期末試験も終わり、夏休みを目前にした校舎は少しだけ緩んだ雰囲気だ。
平年よりも早く梅雨が明けた。最近は快晴ばかりだし、本格的に夏が始まったのを感じる。
「あの芹沢が全教科赤点回避とはね〜」
「速水ちゃんそれいつまで言うの」
「だって信じられないんだもん」
「いくら雑用係とはいえ、生徒会室にいる人が赤点なんて困りますからね」
「お前も言うようになったな」
相変わらず生徒会室では玲央と速水が言い合っているし、由良が加担するのもお決まりだ。
「お前ら、そろそろ帰っていいぞ」
今日中にやるべき仕事は大体終わった。後は軽く片付けをして帰れば問題ない。
「ねえ千景。コンビニ寄って帰らない?」
「……別にいいけど」
「やった」
……なんで、そんな嬉しそうな顔するんだ。
「んじゃ、俺は千景とデートだからお先に失礼しまーす」
「ちょ、待てって」
速水と由良の視線もお構い無しに、俺の手を当然の顔で掴んで歩き出す玲央。手のひらから伝わる熱に心臓が反応する。
「玲央!なあ、玲央ってば!」
「いいじゃん。彼氏なんだから普通でしょ」
廊下に生徒たちが行き交う時間帯。すれ違う人たちの視線を感じて、顔にも熱が集まるのが分かった。
ローファーに履き替えて外に出ると、夏の夕方の匂いがする。
昇降口でだけ離されていた手は、もう一度繋がれる。今度は指を絡めるように。本当の恋人みたいな玲央の行動に、心をかき乱されているのはもう否定できなかった。
「今日も暑いな~」
俺の気持ちを知ってか知らずか、玲央は呑気にそう言って「アイス食おうぜ、アイス」なんて笑っている。なんか、ムカつく。
学校の門から徒歩3分くらいにある最寄りのコンビニまで歩く間、玲央は今日あったことを色々話してくれた。けれど、俺は玲央の話に空返事をしていただけだったと思う。繋がれた手に意識が集中して、それどころじゃなかった。
コンビニに入ると、玲央は繋いでいた手を解いて、アイスの売り場に早足で歩いて行く。自由になった左手が少しだけ寂しいと思ってしまったのは秘密だ。
「千景はオレンジ?」
「なんで分かるんだよ」
「いつも食べてたじゃん」
そう言いながら玲央はチョコミントの棒アイスを手に取る。こいつもずっと昔からチョコミント好きだよな。
「玲央もまたチョコミントか」
「俺は好きになったら一途なの。浮気なんてしません」
“一途”、“浮気しない”。そんな言葉がアイス以外の話に聞こえて、また少しだけ心臓が鳴った。
会計を済ませようと財布を出すと、手に持っていたオレンジの棒アイスがふわっと取り上げられる。
「俺が誘ったから、奢らせて」
「いいよ別に」
「勉強教えてくれたお礼。こんなんじゃ全然足りないけど」
玲央が引かない時の声と表情だったから、大人しく奢られることにした。次は俺が奢ってやろう。
「そこの公園で食お」
会計が終わってコンビニを出ると、また生暖かい風が吹いている。梅雨は明けたけど、まだ夕方になれば少しだけ涼しい季節。玲央と二人で公園のベンチに座ってアイスをかじると、氷の冷たさとオレンジの爽やかな甘さが口の中に広がる。俺の横に座った玲央は嬉しそうにチョコミント味を堪能していた。
「千景、一口あげるから一口ちょーだい」
「ん」
いつものようにねだられてアイスを玲央の方に向けると、「やった」と呟いてぱくっとかじった。
「うま。はい、俺のもあげる」
そういえば俺、昔チョコミント好きじゃなかったのにな。玲央のせいでいつの間にか食べられるようになってる。そんなことを考えていたのに、目の前に差し出されたチョコミントアイスに体が固まった。……これって間接キス?
少し前までペットボトルの回し飲みだって何ともなかったのに、玲央は“彼氏のフリ”を涼しい顔して続けてくれているのに、急に意識し出した自分が恥ずかしい。
「千景?ほら、溶ける」
「っ、食べる!」
目の前のチョコミントアイスが揺らされて、はっとする。慌てた勢いで大きめに一口をかじってしまった。
「あ。千景、欲張りだ」
俺がかじった跡を見てけらけら笑う玲央。
「ご、ごめん」
「いいよ。彼氏だから許してあげる」
ミルクティー色の髪が夕日に照らされて、柔らかく透ける。なんだかそれが妙に眩しくて、俺は思わず目を逸らした。
放課後に手を繋いでコンビニに寄って、アイスを分け合って食べて……。“彼氏のフリ”にしては妙に日常に馴染んできている。二人とも下の名前で呼ぶようにもなった。どんどん本当の恋人みたいになっている気がする。
……いいや、玲央と一緒にいるのなんて昔からだろ。名前で呼ぶのも、二人で一緒にいるようになったのも、昔に戻っただけだ。そう言い聞かせても、胸のざわめきは消えなかった。
それから夏休みまでの数週間は、玲央とどこか寄り道して帰るのが日課のようになっていた。コンビニで買い食いしたり、駅前のショッピングモールで本屋に寄ったり、ファストフード店でポテトを分け合ったり、俺の放課後の主導権は完全に玲央が握っている。
「千景っ!今日ゲーセン行こうぜ」
生徒会の仕事がひと段落すると、毎日こうやって誘ってくる。今日はゲームセンターへのお誘いだ。
「ちょっとだけだからな」
「えー、ケチ」
なんだかんだ言いつつ、一緒についていってしまう俺も俺である。
夏の陽は長い。夕方の5時でもまだ昼間のように明るい空の下、俺と玲央はまるで本当のデートのような放課後を過ごしていた。
「見て、これ千景に似てる」
クレーンゲームのエリアで玲央が指さしたのは、口を真一文字に結んだ猫のぬいぐるみ。
「どこがだよ」
「怒ってる顔してるとことか」
「別にいつも怒ってない」
「怒ってるじゃん、そういうとこも可愛いんだけどさ」
まただ。玲央は最近、こういうことを平気で言うようになった。俺の気持ちも知らないで、あいつは軽く笑って言うから、きっと"フリ"の一環なんだろうけど。
「あ、こいつ昔千景好きだったよね」
玲央が隣の台の覗き込む。そこには、両手に収まるサイズのクマのぬいぐるみ。確かに、小さい頃の俺はこのキャラクターが好きだった。
「いつの話してんだ」
「俺これやりたい。両替してくる」
スラックスのポケットから財布を取り出すと、両替機まで歩いていく玲央。その後ろ姿が心なしか嬉しそうで、また可愛いと思ってしまったのは俺だけの秘密だ。
「彼氏の威厳、見せてやるよ」
100円玉を握った玲央が、いたずらっぽく笑う。その顔が、小さい頃に一緒に遊んで怒られた時と重なった。
「取れたら、千景にあげる」
「別に欲しいとか言ってない」
そんな気持ちを悟られないように、わざとぶっきらぼうに返す。俺が素直じゃないのも昔から変わらない。
「いいじゃん、減るもんじゃないし」
「増えるのが困んだよ」
これ以上、"玲央からもらうもの"が増えたら、俺はきっと幼馴染じゃいられなくなってしまう。でも、"いらない"の一言がどうしても言えなかった。
玲央はいつも通りの軽口で、でもいつもより少し真剣な顔でガラスの中のクマを見つめていた。
一回目。アームはクマの片腕だけを掠めて、そのまま上がっていく。
「うわ、惜しい」
「どこがだよ。外れてんじゃん」
「今の練習だから」
もう一度100円玉を取り出す玲央。
2回目、3回目と続けるけど、アームはクマの頭を掴むだけで落としてしまう。
「くっそー、アーム弱いな」
「もういいって。俺、欲しいとか……」
言ってない。そう言おうとしたのに言えなかった。
「やだ。俺が千景にあげたいの」
こいつが、真っ直ぐすぎる目で振り向いたから。
「……あんま無駄使いすんなよ」
「無駄じゃないし。千景にあげるプレゼントだもん」
俺のために、そんな真剣な顔するなよ。そう思ったのに、胸の奥が痛いくらいに温かくなっていた。
4回目。玲央が100円玉を機械に入れる。
ほんの少しクマが持ち上がって、落とし穴に引っかかった。
「なあ、これ次いけるって!」
目をキラキラさせて財布の小銭入れを開ける玲央。次の瞬間、少し目を見開いてしゅんとなる。
「100円玉、最後だ。次で決めるから。」
「別にいいって」
「だめ。今日の記念にぜってー取る」
いつになく真面目な顔で機械に向き直った。
「これでダメなら諦めろよ」
この調子ならもう1回両替機に行くとか言いかねないから、釘を刺しておく。
玲央が最後の100円玉を入れて、アームが動き始める。なんで俺まで緊張してるんだろう。
さっきまでより時間をかけて、アームの位置を見定めている。
「……ここだ」
小さく呟くと、ボタンを押す。
アームがゆっくりと下降して、クマの胴体をしっかりと掴む。そのままゆっくり上がっていって――。
(頼む。落ちるなよ)
知らないうちにそう祈っていた。クマのぬいぐるみが欲しかったんじゃない。玲央が落ち込むところを見たくなかった。
そのままアームは落とし穴の上まで動いて、ぽすっと落ちる音がした。
「っっっしゃあ!!見た!?今の!!俺天才!!」
玲央が大声をあげた。さっきまでの真面目な表情は解けて、子どもみたいに嬉しそうな玲央が目の前で笑っている。多分、今このゲームセンターでいちばん嬉しそうなのこいつだ。
「ほら、取れた」
取り出し口からクマを取り上げると、俺の前に差し出す。
「仕方ないから、もらっておいてやる」
本当は、玲央が俺のためにあんな真剣な顔で取ってくれたぬいぐるみが、すごく嬉しかったのに。素直にそう言ったら気持ちを認めてしまうみたいで、怖かった。
両手でぬいぐるみを抱えて見つめていると、ふと玲央が柔らかく笑う。
「部屋に飾っておいてよ」
「飾るって……」
「見る度に俺のこと思い出せるでしょ」
どくんと心臓が鳴った。少しだけ頬も熱い気がしてくる。きっと気のせいだ。
「……毎日、学校で会うだろ」
なんとか口から出た言葉は相変わらず素っ気なかった。真面目に返事なんてしたら、本当にもう戻れない。
「朝と、夜と、あと休みの日用ってことで」
正直、ここ最近の俺はクマのぬいぐるみがなくても玲央のことばっかり考えている。けど、それを認めるのは癪だ。
「隣に住んでるのに?」
「えー、じゃあ千景、休みの日も毎日会ってくれんの?」
あーもう。こいつは何なんだ。俺の気持ちをどこまで弄べば気が済むんだ。
「ちゃんと飾れよ?」
「分かったよ」
渋々了承する。
ベッドの枕元……はなんか生々しいから、勉強机の端にでも置いておいてやろう。
「今度千景の家行ったらチェックするからね」
そう言って笑う玲央の横顔から目が離せなかったのは、何故だろうか。
俺に渡すために、あんな真剣な顔して、何百円も突っ込んで、子どもみたいに喜んでたのかよ。また胸の奥が温かく、いや、熱くなる。"彼氏のフリ"にしては、本気に見えすぎる。でも、それを言ったら何かが決定的に変わってしまいそうで、俺はクマの耳を弄りながら玲央の横を歩いて帰路に着いた。
そんな放課後をまたいくつか過ごしているうちに、いつの間にか一学期が終わった。夏休みに入ってからも俺と玲央は変わらない。毎日のように会って、勉強して、遊びに行くのが「放課後」じゃなくなっただけ。相変わらず、仲のいい幼馴染と本当の恋人の間のような関係だ。
でも、玲央は俺と手を繋がなくなった。多分、学校の人に会う機会が減ったからだと思う。……それが少しだけ寂しいのは、きっと気のせいだ。
「夏休みなのに結局勉強漬けなの、意味分かんない」
俺の部屋に押しかけてきて、当たり前の顔で英語の問題集を広げている玲央。まあ、広げているだけなんだけど。
「夏休み明けのテストで補修になったら笑えないだろ」
「それはそうだけど~」
2学期の最初に行われる学力テスト。そこで補修になると、文化祭の準備に参加できなくなってしまう。イベントごとが好きなこいつも一応それなりの危機感を感じているようだった。
「あ、クマ。本当に飾ってくれてる」
玲央は俺の勉強机の片隅に座るクマのぬいぐるみを見つけると、嬉しそうに笑う。
「置いとけって言ったのお前だろ」
「本当に置いといてくれると思わなくて」
机の前でクマをそっと持ち上げる玲央。まるで本物のペットを抱き上げるみたいに、やたら丁寧だ。
「ここ、特等席?」
「別に。邪魔にならないから置いてるだけ」
「でも、勉強する度に見えるだろ?俺のこと思い出す?」
玲央がいたずらっぽく、でも少しだけ照れたみたいに笑って言う。口調はいつも通り軽いのに、その目はやけに真っ直ぐで、思わず視線を逸らしてしまった。
「思い出すも何も、しょっちゅう会ってんじゃん」
「そうじゃなくてさ~」
でも、玲央のことを思い出すのは事実だった。それがクマのせいかは分からない。正直、何かのきっかけで玲央のことを考えることが増えている。雨が降れば雷が鳴らないか心配になるし、チョコミントのアイスを見れば玲央が好きなやつだなって思う。まるで、俺の生活に玲央が入り込んでいるみたいだ。
「ほらこれ、お前英語苦手なんだから早くやれって」
俺の言葉に、玲央は渋々クマを机に戻してローテーブルの方に戻ってくる。
「ここの“one”は前の文の名詞のことだから――」
「うん」
いつもみたいに説明を続けようとしたけど、さっきよりも近くに座っている玲央の気配で、平常心が保てていないのが分かった。冷房が効いているはずの部屋で、頬が熱くなる。どうして。恋人なんてただの“フリ”なのに、玲央はあんな軽くやっているのに、俺だけが意識してバカみたいだ。そんなことを考えながら、肩が触れる距離でシャーペンを動かす玲央の横顔から目を離せなかった。
文句を言いながらも2時間ほど勉強して、時計が15時を指す頃。床に座ったまま、どてっと後ろに倒れた玲央が俺の背中をつんつんと突く。
「千景、疲れた。コンビニ行こ」
「……休憩するか」
なんだかんだで2時間ちゃんと問題集と向き合っていたし、俺も気分転換がしたい頃だ。玲央の誘いに乗って近所のコンビニへ向かうことにした。
玄関を出ると、痛いくらいの日差しが肌に刺さる。
「夏って感じ」
「まあ、夏だからな」
徒歩5分くらいの距離にあるコンビニまで、並んで歩く。時々手の甲が触れる距離に少しだけ心臓が跳ねた。
「千景、こっち」
角を曲がると、玲央が俺の腕を引いて立ち位置の左右が入れ替わる。
「なんだよ」
「こっちのが日陰だから。マシかなって」
……なんだよ。そんな、本物の恋人にするみたいなこと。
俺の気持ちも知らないで、またそんなことを普通の顔でしてくる。
もやもやを抱えながら歩いていると、ふと玲央が立ち止まった。
「花火大会」
小さな声で玲央が呟く。
振り向くと、歩道に立てられた町内会の掲示板に『○○川花火大会 八月〇日(土)』と書かれたポスターが貼られていた。
「もうそんな時期か」
去年は暑いのが面倒で行かなかったから、忘れていた。
玲央はつま先でアスファルトを蹴りながら、そのポスターを見つめている。
「……ねえ、千景。誰かと行く約束してる?」
恐る恐る、という表現が似合う声で聞いてくる玲央。なんだか、玲央らしくない。
「してないけど」
そう言うと、少しだけ表情を明るくさせて俺を見る。
「じゃあさ、行こうよ。二人で」
「二人?友達とか誘え――」
「やだ。俺、千景と二人で行きたい」
即答だった。あまりに迷いのない声で、思わず言葉に詰まる。
「……なんで、俺なの」
「なんでって、……彼氏、だから」
いつもみたいに“フリ”だろ、って言ってやろうとしたのに、できなかった。玲央の目がいつもより熱っぽい気がしたのは、きっと暑いからだ。
「去年、行かなかったじゃん」
「俺は行ってないけど、お前は友達と行ってただろ」
「中学の時までずっと一緒だったじゃん」
玲央は視線を落とすと、寂しそうに言う。
「千景がいないと、つまんないもん。今年は一緒に行きたい」
俺は玲央のこの表情にめっぽう弱い。
「……一緒に行くのはいいけど、別に二人じゃなくてもいいだろ」
「付き合ってることになってんだから、誰か誘う方が不自然じゃね?」
学校の奴らも来るだろうし、なんて付け足す。
また俺は、自分が始めた嘘に振り回されている。
「分かったよ。予定空けとく」
「やった」
満足そうに頷くと、またコンビニの方に歩き出す玲央。
「千景、浴衣着る?」
「着ない。面倒だし、持ってない」
「えー、似合いそうなのに。じゃあ、来年一緒に着よ」
玲央の中に、来年も一緒の未来が普通にあることがくすぐったい。
隣を歩きながら、夜空に瞬く花火とそれに照らされる玲央の横顔を想像してしまう。何より、もし玲央が“幼馴染”とか“フリの彼氏”以上だったら?なんて考えてしまう自分がいちばん厄介だった。
それからは、あっという間だった。気が付けば今日は花火大会の当日だ。昼間は自分の部屋で問題集を広げていたけど、なんとなくそわそわして落ち着かない。勉強机の端に座るクマのぬいぐるみに、何度も視線が吸い寄せられる。あいつがゲームセンターで俺のために取ってくれたぬいぐるみ。あの日を思い出すだけで、まだ心臓の奥がきゅっと鳴るような気分だった。
少し日が傾いた頃、勉強していた手を止めて机を片付ける。
「……何着ようか」
別に誰に見せるわけでもないのに、クローゼットの前で呟いてしまった。相手は玲央だし。今さら気にすることなんて……。そう思ったのに、なんだか適当な服を着るのも自分が許せなかった。
結局白いTシャツに水色にシャツを羽織って、カーキ色のカーゴパンツを合わせる。鏡の横にかけてあるネックレスなんか手に取ってしまって、自分でも恥ずかしくなる。俺、玲央相手にお洒落しようとしてるのか?……いや、でも花火大会だし。夏の一大イベントにお洒落していくのは別に変じゃないはずだ。相手は誰であろうと。
「付けるか」
言い聞かせるようにして、俺はシルバーのネックレスを首にかけた。鏡で自分の姿をチェックする。うん、変じゃない。
今日の花火大会は最寄り駅から三駅ほど先の地域で開催される。地元が同じ人たちやクラスメイトとすれ違ってもおかしくない。変に気合の入った格好をするのも気恥ずかしい。
「千景~。玲央くん来たわよ」
一階のリビングから母親の声が聞こえて玄関まで降りると、玲央がいた。
「やっほー」
「ん」
玲央はシンプルなオーバーサイズのTシャツに細身のデニム。いつもと雰囲気が違うのは、耳にリングピアスが付いているせいだろうか。ちょっと大人に見える。
「行ってきます」
母親に声をかけると、リビングから「行ってらっしゃい」と返事が返ってくる。
玄関を出て、夏の空気を吸い込む。西の空はオレンジ色になっていて、夕暮れの気配を感じるけど、空気はまだ昼間と同じように暑苦しい。
「千景、ネックレス付けてるの珍しいね」
少し歩いたころ、玲央がそう言って俺を見る。
「まあ。たまには付けてみようかなって」
「良いね。似合ってる」
ああもう、こいつは生粋の人たらしだ。また胸の奥がざわつくのを抑えられない。
駅に着くと想像通りの人混みだった。家族連れやカップル、浴衣姿の人たち。ホームに入っても人の量は増えるばかり。思わずよろめくと、玲央の手が俺の腰を支えてくれる。
「……っ、」
すぐ真横に玲央の肩。ふわっとシャンプーのような香りも届いて、意識してしまう。
電車が到着すると、一気に人がなだれ込む。俺と玲央は何とかドアの脇のところを陣取るけど、人に押されて上手く身動きが取れない。しかも、なんか、玲央との距離が近い。いや、満員電車だから当たり前なんだけど。
「千景」
耳元で低く名前を呼ばれて、腕をくいっと引かれた。
「こっち」
玲央が立っていた場所と入れ替わるようにして、ドアが背中に当たる。玲央が壁になるみたいに俺の前に立っている。
近い。駅のホームと違って、向かい合うような距離。玲央は吊革の代わりに壁に手をついているから、顔が近い。抱き寄せられているような、そんな錯覚に陥る。
そんな妙な気分に耐えながら、電車での距離をやり過ごす。三駅が過ぎるとやっと解放されたように人が散らばるように降りていくから、俺らもその波に乗るようにホームへ出て、花火大会の会場になっている土手沿いへ向かった。
少しずつ屋台の看板が見え始め、たこ焼きや綿あめを持った人が増えていく。去年は夏祭りの類には行かなかったから、この雰囲気がなんとなく久しぶりだ。
「千景は何食べる?奢る」
「は?いいよ別に。それくらい」
「期末教えてもらったお礼。この間のアイスだけじゃ足りないから」
そんな話をしながら歩いていると、向かいから歩いていた浴衣の女子グループが立ち止まる。
「え、芹沢じゃん」
「お、久しぶり」
なんとなく見覚えのある顔ぶれ。確か、隣のクラスの女子たちだ。
玲央は楽しそうに話していて、なんだか入りにくい。友達が多い玲央らしいけど、少し置いて行かれたみたいな気分だった。
「あ、会長もいる」
「朝倉くんもいるってことは、デート?」
「一緒に回ろうって誘おうかと思ったけど、デートならやめとく~」
女子たちの視線が一斉に俺に集まる。
「会長の私服初めて見た!」
「爽やかな朝倉くんとチャラそうな芹沢が幼馴染カップルなの、意外だよね」
「はあ~?誰がチャラいって?俺と千景は仲良しなの!ほっとけ!」
玲央が冗談っぽく笑って俺の腰を抱き寄せると、女子たちもけらけら笑いながら「お似合い~」なんて言う。
「じゃあデート楽しんでね」
「また学校で~」
それ以上引き留めることもなく、女子のグループとは別れた。それが無性に嬉しくて安心した自分を、今はまだ知らないフリをした。
屋台が軒を連ねる場所に近づくほど、人の波が増していく。すれ違う人と肩がぶつかって頭を下げる間に、玲央との間に距離ができてしまった。この人混みじゃ、はぐれたら面倒だし、何とか追い付こうと歩みを早めると、ふと玲央の左手が俺の右手を掴んだ。
「はぐれないように、な」
そう言って指を絡めるように繋ぎなおす。
玲央と手を繋ぐのは、久しぶりだった。夏休みに入ってから初めてかもしれない。そう思うと、より一層繋いだ手のひらが熱く感じた。
「あ、かき氷。千景イチゴ派だっけ?」
「……うん」
玲央は相変わらず、なんともない顔。いつも通りの表情と声で屋台を眺めながら歩いて行く。
「やっぱ先に飯食いたくね?焼きそば?たこ焼き?」
「どっちでも」
「じゃあ両方買って二人で食うか」
屋台で焼きそばとたこ焼きを買って、空いているベンチに座った。
「んまっ。やっぱり屋台の飯って美味いな」
子どもみたいにもぐもぐと食べ進める玲央。そういう所はちょっと可愛い。
勢いよく食べるから、口の横にたこ焼きのソースが付いている。俺は鞄からティッシュを取り出して、玲央の口を拭いてやる。
「千景……?」
小さい頃から玲央の面倒を見ていた癖で、思わず手を伸ばしたけど、これ、かなり顔が近い。
「ご、ごめん。ソースついてたから」
「ありがと」
玲央はふわっと笑った。ミルクティー色の癖っ毛が夜風に揺れる。その顔があまりに綺麗で、思わず目を逸らした。
「焼きそば、くれ」
玲央が持っていた焼きそばのパックを強引に取り上げる。
自分の頬が熱くなっているのは、きっと夜でも熱い夏のせいだ。
食べ終わってからは、屋台で射的したり、ヨーヨー釣りをしたり、玲央との縁日を楽しんだ。それでも、時々繋がれる手のひらとか、触れる肩に、不思議なほど胸が高鳴る。
「なあ、かき氷食べながら花火見よ。甘いの食べたい」
玲央はそう言ってかき氷の屋台に並んだ。手慣れたようにイチゴ味とブルーハワイ味の二つを買って、イチゴ味を俺に手渡してくる。こいつは本当に俺の好みをよく覚えている。
「玲央、昔からブルーハワイ好きだよな」
「うん。俺一途だから」
俺も同じくらい玲央の好みを知っているけど。
「あっちで見ようよ。人少ないし」
玲央が指をさしたのは土手の少し奥にある小さな神社。その参道に続く階段。そこからは花火がよく見える割に人が押し寄せないから、昔から毎年玲央とそこに座って花火を眺めていたのを思い出した。
かき氷を食べながら、階段に座って花火が始まるのを待つ。
隣に座る玲央の横顔を見ながら考えるのは、やっぱり今の“関係”のことだ。さっき、隣のクラスの女子とすれ違った時に“デート”って言われた。俺が始めた嘘が学校中に知られている限り、そう思われるのは理解できる。
でも、玲央はどうだろう。今日はただの幼馴染と遊ぶ日なのか、それとも――。
「なあ玲央」
「ん?」
かき氷のスプーンを加えたまま俺を見る玲央。
「お前さ、いつまで付き合ってるフリしてくれんの?」
「何、急に。終わらせたいの?」
「そういうんじゃなくて。玲央はその、面倒になったりしてないかなって。ほら、俺が巻き込んだし」
「全然。楽しいけど」
「楽しいって……」
思ったよりもあっけない返事だったのに、少しだけ安心した。
「“いつまで”か~。とりあえず俺が飽きるまでは付き合ってやるよ」
「……いつ飽きんの」
「さあ。多分、飽きない気がする」
「適当なこと言うなよ」
その分、俺が期待してしまうから。
玲央は俺から目を逸らす。
「適当じゃない。俺、結構一途なんだよ」
急に真面目な声。正面を向いたままだから、玲央の表情はあまり見えないけど、いつものへらへらした様子じゃないのは分かった。
「それ、アイスの話だろ。さっきかき氷でも言ってた」
「……うん。アイスの話」
少しの間の後、玲央はいつも通りの口調でまた俺の方を見て笑う。その顔がどこか苦しそうに見えたのは、きっと気のせいだ。
すると、ドンッと音がして一つ目の花火が上がった。
隣で玲央の身体が一瞬だけ震える。そうだ、こいつ雷と同じ理由で、花火の音もあんまり得意じゃないんだった。
花火の音が鳴るたびに隣で震えてるから、あの梅雨の日を思い出す。
「ほら」
自分でも気付かないうちに、手を差し出していた。
「え?」
「いいから、手」
投げやりに言って、玲央の手を取る。指は絡めないけど、ぎゅっと握ってやる。
「……“彼氏のフリ”だから」
いつもだったら玲央が言う台詞。なぜか今は俺が言っている。
「ん。ありがと、千景」
玲央も俺の手を握り返す。
これは恋人のフリというよりも、小さい頃に一緒に花火を見た時みたいだった。幼稚園の頃の玲央も、花火の音はあまり好きじゃなさそうにしていた。雷ほどじゃなかったけど。
そのまま俺たちは、花火が終わるまで手を繋いでいた。
最後に大きな一輪が咲いて、花火が終わる。
「終わったな」
玲央が小さくそう呟くと、繋いでいた手に視線を落とす。俺も釣られて視線を手に移してから、途端に恥ずかしくなる。今まではずっと玲央から手を繋がれていたけど、さっきは俺から手を出した。他の誰でもない、俺から。
「ちょ、ちょっと俺、飲み物買ってくるっ」
慌てて手を離すと、立ち上がってその場を離れる。顔が熱い。このまま玲央と一緒にいたらどうにかなってしまいそうで、怖かった。
少し歩いて、屋台や神社の喧騒から離れた場所で一息つく。自分を落ち着かせるために、近くの自動販売機でスポーツドリンクを買った瞬間。
「ねえ、君。今ひとり?」
後ろから声を掛けられた。振り向くと、そこにいたのは俺より少し年上に見える男たち三人組。
「連絡先教えてよ」
は?待て、これは世に言うナンパ……?いや、でも俺は男で、目の前にいるのも男で……。
女子に告白されたことはあっても、同性にナンパされるのは初めてで、足がこわばる。
「あ、あの、友達と来てるんで」
そう言っても相手は引こうとしない。
「ちょっとぐらい良いじゃん。可愛い顔してるし」
「高校生?お兄さんたちと遊ぼうよ」
腕を掴まれそうになる。
「ちょっと、本当に戻らないと」
ああ、最悪。どうやって切り抜けようか頭を悩ませていると、背後から聞きなれた声が落ちた。
「――その人、俺のなんですけど」
低い声に鋭い目つき。いつものへらへらした玲央なんか、どこにもいない。
「れ、玲央」
多分、俺の声は情けなかったと思う。
「離してもらえますか」
玲央の気迫に押された男たちが俺の腕を離すと、代わりに玲央が俺の手首を引いた。
「ごめん、千景。遅くなった」
「あ、いや……」
慣れた手つきで俺の腰に手を回す玲央。
「さっき友達って……」
男たちは不思議そうに俺と玲央を見つめる。“俺の”とか、自然に回された手とか、どう見たってただの友達の距離じゃない。
「友達?千景は――俺の、恋人です」
玲央ははっきりそう言った。やっと落ち着いたはずの頬がまた熱くなる。
「あー、そういう感じか」
「ごめんごめん、彼氏持ちなの知らなくてさ」
玲央の声色に、男たちが「悪かったな」とか言い残しながら去って行く。玲央はその様子をしばらく睨みつけるように見ていたが、男たちが見えなくなると俺に向き直った。
「ごめん。なんかされてない?」
「別に。腕掴まれただけ」
さっきまでの気迫はどこへやら。目の前の玲央は、怒られた子犬みたいにしゅんとしている。
「ありがとうな。助けてくれて」
「うん。ああいう時一人で行くのもうやめて」
「自販機行くだけだろ」
「でも実際こうなってる」
それを言われてしまうと、返す言葉がない。
「他の奴に触られてるとこ、見たくない」
また、心臓がどくんと脈打った。
そんなの、“フリ”で言う言葉じゃない。
「……ごめん」
自分でも何に謝っているのか分からなかった。でも玲央の目を見ていると、冗談として流せる雰囲気でもない。
「あ、いや、謝ってほしいわけじゃなくて。……その、心配したってこと」
そう言って前髪をくしゃっとかき上げる玲央。
「彼氏のフリって分かってるけど、その間だけでも千景のこと一番に心配させて」
「……っ」
あまりに真剣な声と視線だった。
「俺さ、」
玲央が何かを言おうとして口をつぐむ。
「やっぱなんでもない。帰ろ」
帰り道は、行き程の会話はなかったけど、居心地は悪くなかった。でも、時々当たる手の甲が熱っぽい気がして落ち着かない。
玲央は、まだ人の多い電車で壁になってくれるし、人混みではぐれそうになると手や肩を引いてくれる。その度に普通じゃいられない俺は、きっともうただの“幼馴染”なんかじゃない。
「彼氏のフリ」という言葉を玲央から聞く度、自分が軽く言う度、足元をすくわれる気分だ。自分が始めた嘘が、こんなに苦しくなるなんて。そう思いながらも、玲央と離れることが今は一番怖かった。
