雷の日から少し時間が過ぎて、少しずつ晴れ間の増える季節になった。テレビの天気予報では「もうすぐ梅雨明けの見込みです」なんて言葉が聞こえるようになったし、傘を持たずに出かける日も増えた。
「期末テストもう再来週じゃん!!」
生徒会室のファイルでパタパタと仰ぎながら玲央が言う。梅雨明けとともに、一学期の期末テストが近付いている。
玲央は相変わらず我が物顔で生徒会室にいるし、隙があれば"彼氏のフリ"をしてくる。変わったことは季節と気温くらいだ。
あまりに変わらないので、やっぱりあの日の夜の出来事は夢だったんじゃないかと思ったりもする。それでも、あの日の玲央の手の熱は今も鮮明に覚えていて。あの日から俺の中で"幼馴染"としての玲央よりも、"フリ彼氏"としての玲央への感情が強まってしまったのは事実だ。
「期末ヤバいね。芹沢ちゃんと勉強してる?」
「俺がしてるように見える?」
「全然見えないから聞いてんの」
「先輩、生徒会室に入り浸ってるのに赤点はマズいですよ」
生徒会室での速水と玲央の応酬も当たり前の光景になっている。その横で相槌を打ってる由良もセットで。
「あ、まずい。もうこんな時間。私ちょっと部活に顔出さなきゃだからもう行くね」
「ああ。また明日」
「速水先輩頑張ってくださーい!」
速水は生徒会副会長でありながら、女子バスケ部にも所属しているアクティブな奴だ。生徒会と玲央の世話だけで手いっぱいの俺とは大違いである。
「あの、申し訳ないんですけど、僕も今日病院行かなくちゃいけなくて……」
「え、何。由良どっか悪ぃの?」
椅子を二つくっつけて寝そべっていた玲央が、がばっと起き上がった。本気で心配してそうな顔。
「いえ、僕じゃなくて。祖父が入院したので様子見に行きたいんです」
「え~~、由良、良い孫~~」
幸い、新学期からずっとやることが山積みだった生徒会も落ち着いた頃だ。本格的に試験期間になったら病院に行くのも簡単じゃないだろうし。
「残りの書類は俺が見ておく。お前は病院行きな」
そう言うと、ぱあっと目を輝かせる由良。
「ありがとうございます!今度絶対お礼しますね!」
「困った時はお互い様だろ。気にすんな」
荷物を片付けた由良が、最後にもう一度頭を大きく下げて生徒会室を出て行った。静かになった生徒会室で、玲央が小さく呟く。
「二人だね。千景」
……だから何だ。
「ねえ、無理してない?千景、最近ずっと仕事してる」
「生徒会ってそういうもんだろ」
「そうかもしれないけど。俺、千景が倒れたらやだもん」
頭に重さを感じた。パソコンに向かっていた視線を隣の玲央に向ける。
「手、退けろ」
「やだ」
その声が思っていたより低くて、近くて、頭の中がざわついた。
俺は今、幼馴染に頭をなでられている。二人きりの生徒会室で。
「二人の時にこんなことする必要ないだろ、芹沢」
すると、ふっと俺の頭に乗っていた重さが消えた。同時に、玲央の顔も曇ったのも分かった。
「ね、ずっと思ってたんだけどさ」
「なんだよ」
「千景、なんで俺のこと“芹沢”って呼ぶの」
「え?それは……」
「この間、家行った時は“玲央”って呼んでくれたのに」
ボールペンのノック部分をカチカチしながら目をそらす玲央。
正直、これは深い理由がなかった。中学高校と、昔ほどの距離ではなくなって、周りの友達がみんなお互いを名字で呼ぶようになった。だから、俺もそうやって呼ぶようになっただけ。
――でも今は。玲央を下の名前で呼ぶのが怖い。家では便宜上“玲央”って呼んだけど、普段から下の名前で呼んだら、本当にこいつとの関係が変わってしまいそうな気がして。
「お前だって、俺のこと“会長”って呼ぶだろ」
「それ役職だからノーカン」
なんだその独自ルール。
「最近は“千景”って呼ぶようにしてるもん。彼氏だから」
「“彼氏のフリ”な」
「はいはい」
このやり取りも恒例になってきた。条件反射で“フリ”を強調してしまう。
そんなやり取り(と自分自身)に呆れながら、手元のペットボトルに手を伸ばした。
「でも俺、千景のこと“朝倉”って呼んだことないよ」
「まあ、それは確かに……」
ペットボトルから緑茶を一口飲もうとした時。
「“ちぃくん”とは呼んだことあるけど」
「っ⁉ げほっ、」
思わずむせてしまった。
「うわ、大丈夫?」
玲央がティッシュを何枚か持ってきて、俺のネクタイを拭いてくれる。
「お前、それいつの話……?」
「いつって……、ちっちゃい時とか」
「ああ、そっか。そうだよな」
こいつ、もしかしてあの日のこと本当に覚えてないのか?意識してるの俺だけ?
……いや意識とかしてないし。全然してないから。
「なんかさ、名字で呼ばれると距離遠く感じない?せっかく幼馴染なのにさ。……俺、千景には"玲央"って呼ばたいんだけどな」
“幼馴染”。確かに玲央は今そう言った。そうだよ。俺らは生まれた時から知ってる幼馴染で、最近の玲央は“付き合ってるフリ”をしてくれているだけで、俺らはそれだけの関係。意識なんて、する訳ない。
「まあ、考えとく」
こんな感情、俺は知らない。だから、今日はそれしか言えなかった。
それからまた1週間。本格的な試験期間に入って、部活や委員会は停止期間になる。生徒会は特例で時々集まることもあるけど、この期間だけは先生たちも生徒会に仕事を回すことはあまりない。
「分かんね〜、これ何?どういうこと?」
それなのに、なんで俺は玲央と二人で生徒会室にいるのか。
「お前、授業聞いてた?」
「んー、一応教室にはいた」
「それは知ってる。俺の席からお前見えるから」
「うわ、千景俺のこと見てくれてんの?嬉し」
そういうことじゃない。というか、授業中に教室にいるのは普通だ。
「てかさ〜、縄文から奈良まで千年ぐらいあんじゃん。それを1回のテストに詰め込むのは卑怯だと思う」
「急に核心をつくのやめろ。芹沢、やればできるんだから」
そう言うと嬉しそうに笑う。本当、単純な奴。
テスト前になると俺に泣きついてくるのも、中学の頃から変わってない。……中学の頃はもうちょっとマシだったけど。
「生徒会室寒くない?冷房効きすぎだろ」
「文句言うなら別のとこ行け」
「え、ここがいい」
なんて文句を言いながらも腰に巻いていたグレーのパーカーを羽織る玲央。外は暑くても冷房が付いた室内が寒いのはよくある話だ。
「そもそも生徒会室で勉強する必要あるか?図書室とか教室とかじゃダメなの?」
「え〜、図書室は静かにしなきゃいけないじゃん。喋れないもん。教室は〜……、誰か来るかもしれないし」
「別にいいだろ、誰か来ても」
「やだ。二人がいい」
どくん。
最近、何気ない玲央の一言で心臓がざわつくことが増えた。いや、急にそんなこと言われたら誰だってドキドキするはずだ。
「っていうのもあるけどさ、なんか普通に落ち着くんだよね。生徒会室」
「……ああそう」
なんだ、俺は関係ないのか。とか一瞬でも考えてしまった自分を殴りたい。絆されるな、相手は玲央だぞ。
「なあ、千景。俺、今回マジで赤点回避頑張るからさ」
期待に溢れた瞳で俺の顔を覗き込む玲央。嫌な予感がする。
「ご褒美、ちょうだい」
「……は?」
思わず口から空気が漏れた。急に子どもみたいなこと言い始めた玲央に、頭が付いて行かない。
「簡単なのでいいから。アイス買ってくれるとか」
「なんでだよ。俺お前に勉強教えて、アイスまで奢ってやらなきゃいけないのか?」
「じゃあ一緒にゲームしよ」
「それは別にご褒美とかじゃねえだろ」
最近二人でゲームすること増えたし。ご褒美というより日常だ。
「じゃあ、」
少し悩んだように言い淀む。いつもあっけらかんとしてる玲央にしては珍しく、俺から目線を逸らして言いづらそうな顔。そして、意を決したように俺を見ると、
「全教科赤点回避したら、学校でも俺のこと“玲央”って呼んで」
そう言った。
逸らせないくらい真っ直ぐな目。また心臓が強く脈打って、頭の中で警報が鳴る。
「……なんだよ、それ」
自分でも情けないくらい掠れた声だった。
「だってさ、一応彼氏じゃん。学校でも特別扱いされたいわけ」
「特別扱いって……」
「お前だけは違うよって言われてるみたいで、良くない?」
「ご褒美というか、俺への罰ゲームみたいだな」
「罰ゲームとか言うなよ~。俺も“千景”って呼ぶしさ」
名前で呼ばれるのって、そんなに嬉しいものなのか?俺だったら……。
そこまで考えてふと思い出してしまった。少し前、玲央に“会長”じゃなくて“千景”って久しぶりに呼ばれた日のことを。玲央の声で久しぶりに呼ばれた下の名前に、少なからずドキッとしたのは確かだ。
「……分かったよ」
観念してそう言うと、玲央の表情がぱあっと明るくなる。こういう所も、ほんと子どもみたいだ。
「その代わり、赤点一個でもあったらナシだからな」
「スパルタだ」
「一個でもアウトだからな、マジで」
玲央がいたずらっぽく笑って、わざとらしく俺を見上げる。
「了解!じゃあ先生、次のここ説明してください!」
俺を“先生”と呼ぶと、シャープペンを持ち直して歴史の教科書に向き直る。純粋で、単純で、実は真面目で、特別扱いされたがる奴。俺はまた芹沢玲央という男が分からなくなっていた。
それよりも厄介なのは、そんな玲央に振り回されることが嫌じゃない俺自身の気持ちだ。教室の片隅で“玲央”と呼ぶ自分を想像すると、心の中がざわつく。でも、それと同じくらい“玲央の願いを叶えてやりたい”と思ってしまうのは、それくらい俺があいつに絆されているってことなんだろう。
その日からの玲央は、見違えるくらい真面目に試験勉強に打ち込んでいた。「喋れないから」なんて言ってた図書室で一緒に勉強したり、いつも通り生徒会室で教科書とノート広げたり、俺も見たことないくらいだった。
俺が勉強の気分転換がてら生徒会室の片付けをしている時も、机に座って英語の長文と戦っている。分からない単語や文法が出てくる度に電子辞書に打ち込んで、それでも分からなかったら俺に助けを求めたりして。
「千景、ここの“one”は何のこと?」
「“take down”って“降ろす”じゃないの?」
高校に入って問題児と呼ばれるようになってから、こんなに勉強している玲央を見た人はいるだろうか。
「この“one”は前の文のここ」
「“take down”は“書き取る”って意味もある」
こいつ、名前呼びのためにここまでするのか?
……そんなに、俺に名前で呼んでほしいってことか?
そんな考えを必死に頭の中から打ち消す。あいつは何考えてるか分からなくて、今回のこれだって思い付きで言っただけかもしれない。それでも湧いてくる淡い期待を俺は捨てきれなかった。
次の日は図書室にいた。なんだかんだで玲央に付いて一緒に勉強してる時点で、俺も大概こいつに甘い。
図書室の椅子の感覚は生徒会室よりも広いはずなのに、隣に座った玲央が椅子を寄せてくる。
「近いんだよ」
「いいじゃん、付き合ってるんだし」
「だから――っ!」
“フリ”と言おうとして、玲央の手で口を塞がれた。危ない。テスト前の人が多い図書室で“フリ”と口にしてしまう所だった。
「図書室ではお静かに。生徒会長さん」
ニヤリと口角を上げた玲央がそっと俺の口元から手を離す。
何事もなかったように教科書に向き直る玲央を見ても、俺の口に触れた玲央の手の感覚が消えない。骨ばった指が頬に当たって、あいつの手のひらには多分、俺の唇が触れてた。……何考えてんだ、俺。ぶんぶんと首を振って、思考を目の前に置かれた古文のページに向ける。それでも横でペンを動かす度、微かにぶつかるパーカーを羽織った肩に意識が集中していく。
冷房の効いた図書室にいるのに、体温が徐々に上がっていくのが分かった。どうして。玲央なのに。生まれた時から隣の家に住んでて、ずっと隣にいた奴なのに。“彼氏のフリ”なんて言う突拍子もない嘘は、俺の精神にも影響するのか?
「なあ、この“春はあけぼの”に使われてる文法って何?」
そんな俺はお構いなしに玲央は問題集を俺の前に差し出す。
「あ、ああ、それは、」
それと一緒に玲央を頭もずいっと俺の方に寄った。玲央は問題集の方を見てるから目が合うことはない。俺が勝手に意識してるだけ。
「名詞が最後に来てるだろ。名詞のこと体言って言うから、」
「体言止め?」
「そう」
やっぱり頭が悪いわけじゃないんだよな。やればできるのに、やらないだけで。
「サンキュ。さすが千景」
そう言ってぱっと玲央が顔を上げる。
「――っ!」
息を飲んだのは音はどっちのものだったか。
一瞬、時間が止まったみたいに何も考えられなくなった
顔が近い。近すぎる。少しでも動いたら、その、唇が触れそうな距離。
「ごめん」
玲央は低い声で呟くと、距離を取るように離れる。
「あ、うん」
玲央らしくないくらい慌てたような顔をしていたから、俺の方も調子が狂う。玲央の耳が少しだけ赤く見えたのは夕日のせいかもしれないけど。
その後、玲央が「もう少しやって帰る」って言うから、俺も隣で付き合うことにした。
――はずだった。最近試験勉強のせいで睡眠を削っていたからか、睡魔に襲われる。頬杖をついていたはずなのに、かくんっと机に落ちる感覚。
「千景?」
「ん、ごめん。最近寝てなくて」
「いいよ、寝てて。あとで起こしたげる」
その言葉に甘えて少しだけ眠ることにした。机に突っ伏して数秒、俺の意識は遠のいた。
「千景。起きれる?」
どのくらい経ったのか。玲央の声で目を覚ますと、窓の外は真っ暗だった。
「……ごめん。爆睡だった」
「大丈夫。もう遅いから帰ろう」
時計を見ると20時を過ぎている。玲央、こんな時間まで勉強してたのか。
すると、肩のあたりが温かいことに気が付いた。ふと見ると、見覚えのあるグレーのパーカーが俺の肩に掛けられている。
「寒そうだったから」
それだけ言うと、玲央は鞄に教科書やノートたちをしまっていく。問題児なんて言われても、やっぱり優しい奴だ。
「ありがとな」
やっぱり俺は芹沢玲央に絆されている。じゃなきゃ、パーカーを掛けてもらっただけでこんな気持ちになんてならない。胸の奥がじわじわ温かくなるのを、もうこれ以上知らないフリなんてできなかった。
それからの一週間は、あっという間だった。
放課後の生徒会室と図書室は、すっかり”試験前仕様”になった。いつもみたいにくだらないことで騒ぐ時間も減って、教科書とノートを広げた机の上に、シャープペンの音だけが響く。
俺がプリント整理をしているあいだも、玲央は黙々と英語の長文やら古文やらとにらめっこしていたし、図書室でも椅子を寄せてきては「ここ合ってる?」「この訳変じゃない?」と、珍しく真剣な顔でペンを走らせていた。
(……本当に、名前で呼んでほしいんだな)
ふとそんなことを思うたびに、胸の奥がむず痒くなる。
“ご褒美”なんて冗談半分に言っていたはずなのに、黒板の「期末テスト時間割」の文字を見るたび、“玲央”って呼ぶ自分の声が頭の中で再生されるみたいで、何度もその思考を頭から追い出した。
そして、期末テスト一日目。
チャイムが鳴って、教室に問題用紙が配られる。ざわめきがすっと消えて、シャープペンの音だけが一斉に鳴り出した。
斜め前の席では、玲央がいつになく真剣な横顔で答案用紙に向かっている。いつもみたいに途中で飽きる様子もなく、眉間に皺を寄せながら、問題を一問ずつ潰していく。
あいつ、マジで頑張ってんな。俺は自分の問題を解きながらも、視界の端に映るその横顔から目を離せなくなる。
チャイムが鳴って答案を回収されながら、最後の最後までペンを動かしていた玲央の姿が、妙に胸に残った。
そんなふうにして、怒涛のテスト期間は終わった。
解放感に騒ぐクラスメイトたちの中で、俺の頭の中にあるのはただ一つ。
玲央は、全部赤点回避できたのか。
答案返却の日。
ホームルームのチャイムが鳴って、担任が答案の束を抱えて教室に入ってきた。
他の教科はもう全て返されていて、後は社会科の答案が返されるのを待つのみだ。
玲央はというと、今のところ全ての教科で赤点を回避しているらしい。まあ、あれだけ頑張っていたからそれもそのはずなんだけど。
一人ずつ名前を呼ばれて、答案が返される。玲央は先生から答案を受け取った瞬間に目を輝かせると、自分の席を通り過ぎて俺の席にやってくる。
「千景〜〜〜!俺、天才じゃね?」
目の前でひらひらと揺れる答案用紙には"72"の文字。赤点回避どころか、なかなかの高得点だ。
「はぁ……。マジで全部セーフかよ」
「約束守ってよ、千景」
わざとらしく、最後に"千景"と呼ばれた。それだけで、また心臓の奥の方がきゅっとなる。
自分の席に戻った玲央は、クラスメイトに囲まれていた。
「芹沢がこんな高得点とか何事?」
「やっぱり彼氏効果かな〜」
なんて言われながら、嬉しそうに笑っている。
……人気者、だな。
やがてチャイムが鳴って、昼休みの時間になった。笑みを隠せていない玲央が、俺の手を引いて廊下に引きずり出す。
「見て、全教科赤点回避の男がここにいる」
「それが普通なんだよ」
「釣れないな、千景。俺結構頑張ったの!」
それは認める。玲央、本当に頑張ってたし。
「ご褒美、忘れてないよね」
忘れる訳がない。むしろ、この数日はその事ばっかり考えていた。
「今、呼んでほしいな」
「……っ、ここは、人もいるから嫌」
「そっか、じゃあこっち」
当たり前のように俺の左手を握って廊下を歩き出す玲央。こっちの心臓の負担は考えてくれないみたいだ。
辿り着いたのは、階段の踊り場。校舎の端にあるから、人通りは少ない。
「ここならいいでしょ」
窓から入る日差しに照らされて、玲央のミルクティー色の髪が輝いている。
「ご褒美、ちょうだい」
玲央の笑顔の圧に負けて後ずさると、背中が壁にぶつかった。俺より少し背の高い玲央が、上から覗くように俺と目を合わせる。まるで、壁際に追い詰められたような気分だ。
「ほ、ほんとに、名前呼ぶぐらいでいいのかよ。アイスとかでもいいんだぞ」
苦し紛れにそう言って見る。
「アイスは自分でも買えるけど」
真っ直ぐに俺を見つめた。
「"千景が呼んでくれる俺の名前"は、千景からしかもらえないでしょ」
そんなの、ずるい。
そんな目で、そんな事言われたら、誰だって意識してしまうに決まってる。
「……分かったよ」
そう言って、名前を呼ぼうと口を動かすけれど、上手く声が出ない。たった2文字の名前を呼ぼうとするだけで、俺の心臓はオーバーヒート寸前だ。
自分で蒔いた種だ。玲央を巻き込んだのは俺なんだから、ちゃんと頑張った後のご褒美ぐらい、言ってやらなきゃ。
なんとか自分で自分を奮い立たせて、目の前の男の名前を口に出す。
「っ、……れ、玲央」
時間が止まったかと思った。
玲央の顔は見れなくて、視線は床に向いたままだけど。それでも、確かに呼んだ。
少しの無言と、微かに息を飲む音。ゆっくり顔を上げると、そこには耳まで真っ赤になった玲央がいた。
「……もう一回、言って」
俺の肩に顔をうずめるようにして、小さく呟く玲央。
「調子乗るなよ」
俺はそう言いながらも、もう一回くらいならと思ってしまうくらいには、玲央に甘い。
「……玲央、重い」
肩にかかる重さがふっと消える。また俺の視界に戻ってきた玲央の顔は、まだ少し赤くて、少し幼く見えた。
「やばいね、これ。破壊力すごい」
手を繋いだまま目覚めたあの日みたいに、玲央は手の甲で口元を隠して目を逸らす。
「録音してもいい?」
「ダメに決まってんだろ。……何回でも呼んでやるから、録音すんな」
思わずそう言っていた。玲央も驚いたように目を瞬かせた後、嬉しそうに笑う。
「じゃあ、俺もいっぱい"千景"って呼ぶ」
「いっぱいは呼ばなくていい」
「呼ぶ!千景!!」
相変わらず、調子の良い奴。
……でも、不思議と悪い気はしなかった。
放課後。いつも通り生徒会室には、俺と玲央、速水、由良の4人が集まっていた。
「玲央、これコピーお願い」
俺が玲央に書類を渡すと、速水が「あれ」と首を傾げる。
「会長、芹沢のこと下の名前で呼んでたっけ」
「俺がお願いしたの。赤点回避したら名前で呼んでほしいって」
「何それラブラブじゃん」
「本当に仲良しですよね、先輩たち」
由良まで加担するから、この部屋に俺の味方はいない。
「ラブラブじゃねえよ。黙れ」
「えー?でも仲良しだもんね、千景」
「生徒会室では"会長"って呼べ」
「分かった。"千景会長"」
「〜〜〜っ!!」
玲央に名前で呼ばれる度に、心臓が跳ねているのは事実だ。ただの幼馴染に名前を呼ばれるだけじゃ、きっとこうはならない。
もう“フリだから”の一言で片付けるには、俺と玲央の距離は、少しだけ近づきすぎている気がした。
