翌朝、詩乃が目覚めると、見慣れない寝台の天蓋が視界に広がった。
黒峰邸の豪奢な寝具に、一瞬夢かと錯覚する。しかし昨晩、朔夜の腕の中で感じた温もりは夢ではなかった。
胸の奥に、まだじんわりと熱が残っている。

(……朔夜様)


名を呼ぶだけで、頬が熱くなる。冷酷無慈悲と噂された当主が自分にだけ見せたあの切実な眼差し。
誰にも言えない秘密を共有したことで、二人の間に確かな絆が生まれたことを詩乃は肌で感じていた。

身支度を整え、与えられた衣裳を選んでいると扉がノックされた。
「詩乃様、朔也様がお呼びでございます」
控えめな声に、詩乃は心臓が跳ねるのを感じた。

朔也の書斎は、昨日とは打って変わって冷徹な当主の執務室の顔に戻っていた。
彼は軍装を纏い、山積みの書類を前に静かに座っている。その周囲からは、昨晩の激情は感じられない。

「朔也様」
詩乃が声をかけると、朔也は顔を上げ、ほんの一瞬、その瞳が微かに和らいだ。

「来たか、詩乃」
声のトーンはいつも通りだが、昨晩を知る詩乃には、その奥に隠された甘やかな響きが感じられた。

「おはようございます。昨晩は……」
 詩乃が言いかけると、朔夜は微かに首を振った。

「気にするな。あれは、俺の勝手な我儘だ」
 そう言いながらも、その視線は詩乃の髪や、うなじに触れる衣裳へと、愛おしげに彷徨っている。


「詩乃、今日の午後は空けておけ」

 突然の朔也の言葉に詩乃は目を丸くする。

「……え?」

「街へ行く。お前を案内したい場所がある」
 それは命令ではなく、誘いだった。それも、まるで初めての遠足に浮かれる子供のような微かな期待を込めた誘い。

「わ、私でよろしいのですか……?」
 黒峰家の当主が、ただの一人の娘を連れて街へ出るなど、前代未聞のはずだ。

「お前がいい。……他には誰も連れて行きたくない」
朔也は書類から目を離さず答えたが、その声には強い意志が込められていた。


詩乃の胸がキュンとなる。
 (私を……私だけを連れて行きたいと?)
虐げられてきた19年間では、決して味わうことのなかった感情が胸いっぱいに広がる。

「はい、朔也様。喜んで」
詩乃は満面の笑みで答えた。その笑顔に、朔也の口元が、わずかに緩んだ気がした。





昼過ぎ、黒峰邸の馬車が静かに門を出た。二人きりの空間。
馬車の揺れが心地よい。詩乃の隣には、普段と同じく無表情な朔也が座っている。
しかし、その手は詩乃の手の甲にそっと重ねられ、指先が優しく撫でていた。


「人が多い場所は嫌いか?」
朔也唐突に尋ねた。

「いえ……久しぶりなので、少し緊張します」

「そうか」

朔也はそれ以上は何も言わなかったが、詩乃の不安を慮るように握る手にそっと力を込めた。

馬車が着いたのは、華やかな銀座の通りだった。
石造りの洋館が立ち並び、ガス灯がまだ点いていない昼間でも、その優雅さが街全体を彩る。
モダンな洋装の人々が行き交い、
すれ違う婦人たちは香水を纏い、店先ではパンと珈琲の香りが漂い、舶来品が所狭しと並んでいる
どこを見ても煌びやかな世界でそれは詩乃が知っていた世界とはあまりに違っていて、花守邸での生活では決して知ることの出来なかった眩いばかりの世界だ
 
花守邸での生活では決して知ることのなかった、眩いばかりの世界だ。

詩乃は好奇心いっぱいに目を輝かせた。
「すごい……こんなに綺麗な場所なんですね」

「気に入ったか」
朔也の声には、どこか満足げな響きがあった。

朔也は詩乃を連れて、まず老舗の呉服店へ入った。
彩り豊かな着物が並ぶ中、朔也は迷うことなく、ある棚へと詩乃を導いた。

「お前には、これが似合う」
彼が指差したのは、淡い藤色に楚々とした桜の花びらが舞う訪問着だった。


「こんな、高価なものを」
 詩乃が申し訳なさそうにしていると朔也は即答した。
「俺の妻となるのだ。相応しいものを選んで当然だろう」

店主の勧めもあり、詩乃はその着物を試着することになった。

鏡の前に立つ自分は、まるで別人のようだった。
藤色の絹地が、詩乃の肌の白さを際立たせ、桜の花びらが地味だった詩乃の顔を華やかに彩る。
朔也が背後からそっと近づいてきた。

「やはりな、よく似合う」
朔也はそう言うとその場で着物を即決で買い
彼の視線は、詩乃の髪へと向けられていた。

「その髪に、何か飾りが欲しい」
朔也はそういうと、詩乃の手を引いて、今度は櫛と簪を扱う店へと入った。
店内には、象牙や鼈甲、螺鈿細工の美しい簪が並んでいた。
詩乃は目を奪われたが、どれも自分には似合わないような気がして、視線を彷徨わせる。

「詩乃、これだ」
朔也が差し出したのは、一本の簪だった。
それは、他の豪華絢爛な細工とは一線を画す、銀製のシンプルな花簪だった。
しかし、ただの銀ではない。鈍く輝くその花弁は、まるで夜明け前の空のような淡い青色を帯び
繊細な彫刻で表現された花びらは、今にも開きそうなほど瑞々しい。
そして、その花弁の中心には、極小の透明な水晶が埋め込まれている。
日の光を浴びると、その水晶は詩乃の胸に宿る「微光」のように、微かに、しかし確かに瞬いた。


「これは……」
詩乃は息を呑んだ。見たこともないほど美しく、それどころか、自分の奥底に眠る光と響きあうような簪。


「これは 『遅咲きの睡蓮』を模したものだ」
朔也の声が、詩乃の耳元で響く。
「夜明けに花開き、夜に閉じる。しかし、その花はどんな泥の中でも、清らかに咲き誇る。お前と同じだ」

朔也は詩乃の背後に回り、手慣れた様子で簪を詩乃の髪にそっと挿した。
ひんやりとした銀の感触が、うなじに触れる。

「……朔也様」
詩乃は鏡の中の自分を見た。藤色の着物に、淡い青の睡蓮の簪。
それは、今まで「花のない娘」と呼ばれ、飾られることのなかった詩乃の髪に、初めて咲いた一輪の花だった。
その花は、力強く、そして清らかに、詩乃の存在を肯定しているように見えた。


朔也の指先が、簪に触れる。
「お前が、この簪のように、いつか大輪の花を咲かせる日を、俺は誰よりも楽しみにしている」
その声には、昨晩と同じく深い愛情と、揺るぎない確信が込められていた。


街の人々は、黒峰の当主が連れる娘を怪しげに見ていたが、朔也はそんな視線を全く気にしない。
ただ、詩乃の輝く瞳だけを追いかけていた。
人混みの中で、朔也が詩乃の手を強く握りしめた。その温もりは、詩乃の心に、この世界で初めての
「愛されている」という確かな実感を植え付けていた。


この簪が、未来で詩乃の運命を揺るがす鍵となることを─
この時まだ、誰も知らなかった。