俺にだけ可愛い幼馴染みの本性は、甘くて重い

「は、っ……はぁ……っ」

 どれだけ走ったのか分からないけど、心臓が破裂しそうなほど脈打っていて苦しい。

 でもそれ以上に、後ろから追い掛けてくる聖から逃げるのに必死だった。

 空き教室から一番近い階段を降りて、どこに行くのか考えるよりも先に一階まで降りると、渡り廊下を走り抜ける。

 ちらほらと運動部の生徒たちが俺を見て驚いた顔をしていたけど、いちいち気にしていられるほど周りを見れなかった。

「待ってよ、蓮ちゃん……!」

「ぅ、わっ……!?」

 あと少しで渡り廊下を抜けられる、って思ったと同時にぐいと手首を摑まれた。

 いきなり摑まれたから転けそうになったけど、なんとか耐えて立ち止まる。

 すると心臓の音と荒い息遣いが、頭の中にうるさいほど響いた。

「ねぇ、さっきの……聞いてた、んでしょ」

 聖は俺よりも息切れしていて、声も可哀想なくらい震えていた。

 今にも泣きそうな声で、その言葉に答えたいのに何も言えない。

 息が上がって、呼吸が整わないからっていうのもある。

 ……いや、これは言い訳だ。

 もしも『聞いてた』って言ったら、少しでも頷いたら、聖がなんて言うのか怖いんだ。

「……蓮ちゃん」

 もう一度名前を呼ばれて、俺の手首を摑む力がわずかに強くなった。

 痛くないけど、摑まれた手首が火傷しそうなくらい熱い。

 俺は何も言えなくて、ただ唇を引き結ぶ。

 本当なら振り向きたいけど聖がどんな顔で、どんな言葉を吐くのか怖くて……黙ってるしかできないなんて小心者だな、俺は。

 まぁ聖も俺のことをずっと避け続けていたから、本音は怖かったのかもしれない。

 そう思うと似た者同士で、つくづく話し合わないととは思う。

 渡り廊下の真ん中で、お互いに黙ったままどれくらい経ったのかな。

 もうこの近くを通る生徒はいなくて安心する反面、いつまでもこうしているのは恥ずかしい。

「聖、俺は」

「蓮ちゃん、聞いて」

 俺の言葉に被せるように、聖が(さえぎ)ってくる。

 ついさっき泣きそうな声を聞いた手前、聖からの言葉を無視する訳にはいかなかった。

「……なんだよ」

 でも口から出たのは小さい子供が拗ねてるような口調で、内心で呆れてしまう。

 そういうこと言いたいんじゃないだろ、バカか俺は。
 心の中で自分に突っ込んでいると、俺の手首を摑む力がかすかに緩んだ。

「一週間前、後輩の女の子から手紙貰ったよね。放課後、僕に『行ってくる』って言って……あの後、気になってこっそり着いていったんだ」

 それは初めて聖の口から聞かされる話だった。

 というか、着いていったって……ストーカーかよ。

「ごめんね、ストーカーみたいなことして」

「ふ、っ……」

 一応自覚はあるんだな。

 俺の心を読んだのかってくらい正確で、小さく笑ってしまう。

「今笑ったでしょ」

 笑い声が聞こえたみたいで、今度は聖がちょっと拗ねた声で言う番だった。

「ごめん」

 反射的に謝罪すると、軽い仕返しなのかまた手首を摑む力が強くなる。

「まぁいいけど。……悪いことだって思ったよ、本当に。ただ、後悔もした」

 そこまで言うと聖の手が離れていって、いやに静かで落ち着いた声が渡り廊下に反響した。

「蓮ちゃん、後輩の子とハグしてるんだもん」
「……はい?」

 今、聖はなんて言った?

 唐突に繰り出された言葉の意味が分からなくて、俺は反射的に聖の方を振り返る。

 すると聖は顔を俯けていて、ほとんど床と話してるっぽかった。

「勘違いかも、って思ったけどそうとしか見えなくて……バイト入ったって嘘ついて、先に帰ったんだ」

 あれ、肩に付いてたチョークの粉を払っただけなんだけど。

 でも遠目からだとそう見えるよな、とは思う。聖が最後までしっかりやり取りを見ていれば、って言葉が前に付くけど。

 そのあと近くから音がしたから、あの音を立てたのは聖なんだろうな。

「……あの時はただ、肩が汚れてたから払っただけだ。ハグなんか、してない」

 ひとまず誤解を解きたくてはっきりした口調で言うと、聖は自分に言い聞かせるみたいに小さく頷いた。

「自分でも分かってるんだ、周りが見えなくなってたって。……それ見て嫉妬した、って言った方が正しいかな」

 そこまで言うと聖はゆっくりと顔を上げて、まっすぐに俺を見つめてきた。

 少し下にある表情は泣きそうで、でもかすかに口角が上がっていた。

 俺が振り返っていた事に声を詰まらせたけど、それもほんの一瞬だけで、聖はきゅうと唇を噛むと覚悟を決めたように口を開く。

「ずっと……昔から、蓮ちゃんのことが好きだったから」

「っ、ひじ……り」

 大切に(いつく)しむように、どこまでも優しい声だった。

 嫉妬って、俺のことが好きって、本当に言ったのか?

 夢じゃなかったら俺も『好き』って返さないとなのに、どうしてか喉に何かが張り付いた感じがして声が出ない。

 ただ呼吸をするだけで精一杯で、落ち着いたと思っていた心臓の音がまた大きくなっていく。

 でも一瞬だったけど、聖は俺の目を見て『好き』って言ってくれた。

 それだけでも嬉しくて、なんなら俺の方が泣きそうになってるのに、聖はまた顔を伏せる。

 なんで隠すんだ、顔見せろよ。

「……なぁ」

 たまらず聖に向けて手を伸ばすと、驚くほど素直に触れさせてくれた。

「え、っ」

 でも頬に触れたと思ったらすぐに手を払われて、ぱちぱちと目を瞬かせる。

「さわ、んない……ほ、がいい……」

 一歩二歩と後ろに下がって、聖は途切れ途切れにそう言い切った。

 俯いてるから顔は見えないけど、目の前の幼馴染みの心がいっぱいいっぱいだっていうのは何も言わなくても分かった。

「ごめんね、気持ち悪くて。でも今言わなかったら後悔するって……おもっ、て」

「……バカ」

 自信なさげに言う声がひどく(しゃく)で、苛立ちもそのままに短く呟く。

「ば……え、なに……?」

 すると今度は聖が何度も目を瞬かせる番で、その拍子に俺の方を見てくれた。

 盗み聞きしたのがバレた時に比べて、純粋に驚いてるのか分かるだけでも溜飲(りゅういん)が下がるってやつだろう。

「バカって言ったんだ。ずっと俺のこと避けて……やっと話せたのに、なんでそんなこと言うんだ。気持ち悪いなんて思うわけないだろ、バカ聖」

 聖が話す隙も与えないほど、口早に捲し立てる。

 落ち込んだ時のこいつには遠回しじゃなくて、正直に言わないと分かってくれない。

 それくらい普段は空気を読んでいて、時々俺にも気を遣ってるっていう嫌な癖があるんだけど。

 すると聖は、ふっと小さく笑った。

「ふふ……ふっ、ふふふ。なに、それ」

 くすくすとおかしそうに、泣き笑いに近いくらい聖は文字通り腹を抱えて笑った。

「あ、あの……聖、さん?」

 さすがに心配になって聖の傍に寄ろうとするも、それはまだ駄目らしい。

 俺に向けて片手を突っぱねてきて、それでも聖はまだ笑ってる。

 ツボに入ったみたいで、しばらく聖の静かな笑い声が渡り廊下に響いた。

「……はぁ、笑った」

 そう言って目尻に浮かんだ涙を拭うと、聖は俺をまっすぐに見つめ返してくる。

「これでもね、どうして逃げたのか分かってるんだよ。蓮ちゃんは僕のことが好きだから逃げたんだ、って」

 おかしいよね、と聖はまた小さく肩を震わせる。

 ……あの、こっちは色々とキャパオーバーなんですけど。

 そもそも、俺が聖と神尾のやり取りを盗み聞きしたから嫌そうな顔されたのは、俺が悪いから仕方ない。

 でも久しぶりに真正面から聖の顔を見て、思ったこと言ったら笑われて。

「……何考えてんのかわかんねぇ」

 聖に聞こえないようにぼそりと呟くと、やっと笑いが収まったらしい俺の目の前に歩いてきた。

 あ、やべ。全部聞こえてたか?

「っ」

 真正面から、それも上履きの爪先が触れそうなほど近付かれて、思ったよりも近い距離に図らずも一歩後退(あとずさ)る。

「じゃあ僕のこと、どう思ってるの?」

 唇が柔らかく弧を描いて、聖が首を傾げて問い掛けてきた。

 笑ってるのに普段の笑顔とは違って、でもさっきみたいに黙ってちゃ駄目なのは分かってる。……分かってるのに。

「え、そりゃ……」

 改めて聞かれると別の意味でドキドキして、なんだか息が苦しい。

 この人、さっきまで百面相してたよな? そんな、いきなり気持ちって切り替えられるもんなのか?

「あー……えっ、と」

 なんだか聖の顔を見るのが急に恥ずかしくなって、あちこちに目を泳がせる。

 今度こそはっきり『俺も聖が好き』って返さないとなのに、『あー』とか『えー』とか言葉にならないものばかりが唇から溢れていく。

 まともに聖の顔を見られなくて、恥ずかしさとか緊張とかで今度こそ本当に泣きそうになってると、聖にそっと頬を包み込まれた。

「っ、ひじり……?」

 いきなりでびっくりしたけど聖の手はあったかくて、涙はもちろん羞恥心まで引っ込んでいく。

 ……なんか変な顔してるのかな。

 聖は楽しそうに笑ってて、でもどうしてか背中の辺りがぞわぞわする。

 不思議な感覚に戸惑っていると、聖の顔が近付いてきた。

「──僕は蓮ちゃんが好き。ねぇ、僕のことどう思ってる?」

 もう一度、今度は言い聞かせるみたいに、ことさらゆっくりと問い掛けられた。

 間近で見つめ合った聖の瞳は甘くて、恋人同士の雰囲気さえする。

 恋人……? 両想い、ってことか……?

 ぱっと頭に浮かんだ事実が今一度、俺の心にじんわりと染み込んでいく。

 そんなの、頭で考えなくても決まってる。

「俺も、聖のこと好き……っ!?」

 勇気を振り絞って口を開いたけど、最後まで言う前にぎゅうと抱き締められた。

 聖の方が少し小さくて、綺麗な顔もあいまって力も弱いと思っていたけど、一切そんなことはなかった。

 むしろ俺とあんまり変わらない、それ以上の力で抱き締められてちょっと苦しい。

「ひ、聖……?」

 行き場のない両手をひとまず聖の背中に回して、あやすみたいにぽんぽんと何度か叩く。

 分かってはいたけど、何もかもいきなりなのは昔からのお約束というか。

 ……好きって言ったは言ったけど、なんだかもやもやする。

 告白の返事一つ、お前はちゃんと言わせてくれないのか。

「……なぁ聖」

 さすがにコケにされたみたいで悔しくて、聖に文句の一つでも言ってやろうと小さく聖の名前を呼んだ。

「──俺も好き。蓮弥のこと、大好きだよ」

 でも俺が何かを言う前に、低く艶っぽい声が耳元に吹き込まれる。

「っ、な……!?」

 ほんと、いきなりなんなんだ!?

 今まで聞いたことないくらい甘くて、背中に回る聖の腕が力強いことをいやでも意識して、なんなら身体がバカみたいに熱い。

 絶対顔赤くなってるだろ、これ。

 ……でも。

 聖がしてくれるのと同じくらい、俺もぎゅうと強く抱き締め返す。

「好きだ。……好きだよ聖」

 一回じゃ到底足りなくて二回言うと、同時に心臓が痛いほど跳ねるのが分かった。

 ただ、抱き締め合ってるからどっちがどっちのものか分からなくて、でもきっと同じくらいドキドキしてるんだと思う。

「……ふふ」

 やがて聖がかすかに笑う声が聞こえて、ちょっとした仕返しで聖の背中を軽く叩く。

「笑うなよ」

 聖が笑う度に俺にまで振動が伝わって、でも少しも嫌じゃなかった。

「だって、お互い勘違いして……笑うなって方が無理でしょ」

「うっ」

 確かにそれはそう。というか、そもそもの発端は聖からだけど。

「ちゃんと話し合ってたら、よかったのかもな」

「そうだねぇ」

 俺の声に聖の楽しげな、まだ笑い混じりの声が後を追った。

 しばらくして、どちらからともなく腕の力を緩めると、こつんと額を合わせる。

「俺たち、両想い……で、いいのかな」

「うん。幼馴染みじゃなくて……恋人、だね」

 一言一言噛み締めるように言う聖の言葉が、なんだかこそばゆい。

「そう、か」

 俺が小さく笑って相槌を打つと、聖も呼応するように笑う。

 お互い照れ隠しみたいにしばらくの間、額を合わせて笑い合った。