黒峰朔也が花守詩乃を連れ去ってから三日。花守邸には、表面的な静けさとは裏腹に、氷のような緊張が張り詰めていた。
食堂で、華澄はいつもの朝食の膳を前に、一口も手をつけていなかった。その横顔は、嫉妬と屈辱で歪んでいる。
「お母様……信じられないわ」
華澄が絞り出すような声で言った。
「あの、詩乃が、よりにもよって黒峰朔也様の妻になるなんて!私は、私こそが花守家の誇りだったのに――。」
継母の美鶴は、艶やかな黒髪に指を這わせながら、扇子をぴしゃりと閉じた。
「うるさいわよ、華澄。その話はもう終わりよ。」
美鶴は苛立っている。最強の家系と縁を結べたことは喜ばしいが、その座を“価値のない長女”に奪われた事実は、華澄のプライドを粉々に砕いていた。
「黒峰様の狙いが、あの娘の“鎮魂の光”だけだとしても、世間は知らないわ。皆、華澄ではなく、詩乃が黒峰家に選ばれたと噂するでしょう!だけど、あなたには紫堂煌牙様がいるでしょう」
美鶴はさらに続けて強い口調で言った。
「紫堂家も異能を持つ家系の中でも屈指の家系よ。煌牙様は優秀で、あなたの花弁にも相応しい。黒峰の娘になったところで、詩乃はせいぜい冷遇されるのがオチよ。あなたは煌牙様を味方につけて、花守家で揺るぎない地位を築くの」
その美鶴の言葉通り、この日、華澄は煌牙と出かける予定だった。
昼過ぎ、花守邸の門前には、華澄の婚約者である“紫堂煌牙”が立っていた。彼はまだ二十歳という若さながら、すでに紫堂家の異能を強く受け継いでいる。
切れ長の目、高貴さを感じさせる顔立ちは美鶴が理想とする婿の姿そのものだ。しかし、その瞳の奥には、どこか冷たく、計算高い光が潜んでいる。
「煌牙様、お待たせいたしました」
華澄は、今朝までの醜い感情や表情の痕跡を完璧に消し去り、精一杯の笑顔を作った。
「華澄、顔色があまり良くないな」
煌牙の声は優しく聞こえるが、その声色には常に、相手を観察するような響きが含まれている。
「黒峰家の件で、少し気分が優れないのです。街で新しい簪でも見て、気を晴らしたいわ」
華澄は、なんとか取り繕うと、可愛らしくおねだりをした。
「よかろう」
煌牙は軽く頷いた。
「俺が選んでやる。お前の花弁に相応しい、最も絢爛な簪を」
二人が向かったのは先日、朔也と詩乃が立ち寄ったばかりの銀座の老舗簪店だった。
店内に足を踏み入れると、煌牙の視線はすぐに、棚に並ぶ豪奢な細工の簪へと向かった。
「この銀細工は繊細だが、華澄の美しさには少し地味か。この金の鳳凰細工くらいが、お前の華やかな花弁には釣り合うだろう」
華澄は嬉しそうに、煌牙を見つめた。
「まあ、煌牙様。私のことよくわかっていらっしゃるわ」
そこへ、店の主人が茶を運びながら、世間話のように口を開いた。
「奥様と旦那様は、本当に仲睦まじい。それにしても、最近は驚くことが多くてねぇ」
美鶴は興味津々に身を乗り出す。
「あら、何かございました?」
店主は満面の笑みで言った。
「ええ。先日、あの黒峰朔也様がご来店されてね」
美鶴と華澄は、ぴくりと動きを止めた。煌牙もまた、静かに店主を見つめる。
「黒峰様ときたら、それはそれは、お優しくてねぇ。婚約者様を連れていらしたんですよ」
華澄の胸が、鋭利な刃物で引き裂かれるように痛んだ。
「婚約者ですって?どこの、どのような方で?」
美鶴が声を荒げて尋ねた。
店主がにこやかに答えた。
「それが、非常に控えめな、楚々としたお嬢様でして。奥様のように派手な花弁こそ見えませんでしたが、なんとも言えない、清らかな雰囲気がございました」
「清らかな雰囲気ですって……」
華澄の唇が震えた。
「ええ。そしてね、黒峰様がお選びになったのが、この店で一番高価で、そして最も特別な品でした」
店主は、華澄たちが今見ている棚の、一段低い場所を指差した。
「銀色の遅咲きの睡蓮を模した、あの簪でございます」
華澄は、そのシンプルな美しすぎる簪を、憎悪の眼差しで見つめた。
「他の煌びやかな簪は一切目に入らず、迷いなく『お前にはこれだ』と。そして、お嬢様の髪に自ら挿して差し上げてね。その時の、旦那様の優しい眼差しときたら……」
店主はうっとりとした表情で続ける。
「あの冷酷無慈悲と噂される黒峰様が、あんな愛おしそうに、花を見るような目をされるなんて。本当に素敵な雰囲気で、まるで絵巻物から抜け出たようでしたよ」
店主の悪意のない言葉は、華澄と美鶴にとっては、最大の毒だった。
「愛おしそうに……花を見るような……」
華澄は怒りのあまり、全身が小刻みに震え始めた。
(嘘よ。詩乃は花のない娘よ!あの汚い手が、なぜ朔也様に触れられ、愛おしがられるの……!」
美鶴は顔色を真っ青にし、何とか取り繕おうと、煌牙に笑顔を向けた。
「こ…煌牙様。黒峰様らしい、実直な方を選ばれたということでしょうね」
煌牙は、店主の言葉を最後まで静かに聞いていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「あの簪、1ついくらだ?」
店主は姿勢を正し、恐る恐る答えた。
「あ……あれは、特注品でして。銀の素材と、特殊な水晶、そしてあの精巧な彫刻には、普通の華族の屋敷が1つ建つほどの値が付いております。」
華澄が息を完全に止めた。
煌牙は、鼻で笑うような冷たい息を漏らした。
「ふむ。さすがは、黒峰朔也様だ。我々には、到底手が出ないな」
その言葉は、まるで華澄への配慮のように聞こえたが、その本質は違った。
「見てみろ、華澄」
煌牙は、華澄の顎を掴み、無理やり彼女の顔を睡蓮の簪に向けさせた。
「あの銀色の簪が、お前の大輪の花に似合うと思うか?否だ。それは、貧相で、地味な娘の清らかさを引き立てるものだ」
「こ、煌牙様……」
「そして、あの値段。あれは黒峰様だから買えるのだ。紫堂家が、そのような高価なものを軽々しくお前に与えれば『黒峰の磁力に追いつこうとしている』と世間に嘲笑される」
煌牙は手を離し、豪華絢爛な金の鳳凰の簪を指差した。
「俺が選ぶのはこれだ。お前の華やかな花弁に相応しい。俺の財力と、俺の誇りが、手の届く範囲で、最高のものを与える」
華澄は、自分が煌牙の計算とプライドの道具にされていることを感じ、再び深い屈辱を味わった。
(朔也様は、詩乃に『清らかで強い』と言った。しかし煌牙様は私を『手の届く範囲で最高の飾り』として扱う……!)
華澄の胸を貫いたのは、詩乃への嫉妬だけではなかった。最強の当主が選んだ『愛』と、自分の婚約者が選んだ『体裁』のあまりにも大きな差だった。
「……悔しい……」
華澄は、簪を買い求める煌牙の隣で、誰にも聞こえないほどの声で呟いた。
その視線は、憎しみを込めて、銀座の通りのどこか遠く、詩乃と朔也が歩いたであろう場所へ向けられていた。
「あの女を、絶対に許さない……!」
この日、華澄の周りには黒い影が人知れず、微かに揺れ始めていた。
食堂で、華澄はいつもの朝食の膳を前に、一口も手をつけていなかった。その横顔は、嫉妬と屈辱で歪んでいる。
「お母様……信じられないわ」
華澄が絞り出すような声で言った。
「あの、詩乃が、よりにもよって黒峰朔也様の妻になるなんて!私は、私こそが花守家の誇りだったのに――。」
継母の美鶴は、艶やかな黒髪に指を這わせながら、扇子をぴしゃりと閉じた。
「うるさいわよ、華澄。その話はもう終わりよ。」
美鶴は苛立っている。最強の家系と縁を結べたことは喜ばしいが、その座を“価値のない長女”に奪われた事実は、華澄のプライドを粉々に砕いていた。
「黒峰様の狙いが、あの娘の“鎮魂の光”だけだとしても、世間は知らないわ。皆、華澄ではなく、詩乃が黒峰家に選ばれたと噂するでしょう!だけど、あなたには紫堂煌牙様がいるでしょう」
美鶴はさらに続けて強い口調で言った。
「紫堂家も異能を持つ家系の中でも屈指の家系よ。煌牙様は優秀で、あなたの花弁にも相応しい。黒峰の娘になったところで、詩乃はせいぜい冷遇されるのがオチよ。あなたは煌牙様を味方につけて、花守家で揺るぎない地位を築くの」
その美鶴の言葉通り、この日、華澄は煌牙と出かける予定だった。
昼過ぎ、花守邸の門前には、華澄の婚約者である“紫堂煌牙”が立っていた。彼はまだ二十歳という若さながら、すでに紫堂家の異能を強く受け継いでいる。
切れ長の目、高貴さを感じさせる顔立ちは美鶴が理想とする婿の姿そのものだ。しかし、その瞳の奥には、どこか冷たく、計算高い光が潜んでいる。
「煌牙様、お待たせいたしました」
華澄は、今朝までの醜い感情や表情の痕跡を完璧に消し去り、精一杯の笑顔を作った。
「華澄、顔色があまり良くないな」
煌牙の声は優しく聞こえるが、その声色には常に、相手を観察するような響きが含まれている。
「黒峰家の件で、少し気分が優れないのです。街で新しい簪でも見て、気を晴らしたいわ」
華澄は、なんとか取り繕うと、可愛らしくおねだりをした。
「よかろう」
煌牙は軽く頷いた。
「俺が選んでやる。お前の花弁に相応しい、最も絢爛な簪を」
二人が向かったのは先日、朔也と詩乃が立ち寄ったばかりの銀座の老舗簪店だった。
店内に足を踏み入れると、煌牙の視線はすぐに、棚に並ぶ豪奢な細工の簪へと向かった。
「この銀細工は繊細だが、華澄の美しさには少し地味か。この金の鳳凰細工くらいが、お前の華やかな花弁には釣り合うだろう」
華澄は嬉しそうに、煌牙を見つめた。
「まあ、煌牙様。私のことよくわかっていらっしゃるわ」
そこへ、店の主人が茶を運びながら、世間話のように口を開いた。
「奥様と旦那様は、本当に仲睦まじい。それにしても、最近は驚くことが多くてねぇ」
美鶴は興味津々に身を乗り出す。
「あら、何かございました?」
店主は満面の笑みで言った。
「ええ。先日、あの黒峰朔也様がご来店されてね」
美鶴と華澄は、ぴくりと動きを止めた。煌牙もまた、静かに店主を見つめる。
「黒峰様ときたら、それはそれは、お優しくてねぇ。婚約者様を連れていらしたんですよ」
華澄の胸が、鋭利な刃物で引き裂かれるように痛んだ。
「婚約者ですって?どこの、どのような方で?」
美鶴が声を荒げて尋ねた。
店主がにこやかに答えた。
「それが、非常に控えめな、楚々としたお嬢様でして。奥様のように派手な花弁こそ見えませんでしたが、なんとも言えない、清らかな雰囲気がございました」
「清らかな雰囲気ですって……」
華澄の唇が震えた。
「ええ。そしてね、黒峰様がお選びになったのが、この店で一番高価で、そして最も特別な品でした」
店主は、華澄たちが今見ている棚の、一段低い場所を指差した。
「銀色の遅咲きの睡蓮を模した、あの簪でございます」
華澄は、そのシンプルな美しすぎる簪を、憎悪の眼差しで見つめた。
「他の煌びやかな簪は一切目に入らず、迷いなく『お前にはこれだ』と。そして、お嬢様の髪に自ら挿して差し上げてね。その時の、旦那様の優しい眼差しときたら……」
店主はうっとりとした表情で続ける。
「あの冷酷無慈悲と噂される黒峰様が、あんな愛おしそうに、花を見るような目をされるなんて。本当に素敵な雰囲気で、まるで絵巻物から抜け出たようでしたよ」
店主の悪意のない言葉は、華澄と美鶴にとっては、最大の毒だった。
「愛おしそうに……花を見るような……」
華澄は怒りのあまり、全身が小刻みに震え始めた。
(嘘よ。詩乃は花のない娘よ!あの汚い手が、なぜ朔也様に触れられ、愛おしがられるの……!」
美鶴は顔色を真っ青にし、何とか取り繕おうと、煌牙に笑顔を向けた。
「こ…煌牙様。黒峰様らしい、実直な方を選ばれたということでしょうね」
煌牙は、店主の言葉を最後まで静かに聞いていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「あの簪、1ついくらだ?」
店主は姿勢を正し、恐る恐る答えた。
「あ……あれは、特注品でして。銀の素材と、特殊な水晶、そしてあの精巧な彫刻には、普通の華族の屋敷が1つ建つほどの値が付いております。」
華澄が息を完全に止めた。
煌牙は、鼻で笑うような冷たい息を漏らした。
「ふむ。さすがは、黒峰朔也様だ。我々には、到底手が出ないな」
その言葉は、まるで華澄への配慮のように聞こえたが、その本質は違った。
「見てみろ、華澄」
煌牙は、華澄の顎を掴み、無理やり彼女の顔を睡蓮の簪に向けさせた。
「あの銀色の簪が、お前の大輪の花に似合うと思うか?否だ。それは、貧相で、地味な娘の清らかさを引き立てるものだ」
「こ、煌牙様……」
「そして、あの値段。あれは黒峰様だから買えるのだ。紫堂家が、そのような高価なものを軽々しくお前に与えれば『黒峰の磁力に追いつこうとしている』と世間に嘲笑される」
煌牙は手を離し、豪華絢爛な金の鳳凰の簪を指差した。
「俺が選ぶのはこれだ。お前の華やかな花弁に相応しい。俺の財力と、俺の誇りが、手の届く範囲で、最高のものを与える」
華澄は、自分が煌牙の計算とプライドの道具にされていることを感じ、再び深い屈辱を味わった。
(朔也様は、詩乃に『清らかで強い』と言った。しかし煌牙様は私を『手の届く範囲で最高の飾り』として扱う……!)
華澄の胸を貫いたのは、詩乃への嫉妬だけではなかった。最強の当主が選んだ『愛』と、自分の婚約者が選んだ『体裁』のあまりにも大きな差だった。
「……悔しい……」
華澄は、簪を買い求める煌牙の隣で、誰にも聞こえないほどの声で呟いた。
その視線は、憎しみを込めて、銀座の通りのどこか遠く、詩乃と朔也が歩いたであろう場所へ向けられていた。
「あの女を、絶対に許さない……!」
この日、華澄の周りには黒い影が人知れず、微かに揺れ始めていた。
