1
「瀬名くん、私と付き合ってください」
昼休み。国語科準備室へ行く途中、聞こえてきた声に足が止まった。ひとけのない渡り廊下で告白されているのは、幼なじみの瀬名凌だ。
「ごめん。俺、好きな人いるから」
「そっか、分かった。ごめんね、時間取らせちゃって」
「いや、俺の方こそ。今まで通りに話してくれたら嬉しい」
相手が誰だと覗き見ると凌と目が合ってしまった。マズいと慌てて引き返したが遅かった。
「蒼葉!」
「ごめん、覗くつもりは無かったんだ。如月先生に呼ばれて、偶然通りかかって」
「分かってるよ、今から国語科準備室?」
「うん。ワークを取りに来いって」
「手伝うよ」
にっこり笑う凌と歩き出す。
凌は昔からモテる。180センチ近い長身だし、切れ長な目にすっと通った鼻筋は涼しげな美形だと思う。それに、こうして手伝ってくれる優しさもある。
――凌が好きな人って、誰なんだろう……。
凌は2度、彼女がいた。
いずれも唐突に付き合い、すぐに別れた。あまりに短い付き合いで、どんなところを好きになって付き合ったのか聞いたことがない。あえてオレが聞かないようにしてたってところもあるけど。
「蒼葉、どうした?」
凌の声が耳元でして、びくりと肩が上がった。
「ううん、なんでもない。それより次の古典、お腹いっぱいで眠くなりそう」
「俺も。昼のあとの授業は辛いよな」
*
5時間目、教室には気だるい雰囲気が充満し、夢の中へ行く者が続出している。
4月から採用になった如月先生は、「地味」とか「存在感がない」と生徒から甘く見られている。
「初冠っていうのは、元服、今の成人式みたいなものね。その時に初めて冠を被るの。初めてって緊張するわよね、みんなはどう?」
眠らないようにがんばっていたオレも、重いまぶたに逆らえない。先生に視線を向ける凌がだんだん消えかかって来たときだった。
ザッと空気を揺らすような音がして、一気に意識を引き戻された。顔を上げると、如月先生は眼鏡が外し、結わえられていたはずの髪は解かれていた。
「……それでね、やっぱり初めて入れる時ってドキドキしちゃうの」
話の内容も状況もつかめないが、寝ていたはずのみんなの視線が先生に集中している。
窓から入る爽やかな風が、先生の緩やかに巻かれた髪をなびかせる。地味さは微塵もない。
微妙な緊張感の中、それを打ち破るように「先生」と凌の声がした。
「はい、瀬名くん。なに?」
「コンタクト、うまく入ったんですか?」
「入ったわ。だけど、初めて入れる時は本当に怖かったの」
授業が終わると教室の後ろの方で「如月先生、可愛いかったな」と一部のクラスメイトが盛り上がっている。
たしかに、先生がメガネを外すと目が大きく、明るく見えた。
オレもメガネをやめてコンタクトにしてみようか。
凌に意見を聞こうとしたら、如月先生を呼び止めていた。廊下で楽しそうに先生と話をしているのを見ると、胸の辺りがモヤモヤした。
*
帰りのホームルームが終わると凌が話しかけてきた。
「今日ウチに寄っていかない? 蒼葉が観たがってた映画、サブスクで見られるようになったし」
「マジ? 行く!」
凌とオレの家は徒歩5分の距離だ。幼稚園の頃、凌が引越して来てから、小中高と同じ学校に通ってる。
家に着くと、2階にある凌の部屋に通された。凌が冷えたコーラを出してくれて、テレビの前に座る。
「ホラー映画だから、雰囲気出した方がいいよね」
凌がそう言って部屋のカーテンを閉め、オレの隣に腰を下ろした。
服が触れる距離にドキドキしながら画面を見る。
始まって早々、恐怖心を煽る効果音にどきりと肩が上がった。凌に伝わったみたいで、大丈夫? というような顔を向けられた。
うんとうなずくと、心なしか体をオレにくっつけて来た。心地よさに凌の方へ体が傾いていく。
「……蒼葉、起きて」
凌の声に目を開けると、思い切り凌に寄りかかっていた。長い時間、凌に体を預けて寝てしまっていたみたいで、右腕が少し痺れている。
「ごめん。寝ちゃって」
「ううん。蒼葉、疲れてる? 無理やり誘っちゃったかな」
「違う。全然そんなことない。ごめん、重かったよね」
「これくらい平気」
「あー、ほんとごめんっ」
「いいって。またウチに来ればいいんだし。寝てるとき邪魔かなと思って、蒼葉のメガネ外しておいた」
テーブルに置かれたメガネを受け取ると、5時間目のことを思い出した。
「そういえば、古典の授業終わった後、如月先生と何を話してたの?」
一瞬、凌がどきっとした顔をした。
「ん? あぁ、……ちょっと質問してた」
「へぇ……」
歯切れの悪さが引っかかった。あのとき、凌は質問しているようには見えなかった。
「授業中、先生メガネ外してたけど、アレ何だったの?」
「あぁ。主人公の『ある男』がきれいな人を見て恋に落ちて、自分の着ていた衣を破って歌を贈ったって先生が説明してたのは聞いてた?」
「そんな話してた?」
「ふふ、そっか。先生が恋に落ちたら『私ならメガネ外して、髪を解いて』ってやったんだよ。変わってるよな」
「オレも明日からメガネ止めて、コンタクトにしようかな」
「えっ」
「イメチェン! 良くない?」
凌が何故か困った顔をした。
「ドライアイなのにやめた方がいいよ。それに俺はメガネ、蒼葉に似合ってると思う」
「でも、このダサメガネを外してイメチェンするのも良くない? だって、先生メガネ外したら全然違ったよ」
「……もしかして、蒼葉、好きな人いるの?」
凌が顔を覗き込んでくる。至近距離で目が合い心臓の鼓動が強くなる。
「い、いや。別に」
「怪しいな」
ただでさえ腕が触れているのに、ぐっと顔を寄せてきた。心臓がバクバクして、どうにかなってしまいそうだ。
「ちょっと、凌、近いよ」
「あ、ごめん」
距離の近さに耐えきれず、凌から体を引いた。凌の顔が赤くなったように見えた。
2
次の日、コンタクトにした。
電車を降りると、吹いて来た春風にまばたきをした。
駅から緩やかな坂を歩いていくと後ろから「おはよう」と声をかけられた。
「あ、早見さんおはよう」
「あれ? 蒼葉くん、今日メガネは?」
「コンタクトにしてみた」
「もしかして、昨日の如月先生の影響?」
「いや、たまにはいいかなと思って」
いつもなら挨拶を交わして通り過ぎるはずの早見さんが、今日は並んで歩く。
早見さんから甘くていい香りがする。
校門をくぐると生徒会があいさつ運動をしていた。その中には凌もいて、軽く挨拶を交わし昇降口に入った。
「私、蒼葉くんは絶対コンタクトの方がいいと思う」
「そう?」
「うん、絶対そう。明るく見える。それに――」
「ん?」
「ううん。なんでもない」
下駄箱の扉を閉めて、再び教室へと一緒に歩き出す。こんなことは初めてだ。
ふたりで教室に入ると、他のクラスメイトにも「えっ」と驚かれた。
――蒼葉のコンタクト姿、初めて見た!
――メガネだと目が小さく見えるのかも。
――いつも前髪がメガネにかかってるけど、今日は流してるのがいいのかな。
次々に評価され、あまり褒められたことがないオレはくすぐったい気持ちになる。
でも、やっぱりコンタクトにして良かった。
「オレ、めちゃくちゃドライアイだから、いつまで続くか――」
分かんないけどね、と言い切る前にトントンと肩を叩かれた。
振り返るとこわばった顔の凌がいて、「ちょっと、こっち」と腕をつかまれ廊下に引っ張られた。
「凌、なんだよ急に」
「どうしてメガネじゃないの?」
「え、気分だよ」
なぜか凌が小さくため息をついた。
「メガネは持ってきてるの?」
「うん、念のため」
「そっか。ならいいけど」
凌の顔にいらだちが透けて見えた。
「なんか怒ってる?」
「いや、ごめん。怒ってない。早見さんたちと話してたところ邪魔して悪かった」
ふいっと顔を背けて教室に入っていく。いったい何なんだ。長い付き合いだけど、こんな風に凌の機嫌が悪くなることがある。本当に、ごくたまにだけど……。
*
今日も5時間目は古典の授業だ。国語科準備室へ行こうとすると凌が「俺も」とついて来ようとした。
「今日は大丈夫だよ」
「いや、何か配布物あるかもしれないだろう?」
断れず一緒に廊下を歩く。いつもなら和やかに会話が弾むのに沈黙が流れる。今日は朝からずっとこんな感じだ。あまりの居心地の悪さに口を開く。
「「あのさ」」
言い出すタイミングも言葉もシンクロした。
「蒼葉から言って」
「じゃ、オレから。凌、なんか朝からずっと機嫌が悪いよね。それって、如月先生のことが好きだから?」
「は?」
「だって、昨日の授業終わりに楽しそうに話してたし、今だって一緒に行くのは先生と話したいからじゃないの?」
「だったらどうする?」
「え……」
思ってもみない返答に、どう返したらいいか分からず言葉に詰まってしまった。
「ごめん、今のは意地悪だった。好きじゃないよ、全然」
また沈黙が落ちて、ふたりとも黙ったまま準備室に着いた。
ドアをノックすると、「どうぞ」と軽快な返事が返ってきた。ドアを開けると如月先生がオレを見て微笑んだ。
「いいじゃない、蒼葉くんもコンタクトにしたんだ」
「はい。先生も今日コンタクトなんですね」
「本当はもともとコンタクトなの。あ、これ内緒ね」
人差し指を唇の前で立て、イタズラっぽく笑った。横を見るとなぜか凌がムッとしている。
如月先生はそんな凌を意に介さず、「じゃ、これ渡しておいて」と、どさっとプリントを渡してきた。
3
コンタクトに変えて1週間が経った。
凌の機嫌が悪いままだ。会話はするし、帰りも一緒だけど沈黙している時間が長い。地味にメンタルがやられる。
今日の朝は凌が生徒会の当番で、一緒じゃなかったのが気楽だった。
3時間目、調理実習でシフォンケーキを作ろうと粉を振るう作業をしていた。
「痛っ」
何かが目に入ったのか、あまりの痛さに手が止まった。
「ちょっと見せて」
隣にいた早見さんがオレを見上げる。何とか目を開けると至近距離で視線が絡み、ぼっと頬が熱くなる。
「赤くなってる」
「えっ」
思わず早見さんから一歩引いた。
「コンタクト外した方がいいかも、目、結構充血してる」
「……」
やっぱり、と返事をして、持っていたふるいを早見さんに渡した。痛む目を押さえながら廊下へ出たところで「蒼葉」と凌の声がした。
「目が痛いんだろ? 俺も行く」
「大丈夫だよ、ひとりで」
「いいから、こっち!」
手首をつかまれ廊下をどんどん進んで行く。行き止まりにある生徒会室の引き戸を開け、凌へ引き寄せられた。
「ちょっと凌、顔近いっ」
「なぁ、アオ」
久しぶりに「アオ」と呼ばれ、心臓が跳ねる。顔の右側に手を突かれて壁に追い詰められた。
「見せて」
有無を言わせない表情に痛みを堪えて目を開けた。
「もっと」
今より大きく目を開けると、ぽとりと冷たい雫が目に入ってきた。
「目薬、持ってたの?」
「ん。もう少し我慢して」
凌の声色がさっきより優しくなった。
ぽとり、ぽとりと目薬が入ると目の縁から薬と混じった涙が溢れていく。
凌のすっとした顎のラインが綺麗だ。切れ長の目も、柔かく微笑むとうっすら出来るえくぼも、好きだ。凌の持つものが、こんなにもオレを揺らしてくる。
「どう? もう痛くない?」
「うん。マシになった」
「よかった」
安心したように笑う凌はズルい。オレがこの1週間、どんな気持ちで過ごしたかコイツは分かってない。
目薬なのか、涙なのか、分からないものが頬を伝っていく。
「凌、どうしてずっと怒ってるの」
凌がオレの言葉に一瞬はっとしたように目を見開いた。
「……ごめん」
「凌、如月先生のことが好きなの?」
「どうして」
「やっぱり否定できないんだ」
「いや、違う」
「オレが先生と話すのが気に食わなかった?」
「違う! 俺は、おまえが好きすぎるから他の女子と話すのがたまらなくイヤだったんだよ!」
「!」
目の前にある凌の顔がさっと赤くなる。言われている意味が全く分からない。
「アオは全然分かってない。アオはメガネを取ると途端にモテるんだよ。さっきの早見さんだってそう。この1週間で、おまえのこと何回聞かれたと思ってる?」
「……へ?」
「無自覚だよな、昔っから。アオって、特に年上にモテるんだよ」
「え、年上にモテた覚えはないよ。同じ年にもモテた自覚も無いけど」
「だよな。オレが全力で止めてたからだよ」
疑問符が頭の中に飛び交う。
年上にモテるのは凌の方じゃないか。中2の時も高校に入ったばかりの時も、先輩に告白されて付き合ったじゃないか。
「俺が付き合ったのは、アオに近づかないように牽制したからだよ。俺にアオの情報を欲しいと話しかけてきたから、『俺にしませんか』って2、3回、一緒に帰っただけだよ」
「どうして、そんなこと」
「好きだからだよ。ずっと、好きだった。でも言えるわけないだろう」
なんだよ。最初っから言ってくれ。
この1週間の機嫌の悪さが腑に落ちた。思い返してみれば中2と高1の春。どっちも彼女ができたわりに、凌の機嫌は悪かった。
おそらく、いや絶対こんな凌の顔を見たことがある人はいない。
いつものクールな凌はどこかに消えて、頬を赤く染め、泣きそうな目をしている。
そうだった。出会った頃、オレよりずっと小さかった凌を守りたいと思ったんだ。
オレは凌の瞳をじっと見つめる。
「蒼葉、そんなにじっと見られたら、どうしたらいいか分からなくなる」
「オレもずっと凌のことが好きだったんだよ」
「アオ、嫌なら避けて」
凌が近づいてきて、キスまでの距離が縮まる。
あと5センチ……オレは目を閉じた。
「瀬名くん、私と付き合ってください」
昼休み。国語科準備室へ行く途中、聞こえてきた声に足が止まった。ひとけのない渡り廊下で告白されているのは、幼なじみの瀬名凌だ。
「ごめん。俺、好きな人いるから」
「そっか、分かった。ごめんね、時間取らせちゃって」
「いや、俺の方こそ。今まで通りに話してくれたら嬉しい」
相手が誰だと覗き見ると凌と目が合ってしまった。マズいと慌てて引き返したが遅かった。
「蒼葉!」
「ごめん、覗くつもりは無かったんだ。如月先生に呼ばれて、偶然通りかかって」
「分かってるよ、今から国語科準備室?」
「うん。ワークを取りに来いって」
「手伝うよ」
にっこり笑う凌と歩き出す。
凌は昔からモテる。180センチ近い長身だし、切れ長な目にすっと通った鼻筋は涼しげな美形だと思う。それに、こうして手伝ってくれる優しさもある。
――凌が好きな人って、誰なんだろう……。
凌は2度、彼女がいた。
いずれも唐突に付き合い、すぐに別れた。あまりに短い付き合いで、どんなところを好きになって付き合ったのか聞いたことがない。あえてオレが聞かないようにしてたってところもあるけど。
「蒼葉、どうした?」
凌の声が耳元でして、びくりと肩が上がった。
「ううん、なんでもない。それより次の古典、お腹いっぱいで眠くなりそう」
「俺も。昼のあとの授業は辛いよな」
*
5時間目、教室には気だるい雰囲気が充満し、夢の中へ行く者が続出している。
4月から採用になった如月先生は、「地味」とか「存在感がない」と生徒から甘く見られている。
「初冠っていうのは、元服、今の成人式みたいなものね。その時に初めて冠を被るの。初めてって緊張するわよね、みんなはどう?」
眠らないようにがんばっていたオレも、重いまぶたに逆らえない。先生に視線を向ける凌がだんだん消えかかって来たときだった。
ザッと空気を揺らすような音がして、一気に意識を引き戻された。顔を上げると、如月先生は眼鏡が外し、結わえられていたはずの髪は解かれていた。
「……それでね、やっぱり初めて入れる時ってドキドキしちゃうの」
話の内容も状況もつかめないが、寝ていたはずのみんなの視線が先生に集中している。
窓から入る爽やかな風が、先生の緩やかに巻かれた髪をなびかせる。地味さは微塵もない。
微妙な緊張感の中、それを打ち破るように「先生」と凌の声がした。
「はい、瀬名くん。なに?」
「コンタクト、うまく入ったんですか?」
「入ったわ。だけど、初めて入れる時は本当に怖かったの」
授業が終わると教室の後ろの方で「如月先生、可愛いかったな」と一部のクラスメイトが盛り上がっている。
たしかに、先生がメガネを外すと目が大きく、明るく見えた。
オレもメガネをやめてコンタクトにしてみようか。
凌に意見を聞こうとしたら、如月先生を呼び止めていた。廊下で楽しそうに先生と話をしているのを見ると、胸の辺りがモヤモヤした。
*
帰りのホームルームが終わると凌が話しかけてきた。
「今日ウチに寄っていかない? 蒼葉が観たがってた映画、サブスクで見られるようになったし」
「マジ? 行く!」
凌とオレの家は徒歩5分の距離だ。幼稚園の頃、凌が引越して来てから、小中高と同じ学校に通ってる。
家に着くと、2階にある凌の部屋に通された。凌が冷えたコーラを出してくれて、テレビの前に座る。
「ホラー映画だから、雰囲気出した方がいいよね」
凌がそう言って部屋のカーテンを閉め、オレの隣に腰を下ろした。
服が触れる距離にドキドキしながら画面を見る。
始まって早々、恐怖心を煽る効果音にどきりと肩が上がった。凌に伝わったみたいで、大丈夫? というような顔を向けられた。
うんとうなずくと、心なしか体をオレにくっつけて来た。心地よさに凌の方へ体が傾いていく。
「……蒼葉、起きて」
凌の声に目を開けると、思い切り凌に寄りかかっていた。長い時間、凌に体を預けて寝てしまっていたみたいで、右腕が少し痺れている。
「ごめん。寝ちゃって」
「ううん。蒼葉、疲れてる? 無理やり誘っちゃったかな」
「違う。全然そんなことない。ごめん、重かったよね」
「これくらい平気」
「あー、ほんとごめんっ」
「いいって。またウチに来ればいいんだし。寝てるとき邪魔かなと思って、蒼葉のメガネ外しておいた」
テーブルに置かれたメガネを受け取ると、5時間目のことを思い出した。
「そういえば、古典の授業終わった後、如月先生と何を話してたの?」
一瞬、凌がどきっとした顔をした。
「ん? あぁ、……ちょっと質問してた」
「へぇ……」
歯切れの悪さが引っかかった。あのとき、凌は質問しているようには見えなかった。
「授業中、先生メガネ外してたけど、アレ何だったの?」
「あぁ。主人公の『ある男』がきれいな人を見て恋に落ちて、自分の着ていた衣を破って歌を贈ったって先生が説明してたのは聞いてた?」
「そんな話してた?」
「ふふ、そっか。先生が恋に落ちたら『私ならメガネ外して、髪を解いて』ってやったんだよ。変わってるよな」
「オレも明日からメガネ止めて、コンタクトにしようかな」
「えっ」
「イメチェン! 良くない?」
凌が何故か困った顔をした。
「ドライアイなのにやめた方がいいよ。それに俺はメガネ、蒼葉に似合ってると思う」
「でも、このダサメガネを外してイメチェンするのも良くない? だって、先生メガネ外したら全然違ったよ」
「……もしかして、蒼葉、好きな人いるの?」
凌が顔を覗き込んでくる。至近距離で目が合い心臓の鼓動が強くなる。
「い、いや。別に」
「怪しいな」
ただでさえ腕が触れているのに、ぐっと顔を寄せてきた。心臓がバクバクして、どうにかなってしまいそうだ。
「ちょっと、凌、近いよ」
「あ、ごめん」
距離の近さに耐えきれず、凌から体を引いた。凌の顔が赤くなったように見えた。
2
次の日、コンタクトにした。
電車を降りると、吹いて来た春風にまばたきをした。
駅から緩やかな坂を歩いていくと後ろから「おはよう」と声をかけられた。
「あ、早見さんおはよう」
「あれ? 蒼葉くん、今日メガネは?」
「コンタクトにしてみた」
「もしかして、昨日の如月先生の影響?」
「いや、たまにはいいかなと思って」
いつもなら挨拶を交わして通り過ぎるはずの早見さんが、今日は並んで歩く。
早見さんから甘くていい香りがする。
校門をくぐると生徒会があいさつ運動をしていた。その中には凌もいて、軽く挨拶を交わし昇降口に入った。
「私、蒼葉くんは絶対コンタクトの方がいいと思う」
「そう?」
「うん、絶対そう。明るく見える。それに――」
「ん?」
「ううん。なんでもない」
下駄箱の扉を閉めて、再び教室へと一緒に歩き出す。こんなことは初めてだ。
ふたりで教室に入ると、他のクラスメイトにも「えっ」と驚かれた。
――蒼葉のコンタクト姿、初めて見た!
――メガネだと目が小さく見えるのかも。
――いつも前髪がメガネにかかってるけど、今日は流してるのがいいのかな。
次々に評価され、あまり褒められたことがないオレはくすぐったい気持ちになる。
でも、やっぱりコンタクトにして良かった。
「オレ、めちゃくちゃドライアイだから、いつまで続くか――」
分かんないけどね、と言い切る前にトントンと肩を叩かれた。
振り返るとこわばった顔の凌がいて、「ちょっと、こっち」と腕をつかまれ廊下に引っ張られた。
「凌、なんだよ急に」
「どうしてメガネじゃないの?」
「え、気分だよ」
なぜか凌が小さくため息をついた。
「メガネは持ってきてるの?」
「うん、念のため」
「そっか。ならいいけど」
凌の顔にいらだちが透けて見えた。
「なんか怒ってる?」
「いや、ごめん。怒ってない。早見さんたちと話してたところ邪魔して悪かった」
ふいっと顔を背けて教室に入っていく。いったい何なんだ。長い付き合いだけど、こんな風に凌の機嫌が悪くなることがある。本当に、ごくたまにだけど……。
*
今日も5時間目は古典の授業だ。国語科準備室へ行こうとすると凌が「俺も」とついて来ようとした。
「今日は大丈夫だよ」
「いや、何か配布物あるかもしれないだろう?」
断れず一緒に廊下を歩く。いつもなら和やかに会話が弾むのに沈黙が流れる。今日は朝からずっとこんな感じだ。あまりの居心地の悪さに口を開く。
「「あのさ」」
言い出すタイミングも言葉もシンクロした。
「蒼葉から言って」
「じゃ、オレから。凌、なんか朝からずっと機嫌が悪いよね。それって、如月先生のことが好きだから?」
「は?」
「だって、昨日の授業終わりに楽しそうに話してたし、今だって一緒に行くのは先生と話したいからじゃないの?」
「だったらどうする?」
「え……」
思ってもみない返答に、どう返したらいいか分からず言葉に詰まってしまった。
「ごめん、今のは意地悪だった。好きじゃないよ、全然」
また沈黙が落ちて、ふたりとも黙ったまま準備室に着いた。
ドアをノックすると、「どうぞ」と軽快な返事が返ってきた。ドアを開けると如月先生がオレを見て微笑んだ。
「いいじゃない、蒼葉くんもコンタクトにしたんだ」
「はい。先生も今日コンタクトなんですね」
「本当はもともとコンタクトなの。あ、これ内緒ね」
人差し指を唇の前で立て、イタズラっぽく笑った。横を見るとなぜか凌がムッとしている。
如月先生はそんな凌を意に介さず、「じゃ、これ渡しておいて」と、どさっとプリントを渡してきた。
3
コンタクトに変えて1週間が経った。
凌の機嫌が悪いままだ。会話はするし、帰りも一緒だけど沈黙している時間が長い。地味にメンタルがやられる。
今日の朝は凌が生徒会の当番で、一緒じゃなかったのが気楽だった。
3時間目、調理実習でシフォンケーキを作ろうと粉を振るう作業をしていた。
「痛っ」
何かが目に入ったのか、あまりの痛さに手が止まった。
「ちょっと見せて」
隣にいた早見さんがオレを見上げる。何とか目を開けると至近距離で視線が絡み、ぼっと頬が熱くなる。
「赤くなってる」
「えっ」
思わず早見さんから一歩引いた。
「コンタクト外した方がいいかも、目、結構充血してる」
「……」
やっぱり、と返事をして、持っていたふるいを早見さんに渡した。痛む目を押さえながら廊下へ出たところで「蒼葉」と凌の声がした。
「目が痛いんだろ? 俺も行く」
「大丈夫だよ、ひとりで」
「いいから、こっち!」
手首をつかまれ廊下をどんどん進んで行く。行き止まりにある生徒会室の引き戸を開け、凌へ引き寄せられた。
「ちょっと凌、顔近いっ」
「なぁ、アオ」
久しぶりに「アオ」と呼ばれ、心臓が跳ねる。顔の右側に手を突かれて壁に追い詰められた。
「見せて」
有無を言わせない表情に痛みを堪えて目を開けた。
「もっと」
今より大きく目を開けると、ぽとりと冷たい雫が目に入ってきた。
「目薬、持ってたの?」
「ん。もう少し我慢して」
凌の声色がさっきより優しくなった。
ぽとり、ぽとりと目薬が入ると目の縁から薬と混じった涙が溢れていく。
凌のすっとした顎のラインが綺麗だ。切れ長の目も、柔かく微笑むとうっすら出来るえくぼも、好きだ。凌の持つものが、こんなにもオレを揺らしてくる。
「どう? もう痛くない?」
「うん。マシになった」
「よかった」
安心したように笑う凌はズルい。オレがこの1週間、どんな気持ちで過ごしたかコイツは分かってない。
目薬なのか、涙なのか、分からないものが頬を伝っていく。
「凌、どうしてずっと怒ってるの」
凌がオレの言葉に一瞬はっとしたように目を見開いた。
「……ごめん」
「凌、如月先生のことが好きなの?」
「どうして」
「やっぱり否定できないんだ」
「いや、違う」
「オレが先生と話すのが気に食わなかった?」
「違う! 俺は、おまえが好きすぎるから他の女子と話すのがたまらなくイヤだったんだよ!」
「!」
目の前にある凌の顔がさっと赤くなる。言われている意味が全く分からない。
「アオは全然分かってない。アオはメガネを取ると途端にモテるんだよ。さっきの早見さんだってそう。この1週間で、おまえのこと何回聞かれたと思ってる?」
「……へ?」
「無自覚だよな、昔っから。アオって、特に年上にモテるんだよ」
「え、年上にモテた覚えはないよ。同じ年にもモテた自覚も無いけど」
「だよな。オレが全力で止めてたからだよ」
疑問符が頭の中に飛び交う。
年上にモテるのは凌の方じゃないか。中2の時も高校に入ったばかりの時も、先輩に告白されて付き合ったじゃないか。
「俺が付き合ったのは、アオに近づかないように牽制したからだよ。俺にアオの情報を欲しいと話しかけてきたから、『俺にしませんか』って2、3回、一緒に帰っただけだよ」
「どうして、そんなこと」
「好きだからだよ。ずっと、好きだった。でも言えるわけないだろう」
なんだよ。最初っから言ってくれ。
この1週間の機嫌の悪さが腑に落ちた。思い返してみれば中2と高1の春。どっちも彼女ができたわりに、凌の機嫌は悪かった。
おそらく、いや絶対こんな凌の顔を見たことがある人はいない。
いつものクールな凌はどこかに消えて、頬を赤く染め、泣きそうな目をしている。
そうだった。出会った頃、オレよりずっと小さかった凌を守りたいと思ったんだ。
オレは凌の瞳をじっと見つめる。
「蒼葉、そんなにじっと見られたら、どうしたらいいか分からなくなる」
「オレもずっと凌のことが好きだったんだよ」
「アオ、嫌なら避けて」
凌が近づいてきて、キスまでの距離が縮まる。
あと5センチ……オレは目を閉じた。

