黒峰邸の夜。
詩乃に与えられた部屋は、彼女がこれまで見たこともないほど豪華で、しかしどこか主の孤独を映したように静まり返っていた。

詩乃は眠れずにいた。
恐怖はない。けれど、あまりに突然変わった環境と、「妻になる」という言葉の重みに、心が追いついていなかった。

(わたしなんかで、いいはずがない。
 あの方が必要としているのは“光”であって、わたし自身じゃない)

そう思い込み、膝を抱えていた時──扉がノックもなく開いた。

「……起きているか」

現れたのは朔也だった。
昼間の整然とした姿とは違い、少し襟元を緩め、どこか苦しげに肩で息をしている。

「黒峰様……?」

詩乃は慌てて立ち上がりかけたが、朔也の異変に気づいて息を呑んだ。
彼の周囲の空気が、陽炎のように揺らいでいる。
近づくだけで肌がヒリつくような熱気。

朔也の瞳の奥で、赤い炎が荒れ狂っているのが見えた。

「……すまない。怖がらせるつもりはない」

朔也は部屋に入ろうとして、入り口で足を止めた。
まるで、自分が近づけば詩乃を焼き尽くしてしまうと恐れるように。

「夜は……焔(ほむら)が騒ぐ。
 抑えてはいるが、今の俺は触れるものすべてを灰にしかねない」

その声には、強者ゆえの深い孤独が滲んでいた。
誰も近づけない。誰も触れられない。
最強と呼ばれる男が抱える、焼けつくような孤独。

けれど詩乃は、不思議と恐怖を感じなかった。
あの路地裏で感じた時と同じ。
彼の炎は「怖い」けれど、どこか「悲しい」色をしている気がしたからだ。

詩乃は無意識に、一歩、彼の方へ歩み寄っていた。

「……来ちゃいけない」

朔也が低く制止する。

「俺は今、気が立っている。お前のような華奢な体など、熱波だけで壊れてしまう」

「……いいえ」

詩乃は首を振った。
なぜだか分からない。けれど、胸の奥の灯が「行って」と囁いている。
それに、自分を「守る」と言ってくれたこの人が、今にも壊れそうな顔をしているのを見ていられなかった。

「貴方は、わたしを守ると言ってくださいました。
 だから……わたしも、貴方が苦しいのは……嫌です」

詩乃はおずおずと、けれど真っ直ぐに朔也へ近づいた。
熱気が頬を撫でる。けれど、熱くない。
むしろ、詩乃の胸の光が呼応して、涼やかな風が吹くように熱を散らしていく。

朔也が目を見開いた。

「……熱くないのか?」

「はい。……暖かい、です」

詩乃は朔也の目の前まで歩み寄り、
躊躇いながらも、そっと彼の手へと手を伸ばした。

震える指先が、朔也の熱い手の甲に触れる。

その瞬間──

「……っ」

朔也の喉から、吐息のような声が漏れた。

まるで砂漠に水が染み渡るように。
詩乃が触れた場所から、荒れ狂っていた焔が急速に静まり、心地よい温もりへと変わっていく。

朔也は信じられないものを見る目で、詩乃の手を見つめ、そして強く握り返した。

「……嘘だろう」

彼はよろめくように一歩進み、詩乃の体を強く抱きしめた。
今まで誰にも触れられなかった男が、貪るように彼女の体温を求める。

「あぁ……静かだ。
 こんなに……楽になるなんて」

朔也の顔が、詩乃の首筋に埋められる。
彼の身体の震えが、詩乃に伝わってくる。
それは恐怖ではなく、あまりにも大きな「救い」への感動だった。

詩乃は驚いて身を固くしたが、すぐに力を抜いた。
乱暴に見えて、彼が回した腕は、壊れ物を扱うように繊細で優しかったからだ。

「……詩乃」

耳元で、甘く低い声が響く。

「俺は、お前の光だけを見て選んだわけじゃない」

朔也は顔を上げ、詩乃の瞳を至近距離で見つめた。
その瞳にはもう、荒れ狂う炎はない。
ただ、どうしようもないほどの熱情と、愛おしさが揺らめいていた。

「あの家で……誰からも認められず、虐げられながらも。
 お前は一度だって、自分を憐れんで泣かなかった」

朔也の手が、詩乃の頬に触れる。
かつて美鶴に叩かれたことのあるその頬を、親指で愛おしげに撫でる。

「泥にまみれ、罵声を浴びても、お前の瞳だけは濁っていなかった。
 俺はずっと見ていた。
 誰もが俺の『力』にひれ伏す中で、お前だけが……折れない花のように静かに立っていた」

詩乃は息を呑んだ。

「見ていて……くださったのですか?」

「ああ。俺の炎に耐えられるのは、光の強さだけじゃない。
 その心の強さだ」

朔也は再び詩乃を抱き寄せ、今度は髪に口づけを落とした。

「俺のそばにいてくれ。
 道具としてじゃない。
 ……俺が、お前なしでは生きていけなくなった」

「黒峰、様……」

「朔也と呼べ。……これからは、俺のすべてでお前を守る。
 誰にも傷つけさせない。
 お前が今まで流せなかった涙の分まで、俺が愛ですべて埋めてやる」

その言葉は、命令ではなく、魂からの誓いだった。

詩乃の胸の奥で、ついに何かが溢れた。
今まで「泣いても無駄だ」と封じ込めていた涙が、ポロポロとこぼれ落ちる。

「……はい、朔也様……」

朔也はその涙を指で拭い、愛おしそうに微笑んだ。
冷酷な当主が見せた、初めての柔らかい表情。

「いい子だ。……さあ、もう少し、このままで。
 お前の匂いを、俺に覚えさせてくれ」

その夜。
最強の異能を持つ孤独な男は、
「遅咲きの花」の柔らかな光に包まれ、初めて安らかな眠りを知った。

そして詩乃もまた、
自分を何よりも大切に想ってくれる腕の中で、初めて自分の存在を許された気がしたのだった。