============== これは、勿論フィクションです。 =======
俺の名は、加賀見進。別名「異次元の殺し屋・万華鏡」。次元を渡り歩く殺し屋をしていたが、時間管理局に『異動』になった。俺の使命は、この未来世界(3026年)から、所謂タイムリープをして逃げた犯人を追って、『悪さ』をしていた場合、逮捕し、局に移送させることだった。殺しはしないが、痛め付けること位は許されている。
今の俺は、『異次元のパトロール警官』。次元の『調整係』だ。
午前9時。時間管理局。
出勤するなり、ボスは言った。もう力石だと、ばれてるが、変な仮面を着けている。
もう知らん振りするしかない。
「五十嵐、お前は・・・お前、後ろかクラクション鳴らされたら、どう感じる?」
「あ。煽り運転の関係の差異ですね?」
「ファイナルアンサー?」
「ファイナルアンサー。」
「ざーんねん、その頃は流行ってなかった。差異が生じたのは『粉の国』。お前が『気象予知センター』の木津葉子と出会った次元だ。時間軸は、1977年。ある大きな駅に向かう道の、所謂『抜け道』でのこと。知る人ぞ知る、抜け道だが、かなり知られていた。それで、本道のように混雑した。皆、焦っていた。ついクラクションを鳴らしてしまったドライバーの前のクルマのドライバーが、拳銃をぶっぱなして即死。撃った男は反社だった。1979年に裁判は結審した。ここまでが、データベース。ところが、『粉の国』の年鑑に大きな差異が出てきた。その結審する前日、被告は、どういう手段でか、脱走、行方不明。」
「詰まり、シッパーですか。」
MRIに似た移送装置に寝転がると、やはりアロハがあった。
睡眠学習によると、被告は反社で、気が立っていた。まあ、反社は大抵気が短い。
覚醒剤、やってたのか。ひょっとしたら、普通より、クラクションの音は大きく聞こえたかも・・・って、運転しちゃダメでしょうが。シッパーにメリットがあるとは思えないが・・・俺か?罠か?」
1979年7月27日。『粉の国』。地裁前。
「待っていたよ、万華鏡。いつも邪魔してくれてありがとう。礼を言うよ。」
高慢なオンナが現れ、いきなり拳銃で俺を撃った。
俺は、跳んで跳んで跳んで跳びまくった。
その間に、木津が現れ、オンナをかききった。
「おい、葉子。」
「大丈夫、こいつ、アンドロイドだから。」
見ると、血が流れていない。
爆発が起きた。
間一髪、俺と葉子は、俺達の円盤に転送された。
「本体はこことこことここ。頼むよ、エージェント達。」と、局長は言った。
俺達は、3箇所に跳び、葉子が陽動した隙に、俺はシッパーを『保安檻』に送った。
3026年某月某日。午後5時。時間管理局。
俺はタイムレコーダーシステムに体内時計をスキャンさせた。
ボスがやってきた。
「迂闊に、防弾チョッキを仕込めない。自力でかわしてくれ。」
はいはい。
午後7時。五十嵐家。
葉子は、パンタロンスーツを着こなしていた。
かな子も・・・。え?
「暇だから、正妻用の衣装も買ってきた。あの時代、好きなんだ、実は。」
「に・・・似合うね、二人とも。」
あの段ボールは???
―完―
※東大阪クラクション殺人事件(ひがしおおさかクラクションさつじんじけん)とは、1977年(昭和52年)に発生した殺人事件である。別名を東大阪警笛殺人事件ともいう。
※1977年(昭和52年)8月27日17時頃、大阪府東大阪市内の市道は幹線道路の抜け道であったため帰宅ラッシュで混雑していた。この時、前走車が発進したにもかかわらず1台のライトバンが発進しようとしなかった。そのため、後方のライトバンを運転し、自宅まで100メートルであった帰宅途中の会社員の男性(当時37歳)は、前方のライトバンに警笛(クラクション)を鳴らした。この行為は日常的にどこにでも見られるものであった(ただし厳密には法律上警笛の目的外使用にあたる)。
※しかし、ライトバンを運転していた元暴力団員(当時32歳)はクラクションを鳴らされたことに腹を立て、会社員のライトバンに詰め寄って所持していた拳銃で会社員の首に発砲した。会社員は病院に搬送されたが同日18時に死亡し、元暴力団員は助手席にいた愛人(当時33歳)と逃亡した。この事件は「クラクション殺人」として大きく報道され、社会問題化した。
※警察は被疑者の愛人を割り出し、8月30日に同行を求めた。愛人は服毒自殺を図ったが救命措置で一命を取り留め、元暴力団員の犯行を認めた。被疑者は傷害と覚醒剤取締法違反などで逮捕歴18回、前科5犯の常習犯であったが、殺人の前科はなかった。犯行に使用した拳銃は六連発で、弾丸が残っており同様の事件を起こす恐れがあったが、9月2日に潜伏先の大阪市内のホテルで逮捕された。
※被疑者は刑事裁判において、犯行時に覚醒剤を服用していてその幻覚作用の影響下にあり心神耗弱であったことを主張したが、犯行後に大阪府内を逃亡したことから責任能力はあるものと判断された。検察側からは無期懲役が求刑され、一審の大阪地方裁判所は同様の判決を下した。二審の大阪高等裁判所は1979年(昭和54年)7月28日に、心神耗弱は認められず犯行動機も身勝手であると非難したものの、当時の有期刑では最長の懲役20年に減刑した。その理由は、無期懲役でも量刑不当ではないが反省しているというものであった。
※なお、労働省(現在の厚生労働省)は被害者遺族に対し、勤務先から帰宅途中の労働災害と認定して1977年12月に遺族年金支給を決定した。労働省の見解は「ピストルを持った無法者の横行は、キバをむいて街をうろつく野犬と同じ」というものであった。


