黒峰邸に来てから、詩乃の生活は一変した。 朝は決められた時間に目覚め、上質な衣を纏い、誰もが羨むような豪勢な食事をとる。

  何よりも、常に朔也の静かな視線と保護を感じる空間は、花守邸での息苦しさとは無縁だった。

朔也は多忙な当主であり、昼間は討伐や政務で席を外すことも多い。だが、使用人たちは皆、当主の命で詩乃を細心の注意を払って扱った。誰もが冷徹な朔也に怯えているからこそ、詩乃は守られていた。

昼下がり。 詩乃は広い客間で、生け花を習っていた。これは朔也が「退屈しのぎに」と手配してくれたものだ。 今日の花は、淡い桃色の白梅。凛とした香りが、書斎の静寂を穏やかに満たしている。

(こんなに穏やかな時間を過ごせるなんて、想像もできなかった)

詩乃が梅の枝にそっと触れた瞬間、胸の奥の「微光」が小さく揺れるのを感じた。それは、以前禍神を感じた時の、ひりつく痛みではない。 むしろ、『ここが私の居場所だ』と、深く呼吸するような、安堵と力が混ざった感覚だった。

その時、一人の使いの者が、控えめに声をかけてきた

「詩乃様。花守邸より、お荷物が届いております」

詩乃はわずかに身構えた。花守家からの荷物など、ろくなものではないと本能が知っている。

「贈り主は?」

「花守華澄様からです。先日のお詫びと、新しい生活への激励だと……」

添えられた木箱は、丁寧に和紙で包まれていた。詩乃は恐る恐るそれを開けた。中には、華澄が好んで身につけていた、鮮やかな赤の珊瑚の帯留めが入っていた。

「——本当に、忌々しい女」

帯留めを見た瞬間、詩乃の耳の奥で、誰かの憎しみに満ちた声が響いた。 まるで氷を突き刺されたかのような、強烈な冷気と熱が、同時に胸に押し寄せる。

「くっ……!」

  詩乃は思わず生けたばかりの梅の枝を掴んだ。その指先が、目には見えない熱で焼かれるように痛む。

それは、禍神そのものの「影」ではない。
 
しかし、あの時華澄が胸の奥で燃やした、純粋で激しい嫉妬の炎の残滓が、この帯留めに込められて送られてきたのだ。

詩乃の胸骨の裏で、小さすぎる「微光」が激しく揺れた。 熱を帯びた悪意が光を覆い隠そうとし、詩乃は激しい頭痛とめまいに襲われた。

「詩乃様、どうかされましたか!」
 
傍で控えていた侍女が、慌てて詩乃を支えようとする。その時、背後から空気を震わせるような重低音が響いた。

「触れるな」

朔也だった。彼はいつ戻ったのか、漆黒の軍装姿で、部屋の入り口に立っている。その瞳は、凍てつくように冷たい。

朔也は詩乃を一瞥すると、視線を書斎のテーブルの上にある帯留めに向けた。

「その帯留めから、下卑た熱が立ち上っている」

彼は歩み寄り、詩乃を侍女から引き離すと、優しく抱き寄せた。 彼の体が触れた瞬間、詩乃を襲っていた悪意の熱は、瞬時に氷点下まで冷え込んだ。

「あ、朔也様……」

「大丈夫だ。もう消えた」

朔也は詩乃を抱いたまま、テーブルの上にある珊瑚の帯留めを、視線だけで粉々に砕いた。帯留めは、黒い粉となって空気中に霧散した。

朔也は、顔を青くする侍女たちを一蹴した。

「花守家からの贈り物は、今後一切、俺の検閲を通せ。この程度の悪意すら防げぬとは、この黒峰の結界も間が抜けている」

そして、詩乃を抱き締めたまま、静かに問うた。
 
「華澄の嫉妬か。それが、あの娘の花弁の光を媒介にして、お前に届いたのだ。感じたな、詩乃」

「はい……とても、熱くて……怖かったです」
 詩乃の体は震えていた。その震えを鎮めるように、朔也は彼女の背中をゆっくりと撫でる。

「あの憎悪は、禍神の卵のようなものだ。強すぎる感情は、異能を持つ者の体内に『影』を生み出す。お前の異母妹は、己の愚かな感情で、自滅しかけている」
朔也は詩乃の顎をそっと持ち上げ、その瞳をまっすぐに見つめた。
 
「だが、お前は怖がっただけで済んだ。その光が、悪意を燃やし尽くす前に、跳ね返そうとしたからだ」
彼はそっと、詩乃の胸に手を置いた。

「お前の光は、鎮魂の光だ。それは、ただ俺の炎を鎮めるためだけにあるのではない。強すぎる負の感情そのものを、鎮めるために存在する」

詩乃の心臓が、トクン、と大きく脈打った。

(憎しみを……鎮める……?)
 
「花守詩乃。お前は、憎しみを花に変える力を持っている。だからこそ、神は今、お前を覚醒させようとしている」

朔也の瞳には、詩乃の運命と力を見通す、圧倒的な確信があった。

「あの帯留めは、ただの始まりだ。華澄の憎悪は、さらに深く、彼女自身を蝕んでいくだろう。それをお前が救うことになる。その時に備えろ」
朔也は、詩乃の額に深く口づけを落とした。

「怖がるな。俺は、お前を試練に遭わせるためにここに連れてきたのではない。お前が、誰かを救う大輪の花を咲かせるまで、俺が全てを焼き尽くして守り抜く」

(この人は、私が誰かを救う運命にあることを知っていて、それでも私を守ろうとしてくれている……)

詩乃の胸の奥で、微かな光はもう、揺らぎを止めていた。 憎しみの熱に触れたことで、その光は一層、冷たく澄んだ輝きを帯び始めた。

それは、彼女が宿命づけられた「花」が、ついに土の中で根を張り、硬い蕾を固めた瞬間だった。