間体を気にするだけで何も言わず、従妹の綾乃(あやの)は清野を格下と見下し、暴言と嫌がらせを繰り返した。
食事はまともに与えられず、常に清野の心身は深く傷つけられていた。
もう、生きることを望む力も残っていなかった。
(これで、全て終わりだ…)
冷たい石畳に膝をついた清野は、静かに目を閉じた。どうせ、龍神に喰い殺される運命。それは、この世の誰にも愛されず、虐げられ続けた人生の、当然の結末だと諦めていた。
「さあ、宗次、綾乃。あんたたち、さっさと戻るわよ。龍神さまの機嫌を損ねる前にね!」
美緒に急かされ、親戚一家は社の敷居から一目散に逃げ去っていく。彼らの足音が遠ざかると、山全体が水を吸ったように静寂に包まれた。
夜空に満月が昇り、社の奥の、漆黒の拝殿の扉がゆっくりと、しかし轟音を立てて開いた。その音は、まるで雷鳴のようだった。
清野の体がびくりと震える。強烈な霊気が社殿から溢れ出し、清野の全身を包み込んだ。それは、今まで清野が感じたどの神社の霊気よりも濃く、重く、そして圧倒的だった。
巫女の血を引く清野の霊力が本能的に反応し、その神威に息が詰まる。
(来る…)
清野は身を震わせながら、ゆっくりと顔を上げた。死の恐怖ではない。あまりにも神聖で、巨大な力の存在に対する畏怖だった。
拝殿の暗闇から、静かに一人の男が現れた。
黒曜石のような濡れた黒髪。夜空の月光を閉じ込めたような、深い青い瞳。
そして、常人ではありえないほどに研ぎ澄まされた、圧倒的な威厳と力。簡素な黒い神衣を纏っているが、その完璧な容姿は、この世のどんな芸術品よりも美しく、冷たい。
その神、龍神・蒼月は、静かに清野を見下ろした。
「…来たか、贄よ」
冷たい、感情のない声。清野は自分の最期の時が来たことを悟り、ただ目を閉じて死を待った。
しかし、次に聞こえた声は、清野の予想、そして彼女の人生を根底から覆すものだった。
「待たせたな、私の花嫁」
その声は、一瞬にして冷酷な響きを失い、深い歓喜と、抑えきれないほどの愛おしさを含んでいた。
何百年、何千年も待ち焦がれた末に、ようやく探し当てた宝物を見つけたような、切実な響き。
「…っ、は…なよめ?」
清野が戸惑い目を開けると、蒼月はその完璧な顔を、信じられないほど切なげな表情に歪ませていた。彼はゆっくりと、清野の前に膝をついた。
「ようやく、会えた。この時を、永劫にも等しい時を待っていた。私の清野…」
蒼月は震える手で、清野の首筋に触れた。清野の首筋には、長年親戚に「忌々しい痣」と罵られ、常に隠し続けてきた、小さな青い痣があった。それはまるで、小さな青い龍の鱗のような形をしていた。
蒼月の指が、その痣に触れた瞬間、清野の体中を熱い電気が走り抜けた。頭の奥で、何かが音を立てて弾けた。
脳裏に一瞬だけ、誰かと誰かが強く誓い合っている、鮮烈な光景がフラッシュバックする。
「ああ…間違いない。この痕は、私がお前に贈った青玉(あおぎょく)の欠片…前世の、永遠の愛の誓いの証だ」
蒼月は清野の首筋に額を寄せ、深く、長い息を吐き出した。それは歓喜であり、長い孤独からの解放の吐息だった。
「…龍神さま。私は、水尾家から捧げられた生贄です。貴方に食われて、村に恵みをもたらす運命だと…」
清野は掠れた声で言った。長年の虐待は、彼女に”自分の価値は贄として死ぬこと以外にない”と深く刷り込んでいた。
蒼月は清野から顔を上げ、青い瞳で夜の闇を射貫く。
「贄?馬鹿なことを」
その言葉は、静かだが、逆らうことのできない威圧感が辺りを満たしていた。
「あの愚かな人間どもが、私の唯一の花嫁を贄などと。彼らは私への捧げ物という名目で、お前という巫女の血を引く厄介者を処分し、その対価に私の力を利用しようとしたに過ぎない」
蒼月の視線が向けられたのは、麓へ逃げ去った村人たちの方向だった。
「私の神域に、お前の霊力を利用しようとする悪意を持ち込んだこと。そして、何より…私の花嫁を、生贄として虐げたこと。その罪は重い。必ず、彼らには相応の報いを与える」
蒼月の冷たい言葉は、親戚一家への明確な断罪を意味していた。清野は怯えながらも、初めて誰かに”守る”と言われたことに、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「だが、結果的に、お前は私の元に来た。それでいい。もう二度と、あの忌まわしい俗世に戻る必要はない」
蒼月は立ち上がり、清野の手を取った。清野の痩せた華奢な手を包み込む彼の指は大きく、そして清野には信じられないほど温かかった。
「お前は、私の神域(しんいき)で暮らす。今日より、私の花嫁として、この社で蒼月の妻となるのだ」
彼は清野を優しく抱き上げると、巨大な社殿の奥へと進んでいった。
社殿の内部は、外の古びた印象とは全く異なっていた。そこは濃い霊気に満たされ、広大で優美な空間。石の壁には青い光を放つ玉が埋め込まれ、天井には星空が透けて見えた。
清野がふかふかの寝台の上にそっと降ろされると、蒼月は清野の傍らに膝をついた。
「清野。お前は今、全てを忘れている。前世で、私と誓い合った契りも、そして、結ばれてはならない運命のことも」
「結ばれては…いけない、運命?」
「そうだ。我らは、愛し合うほどに、この世の摂理を乱す。かつて我らの愛は、大いなる悲劇を生んだ…」
蒼月は清野の細い指にキスをした。彼の瞳は清野を慈しむ色に満ちているが、その奥には、深い苦悩と決意が渦巻いている。
「しかし、もう恐れない。今世、私は龍神としての力全てを懸け、その運命さえ乗り越えてみせる。お前を、私だけのものにするために」
清野の長年のトラウマと、自己肯定感の低さを知っているかのように、蒼月は続けた。
「お前は生贄ではない。お前の価値は、誰かに食われることや、奉仕することではない。お前は、私に愛されるためにいる。私に、その傷ついた心を癒やさせてくれ」
彼は清野の傷ついた手をそっと包み込む。
「二度と、恐れなくていい。ここは、お前の家だ。もう誰にも、お前を傷つけさせはしない。…たとえ、それが、お前自身を生贄として捧げた、お前の親族であったとしてもだ」
龍神の冷酷な威圧と、夫の極限の溺愛が混ざり合った、その強烈な愛の圧力に、清野はただ息を呑むことしかできなかった。
(この人は、私を守ってくれる…?)
清野の孤独だった心に、初めて温かな光が灯った瞬間だった。しかし、その光は、同時に「結ばれてはいけない運命」という、巨大な影を背負っていた。
この日から、水尾清野の人生は、生贄から龍神の禁断の花嫁へと、大きく舵を切るのだった。

