その名は時間管理局


 ============== これは、勿論フィクションです。 =======
 俺の名は、加賀見進。別名「異次元の殺し屋・万華鏡」。次元を渡り歩く殺し屋をしていたが、時間管理局に『異動』になった。俺の使命は、この未来世界(3026年)から、所謂タイムリープをして逃げた犯人を追って、『悪さ』をしていた場合、逮捕し、局に移送させることだった。殺しはしないが、痛め付けること位は許されている。
 今の俺は、『異次元のパトロール警官』。次元の『調整係』だ。

 午前9時。時間管理局。
 出勤するなり、ボスは言った。もう力石だと、ばれてるが、変な仮面を着けている。
 もう知らん振りするしかない。
 「五十嵐、お前は・・・お前さ、ノンポリと活動家、どっち好き?」
 「質問、変ですよ。寝てます、ちゃんと。」
 「ああ。失礼。質問を変えよう。お前はノンポリと活動家、どっちだった?」
 「ノンポリ、ですね。今からじゃ想像つきにくいかも知れませんが。」
 「だから、かな子はお前を選んだんだな。んん。差異の話をしよう。生じたのは、『配の国』。お前が敏江と再会した次元だな。時間軸は、1969年1月19日。『配の国』の最高学府である、最高大学、略して最大だ。どこの次元でもこの頃、生じた『大学紛争』があった。原因は色々あるが、当局は、特化機動隊の出動で2日がかりで平定した。首謀者の女は海外に逃亡、帰国後逮捕され有罪判決で服役し、晩年は、人を見下す婆さんになった。で、ここまでが、データベース。年鑑に現れた差異は、今までで一番怪奇だ。円盤が現れて、その拠点の講堂が溶かされた。」
 「はあ?」
 「溶かされた。あ、熔解された。何かの生物兵器で。」
 「んもう。さらっと言ってますけど、最終決戦ものの展開じゃないっすか。」
 「まだ、最終回じゃないけど、クライマックスだな。」

 MRIに似た移送装置の横に、見知らぬコートがあった。
 そうか。時代がかなり古いからか。金は使えないだろうしなあ。
 睡眠学習によると、この大学紛争は、前年から続いており、全国的な波及を見せた。
 親達は、戦争させる為に進学させたんじゃないのに、と嘆いたとそうだ。
 もう終盤だし、建物壊しても、立て直せたろう。
 狙いは・・・俺か。

 1969年1月19日。午前6時30分。『配の国』。
 講堂上空に円盤が現れ、機動隊は、封鎖解除講堂では無くなった。
 「待避―!!」
 隊長の判断は正しかった。円盤は上空から何かを落して、講堂は一気に溶け始めたのだ。

 俺は、すぐさま、10分前にタイムリープした。
 時間管理局の円盤が浮かんでいたので、すぐさま跳んだ。

 円盤の中。
 「時間が無いから、ざっと説明するね。向こうの円盤が現れたら、乗り組み員を地上に移送する。100メートル先だ。君と助っ人は、そこに跳んで闘ってくれ。円盤は引き受けた。」
 新局長の大川は、要領よく説明した。
 「足手まといになるなよ、万華鏡。」
 「一緒に闘わせて頂きます、神様。」
 何と、助っ人は敏江と止揚、いや、かな子だった。

 午前6時30分。大きな公園の池のそば。
 俺達3人は、『なるべく捕獲する』のが仕事だ。
 ちりぢりになり、パラライザーで失神させ、次々に『保安檻』に送った。
 30分後。作業終了したら、腕時計から局長の声がした。
 「敵の円盤も移送した。現場には、『一時的な花粉症の粉』を蒔いておいた。諸君を回収する。」

 3026年某月某日。午後5時。時間管理局。
 俺はタイムレコーダーシステムに体内時計をスキャンさせた。
 アラームは鳴らない。止めたのか。
 ここに到着した時、敏江と止揚、いや、かな子はいなかった。
 ボスは来なかった。

 午後7時。五十嵐家。
 帰宅すると、敏江がいた。
 何やら、2人で、昔の料理を作っていた。
 俺が何か言おうとすると、「仕事の時は止揚、自宅に帰ったら、かな子、でいいのよ、進。」

 「判った。」
 夕飯は、敏江のミニ歓迎会になった。
 また、その内あうだろうが。

 ―完―

 ※東大安田講堂事件(とうだいやすだこうどうじけん)は、全学共闘会議(全共闘)および新左翼の学生が東京大学本郷キャンパス安田講堂を占拠していた事件と、大学から依頼を受けた警視庁が約8500人もの機動隊を導入して1969年(昭和44年)1月18日から1月19日に封鎖解除を行った事件である。東大安田講堂攻防戦、東大安田講堂占拠事件ともいう。
 ※事件の背景
 ※1960年代後半、ベトナム戦争が激化の一途をたどっていた。また、1970年(昭和45年)で期限の切れる日米安全保障条約の自動延長を阻止・廃棄を目指す動きが左派陣営で起きていた。これに伴い学生によるベトナム反戦運動・第二次反安保闘争が活発化した。

 ※それと時を同じくして、高度経済成長の中、全国の国公立・私立大学においてはベビーブーム世代が大量に入学する一方で、ときに権威主義的で旧態依然とした大学運営がみられた。これに対して学生側は授業料値上げ反対・学園民主化などを求め、各大学で結成された全共闘や、それに呼応した新左翼の学生が闘争を展開する大学紛争(大学闘争)が起こった。

 ※全共闘の学生達は大学当局との「大衆団交」(団交)で自分たちの主張を唱え、それが認められない場合は大学構内バリケード封鎖という手段に訴えた。学園紛争は全国に波及し、最盛期では東京都内だけで55の大学がバリケード封鎖に入り社会問題に発展していった。

 ※事件発生までの経緯
 ※その中で、東京大学においては医学部自治会および青年医師連合(卒業生が所属)が1968年(昭和43年)1月下旬より登録医制度反対などを唱え、通称「インターン闘争」に始まる東大紛争(東大闘争)を展開した。

 ※これに対して大学側は3月11日に「医局員を軟禁状態にして交渉した」として17人の学生の処分を発表したが、その中に明確にその場にいなかった1人が含まれており、このことが学生側の更なる怒りを招くこととなる。

 ※翌3月12日に医学部総合中央館を、3月27日に安田講堂を一時占拠し、翌日予定されていた卒業式も中止された。3月26日には「医闘争支援全東大共闘連絡会議」が他学部も含めた学生有志によって結成され、卒業式阻止の主体となった。しかし、この段階では日本共産党(日本民主青年同盟、「民青」)系の自治会中央委員会や学内の七者連絡協議会は、闘争に対して批判的な立場を取ったため、全学の自治会には闘争は波及していなかった。

 ※医学部では新学期になってもストライキが継続していたが、事態は膠着し、6月15日に医学部の「全学闘争委員会」が安田講堂を再度占拠した。大学当局の大河内一男東大総長は2日後に機動隊を導入しこれを排除したが、これに対して全学の学生の反発が高まり、7月2日、安田講堂はバリケード封鎖された。

 ※その3日後に「東大闘争全学共闘会議」(全共闘)が結成される。以後、大学当局は打開を図ったが更に全共闘や新左翼学生の反発を招き、東大全学部のこれらの組織に属する学生主導によるストライキや、主要な建物多数の封鎖が行われた。11月には大河内総長以下、全学部長が辞任した。

 ※これらの全共闘や新左翼の学生による暴力行為や、9月30日の日大紛争(日本大学闘争)での大衆団交を受けて、佐藤栄作政権が動き出す[注釈 3]。11月22日、全学バリケード封鎖に向けて全共闘系7千名、阻止する日共(民青)系7千名が全国から集まり、にらみあう。

 ※全共闘系内部においては早稲田革マルの藤原が中心となって、全学バリケード封鎖反対を各派に恫喝的に説得する。結果的に全学バリケード封鎖は中止となり、背景を知らない学生の一部では、戦時中のレイテ沖海戦の史実と絡めて、「栗田艦隊謎の反転」と語られる。

 ※11月22日以後
 ※大河内総長の後任として法学部の加藤一郎教授が総長代行として就任し、1969年(昭和44年)1月10日、国立秩父宮ラグビー場にて「東大七学部学生集会」を開催。民青系や学園平常化を求めるノンポリ学生との交渉によってスト収拾を行うことに成功したが、依然、占拠を続ける全共闘学生との意見の合致は不可能と判断し警察力の導入を決断、1月16日警視庁に正式に機動隊による大学構内のバリケード撤去を要請した。

 ※封鎖解除1日目
 ※警視庁警備部は8個機動隊を動員し、1月18日午前7時頃医学部総合中央館と医学部図書館からバリケードの撤去を開始、投石・火炎瓶などによる全共闘学生の抵抗を受けつつ、医学部・工学部・法学部・経済学部等の各学部施設の封鎖を解除し安田講堂を包囲、午後1時頃には安田講堂への本格的な封鎖解除が開始された。

 ※しかし、強固なバリケードと、上部階からの火炎瓶やホームベース大の敷石の投石、ガソリンや硫酸といった劇物の散布など、学生の予想以上の抵抗に遭った。警察側の指揮官佐々淳行(警視庁警備部警備第一課長・当時)は「なるべく怪我をさせずに、生け捕りする」ことを念頭に置き封鎖解除を進めたために、全共闘学生への強硬手段をとれない機動隊は苦戦を強いられたと記している。ただし、機動隊は催涙弾を装填したガス銃を学生に向けて発射しており、そのために学生側には負傷者が複数発生した。

 ※また学生側の島泰三は、警察側の攻撃計画が「建物を攻略する城攻めには驚くほど無知」で「実にずさんだった」と評している。午後5時40分警備本部は作業中止を命令。18日の作業は終了した。

 ※なお、午後には神田地区(お茶の水付近)で「全都学生総決起集会」が呼応する形で開かれ、デモ隊を組織して街頭で機動隊と衝突している。デモ隊は東大を目指したが、本郷三丁目駅付近まで到達したのが限界で、午後9時には解散した。

 ※封鎖解除2日目
 ※1月19日午前6時30分、機動隊の封鎖解除が再開された。2日目も全共闘学生の激しい抵抗があったが午後3時50分、突入した隊員が三階大講堂を制圧し午後5時46分屋上で最後まで暴力的手段をとり抵抗していた全共闘学生90人を検挙。東大安田講堂封鎖解除は完了し機動隊は撤収した。なお全共闘学生による投石や劇物の散布などにより多数の警察官が重軽傷を負った。

 ※その後の新左翼諸党派のこの闘争に対する総括においては、「全共闘などの学生運動、大学闘争は世界革命において全く労働者などの現場の視点を捉えず、至ってプロレタリア性を帯びないプチブル的なものであった」と(主に共産同など)位置づけた。

 ※警視庁の記録によると、この日の封鎖解除で検挙された学生633人のうち、東大生はわずか38人であったという。ただしこれについては、全共闘側の関係者(今井澄、島泰三)から異論が出ており、島は公判で起訴された東大関係者(54名)の数と、全体の逮捕者と起訴された者の比率等から、80名から100名程度の東大関係者が、東大構内に立て籠もったと推定している。(Wikipediaより)
 ※余談ですが、筆者の友人も「ブームに乗って」デモに参加しました。ノンポリのくせに。
 私のアパート下宿に泊まった、と嘘をつき、アリバイ作りをしてまで。
 彼の家族には、申し訳なかった、と今でも思っています。

 ※敢えて、紛争詳細記述は避けました。
 クライングフリーマン