あの日から、玲央が“会長の彼氏”として校内に認識されるまでに、そう時間はかからなかった。生徒会長と校内屈指の問題児の噂は、瞬く間に学校中の注目の的になった。
「ねえ聞いた? 朝倉会長って芹沢と付き合ってるんだって」
「マジで? あの遅刻魔の?」
「でもさ、あの二人、前から一緒にいること多くなかった?」
「幼馴染なんだって。幼馴染からの彼氏、みたいな?」
廊下を歩いていると、そういう声が嫌でも耳に入ってくる。俺に聞こえているって分かっていて、わざと聞かせているのか。あるいは、本当にただの噂話なのか。判断がつかないのが余計にややこしい。
「会長〜、今日も彼氏と一緒?」
階段を降りようとしたところで、別クラスの女子にそう声をかけられた。振り返ると、彼女の視線の先で、玲央が手を挙げる。
「はーい、彼氏でーす」
「……お前は黙ってろ」
訂正する隙もない。俺が何か言う前に、勝手に肯定される。俺の意思はどこに行ったんだ。
けれど、「違う」と言うこともできない。
あの日、俺がそうだと宣言してしまったのだから。
放課後、提出物を出しに職員室に寄ってから生徒会室に向かうと、先客がいた。
「やっほー。会長」
机の角に腰掛けて、プリントをホチキスで綴じている玲央。おかしい。どうしてこいつが当たり前の顔してここにいるんだ。
「なんか、馴染んできたね。芹沢がここにいんの」
奥の机に座った副会長――速水が笑う。同級生の速水は面倒見が良い姉御肌タイプだから、最初こそ玲央を毛嫌いしていたけど、なんだかんだで雑用をこなすところで重宝しているらしい。
「芹沢、私より早く来てたよ」
「速水より早く来てるって、お前どんだけ早ぇんだよ」
放課後は大体、速水が最初に生徒会室にいる。そんな速水より早い玲央は何者なんだ。
「暇人なもんで」
「……まあ、仕事してくれてるし」
そんな会話をしながらも、玲央はパチパチと手際良くプリントを綴じていく。やっぱり、昔から真面目な奴ではあるんだよな。
「てか、机に座るのやめろ。椅子に座れ」
「えー、ちゃんと仕事してんのに」
注意すれば、口を尖らせながらも素直に椅子に座り直す。こういうところも変わってない。
「すいませんっ!遅くなりました!」
ガラッと扉が開いたかと思えば、由良が顔を出した。「ホームルーム長引いちゃって……」と申し訳なさそうに生徒会室に入ってくると、玲央を見て目を輝かせる。
「芹沢先輩……!これやっておいてくれたんですか!神……!」
玲央の前に積まれたプリントの山。確かに今までだったらこういう雑用は全部由良がやってくれていた。そう思うと、雑用をこなす玲央を貴重な存在に見えてくる。
「先輩、もう生徒会の一員みたいじゃないですか」
「んな訳あるか」
感嘆の声を漏らす由良に、思わずツッコんでしまった。そんな訳あるか。
「遅刻、髪色、赤点ギリギリ。そんな生徒会役員困りまーす」
「うわ、速水ちゃん厳しい」
「事実でしょ。本来なら指導室行きだからね、あんた」
速水も俺に同調して、玲央に苦笑いされている。
「でも、先生に見つかったら怒られませんか?ここって一応生徒会役員しか入れない決まりだし」
由良が呟く。
「それは――」
俺は考える間もなく、口が勝手に動いていた。
「雑用係ってことで。特例の」
苦し紛れの一言に、玲央が弾けるように笑う。
「特例付きなんだ。いいじゃん、特別扱いみたいで」
「そういう訳じゃない」
由良の雑務が減るのは良いことだし、新年度で仕事が多いこの時期に玲央の存在が助かっているのは事実だ。普段は問題児なんて言われてても、頼まれたことを適当にこなすような奴じゃないことを、俺がいちばんよく知っている。悪い話じゃない。
問題は、その玲央が俺の"彼氏のフリ"をしていることだ。
速水と由良がこちらを見ながら、くすくす笑う。
「やっぱり恋人は近くにいてほしいもんね〜」
「実際、僕はめちゃめちゃ助かってますし」
「うるさい。からかうな」
軽く咳払いをして2人をたしなめていると、プリントを綴じ終わった玲央が俺を覗き込んだ。
「次、何すればいい?」
「……じゃあ、そのプリントたちを大会議室に運んでおいて」
「大会議室って、職員室の横の?」
「そうだ」
「りょうかーい」
プリントの山を両手に抱えて、生徒会室を後にする玲央。その背中を見ながらふと考える。
こいつが俺の隣にいれば、この間みたいな告白や質問攻めから解放される。でも、それは同時に玲央を縛り付けているってことで。そう思うと、廊下から聞こえる玲央の足音が妙に耳に残った。
次の日。4時間目を終えるチャイムが鳴って、クラスメイトたちが散り散りになっていく。購買にダッシュする人や、机を移動させて弁当を取り出す人、いつも通りの昼休みの光景だ。俺は昨日の放課後に終わらなかった事務仕事をするため、生徒会室に向かう。朝のうちに買ってきたパンを持って廊下に出た時。
「あ、朝倉先輩!」
「ほんとだ〜」
偶然廊下を通りかかった女子たちに声をかけられた。上履きのゴム部分が深い赤色だから、ひとつ下の学年か。
「玲央先輩と付き合ってるって本当なんですか!?」
"玲央先輩"。あいつ、後輩に下の名前で呼ばれるくらい人気者なのか。
「どっちから告白したんです!?」
「わ、それ気になる」
「というか、幼馴染って本当なんですね!」
玲央に彼氏のフリしてもらえれば質問攻めから解放されると思っていたのは、俺の勘違いだったみたいだ。今はまた別の質問攻めにあっている。
「幼馴染なのは本当。告白は……えっと……」
告白、これ、俺からってことになるのか?付き合ってるフリしてくれって頼んだのは俺だし。分からん。
そう思っていると、ふわっと右手が握られた。
「どしたの、千景」
いつも通りの声で、玲央が後ろから俺の手を握っている。ひとつだけ違うのは、俺のことを"千景"って名前で呼んだこと。いつもは"会長"って呼ぶくせに。たったそれだけなのに、玲央の声で呼ばれる自分の名前に心臓が跳ねたのが分かった。
「玲央先輩!!」
「ごめんね、会長、俺との用事あるからさ」
そう言いながら、玲央は俺と指を絡めるように繋ぎ直す。まるで、本当の恋人がするみたいに。
「うわ、ガチじゃん!」
「やば〜!」
「どっちから告白したんですか?」
後輩たちの質問にも動じないで、んー、なんて考える顔をすると、
「秘密」
と言いながら人差し指を口元に添えて笑った。そしてすぐに、後輩の悲鳴みたいな歓声(?)から逃げるようにして俺の手を引いて廊下を歩き出す。
絡められた指が汗ばんでいくのが分かった。一度意識したら、玲央の手の大きさとか、骨ばった指の感触とか、色々気になって歩幅までぎこちなくなっていく。これは物理現象。いきなり手を掴まれたから驚いてるだけ、自分にそう言い聞かせた。
「おい、芹沢。芹沢ってば」
人気のない場所まで来ても手を離さない玲央に、声をかけて制止する。
「あ、ごめん。嫌だった?」
玲央は立ち止まると、ぱっと手を離す。行き場を失った右手が空を切ってすとん、と落ちた。
「嫌っていうか……」
嫌、というより、不思議だ。
彼氏のフリは人前ですれば充分のはずだ。人のいないこんなところでまで手を繋いでいる意味が分からない。
「誰もいないんだから、"フリ"する必要ないだろ」
「……ああ、そっか」
なんでそんな名残惜しそうな顔するんだよ。お前は俺に巻き込まれた側だろ。ちょっとくらい怒ればいいのに。
「こういうの、ずっとするのか?」
「こういうのって?」
「……分かってんだろ」
人前で肩を抱き寄せたり、手を繋いだり。そういうの全部だ。
「会長がフリーだと思われたら、また告白されて質問攻めされるじゃん。それは面倒っしょ?」
いつも通り、あっけらかんと言う。
「……それは、まあ」
「だから、"彼氏アピール"は分かりやすい方がいい訳よ」
「アピール……」
否定ができないのが苦しい。質問攻めも苦しいけど、今も同じくらいには。
玲央の手のひらの感覚が未だに残っている感じがして、妙な気分だ。
「それにさ、」
にっこり笑ってもう一度俺の手を取る。その瞬間に肩が震えたのは驚いたから、だ。それ以外の感情は決してない。
「会長が“付き合ってる人いる”って嘘ついたんだろ。だったら、ちゃんと最後まで守んなきゃ」
「守るって、何を」
「会長がさ、“もう期待させたくない”って思ってついた嘘なんだろ?だったら、それで誰かが変に期待しなくて済むようにしてやるのも、フリ彼氏の仕事じゃね?」
飄々とした口調だけど、核心をついてくる。そもそも、こんなややこしい状況になったのも、俺が蒔いた種であることに間違いない。
「……分かったよ」
仕方ない。噂が落ち着いたら、頃合いを見て別れたことにすればいい。それまでの辛抱だから。
目の前でミルクティー色の髪が揺れる。今日は曇り空だから太陽に反射していないはずなのに、どこか輝いて見えるのは玲央自身のオーラのおかげか。
こいつの顔を見てると、どうにかなるような気がするのも不思議だ。玲央は昔からやんちゃだけど、いつも俺を知らない世界に連れて行ってくれる。結局俺は玲央から離れられない。その事実だけが胸の奥底に沈んでいった。
その日の放課後も、玲央は当たり前みたいな顔で生徒会室にいた。書類をコピーしたり、プリントをまとめて仕分けたり、廊下に掲示するポスターを貼りに行ったり、雑用係を完璧にこなしている。さっきポスターを貼りに由良と二人で出ていく時なんて、こっちを振り向いて
「浮気じゃねーからな、会長」
なんてウインクして行った。やめてほしい。
仕事がひと段落すると、扉が開いて由良と玲央が生徒会室に帰ってきた。玲央の手には渡り廊下の自販機で買ってきたのかコーラの缶とスナック菓子が握られている。
「ただいま戻りました」
「おかえり」
「会長~、休憩しよ。ジュースとポテチ半分こしてさ」
由良が椅子にかけるのを横目に、玲央は俺の横に椅子をぴったりくっつけて平然と座った。膝が触れそうなくらいの距離だ。……近い。なんでこいつはこんなに普通の顔してるんだよ。
何でもない顔で玲央はコーラの缶を開けて、ポテトチップスの袋を開ける。コーラを一口飲むと、俺に差し出して、「飲む?」っていうから、ちょっともらった。まだ、飲み物の回し飲みくらい大したことじゃない。昔からよくやってたし。
問題はその後だった。
「はい、会長、口開けて」
「……は?」
口の前にポテチが一枚差し出される。……え、何?
「ほら、あーん」
「お前マジか」
思わず心の声が漏れてしまう。由良いるんだけど。
……いや、いなくても意味わかんないか。
ちらっと由良の方をみると、何も見てません、みたいな顔で目をそらされた。
「自分で食える」
玲央が持つポテチの袋に手を伸ばすと、ふいっと避けられてしまった。
「パソコン触るなら、手は汚さない方がいいでしょ。ほら」
昔から変わらない強気な笑顔。仕方がないので、意を決して玲央の手からポテチを食べる。ほんの少しだけ唇に玲央の指先が触れた。
「……ん、かわいい」
小さい声で、確かにそう聞こえた。いつもみたいな茶化す声色じゃなくて、なんというか……、本音がこぼれたみたいに柔らかい声。初めて聞くような玲央の声に、心臓がまた変な音を立てた。
どんな顔してるのか気になって横を振り向くと、玲央は既に何でもない表情でポテチを口に運んでいる。
「もう一個食べる?あ、コーラがいい?」
いつもの声だ。気のせい……にしては、あまりにもはっきりと聞こえた。16年間一緒にいても、相変わらずこいつは何考えているのか分からない。
「あ、あのっ、僕、ちょっと職員室行ってきますね!」
斜め前から由良の声が聞こえたと思うと、小走りで生徒会室を出て行ってしまった。絶対気を使わせた。ちょっと申し訳ない。
「由良、今の見てたよな」
「見てたんじゃない?てか、同じ教室で先輩がいちゃいちゃしてたら見んだろ」
こいつ、自覚あってやってんのかよ。
「自覚あんならやめろよ」
「え、今日の昼話付いたじゃん。分かりやすくするって」
「……う、それは」
そうだった。
『だから、"彼氏アピール"は分かりやすい方がいい訳よ』
『会長が“付き合ってる人いる”って嘘ついたんだろ。だったら、ちゃんと最後まで守んなきゃ』
なんて言って丸め込まれた。俺がついた嘘なんだから、それなりの覚悟をしていたつもりだけど。なんか、玲央と距離が近いのって、こんなにも落ち着かないことだったっけ。そんな考えでいっぱいになった頭をかき消すように、俺はコーラの缶を煽る。
そろそろ仕事に戻らないと――そう思った瞬間、生徒会室の扉が開いた。
「由良――あ、先生。どうかしましたか」
由良が帰って来たのかと思ったけど、そこに立っていたのは生徒会を担当している先生だった。
「今年の予算案の資料、もうできてるかと思ってな。来週の職員会議で使うから」
「ああ。それならちょうどさっき出力したところです」
隣の机のファイルから一枚の表を取り出して、先生に手渡す。
「さすがだな、朝倉。これ、コピーして後で持ってきてもらえるか。いつも通り職員分」
「分かりました。今日中にお持ちします」
先生は満足そうに頷くと、俺の隣に座る玲央に目を向けた。
「芹沢はなんでここにいるんだ?お前、またサボりか?」
「え、先生ひどい。お手伝いですよ~」
「生徒会室は遊びに来る場所じゃないぞ」
そういえばこの先生、去年は玲央のクラスの担任だったな。玲央の問題児ぶりは承知の上なのだろう。
「サボりも何も、俺放課後は暇っすもん。部活やってないし」
あっけらかんと言い返す玲央に、先生は苦い顔をしている。
「あの、先生」
気付いたら、口が動いていた。
「芹沢には俺がお願いしたんです」
「朝倉が?」
「はい。生徒会、今すごいやること多くて、いや、今というか万年人手不足ではあるんですけど、とりあえず雑用手伝ってもらってて」
「……まあ、生徒会長がそう言うなら。あんまり迷惑かけるなよ」
「努力しまーす」
そう言って先生は生徒会室を出て行った。
なんで俺、こんな必死にこいつ庇ってんだろ。玲央に付き合ってるフリを頼んだのは事実だけど、生徒会に居座ってるのは玲央が勝手にやってる事なのに。
「会長、庇ってくれてありがと」
「……別に、最初にお前のこと巻き込んだのは俺だし」
玲央は嬉しそうに笑うと、俺の目を見て真っ直ぐ見つめる。
「会長に"お願い"されたら、俺何でもやるよ」
その視線と言葉があまりに純粋で、俺は声が出せなかった。少しの間、玲央と見つめ合う。何秒だったか、何十秒だったか分からない。一瞬にも永遠にも思えた。
しばらくして、ふと玲央が窓の外に視線をずらす。
「あ、雨降ってきた」
「え?」
窓の方を振り返ると、大粒の雨が降り始めた。みるみるうちに雨足は強まって、瞬く間に土砂降りになっていく。
「もうすぐ梅雨だもんな〜。あ、やべ、俺傘ねぇや」
「……仕方ないな、一緒に使うか?」
玲央は大体傘を持って来ないから、二人でひとつ使うのが当たり前だったから、何の気なしに言ってから気が付いた。今、俺らは"付き合ってる"んだった。フリだけど。
「いいの?会長、積極的じゃん」
玲央は嬉しそうに笑う。やっぱり言われると思った。
その瞬間。部屋がピカっと光に包まれた。疑問に思う間もなく、ゴロゴロと低い音が響く。
「……っ!」
玲央が眉をひそめた。もしかして……。
「芹沢、もしかしてまだ雷怖いのか?」
「……別に、デカい音が苦手なだけ」
強がりなのは、昔から変わらない。そう言いながらも膝の上に置かれた手は、ぎゅっと拳を作っている。
「昔から雷の度に俺ん家逃げ込んで来てたもんな」
「まあ、それは認める」
昔から、頼るのは玲央で頼られるのは俺。それが俺たちだったのに。
昔は、雷が鳴るたびに「ちぃくんち行く!」って泣きついてきたくせに。
パジャマのままびしょ濡れで飛び込んできて、俺のベッドに潜り込んで、手ぇ握ってないと眠れなかったくせに。
いつの間にか俺の方が、こいつに頼りっぱなしになっている。教室でも、廊下でも、生徒会室でも、「彼氏のフリ」をしてくれるこいつの存在に甘えて、勝手についた嘘を守ってもらって。
空はさっきより少し暗くなっていて、また小さくゴロ、と鳴った。玲央が一瞬だけ眉を寄せて、それでも何でもないみたいに笑う。
このときの俺は、次の“雷の日”が、またひとつ嘘をややこしくすることになるなんて、まだ知らなかった。
