これは恋じゃない、はずだった。



雨がさらに本降りになって、雷が轟く。窓からは急いで片付けをする運動部たちが見えた。

「今日は早く帰った方が良さそうだな」

 さっき先生に言われた資料をコピーして、職員室に持って行ったら帰ろう。生徒会のグループチャットにも、『各自今やってる仕事が終わったら今日は解散で』『雨と雷気を付けて』と送った。

「さ、帰ろう」
「ん」

 玲央の短い返事。雷が鳴るたびに肩がびくっと震えて、完全に怖がっているのが見て分かった。元気のない玲央は、怒られた犬みたいで少し可愛い。

 生徒会室の扉を開けようとした時、また雷の音が鳴った。震えた玲央が咄嗟に俺の袖を掴む。その瞬間、俺が思い出したのはあの日の記憶だった。

『きょうはちぃくんとねる』
『ちぃくん、手ぎゅってして……』
 そして――『おれ、ちぃくんとけっこんする!』

「あ、ごめん」

 手をパッと離して、恥ずかしそうに笑う。

「あー、俺、ガキみてぇ……」
「変わらないな、玲央は」

 言ってから気が付いた。今、俺……。

「会長、今“玲央”って言った?」
「……言ってない」
「いや、絶対言ったよね」

 廊下を歩きながら言い合う。高校生になってからは、昔ほど一緒にいる時間が長い訳じゃなかったから、なんだか小学生の頃に戻ったみたいで不思議な気分だった。

 昇降口で靴を履き変えて、俺の折り畳み傘を広げる。
「俺が持つ」って玲央が言うから、甘えることにした。

 歩き出してふと気付く。
 折り畳み傘に男子二人。昔から二人でひとつの傘を使う時は外側の袖が雨に濡れていたのに、今日は俺の袖まで傘に収まっている。

「芹沢。お前、濡れてる」
「いいの。千景が風邪引いたら困るし」

 傘が俺を守るように傾いている代わりに、玲央の左袖が雨でびしょ濡れだ。

「なんだよそれ。いつもそんな事しなかっただろ」
「だって、今は"付き合ってる"から」
「"フリ"、な」

 俺が言い返すと、玲央も俺に合わせるように笑った。

「なあ千景。俺ん家さ、今日出張で親いねーの」
「うん?」
「俺、1人。雷無理。泊めて」

 子どもか。昔から雷の日は朝倉家に逃げ込むのは、高校生になっても変わらないらしい。

「仕方ないな、分かった。親に連絡は入れとけよ」
「やった。サンキュ」

 うちの母さんは玲央のことを可愛がっていたから、きっと喜ぶはずだし。それにしても、家で一緒に食事するなんていつぶりだろう。というか、肩を並べて下校するのも久しぶりな気がする。俺ってもしかしたら、高校入ってから玲央とあんまり話してなかったのかもしれない。そう思うと、土砂降りの帰り道が少しだけ特別に思えた。


 雷が光る度に玲央の肩が震えたり、傘を持つ手に力が入るのを横目に、俺は心なしか明るい気持ちで家まで歩いた。きっと。玲央との帰り道が楽しかったんだと思う。口に出して言わないけど。

「じゃあ、着替え持ってそっち行くわ」

 家の前で別れて、玲央は隣の家に入っていく。……多分10分後には俺の家にいるけど。

 俺は玄関先からリビングの母親に声をかける。

「ただいま。後で芹ざ……玲央、来るって」

 学校での癖で"芹沢"と呼びそうなところを"玲央"と呼び直した。玲央は、うちの家族の中では下の名前で通っているから。

「まあ玲央くん!今日雷すごいもんね〜」

 当たり前のように受け入れる声。やっぱり雷=玲央なのはうちでの定石だ。

 2階の自室で制服から部屋着のパーカーに袖を通す。スラックスの裾は水が跳ねていたけど、ブレザーの袖は濡れていない。あいつ、本当にずっと傘傾けてくれてた。やっぱり優しい奴なんだよな。

 部屋着に着替えてリビングに降りると、ちょうどインターホンが鳴る。昔みたいに連打じゃなくて、1回だけ。

「はーい」

 玄関の扉を開けると、部屋着姿の玲央が立っていた。

「おじゃまします。あ、これ差し入れ」
「うわ、これ俺が好きなやつ」
「だと思った」

 着替えや歯ブラシの袋と別の紙袋。中には俺の好きな焼き菓子。こういうところ、モテるんだろうな。

「雷、止んだかな」

 さっきから音が聞こえなくなった。

「止んだかも。でも泊まるからね、俺」
「好きにしろ」

 玲央は勝手知ったるとばかりにリビングに入ると、母さんに挨拶をしている。母さん嬉しそうだな。

「玲央、こっち」

 洗面所からタオルを取ってきて、濡れた頭にかけてやる。昔と同じようにわしゃわしゃ頭を拭いているけど、身長は俺より高いし、肩幅や手の大きさもあの頃とは全然違う。……って俺、何考えてんの。

 それからは、いつも通りだった。小中学生の頃と同じように、一緒に夕飯食べて、風呂入って、リビングのソファに並んでドラマを眺める。何も特別な変化はない。

 でも、問題は俺の部屋に戻ってからだった。
 今日の分の課題をしようと部屋のローテーブルの上にノートを広げる。英語の和訳の課題だ。

「なあ、分かんない。教えて千景」

 ノートを広げて3分でこの有様の玲央を、何とか机に引っ張り戻す。こいつ、やればできるのに本当にやらない。中学まではそれなりに成績良かったのに。

「だから、このthatは関係代名詞だろ?」
「これはここまでで1節なわけ」
「じゃあこのwhoはどう訳す?」

 だらだらしたと思えば、俺の説明は真剣に聞いてる。だから憎めない。

「千景、教えるの上手いよね」
「褒めても何も出ないぞ」

 全て訳し終えた時、隣に座る玲央が俺に抱きつくようにもたれてきた。

「持つべきものはやっぱり天才幼馴染様だな〜」
「やめろ、くっつくな」
「あ、間違えた、今は"彼氏"か」

 わざとらしくニヤッと笑う。“フリ”だって分かってるのに、その単語だけで心臓が跳ねるのが腹立たしい。

「っ、お前なあ!!」
「だって事実だもん」
「事実じゃない。"フリ"だ」

 もう知らない。

「寝る。布団敷け」
「えー、早くない?まだ11時だよ?」
「俺は眠いんだよ。お前一人で起きてろ」
「やだ!つまんない!」
「子どもか!」

 今回は声に出てしまった。
 その時。

 ドーン。ゴロゴロ。

 割れるような音がして雷が落ちた。目の前で玲央が怯えるように背を丸めて小さくなる。
 しまった。家に帰ってきてから音がしなくなったから、油断していた。梅雨の空を舐めちゃいけない。

「玲央、大丈夫?」
「……ん。へーき」

 いつもみたいに口調は軽いけど、無理して笑おうとしてるのが分かる。

「やっぱりもう寝よう。俺が隣いるし」

 雷の日の玲央を守りたいと思ってしまうのは、昔からの癖だ。幼馴染だから。そう言い聞かせて、布団を敷く。

「昔みたいに同じベッドは、さすがに無理だから。玲央、布団ね」
「さんきゅ」

 小さく返事をすると、もぞもぞと布団に潜っていく玲央。やっぱりあの頃と同じだ。
 俺もベッドに入って、部屋の電気を消す。雷が鳴る度に「うわ」「音でか」って小さな声が聞こえるから、その度に「大丈夫?」「寝れそう?」って声をかけてやる。そしてしばらく経った頃。

 玲央の返事が遅くなって、うとうとし始めたのが分かった。ベッドの上から覗くと、俺の部屋に置いてあるクッションを抱き枕みたいに抱きしめて眠っている。小さく開いた口から寝息が聞こえて、無防備に目を閉じている姿はどこかあどけない。

「やっぱり変わってないな、玲央」

 思わず笑みが溢れた。その時、

「…………ちぃくん、」

 小さな声で懐かしい名前を呼んだ。

「ちぃくん、手……」

 玲央の手が何かを探すように動く。俺は思わず手を差し出していた。

「ん」

 俺の手を見つけると、安心したように握ってまた眠りについた。

 何だよ、これ。
 高校生にもなって、何が"ちぃくん"だよ。そんな呼び方、随分前にやめたろ。そう思うのに、雷の日に二人で潜ったベッドとか、怯えていた幼い玲央とか、ありもしない"けっこん"の約束とか、あの頃の記憶がぽろぽろと溢れていく。

 俺は腕を玲央の方に投げ出したまま横になったけど、そのまま玲央の手を握り返すことはなかった。この手を握り返したら、"幼馴染だから""彼氏のフリだから"と言い聞かせてた何かが崩れてしまいそうだったから。


 翌朝。目を覚ますと、昨日の土砂降りが嘘みたいな朝日が部屋に降り注いでいた。かすかに腕が痺れる感覚がして横を見る。すると、まだ手がしっかりと握られている。玲央の手の熱とか大きさを意識して、また胸の奥が大きく脈打つ。
 ゆっくり手を離そうと抜いてみると、それを止めるように玲央の指がぎゅっと強くなった。

「まだ……ちぃくん……」

 だから、昨日からその呼び方は何なんだよ。反則だろ。

 小さい子供みたいに布団にくるまる玲央にそう呼ばれると、あの頃の記憶が鮮明になっていく気分だ。

「千景ー。玲央くんー。朝ごはんできるわよ」

 階段の下から母親の声が聞こえて、我に返った。同じタイミングで、玲央がぱちっと目を開ける。
 自分の手と俺の手が繋がっているのに気付くと、がばっと起き上がって手を解いた。

「俺、いつの間に寝てたっけ」

 ほんのり赤くなった頬を手の甲で隠すようにそっぽを向く玲央。

「手、ごめん。……なんか、離したくなくて」

 体格も髪型もあの頃とは全然違うのに。柄にもなく、そんな玲央を“可愛い”と思ってしまう自分がいるのも事実だ。

「雷、もう鳴ってないぞ」

 それが悟られないように、できるだけ軽い口調で冗談めかす。そうしないと、本当に自分の中の何かが変わってしまうような気がして。

「朝飯、もうできるって」
「リビング行くか」

 昨日のことを覚えてないのか、忘れたフリなのか、玲央はもういつも通りだった。

 リビングではトーストを焼く音が聞こえる。

「おはよう。玲央くん、眠れた?」
「ぐっすりです」
「雷すごかったから心配してたのよ。やっぱり千景の部屋で寝たのね」
「そう。結局昔と同じ~」
 
 当然のように受け入れられている玲央が不思議だ。玲央はさらっと笑うけど、その耳の先が少しだけ赤くなっているのには、きっと俺だけが気付いてる。
 昔と同じ、か。そんな訳ない。あの頃は“ちぃくん”なんて呼ばれてもなんともなかった。でも今は……。

 リビングのテーブルに座って、出てきたトーストをかじりながらそんなことを考える。

「千景、小さいころ雷なるたびに“れおのことまもる!”って言ってたの覚えてる?」
「は、はあ⁉なんでそれ、」
「昨日も守ってあげたの?」

 母さんがタイムリーにそんなこと言うから、むせてしまった。コップを落としそうになった俺の手を、隣に座る玲央が支えてくれる。こんなことする幼馴染に、俺が守ってやる隙なんてないだろ。

「守ってくれましたよ」
「お前なあ!!」

 くすくす笑う玲央。

「なんもない!別になんもしてないから!」

 余裕そうにコーヒー飲んでるの、なんかムカつく。俺だけが意識してるみたいで。

 ……意識してる?俺が?玲央を?
 ないないない。昨日の“ちぃくん”発言を覚えてなさそうなのがムカつくだけだろ。そうに決まってる。そうじゃないと、困る。
 そう思って首を振る俺を、玲央が不思議そうに見つめていた。


 朝ごはんを食べて、玲央が「準備してくる」と隣の家に帰って数十分。制服に着替えて鞄を持った俺は、隣の家の玄関前にいた。

「おまたせ」

 玄関の扉を開けて制服姿の玲央が出てきて、二人並んで学校までの道を歩く。こんな近くに住んでいるのに、二人で登校するのなんて高校になってから初めてかもしれない。

 アスファルトは昨日の雨でまだ濡れている。

「千景、こっち」
「……ありがと」

 道路のくぼみにできた水たまりを避けるように、二の腕を引かれた。手のひらよりも体に近い場所を触れられて、少しだけ体が跳ねる。

「昨日さ、」

 しばらく歩いていると、ふいに玲央がつぶやいた。
 
「ん?」
「ありがとな。隣いてくれて」
「なんだよ、急に」
「雷マジで無理だけど、千景の手握ってたら平気な気がする」
 
 珍しく真面目な声だ。調子狂うな。

「昔からだろ」

 気恥ずかしくて、そっけない返事になってしまった。

 守るなんて言えるほど、俺はちゃんと玲央の隣に立てているのだろうか。今の俺らを繋いでいるのは、“幼馴染”よりも“彼氏のフリ”という嘘なのに。そんな後悔にも近い感情が広がって、学校につくまで消えなかった。


 学校に着いて教室の扉を開けた瞬間、早速クラスメイトたちの視線を浴びることになった。

「え、一緒に登校してるの初めて見たんだけど」
「家が隣って本当だったの?」

 なんて声がちらほらと聞こえてくる。

 窓際の自分の席に鞄を置いて座ると、斜め前の席に玲央が腰掛ける。何の運命か、教室の席まで近いのは正直心臓に悪い。

 クラスメイトたちの興味の視線は、昼休みまで続いた。休み時間の度に誰かが俺や玲央の元にやってきては、質問する。なんで今日は一緒に来たの?だの、幼馴染っていつからの付き合い?だの、やっぱり質問攻めからは逃れられないのかもしれない。

 そんな空気から逃げるように、昼休みは生徒会室に逃げ込んだ。扉を開けると、そこでは速水と由良が楽しそうに雑談しながら弁当を広げている。ああ、安心するな、この光景。

「やっほー、会長」
「お疲れ様です」

 あまりにいつもの光景だったから、昨日の夜のことは夢だったのかもしれないとすら思った。でも、その考えは後ろから聞こえたあいつの声にかき消される。

「雑用係、昼の部出動〜」

 俺の気持ちを知ってか知らずか、ご機嫌な声の玲央。

「芹沢先輩!」

 すっかり玲央に懐いた由良は、嬉しそうに目をキラキラさせている。なんでだよ。

 玲央は当たり前の顔で机に購買の菓子パンを広げる。

「見て会長。今日チョココロネまでゲットした。ラッキー」
「なんでお前がここで昼飯食う気満々なんだよ」
「えーだって会長と一緒にいたいじゃん」

 さらっと何言ってんだ。速水が隣でニヤニヤしてるのが見えて、小さく舌打ちする。

「昨日充分一緒にいたろ」
「昨日は昨日!今日は今日なの!」
「雷ビビってうちに逃げ込んできた奴が口答えすんなよ」

 いつもみたいな言い合いをしていると、速水が戸惑ったように「待って」と声を上げた。

「"昨日充分一緒にいた"?"うちに逃げ込んできた"?」
「先輩たち、本当に仲良しですね」

 驚いたような由良も加担する。

「あたりめーじゃん。付き合ってんだから」

 椅子に座った玲央が、隣に立ったままの俺の腰に腕を回した。その距離と感触を意識してしまう自分に腹が立つ。

「てか、芹沢、あんた雷怖いんだ。可愛いとこあるね」
「昨日も会長の部屋にお泊まりさせていただきました」
「あら、恋人同士でお泊まりなんて」

 やめろ、そういう事言うの。茶化すような口調の速水を睨みつける。

「布団は別だよ。健全健全」
「当たり前だ」

 玲央がちゃんと訂正してくれたから、同調した。
 ……まあ、手は繋いでたけど。

「でもさ」

 急に真面目な顔で焼きそばパンをひと口かじる玲央。焼きそばパンとチョココロネって合うのか……?

「昔から、雷の日に一緒にいてくれんのって会長だけなんだよな。幼稚園の時も、小学校の時も、今も」

 いつものふざけてる声より、少し低くて落ち着いた声色。玲央の本心が聞こえたみたいで、変な気持ちになった。

「放っておいたら、お前寝れないだろ」

 また返事が素っ気なくなってしまった。最近、玲央に対しては素直にものを伝えられなくなっている。それもこれも、全部"彼氏のフリ"のせいだ。きっと。

「へへ、それはそう」

 またいつものあっけらかんとした声に戻った玲央が笑う。

「ほら、惚気はそこまでして、会長も早くご飯食べな」
「食べ終わったら資料整理の続きやらなきゃですよ!」

 速水と由良に遮られて、ようやく話題が変わった。助かったような名残惜しいような、不思議な気分だ。てか、こういうのも惚気って言われるのか。

 机に弁当を広げながら、ふと考える。

 そういえば、玲央は小学校高学年になった頃から雷の日にうちに来ることはなくなった。その時は"怖くなくなったんだろうな"ぐらいに思っていたけど、昨日の玲央を見るに、そういう訳ではなさそうだ。多分、思春期特有のカッコ悪いとこ見せたくない、的なあれだと思う。

 でも、昨日の玲央は久しぶりに俺の前で雷に怯えた顔をしていた。あの頃から変わってない声で、"ちぃくん"って呼んだ。雷が鳴っている日に当たり前のように隣にいた俺らは、昔からの幼馴染の距離なのか。それとも"彼氏のフリ"から始まった嘘の距離なのか。

 玲央は飄々としていて、掴みどころがなくて、誰かに期待されてプレッシャーをかけられるのが嫌いで、雷が怖くて、でも実は真面目な奴で――。
 玲央のことは大体何でも知っているつもりだった。でも、今の玲央はどこまで"彼氏のフリ"をしてるつもりなのか分からない。俺たちの距離が、“幼馴染”なのか”彼氏のフリ”なのか、その境目も。

 やっぱり、芹沢玲央は不思議な奴だ。