「──ん。……ちゃ、ん」

 柔らかくて少し高い声が、まだ寝惚けてる俺の耳元にしっとりと聞こえてくる。

「っ、……?」

 そっと瞼を上げると、ぼやけてはいるものの見慣れた茶髪が目に入った。

「……ま、ぶし、……っ」

 けれどすぐに目を刺すほどの太陽の眩しさを感じて、反射的に顔の前に手をかざす。

 寝る前にしっかりとカーテンを閉めていたから、こんなことをするのは母さんか幼馴染みしかいない。

「あ、起きた?」

 小さな笑い声が聞こえて、ギシリとベッドのスプリングが(きし)んだ。

 まだ頭は半分夢の中で、目の焦点は合わない。

 でも目の前の相手が誰なのかは、たとえ目を閉じていても分かる。

 幼馴染みの(ひじり)と目が合って、俺が起きたのに気付くと、太陽の輝きに負けないほどの笑顔を見せた。

「おはよ、(れん)ちゃん」

 まだベッドに横になっている俺の方に身体を向けて、聖がいつもと変わらないセリフを吐く。

 聖とは幼稚園の頃からの腐れ縁で、家も歩いて五分くらいの近所だからか、昔からずっと一緒だった。

 高校受験の時期になると多少は疎遠になるかと思ったが、俺と同じところに行くと言って必死に勉強してたっけ。

 いつしか分からないところを教えると、そのお礼にお菓子やジュースを奢ってくれるのは、お互い無事に進学出来た今も変わらない。

 教える度にいちいちお金を使ってたらそのうち散財するぞ、と言いたかったけど、できなかった。

 聖が嬉しそうに『好きなもの選んで』というものだから、あまり強く断れない俺も結局のところ、聖に弱いんだと思う。

 ふあ、と俺はあくびを噛み殺しながら、ゆっくりとベッドから起き上がる。

「おはよう、今日は起きるの早かったね」

 聖はもう一度挨拶を繰り返すと、今にも鼻歌を歌い出さんばかりの上機嫌な声で言った。

「……はよ」

 軽い低血圧というのも合わさって、まだ眠い目を擦ってはガシガシと頭を掻く。

()っ……!」

 ……あ、やべ。髪が引っかかった。

 (ほぐ)すのは面倒で、絡まった毛ごと力いっぱい引きちぎろうとしていると、それに気付いた聖がすかさず俺の髪に触れる。

「こら、そんなことしない」

 そう言うと聖は改めて俺をベッドの端に座らせ、通学カバンの中から国民的人気な某猫のポーチを取り出した。

 その中から折りたたみ式のコームを出すと、手早く絡まった髪を解していく。

 聖はクラスのおしゃれ好きな女子と同じか、それ以上に髪に気を遣っている。

 だからか、いつ見てもさらさらで艶があって、俺はというと適当にブラシで()いて終わりだった。

 出掛ける時はさすがにちゃんとするけど、学校に行くためにわざわざセットするのは面倒くさい。

 こういうところがズボラって言うんだろうな、と思っていると、ぽんと肩を叩かれた。

「……よし、出来た! もういいよ、立って」

「ん、ありがと」

 聖の合図で俺はのそりと立ち上がると、すぐに俺の顔を覗き込んでくる。

「おばさんがご飯作っておいたから、早く食べちゃいなさいってさ」

 きゅ、と俺のパジャマの袖を摑みながら聖が言った。

 やる事がいちいち可愛らしくて、こういうのを『あざとい』って言うんだろうか。

 母さんは聖のことを息子同然に思っていて、俺が何か言う前にさっさと家へ上げる。

 それもひとえに聖が同性にしては顔立ちが整っているからで、動画配信でもすればすぐに芸能関係のスカウトが来るかもね──と、俺に常々言ってくる。

 確かに聖は綺麗な顔をしていて、女子から人気があった。

 なんで俺の隣りに居るんだよ、って時々突っ込みたくなるくらいに。

 そもそも人あたりがいいから男女問わず友達がいて、女子から告白されている場面を見たのは数え切れない。

 けれど聖は一向に彼女を作らず、俺の側にいてくれる。

 俺といてもつまらないと思うけど、それは聞くだけ野暮ってやつだろう。

 それほど長い時間を一緒に過ごしていて、気を許しているところがあるのは事実だから。

「ね、早くリビング行こ?」

 重ねて聖が言うので、少し下にある顔を見つめながら俺は唇に淡い笑みを浮かべた。

「……そだな」

 聖の声を聞きながら手早くパジャマを脱ぎ、制服のシャツに腕を通そうとする。

 けれど背中に視線を感じて、俺はシャツを持ったままそちらに顔を向けた。

 見れば聖がにこにこと微笑んでいて、さも機嫌が良さそうだ。

「なんだよ、なんか付いてる?」

 男の、それも幼馴染みの背中なんぞ見ても何もないだろうに、今日の聖は朝からずっと笑っていて少し気味が悪い。

 いつも機嫌がいいけど今日は特別というか、何かいい事でもあったとしか思えなかった。

「んーん、なぁんにも」

 気にしないで、と聖が続ける。

「そうか」

 聖がそう言うんだから、何もないんだろう。

 揃って部屋を出て、リビングに向かう。

 両親は俺が起きる少し前には揃って家を出ているため、誰もいないリビングはどことなく物悲しい。

 けれど聖がいるから寂しくはなくて、今日も俺が朝食を食べ終えるのを待ってくれている。

 こんがりと焼けたトーストとソーセージに卵焼き、器には野菜が盛られていた。

 それらを黙々と食べている間、聖はテーブル向かいに座って母さんが作っておいてくれた弁当箱を包むのが日課だった。

 それだけでなく俺が洗い物をしている間は、聖が軽くリビングを掃除してくれる。

 本来は俺がやるべき家事の一つで、なのに聖は『僕がやりたいから』と言って譲らない。

 やる事が少なくて助かる反面、少なからず聖に甘えてしまっている事実は変わらないというのに。

「──でさ、ほんっとうにおかしいんだよ。そういえばこの前も……」

 家を出てしばらくして、俺は隣りで楽しそうに話す聖を見る。

 茶髪は地毛で、軽くセットしているのか柔らかく毛先が跳ねている。

 そういえば、入学初日に『黒く染めて来い』って学年主任とひと悶着(もんちゃく)あったっけ。

 あの時の聖と学年主任を思い出すと、まだ笑える。

 常に緩やかに口角が上がっていて、口調もどこか飄々(ひょうひょう)としているから、そのせいもあるのかもしれないけど。

 俺は聖ほど愛想がよくも口数が多い方でもないから、ちょっとだけ羨ましい。

「へぇ、そうかのか」

 時々相槌を打ちながら聖の話を聞いていると、自然と時間が経つのも早く感じる。

 俺は誰にも邪魔されない二人だけの時間が、一番好きだった。

「……わ、人いっぱいだねぇ」

 やがて家の最寄り駅に着くと、聖がやや驚いた声を出した。

 ちょうど通勤通学の時間帯だからか、当たり前だけどこの時間は人が多くて嫌になる。

 特に今日は早めに出ているため、いつにも増して人が多く見えた。

 でも周囲より頭一つぶん高い身長もあって、そこまで息苦しくないのが幸いだった。

 しばらく電車に揺られて、学校のある最寄り駅に着く。

「──うわ、今日バイトあるんだった!」

 改札を出てすぐに隣りを歩いていた聖が立ち止まり、スマホに視線を向けながら俺の肩にもたれかかった。

「今日ってなんかあったっけ」

 そんな聖を支え、俺はひょいとスマホを覗き込んだ。

 今日の日付けには青い色のフォントで『バイト』とあり、それ以外は何も登録されていない。

 青は聖、緑は俺という感じで、お互いの予定が分かるように、とスマホにスケジュール管理アプリを入れていた。

 というのも、放課後になると聖はカフェのバイトに行く。

 高校に上がって少ししてからバイトを始めたようで、新たに出来た共通の友達と一緒に冷やかしに行ったきり、俺は聖の働くカフェには行っていない。

 慣れないながらも接客をする聖が様になっていて、少し腹が立ったのかもしれない。

 ただ、基本的にバイトが無い日は一緒に帰っている。

 聖としては、俺と話せる時間が少しでも無くなるのが嫌だから、という理由らしい。

 いじらしいというか、可愛いというか、一緒に帰りたいと言われるのに悪い気はしないけど。

「だってぇ……クレープ食べに行こう、って約束してたのに」

 俺の問い掛けに、聖は今にも泣き出しそうな顔で見上げてきた。

 それはつい昨日、寝る前の通話をした時の事だ。

 突発的に聖が『駅前に新作のクレープ屋が出来たから行こう』と言ってきたのだ。

 甘いものは俺も好きだし、正直なところ楽しみにしていた部分もある。

 けれど翌日の予定を確認していないのは聖らしくなくて、俺は反射的に唇を開いた。

「クレープくらいいつでも行けるだろ。……明日はバイト無いっぽいし」

 次の日は空白で、何かがない限りは(くだん)のクレープ屋に行けるだろう。

 そう言うと、聖は少し眉を開いて笑った。

「そっか。……そだね、明日にしよっか」

 けれど最後の方は俺の顔を見ずに、小さな声で呟く。

 俺の肩にもたれ掛かっているため、少し下にある聖の顔はあまり見えないが、きっと泣きそうな顔をしているのは明白だ。

 そんな悲しそうな声出すなら、最初からバイトなんかしなけりゃいいのに。

 そう言ってしまいたいが、今の聖には何を言っても答えてくれないのは分かっていた。

 隠し事をする時、聖は俺の顔を見ないから。

 また何か隠してるんだろうな、俺が気付いてることも知らないで。

 しかし大体はくだらない理由で、後になって『それくらい隠さなくてもいいだろ』と言う事になるんだけど。

「よっし、学校行こ!」

 ぺし、と聖は軽く自分の頬を叩くと、普段とそう変わらない笑顔で言った。

「……ん」

 俺はあくびを噛み殺しつつ、見る間に元気になった聖の隣りを歩く。

 時々睡魔に襲われそうになりつつも、聖の声が耳に届く度に不思議と目が覚めていった。