これは恋じゃない、はずだった。



 夏休みが明けると、クラスはすっかり文化祭モードだ。廊下には「文化祭まであと〇日!」と書かれたポスターが貼られているし、教室の後ろには少しずつダンボールや模造紙が増えていく。

「A組、お化け屋敷だって」
「クラスTシャツのお金出してない人〜」

 B組のクラスメイトたちも例に漏れず、文化祭の準備に忙しい。
 うちのクラスはカフェをすることになっている。コンセプトは王道のメイドや執事。生徒会は文化祭実行委員と共に忙しいのであまり参加はできないけど、クラス中が浮き足立っているこの感じは楽しくて好きだった。

 夏休みの登校日、そのホームルームで文化祭の最初の話し合いがあった。玲央が教卓に立って、クラスメイトたちを仕切っていたのを覚えている。

「メインは男子が執事服、女子がメイド服?でもまあやりたい人いれば性別関係なく募集しまーす」
「芹沢、執事服着てほしい〜」
「なんで俺なんだよ」
「やっぱりイケメンには着てもらわないとね」

 クラスメイトに茶化されながら、満更でもなさそうに笑う玲央。そのまますらすらと黒板に『コンセプト』『衣装』『メニュー』なんて書き込んでいく。意外とリーダーとか向いてそうだ。

「会長にも着てほしいけどなあ」

 クラスメイトの1人が言うと、教室がどっと沸く。

「芹沢と朝倉で並んだら絶対映える」
「うちのイケメン執事たち!」
「しかもカップル!」

 急に視線を向けられて困っている俺を見ると、玲央が教卓で手を叩いた。

「だーめ。会長は生徒会の仕事で忙しいんだから、困らせないの」

 玲央の一言で、クラスメイトたちは渋々という感じで頷いてくれる。

「じゃあ夏休みから来れるヤツらで準備な〜」

 結局、登校日のホームルームは玲央のその一言で解散になった。


 二学期が始まってからの俺は、毎日のように文化祭関係の雑務に追われている。放課後が始まると同時に生徒会室に向かうし、大量の書類の向き合ったかと思えば、校内を走り回って手続きをしたりする。

 玲央はというと、夏休み明けの学力テストを無事にパスして、クラスの真ん中で準備を仕切っていた。

 B組の教室からは、玲央の声が聞こえてくる。ガヤガヤした廊下でも、玲央の声だけは鮮明に聞こえてくるから不思議だ。

「お前ヤバ、超似合ってんじゃん!」
「めっちゃ字綺麗だね、看板任せるわ」
「買い出し行く人〜」

 クラスの準備を仕切っている玲央。昔から人懐っこくて誰からも愛されるあの性格で、イベント事の度にクラスの中心にいたのを思い出す。

 その代わり、玲央が生徒会室に来ることは減っていた。時々顔を出すけど、すぐに教室に戻っていく。前までずっと玲央が占領していた生徒会室のソファも、今は物置みたいになっている。
 別に、生徒会の役員じゃないし。いつも勝手に居座ってただけだし。玲央にもクラスでの役割があるし。自分にそう言い聞かせても、なんとなく生徒会室の空間が広く感じてしまう。

 放課後の廊下はどこもかしこも文化祭の準備一色だ。ペンキの匂いがする教室や、ダンボールと画用紙が積み上がった教室、廊下で迷路の壁を組み立てている人たちもいる。そんな廊下を通り過ぎて生徒会室の扉を開けると、そこはそこで別のカオスと化していた。

「朝倉先輩お疲れ様です!タイムテーブルの続きどうしましょう〜!」
「会長お疲れ。クラスごとの予算案、2年はC組以外揃ってる」

 机の上に所狭しと置かれた書類やメモ。そして由良や速水たちからの業務連絡。毎年文化祭前の生徒会室は戦いだ。

「C組は後で声掛けとく。由良は?タイムテーブルどこまで決めたっけ」
「中庭の方はとりあえず全部決まって、体育館のステージはまだ揉めてます!演劇部と軽音部が……」
「またあそこか」

 溜め息をついてホワイトボードに貼られたタイムテーブルに目を通す。

 由良と話していると、ふと目に入ったのはホワイトボードの隅に貼られた役職一覧だった。
 『会長:朝倉』『副会長:速水』『書記:由良』みたいに並んだ1番下に、小さく『雑用係(特例):芹沢』と手書きで書き足されている。誰かがふざけて書き足したんだろう。でも今は、その字がどこか寂しく見えた。玲央は、しばらくこの部屋に来ていない。

「先輩?どうかしましたか?」

 急に黙り込んだ俺を覗き込むように声をかけてくれる由良。

「悪い、なんでもない」
「お疲れですか?」
「ちょっとな」

 笑ってごまかそうとすると、後ろの机でパソコンを操作していた速水が口を開いた。

「最近芹沢来ないもんね」
「は、はあっ⁉関係ねえよ別に」

 嘘だ。本当はそれがいちばんの原因な気がする。

「いいじゃん、会長と芹沢同じクラスなんだし」
「そうだけど……」
「やっぱ関係あるんだ」
「謀ったな速水」

 惚気お疲れ、なんてけらけら笑っている。速水が俺らの関係をからかうのも、生徒会室では見慣れた光景だ。

「と、とりあえず、体育館の件は明日の昼休みか放課後に話し合ってもらおう」
「分かりました!連絡しときます!」

 生徒会室の外からは、楽しそうに準備する生徒たちの声が聞こえてくる。なんとなく玲央の声もしたような気がした。

「俺はC組行って予算案の受け取ってくる」

 じっと座っているのも落ち着かなくて、速水に声をかけてまた廊下に出る。
 2年C組に行くには隣のB組の前を通らなくてはいけない。自分のクラスなのに、文化祭の準備で散らかった教室はあまり見慣れない雰囲気だった。

「あ、千景!」

 教室の中から玲央が俺を見つけて駆け寄ってくる。廊下に面した窓の枠に肘を乗せて、こちらに身を乗り出す姿は、やっぱり大型犬みたいだ。

「お疲れ!生徒会大変?」
「ああ。しんどい。お前いないし」
「うわ、生徒会長様が頼りにしてくれんの嬉し」

 玲央は頬に白いペンキを付けたままにこっと笑った。

「なあ、うちのクラスの予算案通った?」
「まだ分かんないけど、多分大丈夫だから安心しろ」
「よっしゃ。じゃあ俺の執事姿楽しみにしてて」

 笑っている頬に付いたペンキが気になってしまって、思わず玲央の頬に手を伸ばす。

「……千景?」
「動くな」

 頬を親指で拭ってやる。ペンキは取れたけど、強く擦りすぎたのか、玲央の頬が少しだけ赤くなってしまった。

「ごめん、ちょっと赤くなった」
「……あ、ああ、うん、平気」

 玲央からさっきまでの笑顔が消えて、俺から目を逸らす。反対側の頬も赤く見えたのは、多分、気のせい。

「芹沢~、買い出し終わっ……あ、ごめん邪魔したわ」

 後ろから声をかけられて慌てて振り向くと、クラスメイトの男子が大きめのビニール袋を提げて立っていた。
 彼の目に映っているのは、玲央の頬に触れてる俺と、少し頬を赤らめた玲央。 ……勘違いされる要素しかない、気がする。

「ち、違う!こいつの顔にペンキ付いてて!」
「いいって、お前らが付き合ってんの皆知ってんだから」
「違う!何もしてない!」

 慌てて否定する俺を横目に、玲央は何も言わずに笑っている。否定しろよ。勘違いされたままでいいのか。
 そんな玲央の余裕そうな顔を見ていると、俺の顔まで熱くなってくる気分だ。

「俺、やることあるから、行く」

 居ても立っても居られなくなって、思わず逃げるようにその場を後にする。
 結局隣のC組で予算案の用紙を受け取って生徒会室に戻る間も、顔の火照りは取れなかった。ただ、幼馴染の頬を拭ってやっただけなのに。

 
 文化祭まであと一週間。生徒会室はいつも以上にカオスな空間になっていた。
 机の上に散乱したタイムテーブルのプリントや決定した予算表、印刷されたポスターたち。入り口付近には全校生徒や来場者に配るパンフレットが積まれている。

 由良はパソコンで作業していて、その横で俺と速水がタイムテーブルのプリントの仕分けをしていた。ホチキスでパチパチ止めていると、由良が申し訳なさそうに言う。

「これ終わったらそっち手伝います!もうちょっとなので!」
「いいよ~。ゆっくりで。これ終わったらちょっと休憩しよ」

 いつも通りの穏やかな口調で速水が笑う。

「なんかさ、こういうの見てると文化祭だな~って感じするよね」
「僕、高校入って初めてだから結構楽しみです。生徒会、大変だけど」
「俺らも来年は受験勉強であんま参加できないからな」

 ドタバタの生徒会室で、束の間の休息時間。相変わらず手元はホチキスを動かしているけど、単純作業は雑談と相性が良い。

「うちのクラスの子が、文化祭の日に告白する!って張り切っててさ」

 ふと速水がニヤニヤと笑う。
 
「なんか良いよね~。青春って感じ」
「イベントで告白ってベタだけど良いですよね」

 パソコンから顔を上げて同意する由良。

「てかさ、会長と芹沢ってなんで付き合ったの?」

 どくりとした。俺らが付き合うことになったきっかけは……。

「え、いや、なんとなく、流れで……?」
「えー!何それ!ずるい!」
「速水先輩、そういうのは野暮ですよ」

 由良、ありがとう。助かった。というか、俺ら厳密には付き合ってないし。

「そのクラスの子、どんな感じなんだ?」

 話の流れを変えたくて、速水に聞き返す。

「めっちゃ分かりやすくて可愛いの。よく好きな人の近くで準備手伝ったり、一緒に買い出し行ったり。あれは多分向こうもあの子のこと気になってるね」
「うわ、青春ですね」
「でしょ。会長もそう思わない?」

 俺かよ。俺は別に……。

「知らねえよ」

 恋とか、よく分かんないし。

「その子の話で思ったんだけどさ、恋してるときって大体みんな同じだよね」
「同じ?」
「そう。言葉ってよりも、行動とかかな。恋のチェックリスト的な」

 チェックリストという単語に、自然と耳を傾けていた。

「その人が他の人と仲良くしてるとモヤモヤしたり」

 そう言われてふと思い出す。
 花火大会に行った日、玲央が隣のクラスの女子たちと仲良く話しているのを見た時の気持ち。少しだけ話して別れた後の、ほっとしたような気持ち。文化祭の準備でクラスメイトたちに囲まれて楽しそうにしている玲央を見て、ざわついたあの気持ち。

「声とか姿を目で追っちゃったり」

 文化祭の準備で賑やかな校内でも、玲央の声だけはいつも鮮明に聞こえてくる。教室の前を通りかかるだけで、玲央のことは一瞬で見つけられる。

「その人からもらった物を大事にとっておいたり」

 クマのぬいぐるみ。結局引き出しに仕舞えなくて、机の上の見えるところにちゃんと置いている。

「その人の好き嫌いは全部覚えてたり」

 昔から雷が嫌いで、ブルーハワイ味とチョコミント味が好き。

「あとは、名前呼ばれるだけでドキッとする」

 玲央の声で「千景」って呼ばれるだけで、最近は心臓が大きく脈打つ。今まではそんなことなかったのに。

「そういうのって、大体恋じゃない?」

 違う、と言おうとしたのに、声が出なかった。

 雷の日に、情けないくらいぎゅっと袖を掴まれても、嫌じゃなかった。勉強が嫌いな玲央が、隣でシャーペンを動かしているだけで、なんとなく誇らしかった。クマのぬいぐるみを必死に取ってくれた時、どうしようもなく嬉しくて、怖かった。

 文化祭の準備で生徒会室に来なくなってから、あのソファの空席がやけに目につくようになった。そこにどれだけ散らかった資料を積み上げても、埋まらないものがある気がしていた。

 これは、きっと――。

 認めたら、"彼氏のフリ"だけじゃなくて、幼馴染って関係まで全部壊れてしまいそうだった。だから、その言葉は口には出せない。

「ね、会長。そうでしょ?」
「朝倉先輩も、芹沢先輩にはそうなりますか?」

 心臓が痛い。ずっとそんな訳ないと思っていた。俺は、ただの幼馴染として玲央のことを心配しているだけだ。そう何度も言い聞かせてきた。あいつが雷や花火の音を嫌がるのも昔から知っているし、“彼氏のフリ”だって俺が頼んだから一緒にいてくれるだけで。

 じゃあ、どうして。あいつが他の誰かと楽しそうに笑ってると、こんなに胸が痛くなるんだ。

 教室の窓から見えた、ペンキだらけの頬で笑う顔。誰かに肩を掴まれて、スマホで写真を撮られている玲央。隣にいるのが自分じゃないだけで、視界がじりじりと滲むような感覚。

「……さあな」

 なんとか絞り出した声は、掠れていた思う。

「俺には、よく分かんねえ」

 由良と速水が不思議そうに顔を見合わせる。
 俺はその視線から逃れるように、ホチキスを置いてタイムテーブルのプリントの束を手に取った。

「これ、体育館の掲示板に貼ってくる」
「あ、じゃあ僕も、」
「いい。すぐ戻る」

 いつもより乱暴な口調になった自覚があるけど、自分でもよく分からなかった。

 生徒会室を出ても速水の声が頭で何回もこだまする。

『そういうのって、大体恋じゃない?』

 手に持ったタイムテーブルのプリントが、くしゃりと音を立てる。
 体育館に向かいながら、俺は胸の奥に渦巻くこの気持ちに名前を付ける勇気がなかった。
 
 
 日は少し短くなって、秋が始まっていくのを感じる。体育館の掲示板には、窓から西日が差し込んでいた。

 古いポスターの画びょうを抜いて、文化祭のタイムテーブルを代わりに貼る。単純な作業だからこそ、速水の言葉が頭から離れなかった。

 ――恋。

 そんな訳……、ないとも言いきれない自分が嫌になる。認めるのも怖いくせに、この気持ちを持て余している。

 体育館から出て、教室までの外廊下を歩いていくと、ちょうど中庭が目に入った。中庭の端には自動販売機が置いてあって、休み時間は生徒がよく買いに来ているのを見かけるけど、今日はタイミングが悪かったようだ。
 目に入ったのは、クラスメイトの女子たちと数人で自動販売機の前に立つ玲央の姿だった。玲央が隣に立つ女子に何か笑いかけて、頭をぽんと撫でる。それだけなのに、俺の心はひどくざわついた。
 
「あ、千景だ」

 玲央の声がする。周りのクラスメイトたちも、その声を追うように俺を見た。

「会長おつかれ〜」
「たまにはクラスにも顔出してよ」

 女子たちもそれぞれ俺を労ってくれるけど、目を合わせられなかった。それもこれも、全部速水のあの言葉のせいだ。

「おう」

 ひと言だけ残して、早歩きでその場を去る。これ以上あの場面を見ていたら、自分の中の感情が溢れてしまいそうで怖かった。

 分かっていたことだ。生徒会室に入り浸っていたって、玲央にはちゃんとクラスでの居場所がある。女子にも男子にも好かれていて、昔から輪の真ん中で笑ってるのが似合うタイプだ。そんなのずっと前から知っていたはずなのに、今はそれが、苦しい。

 生徒会室に戻る階段の踊り場に、大きな鏡がある。そこに映った俺は、自分でも知らない顔をしていた。
 
 こんな酷い表情、見られたくない。こんな醜い感情、知られたくない。

 玲央が、俺じゃない誰かの隣に立っている。それだけで、心がかき乱されるように痛いのに。玲央は平然と他の人に笑顔を振りまいて、当たり前のようにクラスの中心にいる。その事実が何よりも痛かった。

 何とか表情を取り繕って生徒会室に戻ると、少し落ち着いた気分になる。いつも通りの光景だ。

「会長、私らそろそろ帰るけど、大丈夫?」
「僕は自分のクラス手伝いに行こうかと」

 鞄に荷物を片付ける速水と由良。2人にも予定があるし、俺も残すはアナウンスの原稿チェックくらいでやる事もない。

「ああ。お疲れ様」

 軽く返事をして、椅子に座る。
 一人になった生徒会室は、いつもの速水の賑やかな声も、由良の静かな相槌もなくて、少し寂しい。パソコンのファンの音とタイピング音だけが響いていた。

 どれくらい時間が経っただろうか。外は薄暗くなってきたけれど、原稿のチェックは終わらなかった。いくら文字を追っても、頭に入ってこない。ああもう、これも全部速水のせいだ。いや、玲央のせいか。

 気を取り直して一度大きく伸びをする。またパソコンに向き直ろうとした時、扉が外からノックされた。

「……はい」

 小さく返事をすると、がらりと音を立てて扉が開く。

「やっほー。雑用係、久々の出勤でーす」

 そこにいたのは、今いちばん会いたくない相手だった。

「最近大変そうだから、様子見に来た」

 見慣れたミルクティー色の癖っ毛が、いつものソファに座ろうとして「うわ物置きにされてる」と諦める。

「お前が来ないから、物置きになった」
「なぁに千景、俺に来てほしかったの?」

 いつも通りの玲央。俺が呆れたような溜め息をつくと、それに気付いてけらけら笑った。

「はい、これ差し入れ。さっき中庭の自販で買った」

 机の上に置かれたのは、中庭の自動販売機で売られているカフェラテのペットボトル。俺が時々飲んでいるやつだ。

「なんでこれ」
「千景、たまに飲んでるから。好きなのかなーって」
「っ、」

 こういうの、玲央は誰にでもするんだろうな。さっき、頭を撫でていたあのクラスメイトにも。

「……さんきゅ」

 お礼の言葉は自分でも驚くほど小さくて、玲央に聞こえていたか分からないくらいだった。

 誰にでも分け隔てなく優しいから、玲央は愛されてる。そうだよ、だから俺が特別な訳じゃない。ただの幼馴染で、今は"彼氏のフリ"を頼んでしまったから、他の人より少し長く一緒にいるだけ。ただ、それだけ。

「なー、千景」

 机に腰掛けた玲央が俺を見る。

「今日の帰り、コンビニ寄らね?なんか甘いもん、奢る」

 柔らかく笑ったその顔が、さっきの中庭で女子に向けていた表情と重なる。その瞬間、俺の心がまた醜く歪んでいくのが分かった。

 他の奴にも、そんな顔してんのかよ。
 俺に、特別扱いされたいって言っただろ。

「……千景?」

 黙り込んだ俺を、心配そうに覗き込んでくる。
 

「そういうの、他の奴誘えば?」


 気付いた時には、もう遅かった。自分でも驚くくらい低い声。口をついて出た言葉は、玲央の表情を固まらせる。

「え……」

 いつもなら軽口で返してくるはずの玲央が、小さく呟いた。

 やってしまった。心の中でそう呟いたけど、今さら引き返せるはずなんてなくて。

「そ、っか。ごめん」

 玲央は一瞬驚いたように表情を歪めて、またすぐにいつものへらへらした笑顔に戻る。

「邪魔したわ。雑用係はここで退散しまーす」

 わざとらしく肩をすくめて笑うその笑顔が、いつもより固くてぎこちない。机から体を離すと、玲央は俺を振り返らずに扉へ向かう。扉を開ける手が少し震えているように見えたのは、俺の都合のいい見間違いかもしれない。

「無理しないでね、会長」

 扉を閉める間際、小さくそう言った。あんなことを言った俺を労わってくれるのが嬉しかったと同時に、"会長"って前の呼び方に戻っていた寂しさを感じる。

 また一人になった生徒会室で、頭を抱えた。

 さっき自分の口から出た言葉が、遅れて喉元に戻ってくる。

『そういうの、他の奴誘えば』

 何様だ、俺は。
 文化祭で忙しくなって、生徒会の仕事が増えて、玲央がクラスで楽しそうにしてたからって。
 勝手にモヤモヤして、勝手に八つ当たりして。

 そう分かっていたはずなのに、あの一言が止められなかった。中庭に見えた光景が、脳裏に焼きついて離れなかった。

 玲央は誰にでも優しい人気者だから。
 そうやって言い訳しながら、心のどこかで期待していたんだと思う。あいつが誘うのは、俺だけであってほしいって。

 他の奴と笑ってるのを見ると、胸の奥がひりつく。
 校内のどこにいても、あいつの声だけはすぐ分かる。
 クマのぬいぐるみも、机の端から動かせないまま。
「千景」って呼ばれるたび、心臓が痛いくらいに跳ねる。

 俺の生活は、もう全部玲央でいっぱいだ。

 出ていった背中を思い出すだけで、喉が詰まる。苦しいくらいの後悔が押し寄せてくる。

 ――これが恋じゃないなら、俺はきっと一生恋なんてできない。

 そう思ってしまうくらいには、俺は玲央に惹かれている。

 俺が欲しかったのは、雑用係なんかじゃない。
「千景、コンビニ行こ」って当たり前みたいに言ってくる玲央で。
 
 その隣を誰でもない“俺”に空けておいてほしかった。

 今さらそんなことに気付いたって、遅いくせに。


 次の日も、その次の日も、玲央は生徒会室には来なかった。教室で目が合っても、お互いに目を逸らす。必要以上の会話はしないし、玲央が俺に話しかけることもない。

「芹沢朝倉カップル、破局って噂されてるけど」

 生徒会室で速水が言う。

「……知らね」

 俺は上の空で、机の上に置かれた文化祭のパンフレットを意味もなく重ねては戻す。

「別れたわけじゃないんでしょ?喧嘩?」
「まあ、そんなとこ」

 別れたわけじゃない。だって、最初から付き合ってないのだから。
 それに、喧嘩というのも語弊がある。俺が勝手に八つ当たりしただけだ。自分の気持ちに気が付いてしまってから、抑えられなくなって、子供みたいに嫉妬して。

「はぁ……」

 大きな溜め息をつくと、前に座った速水に笑われた。

「そんなに寂しいの?どんだけ芹沢のこと好きなのよ」
「……本当にな」
「あら素直。珍しい」

 笑い事じゃねえから。こっちは17年間一緒にいる相手好きになったんだぞ。

「朝倉先輩、これ体育館持ってきますか?」

 由良が予備のマイクをまとめて机に置いてくれる。

「ああ、後で俺が行くよ。由良、まだやることあるだろ」
「ありがとうございます!助かります!」

 文化祭は目前だというのに、俺の心は晴れない。
 今まで玲央に頼んでいた仕事を、全部生徒会のメンバーでこなす。玲央がここに居座る前に戻っただけだ。それなのに、どうしてこんなに心が空っぽになった気分なんだろう。

 生徒会のグループチャットにはちゃっかり玲央の名前がある。前まではよく軽いスタンプが送られてきていたのに、最近は既読の数字が増えるだけ。

「はぁ〜〜……」

 役職一覧の下に手書きで出された『雑用係(特例):芹沢』の文字を見つめながら、俺はもう一度溜め息をついた。


 マイクを体育館に運ぼうとして廊下に出る。廊下の向こう側には、色とりどりのクラスTシャツを着た生徒たちが見えた。

「……あ」

 その中から、すぐ見つけられる。校則違反のミルクティー色の癖っ毛。すらっとした体躯。いつも誰かに囲まれている人気者。
 ――玲央だ。

 段ボールを抱えた玲央が隣の女子と楽しそうに話している。時々その子の肩を小突いていて、誰が見ても仲が良さそうだった。

 また、あの日の光景を思い出す。自分の気持ちに気が付いてしまって、玲央へ八つ当たりしてしまった、あの日。

 すれ違っても目は合わせない。小さく、

「……お疲れ、会長」

 って聞こえた気がして振り返ったけど、玲央はさっきと同じようにクラスメイトたちと喋っている。

 玲央への気持ちと罪悪感が作り出した空耳かと思った。

 でも、一瞬だけ玲央も俺を見た。玲央が何かを言おうと口を開きかけて、やめる。ほんの一瞬だけど、目が合って、すぐに逸らす。

 その顔はいつも通りへらへら笑っているのに、少しだけ苦しそうで、悲しそうだった。

 俺が傷ついたんじゃない。俺が、玲央を傷つけたんだ。

 俺が始めた嘘にあいつを巻き込んだくせに、散々頼っていたくせに、自分の感情に気が付いたら八つ当たりして突き放して。こんなの、俺が利用したって思われたって仕方がない。許されなくて当然だ。

 段ボールを運びながら、タイムテーブルを直しながら、その度にミルクティー色の癖っ毛を探してしまう。手を伸ばせば届く距離にいたはずなのに、それを自分から離したのは俺だ。

 それでも文化祭は待ってくれない。少しずつ玲央との距離が離れていくのを感じながら、文化祭の当日を迎えた。

 
 文化祭当日の朝。校門の前には模擬店の看板が並び、生徒たちの声とスピーカーから流れる音楽が、いつもと違う空気を作っている。

「午前のステージ発表は、予定通り十時開始で大丈夫ですか?」
「ああ。タイムテーブル通りで」

 生徒会本部として貸し出された職員室横のスペースは、朝から慌ただしい。クラスからの問い合わせ、備品の貸し出し、ステージ発表の仕切り。俺の一日は、呼吸をするように仕事で埋まっていく。

「会長、マイクの充電切れそうなんですけど!」
「予備、ここ。使い終わったら必ず返却して」
「はーい!」

 昼過ぎにやっと一段落して、廊下の窓から中庭を見下ろすと、そこにはクラスの出し物の呼び込みで騒ぐ生徒たちの姿があった。

 どんなに人混みでも、一瞬で見つけられるミルクティー色の髪。執事風のタキシードに身を包んで看板を持った玲央が人に囲まれている。

「芹沢~!写真撮ろ!」
「玲央くん似合う!」

 女子だけじゃない。クラスメイトや他校の来場者たちと写真を撮って、笑顔を振りまく玲央。誰かのスマホを一緒に覗き込んで楽しそうに笑う。声をかけられたら笑顔で話す。それだけなのに、俺の心は締め付けられるように痛かった。

『じゃあ俺の執事姿楽しみにしてて』

 準備期間に玲央からそんなことを言われたのを思い出す。
 楽しみにしてたのに。現実は、遠くから眺めているだけだ。

 目を逸らして、生徒会室に向かう。そこには同じく休憩中の速水がいた。

「会長もお昼ご飯?」
「ああ」

 文化祭の日の生徒会メンバーには学校から弁当が支給される。実行委員会と共に尽力した生徒会への、ささやかな報酬のようなものだ。それを手に取って、速水の向かいに腰かける。

「芹沢と何があったの」
「……別に」

 せっかくの文化祭なのに、俺の心は晴れない。速水はずっと俺と玲央のことをからかってたから、余計に気になっているんだろう。心配してくれているのか、よく声をかけてくれる。でも、俺らの関係は話すとややこしいから、何も話していない。
 
 それからの会話は、文化祭に関する業務連絡ばかりだった。適当に昼食を済ませ、また体育館に戻る。

 ステージの発表は午後も滞りなく進んだ。部活や有志のステージを、舞台袖や体育館の後ろから眺めてる。ちゃんと、できてる。俺に任された仕事は問題なくこなしている。でも、どこか心が空っぽなのは――。

 「次は軽音部によるライブです」

 ステージに上がって行く生徒たち。歓声。ライト。音楽。
 俺は舞台袖からそれを見ていた。

 ふと視線を客席に向けると、見覚えのあるシルエットが目に入った。クラスメイトたちと一緒にステージを見上げている玲央。執事服から着替えて、クラスTシャツを着ていた。女子が何か話しかけるたびに、顔を近づけて笑っている。

 チクチクと心臓が針で刺されるような感覚。
 もし、これが全部嘘だったらよかったのに。俺の勝手な勘違いで、玲央なんて最初から好きじゃなかったって、笑い話にできたらよかったのに。
 
 でも現実は、残酷なくらい分かりやすい。
 視界の端に玲央を捉えるたび、心臓が変なリズムを刻む。

 俺が欲しかったのは、こんな遠くから見る景色じゃない。

 一緒に笑って、隣で見上げて、終わったあと「楽しかったな」って言い合える距離。
 そんな自分勝手な欲張りを、今さら自覚したところで何にもならないのに。

 
 後夜祭の音楽が止んで、体育館の中のざわめきが少しずつ薄くなっていく。
 残っているのは照明の熱と、床に落ちた紙吹雪と、片付けのために集められた実行委員と生徒会だけだ。
 
「じゃ、ここは僕と文化委員でやっておくんで、会長はマイクとスピーカー確認お願いします」
「ああ。頼んだ」
 
 由良の声に頷いて、コードをまとめたマイクスタンドを抱えて歩く。胸の奥は相変わらずざらついたままだ。
 
「会長、打ち上げとか行かないの?」
 
 ステージ脇で椅子を畳んでいた速水が、汗を拭きながら顔を上げる。
 
「クラスでカラオケ行くって言ってたでしょ?生徒会はもう十分働いたんだから、少しくらいサボってもバチ当たんないって」
「俺がいないと点呼の紙出すやついないだろ」
「そういう真面目さ、たまには捨てなよ〜」
 
 そう言いながらも、速水は笑って「私、そろそろ帰るね」と手を振った。由良も「お疲れ様でした」と頭を下げて、実行委員たちと一緒に体育館を出て行く。残されたのは、半分暗くなった体育館と、積み上がったパイプ椅子の山と、予備のマイクを抱えた俺だけ。
 
 マイクを抱えたまま、体育館の扉を押して廊下に出る。窓ガラスの向こうはすっかり夜だった。
 外廊下の先から、何人かの笑い声が聞こえてくる。
 
「芹沢〜、はやくー! 予約時間ギリ!」
「はいはい、今行くって」

 聞き慣れた声に、思わず足が止まった。
 
 昇降口の方に続く廊下。色とりどりのクラスTシャツの列の真ん中で、ミルクティー色の頭が揺れている。
 玲央は、クラスメイトの肩に腕を乗せながら、もう片方の手でスマホを弄っている。誰か何か言われるた度に楽しそうに笑っていた。
 
 ――似合うな。
 
 輪の真ん中で笑ってるの、やっぱりあいつだ。
 マイクを持ち直して、何でもないふりで体育館の前を通り過ぎようとした時だった。
 
「あ、会長だ」
 
 クラスメイトの一人が気付いて声を上げる。その声に釣られて、玲央が俺の方を見る。
 一瞬だけ、目が合った。
 
「……文化祭おつかれ、会長」
 
 少し間を置いて、玲央がそう言った。“千景”じゃなくて、“会長”。
 冗談みたいに軽く敬礼してみせる手つきが、妙にぎこちなく見える。
 
「……お前も。カフェ、盛り上がってたな」
 
 それだけ言うのが精一杯だった。
 
 本当は、もっと言いたいことがたくさんあったはずなのに。
 
「だろ?俺、今日めっちゃ働いたから」
 
 そう言って笑う顔は、いつも通りで。
 でも、目の奥だけが、少しだけ探るように揺れていた。
 
「会長も打ち上げ来ればいいのに。担任、さっき『朝倉も顔出せよ〜』って言ってたよ」
「……生徒会の片付け、まだ残ってるから」
「そっか」
 
 短く返事をして、玲央はほんの少しだけ言い淀む。
 今ここで、「じゃあ手伝う」と言ってほしいのか、「じゃあ行ってこい」と背中を押してほしいのか、自分でも分からない。
 分からないくせに、喉元まで何かが込み上げてきて、それを全部飲み込んでしまう。
 
「早く行けよ。クラスの打ち上げ、お前が主役みたいなもんだろ」
 
 ようやく絞り出したのは、そんな当たり障りのない言葉だった。
 玲央は少しだけ、視線を落とす。
 
「……行くよ。行かないと、みんな心配するし」
 
 それはきっと、正しい答えで。 俺が「他の奴誘えば」って突き放した時から、薄々分かっていた未来だ。
 
「じゃ、会長は生徒会、最後まで頑張ってください」
 
 冗談みたいに軽く笑って、玲央はクラスメイトたちの輪に戻っていく。
 
 誰かに肩を組まれて、「玲央マジで今日頑張ってたな〜」なんて言われている声が聞こえる。玲央は「やめろって」と笑いながら、その輪の中に自然に溶けていった。
 背中が、どんどん遠くなる。
 
 玲央はもう俺のそばにはいない。
 雷が鳴っても、もうあいつは俺の袖を掴まない。
 そう思った瞬間、胸の奥で何かが、ぽきりと折れた気がした。