『怪しい校内アンケートの噂、聞いた?』
『聞いた聞いた。校内で突然アンケートを頼まれても、絶対に答えちゃいけないらしいね』
『答えると、とんでもないことになるんでしょ?』
『怖いよね〜!』

 日本海沖合に浮かぶ小さな島、瑠璃島村(るりじまむら)。その島にある唯一の中学校、瑠璃島村中学校では、秋も深まってきた十一月半ば、そんな奇妙な噂話が生徒たちの間で頻繁にささやかれていた。
 これは由々しき事態である。噂を耳にした僕、二年一組の藤間秀一(とうま しゅういち)は、生徒たちの不安を取り除くため問題解決に向けて動き出した。僕は瑠璃島村中学校の優秀かつ立派な生徒会長であるので、これは当然の行動である。
 怪しい校内アンケートの噂話は毎日そこかしこから聞こえていた。僕は噂話をしている生徒を見つけるたび、さりげなく近づいて耳をそば立てた。情報収集である。
『どうしても断りきれなくて、うっかりアンケート用紙を受け取ってしまったらどうするの?』
『その時はね、筆ペンやマーカーペンでアンケート用紙に記入すればいいの。そうすれば、なにも被害は受けないんだって』
『この間、うちの吹奏楽部の後輩がアンケートに答えちゃったんだよね。そしたらもう、大変なことになっちゃって……』
『部活動を頑張ってる子がアンケートに答えちゃうと、かなり大変なことになっちゃうよね』
 これは女子トイレから聞こえた会話である。昼休みに廊下を歩いていると、女子トイレの中から例の校内アンケートについて話している声が聞こえてきたのだ。僕は急いで女子トイレの入り口の扉にピタリと耳をつけ、必死でこの会話を聞き取ったのである。
 この時、廊下を行き交う生徒たちがまじまじと僕のことを見ていたが、生徒会長である僕は人望が厚いので、きっとなにか理由があってのことだと全員が理解してくれているはずである。……必ず、そうであると信じている。
 そんないきさつで、ひとかけらの羞恥心を支払って、僕は新たな情報をふたつ得ることができた。
 ひとつ。噂になっている怪しい校内アンケートは、筆ペンやマーカーペンで記入すると被害を受けないらしい。
 ふたつ。それは、部活動を頑張っている生徒が答えると大変なことになるらしい。
 僕は集めた情報から噂話を考察する。
 おそらく、怪しい校内アンケートとは、校内へ忍び込んだ怪しい人物が採っているアンケートではないだろうか。つまり、大問題である。怪しい人物が採っているアンケートなんてものは、一見まともそうなアンケートに見えて、住所や電話番号のような大事な個人情報を盗まれてしまうアンケートに違いないのだ。本校の生徒の個人情報を盗もうなんて不埒な輩は、極刑に処さねばならない。
 しかし、疑問も残る。何故筆ペンやマーカーペンで記入すれば被害を受けないのだろう?鉛筆で書こうと筆ペンで書こうと、記入してしまえば同じことではないだろうか。
 それに、部活動とアンケートの関連も不明だ。なぜ部活動を頑張っている生徒がアンケートに答えると大変なことになるのだろう?
 謎が謎を呼ぶ怪しい校内アンケート。
 僕はその日の放課後、校内をパトロールすることにした。もちろん、アンケートを採っている現場を見つけ次第、犯人を現行犯で捕まえてやるためである。しかし、ここだけの話であるが、幼い頃から父上の書斎の探偵小説を愛読して育った僕は、自分の足で現場を歩き回って謎の真相を暴くという展開にこれ以上ないくらい心が踊っていたのである。
 そうして待ちに待った放課後、僕は名探偵の気分で校内の見回りを始めた。
 さあ、本校の生徒たちを悩ませる怪しい校内アンケートめ。首を洗って待っているがいい。この僕、藤間秀一が全ての謎を解き明かし、不届者を成敗してみせる。生徒会長の名にかけて。
 探偵ドラマの主題歌を鼻歌で歌いながら、夕暮れの色に染まった廊下を歩く。鼻歌を歌いながらではあるが、教室や図書館などの鍵のかかっていない部屋は侵入者が隠れている可能性があるため、きちんと中に入って怪しい人物がいないか確認する徹底捜索ぶりである。
 校内では文化系の部活の活動が行われていた。各部室にも校内の見回りと説明して入れてもらい、不審者を捜索する。そのついでに少し部活動の活動風景を見せてもらったのだが、部活動に所属していない僕にとっては新鮮な光景ばかりでなかなか楽しめた。
 しかし、校内をひととおり見回ってみたものの、怪しい人物は見当たらない。念のためもう一度見回ってみても、結果は同じであった。
 収穫はなく、時間だけが過ぎていく。
 どうしたものだろうか。小さくため息をついて、廊下で立ち止まる。呑気な鼻歌はいつの間にか消えてしまっていた。
 僕が物語の中の探偵ならば、推理が暗礁に乗り上げたとき、どこからともなく真相にたどり着くための糸口が舞い込んでくるものなのだが……
 現実とは、なかなか上手くいかないものである。
 思うように事が運ばない現実の無情さに僕が肩を落としていると、背後からパタパタと慌ただしい足音が聞こえてきた。
 僕ははたと頭を上げた。これは間違いなく廊下を走っている足音である。生徒会長として、廊下を走るなどという校則違反を見逃すわけにいかないのである。
 振り向き、呼び止めて厳重に注意をしようとした、その時であった。
「出た!噂の校内アンケート!」
「逃げろ〜!」
 稲妻に撃たれたような衝撃が僕の脳天に走った。
 突風のように僕を抜き去っていった女子生徒二人から、そんな会話が聞こえたのである。
 噂の校内アンケート!
 聡明な僕の判断は早かった。女子生徒たちが走ってきた方向へ、僕は全速力で駆け出した。
 逃がすものか!
 僕は運動神経があまり良い方ではないが、好奇心に背中を押されて全力疾走である。あっという間に廊下の突き当たりまで来た僕は、電撃の如きスピードでその角を曲がった。
 けれど、角を曲がると同時に、僕は数秒前の自分の判断を後悔することになる。
 すぐ目前に人影があったのだ。
 もう退避を促すことも、僕が避けることもできない近距離である。
 正面衝突する直前、瞬きほどの一瞬で僕は冷静に我に返っていた。
 生徒会長という立場でありながら廊下を走り、挙げ句人にぶつかるなど言語道断。しかも、この勢いである。相手に怪我をさせてしまうかもしれない。ああ。藤間家の一人息子ともあろう人間がなんてことを。父上にどんな顔をして報告すればよいのだ。
 後悔先に立たずとは、まさにこの事。
 様々な後悔が流星群のように脳内を流れていく中、僕は勢いそのまま目の前の人物に全力で体当たりをかました。
 しかし、僕が想定したような最悪な展開にはならなかった。
 なぜなら、その人は突進してきた僕に「うわっ」と声を上げて驚きつつも、僕をマタドールのようにひらりと躱し、そのまま片腕で抱き止めるように僕を静止したのだ。
 相手の見事な反射神経と腕っぷしで助けてもらったと理解できるまでに、まばたき三回分の時間がかかった。
「……た、助かった」
 相手の片腕に抱えられたまま、安堵のため息。
「あれ?誰かと思ったら、会長だ」
 妙に聞き覚えのあるのんびりとした口調と、穏やかな声。
 嫌な予感がした。
 おそるおそる顔を上げると、そこにはよく見知った顔があった。
 先月内地から転校してきた、同じクラスの蜜木和(みつき にこ)だ。
「そんなに慌てて、何かあったの?」 
 蜜木は垂れ目を細めて、人好きのする微笑みを浮かべている。
 蜜木は顔の造形が綺麗なので、僕は不本意ながらほんの一瞬だけ見惚れてしまった。
 だが、この顔と柔和な表情に騙されてはいけない。
 蜜木は不良生徒だ。
 瑠璃村島中学校の制服は胸元にリボンタイを着用するのだが、蜜木のワイシャツには今日もリボンタイが不在である。おまけにワイシャツを第二ボタンまで開けて、ブレザーのボタンはひとつも留めていない。ゆるく結んだ長髪は蜂蜜のような色をしていて、蜜木が僕の顔を覗き込むとおくれ毛がサラサラと揺れた。
 こんな校則完全無視の出で立ちで、蜜木は毎日堂々と登校してきている。
 校内の風紀を守る立場である僕は、もちろん蜜木のことを注意している。蜜木が視界に入るたびに僕は校則違反を指摘し、その場で説教をするのである。
 しかし、生徒会長である僕が注意しているというのに、蜜木はいつもニコニコと笑って「はーい」と返事をするだけ。返事をする〝だけ〟なのである。返事はすれど、翌日もなにひとつ変わらぬ姿でニコニコ登校してくるのだ。
 それが、まるで僕のことなど眼中にないと暗に言われている気がして、たまらなく気に食わないのである。
 僕は咳払いをしてから、蜜木の腕から離れた。
「……避けてくれてありがとう。衝突していたら、きっと怪我をさせてしまっていた」
 だがそれはそれとして、僕は素直に謝罪と感謝を伝えた。僕は清廉な人間なので、いくら気に入らない奴だからといって、ここで何も言わず去っていくようなことはしないのである。
 ただ、この時の僕の声はいつもよりかなり小さいものであったし、目もろくに合わせてはいなかったのだが。
「どういたしまして。でも会長小さいから、別にぶつかられても平気だったよ」
 蜜木は微笑みにのせて余裕たっぷりのこの返事である。
 日頃校則について口うるさく注意している僕が、目の前で派手に校則を破ったのだ。嫌味や文句の一つや二つくらい言ってもいいと思うのに、何も言ってこない。その余裕がまた、気に食わないのである。
 まあそれは一旦置いておくとして、だ。
 〝小さい〟というのは聞き捨てならない。僕は別に小さくはない。確かに同学年の男子生徒の中では平均よりやや小さめの背丈ではあるが、やや平均より小さいというだけである。
 自分がそこそこ長身であるからといって、平均よりやや小さいだけの僕のことを〝小さい〟と形容するのは、絶対に間違っているのである!
 この件に関して蜜木に抗議してやりたかったが、それはなんだか僕のプライドが傷付く気配がしたので、僕は全てをグッと飲み込み聞き流すことにした。覚えてろ、蜜木和。
 そんな僕の心情などつゆ知らぬ様子の蜜木は、先ほどから僕の頭に手を伸ばして髪を撫でている。どうやら乱れた僕の頭髪を整えてくれているらしいが、それもまた気に食わない。なぜなら、僕の身長が蜜木より高ければ、蜜木はきっと僕の頭など撫でていないからだ。
 僕は蜜木の手を無言で払いのけ、自分で頭髪を整えながら蜜木に尋ねた。
「僕はここ最近生徒たちの間で騒がれている怪しい校内アンケートの噂について調べている。君はこの噂を知っているか?さっきこの辺りに校内アンケートが出没したという情報を聞いて、慌てて走ってきたのだ。君は不審な人物を見なかっただろうか?」
 蜜木は微笑んだまま、「ああ」と思い当たる節があるように呟くと、「会長はさ、その〝怪しい校内アンケート〟についてどこまで知ってるの?」と、僕の質問に質問で返してきた。蜜木の質問の意図が汲み取れなかったが、僕は仕方なしに聞き耳調査で調べ上げた情報を全て話してやることにした。そのついでに、それを踏まえた上で僕が疑問に思っている点も話してみる。
 僕が話し終えると、蜜木は天井を仰いで「ふぅん」と何かを考え始めた。もしかすると、蜜木なりに謎の真相を考察してくれているのかもしれない。
 ふと蜜木の手元を見ると、片手に黒いバインダーを持っていた。そういえば蜜木は部活動も委員会活動もしていなかったはずだが、こんな時間まで校内に残って何をしていたのだろう?
 そのバインダーをまじまじと見つめながら首を傾げていると、蜜木はさらりと言った。
「その怪しい校内アンケートについてなら、たぶん俺が誰よりも一番詳しく知っているよ」
「本当か!?」
 僕は蜜木の言葉に大いに驚き、顔を上げ、勢いよく蜜木の腕を鷲掴んだ。寸前脳裏に芽生えていた疑問は、遥か彼方へすっ飛んでいった。
 僕が驚いたのには理由がある。蜜木は僕と同じで、クラスメイトとの交友関係がほぼ無かったからだ。
 瑠璃島村は小さな島であるので、蜜木本人に関する情報は転校日の前から校内中どころか村中に広まっていた。
 クラスメイトが話しているのを聞いたところによると、内地にいた頃の蜜木は毎晩朝まで繁華街で不良仲間と過ごし、学校にはめったに登校していなかったらしい。
 瑠璃島村という街灯さえ心もとないのどかな島で生まれ育った人間からすれば、未成年が朝まで繁華街で過ごすなんてことは信じられないことである。更に蜜木の耳にはたくさんのピアス穴が開いており、頭髪はこの色だ。一言で言えば〝異質〟である。クラスメイトたちは蜜木に対して興味はあるものの、どう接していいかわからず一定の距離を保って学校生活を送っていた。一方の蜜木本人も、瑠璃村島で友達を作る気は無いのか、一人で飄々と過ごしていた。
 その蜜木が、誰よりも校内アンケートについて詳しく知っていると言うのだ。僕の聞き耳調査では、ほんの断片的な情報しか得られなかったというのに。
 「知りたい?」と聞いてきた蜜木に、僕は力強く「もちろんだ」と返した。
 謎の真相を逃がすものかと、蜜木の腕を掴んでいる手に力を込める。
「いいよ。教えてあげる。そのかわり、俺のことを〝君〟って呼ぶのやめてほしい。せめて、〝蜜木くん〟って呼んでほしい」
 蜜木は、やけに真っ直ぐと僕の目を見て言った。
「会長は他のクラスメイトのことを苗字に〝くん〟付けで呼ぶのにさ、俺だけ〝君〟だよね。これ、すごく不公平だと思うんだ。だから俺も〝くん〟付けで呼ばれたい」
 蜜木は、どこか少し拗ねているような口調でそう述べた。
 確かに僕は、たとえば『山田』という苗字のクラスメイトがいたとすれば、男女問わず『山田くん』と呼んでいる。
 蜜木のことも当初は『蜜木くん』と呼んでいた気がするが、目に余る生活態度に心底呆れてしまったせいか、いつの間にか蜜木のことだけは『君』と呼ぶようになっていたようだ。
 僕からしたら、そんなことはどうだっていいことに思える。だが、ここで一言『蜜木くん』と言うだけで求めていた情報が手に入るなら、お安い御用なのである。
「蜜木くん」
 蜜木の腕を掴んだまま、蜜木の顔を見上げて一言そう呼んでやると、蜜木は「わあ」と、明かりが灯ったような笑顔で嬉しそうに笑った。
 蜜木は常に柔和な表情を浮かべていて、周りの人間に話しかけられることがあれば誰に対しても微笑みを向ける。しかし、それらは全て作り笑いなのではないか?僕はこの時、自分に向けられた蜜木の(おそらく)本物であろう笑顔を見て、そんなことを思った。
 今、僕は蜜木に八重歯があることを初めて知ったが、校内でそれを知っている人間が果たして僕以外に何人いるのだろうか。
 蜜木和。どこまでも食えないやつである。何を考え、どういう理屈で行動しているのか、さっぱり読めない。
 まあ、今はそんなことどうでもいいのである。
「約束通り、校内アンケートについて教えてほしい」
「うん。約束だもんね」
 やけに上機嫌な蜜木は「じゃーん」と言って、片手に持っていた黒いバインダーを僕に差し出してきた。バインダーには、白いコピー用紙とボールペンが挟まれている。
 これは?僕が尋ねるより先に、蜜木が答えた。
「はい、これが今噂になっている怪しい校内アンケートでーす」
 僕はバインダーと蜜木の顔を交互に見る。
 これが、噂の、校内アンケート……?
 突然豪速球でぶつけられた謎解きに、僕の理解が追いつかない。犯人が悪びれもなく自白してくるという、まさかの急展開である。
 混乱したまま僕はバインダーを受け取り、挟まれた紙を見る。縦に挟まれたA4コピー用紙の一行目には、『校内学力アンケート』と印刷されている。その下に学年と氏名を書く欄があり、その下には漢字の読みを問う問題が三問縦に並んでいた。
 その問題の内容はこうだ。

 【『』内のひらがなを漢字で書いてください。送り仮名がある場合は送り仮名も書きましょう。

 ①便利な道具を『はつめい』する。
 ②一生『たのしく』暮らしたい。
 ③『あした』のことは考えない。】

 どれも小学校で習う簡単な漢字だ。中学生なら誰でも答えることができるだろう。
 問題は三問だけだが、各問題の解答欄がやけに大きいため、コピー用紙の下まで余すことなく使われている。
 学年と氏名以外の個人情報を書き込む欄は無い。
 これが本当に、あの噂の校内アンケートだというのか?
 どうにも僕は信じられなかった。
「さっきも話したが、アンケートに記入すると大変なことになると聞いている。このアンケートに答えたとして、どう大変なことになるんだ?」
 噂との辻褄が合わないのである。
 目的のわからないアンケートではあるが、仮に答えたとしても回答者が困ることは特にないような気がするのだ。
 これでは注意のしようがない。瑠璃島村中学校には、生徒が勝手にアンケートを採ってはいけないという校則はないのだ。
「噂の真相が気になるなら、アンケートに答えてみるしかないね」
 蜜木はサプライズパーティーでも企んでいる子供のように含みのある微笑みを僕に向けていた。
 何か裏がある。そうは察したが、それがどんなものなのかはわからない。
「でも、特別にヒントをあげるね。ヒントをあげるから、このアンケートに答えるとどんな目に遭うのか、当ててごらん」
 蜜木が僕に向かって人差し指を立てた。
「ヒントひとつめ。俺は、発明部という部活を創部しようと思ってるよ」
「発明部?」
「うん。俺、将来会社とかで働きたくないんだよね。発明品を作って、売って、そのお金で暮らしていけたらいいなって。でさ、なんかよく『善は急げ』って言うでしょ?だから、今のうちから部活動として発明品作って、校内で売ろうと思ってるんだ。それで儲けて、その儲けたお金でまた次の発明品を作って、また儲けて。なんていうか、社会に出る前の準備運動みたいな感じかな。軍資金集めだね」
 頭が痛くなった。一から十まで寝言のような話である。どこから指摘すればいいのかまるでわからない。いや、もう指摘などせず、関わらないのが正解なのかもしれない。
 しかし、このまま野放しにしておくのは、風紀に悪影響を及ぼす可能性がある。
「僕は認めないぞ、発明部なんて。それに、創部は最低でも部員が二人いないと申請ができないと校則で決まっている」
 生徒手帳に書かれている校則を暗記している優秀な僕は、一応校則という名の釘を刺しておくことにした。
 この校則がある限り、発明部を創部できる可能性はほぼゼロだろう。
「現在、在校生徒はほぼ全員がなにかしらの部活動に所属している。瑠璃島村中学校では部活動の兼部ができないから、創部のために別の部活から部員を引っ張ってくるとなると、その生徒が所属している部活動を退部させないといけなくなる。そんな得体の知れない部活に入部するために所属している部を退部する物好きなんて、本校には一人もいないと僕は断言するぞ」
 蜜木には気の毒だが、これが事実だ。
 だが蜜木は、そんな事情は痛くも痒くもないというような余裕すら感じる微笑みで、二本目の指を立てる。
「ヒントふたつめ。筆跡って、なかなか偽装できないよね」
 一つめのヒントと、この二つめのヒントが、どう繋がるというのだろう。
 蜜木が三本目の指を立てる。
「ヒントみっつめ。それね、俺が発明したとっておきの発明品なんだ」
 蜜木が誇らしげに、僕の持っている黒いバインダーを見た。ついさっき蜜木から手渡されたものだ。
 発明品?手元のバインダーをよく見てみると、どうやら白いバインダーを黒の油性ペンで塗りつぶしたものであることに気がついた。理由はわからない。
 蜜木が手を下げる。
 ヒントは終わったらしい。
「どう?謎は解けたかな?」
 蜜木の問いに、僕は悔しさを噛み締めながら首を横に振った。
 探偵に憧れる身でありながら、謎を解けなった。屈辱である。
「そっかぁ。じゃあ、アンケートに答えてみるしかないね」
 蜜木は口端に八重歯を覗かせて、前のめりになって僕にアンケートの記入を促した。
 しかし、理屈はどうあれ、記入するとめんどくさいことになるのはほぼ確実だろう。
 僕は手に持っていた蜜木の自称発明品のバインダーを、押し付けるように蜜木に返した。ひとまずはこのアンケートにも蜜木にも、一切関わらないのが賢明であると判断したのだ。
 蜜木は僕の行動が予想外といった様子で、ひどく狼狽していた。
「えっ、会長、記入してくれないの?」
「僕はアンケートに協力するなんて一言も言っていない」
「でも、噂の真相、気になるでしょ?気になるよね?記入してくれないと、謎解きの答え合わせができないよ?」
「やめろ腕を離せ」
 僕が蜜木に捕まれた腕を振り解くと、蜜木は捨てられた子犬のような瞳で僕を見た。
 やめてほしい。そんな目をされたら、まるで僕がひどいことをしたみたいではないか。
 しかし、僕がわずかに心を痛めたのも束の間。蜜木はすぐにいつもの微笑みを浮かべると、言ったのである。
「そっかぁ、会長にはこの問題はちょっと難しすぎたかぁ。ごめんねぇ」
 それは、まるで小さな子供と話しているかのような口調であった。おまけに頭まで撫でられた。
 僕の頭の中で、ブツンと何かが切れる音がした。
 これは蜜木からの宣戦布告である。絶対に負けられない戦の火蓋が、今ここに切られたのである。
 優秀な僕に、こんな簡単な問題が解けないわけがないのである!馬鹿にするな蜜木和!
「こんな問題、すぐに解ける!」
 バインダーを蜜木から奪い取り、挟んであったボールペンを手に取ると、強い怒りを筆圧に乗せて学年と氏名を力強く記入した。そうしてそのままあっという間に全問解き終わると、再び押し付けるようにバインダーを蜜木に返した。
 宣言通り、すぐに解いてやったのである。僕の勝ちである。
 バインダーを受け取った蜜木は、回答用紙を見てなにやら嬉しそうに頷く。
「俺、会長の字好きだよ。真面目に書いてるのに、ふざけてるみたいに下手くそでかわいい」
 失礼の追い討ちである。僕ほどの器が大きく品のある人間でも、あやうく舌打ちをしてしまうところだった。
 自分の字が汚いことは、嫌々ながらも自覚している。僕の唯一の短所である。どう頑張って書いても、一文字一文字がそれぞれ意思を持ってブレイクダンスでもしているかのように明後日の方向へ散らかってしまうのである。
「近々、ペン字講座のテキストを買って綺麗な字に矯正するつもりだ。今に見てろ」
「そうなんだ。残念だけど応援してるね」
 綺麗な字が書けるようになったら、真っ先に蜜木の鼻を明かしてやる。静かな怒りの炎を燃やして、僕はそう決意したのである。
「僕の字が汚いことはどうでもいい。それよりも、そのアンケートの謎の真相が聞きたい」
 話を本題に戻した。
 蜜木は「まあまあ」と宥めるように言うと、「明日になってからのお楽しみだよ」と言って、笑った。
 なんだそれ。心の中で小さく文句をこぼした。けれど、その場で真相について追求することはしなかった。
 この時の僕は、あの噂話は些細な話に大袈裟な尾ひれがついたものなのかもしれないと考え始めていた。現に、今さっき僕はアンケート用紙の内容を確認したけれど、怪しい点は何一つなかったのだ。だから、アンケートに答えたところで僕が困ることなどひとつもないし、校内の噂話もじきに収束するだろう。
 ふと窓を見ると、外はすっかり薄暗くなっていた。今の時期はあっという間に日が暮れる。
「僕はもう帰る。君も、もう帰ったほうがいい」
「あっ、また〝君〟って呼んでる」
「僕にどう呼ばれるかは、君の生活態度次第だ」
 不満げな顔をした蜜木と数秒見つめあったが、先に折れて目を逸らしたのは蜜木だった。僕の勝ちである。
 肩を落とした蜜木が、ため息と共に「あーあ。こういうの、何て言うんだっけ?確か、前途多難?」と唐突に聞いてきたが、唐突すぎて意味がわからなかったため、蜜木の独り言だと判断して聞き流すことにした。
「いいよ。俺頑張るからさ、今に見ててよ」
 蜜木が背筋を伸ばして、急に真面目な顔で僕を見た。
 それが何に対しての宣言なのかはわからなかったが、僕は大きく頷き、「頑張れ」と返した。頑張ることはいいことである。
 蜜木はハハッと短く声を上げて笑うと、「また明日ね、会長」と微笑んで去っていった。
 僕の記入したアンケート用紙を挟んだバインダーを、やけに大切そうに抱えて。