翌日の空は薄曇りで、
花守邸には湿った空気が重く沈んでいた。

詩乃は、昨夜の“胸の微光”がまだ気になって仕方がなかった。
起きたとき、胸の奥にかすかな余韻があり、
鼓動だけが妙に静かに響いていた。

(……本当に、あれは何だったの?
 気のせいで済ませられるほど、軽いものじゃなかったけれど)

思い出そうとすると胸のあたりがじんと温かくなる。
だがその感覚は、すぐ指の間からこぼれる水のように消えてしまう。

**

その日、華澄の晴れ着の仕付けや、
来客用の部屋掃除を任され、
詩乃は午前中いっぱい働きづめだった。

廊下で美鶴に呼び止められる。

「詩乃。今日の夕餉に花守本家の客が来るわ。
 あなたは姿を見せなくていいから、裏へ回っておきなさい」

「……はい」

「分かっているでしょうけれど、
 粗相のないように」

視線の刃が突き刺さる。
詩乃は小さく頷いて、その場を去った。

(この家の“客”に、わたしが顔を合わせることは許されない)

慣れたはずなのに
なぜか今日は胸の奥が、いつも以上に重かった

午後、庭の離れの掃除に向かうと、
妙が慌てた様子で駆け寄ってきた。

「詩乃様! 裏門の方、あまり近づかない方が……」

「どうしたの?」

「さっきから、空気が……おかしいんです。
 黒い煙のようなものが、門の外に……」

言われた瞬間、
詩乃の胸がひりつくように痛んだ。

(……また?)

昨日と似たような、
いや、もっと濃い“気配”が近づいている。

(禍神……? そんなはず……)

花守家の敷地周辺は結界が張られており、
普通の禍神や妖は近づけない。
だが、今感じる気配はそれを超えている。

見たくない。近づきたくない。
けれど、視線は自然と裏門の方向を向いてしまう。

(見に行けば、きっとまたあの痛みを味わう。
 でも、知らないままでいるのも……怖い)

迷いながらも、足が勝手に動いた。

離れの裏手へ回ると、
空気がひどく重たくなった。

風はないのに、
黒い煤のような靄が、門の外でうねっている。

「……っ」

見た瞬間、胸の中で何かが叫んだ。

(来る──)

影が、こちらを認めたように揺れる。
形のないはずのそれが、
ゆっくりと細い腕のように伸びてくる。

足がすくむ。逃げたくても動けない。

胸の奥が灼けるように痛みだした。

(いや……いやだ……)

脈動と共に、
心臓の奥で何かがぶつかり合うような音がした。

──ぱちん。

火花のような感覚。
微かな光が、胸の内側から外へ漏れ出した気がした。

黒い影が、一瞬だけたじろぐ。

空気が震えた。
しかし影は完全には退かず、
今度はさらに濃く、粘つくように這い寄ってくる。

(だめ……止められない……)

視界が暗く滲んでいく。



そのときだった。

世界を包む空気が、
突然“圧縮された”ように重くなった。

耳鳴りがして、
黒い影が一気に逸れ、
何かに怯えるように散った。

妙の悲鳴が聞こえる。

「な、何……!」

詩乃はふらつきながら顔を上げた。

そこに──彼がいた。

裏門の向こうに立つ、一人の男。

黒い軍装の上着に、深い色の外套。
肩から流れる布が風を切り、
その周囲の空気だけが灼けるように熱を帯びて見えた。

黒髪は乱れず、
瞳は夜の底みたいに冷たい。
しかし、その眼差しは一瞬で周囲を測り、
脅威を切り捨てる者のそれだった。

男の足元で、
先ほどまでうねっていた黒い靄が、
焼け焦げた残骸になって消えていく。

(……この人が……追い払った?)

理解が追いつかないまま、
詩乃はただ見つめるしかなかった。

男は一歩、敷地に入ってくる。
その瞬間、花守家の結界が小さく震えたのを、詩乃は感じた。

(結界が……この人を、拒めない?)

妙が青ざめた顔で囁く。

「く、黒峰……様……?」

噂でしか聞いたことのない名。
鬼や妖、禍神さえも退ける最強の異能家系。
冷酷無慈悲、人を人とも思わぬ“黒炎の当主”。

そう呼ばれている男が、
今、詩乃の目の前にいる。

黒峰朔也は、
ゆっくりと詩乃へ視線を向けた。

その瞬間──詩乃の胸の奥で、何かが弾けた。



朔也の視界に、“それ”ははっきり映った。

少女の胸の奥から溢れ出すような、
淡い花の光。

裸眼では見えないはずの“神性の光”が、
彼には、
まるで夜明け前の花畑のように鮮やかに見えていた。

(……花弁の匂い)

長い年月、
炎と血と影ばかり見てきた目には、
あまりに場違いなほど柔らかな光。

それは小さい。
今にも消えそうな、か細い灯。

──けれど、間違いなく“本物”だった。

黒峰家に生まれた当主には、
強い異能と共に、“一つの呪い”がついて回る。

未来の花嫁を選ぶとき、
己の炎に相応しい“唯一の光”が見えてしまう。

それは理屈ではない。
血と神性に刻まれた、宿命の感覚。

目の前の娘を見た瞬間、
朔也の視界にだけ、
夜闇を裂くかのような花弁の光が咲いた。

一輪だけ。
しかし、信じられないほど濃く、強く。

(……ようやく、見つけたか)

胸の奥で、
これまで静かに燻り続けていた“何か”が反応した。

朔也は自分でも驚くほど自然に、
言葉を口にしていた。

「……お前だ」

低く、熱を帯びた声だった。

詩乃がびくりと肩を揺らす。

「え……?」

「──お前だ。
 我が妻に相応しい、遅咲きの花だ」

あまりにも突然で、
あまりにも直截的な言葉。

妙が目を剥いて固まる。
花守家の結界が小さく軋む。

(妻……? 今……この人は、何と──)

頭の中が真っ白になる。
詩乃は言葉を失った。

自分は花も持たない、価値のない娘だ。
そう教え込まれてきた十九年間が、
一瞬で崩れるような宣告だった。

「ま、待って……ください。
 わたしは、その……」

否定しようとした途端、
朔也が一歩近づいた。

彼の瞳が、まっすぐ詩乃を射抜く。

冷たく見えるその目の奥に、
微かな炎が灯っているのが分かった。

それは、怒りでも軽蔑でもない。

(……この人は、わたしを……見ている)

“花のない娘”としてではなく、
一人の存在としてまっすぐに。

戸惑いと恐怖と、
説明のつかない安心感がいっぺんに押し寄せる。

胸の奥で、また光が揺れた。

朔也はその揺れを、はっきりと感じ取る。

(やはり……この光は、俺の炎を受け止められる)

黒峰家の当主としての直感が告げている。
この娘ならば、
自分の荒れ狂う焔をも鎮める“器”になり得ると。

そして同時に、
この娘を失えば、自身も破滅するだろうという確信も。

それは、
冷酷無慈悲な当主にとってさえ、
背筋を凍らせるほどの“運命の重さ”だった。

だからこそ、
彼は宣言したのだ。

逃げ道を残さない、一撃の言葉で。

「名は」

「え……?」

「名を聞いている」

「……花守、詩乃です」

答えた途端、
朔也の瞳の色が、ほんのわずかに和らいだ気がした。

「そうか。……詩乃」

その名を呼ばれただけで、
胸の奥がきゅっと縮む。

自分の名前が、
初めて“優しく扱われた”ような気がした。

「無事か」

さきほどと同じ言葉でも、
今度は形だけの確認ではないと分かる。

詩乃は戸惑いながらも、小さく頷いた。

「……はい。怖かった、ですけれど」

声が震える。
その震えごと、朔也に晒してしまったことに気づき、
頬が熱くなる。

だが朔也は、責めもしないし笑いもしなかった。

「当然だ。
 今のは、普通の人間が近づいていい“影”ではない」

その言い方は、
詩乃を“普通の人間”として扱っているようでいて、
どこか含みがあった。

(わたしは……普通、なの? それとも……)

目を伏せかけた詩乃の耳に、
妙の慌てた声が飛び込んだ。

「し、詩乃様! 立っていては危のうございます、こちらへ──!」

現実に引き戻される。
詩乃は慌てて妙の方へ一歩退いた。

朔也は、それ以上近づこうとはしなかった。

ただ、
一歩ぶん距離を空けたまま、静かに告げる。

「花守詩乃。
 お前を襲った“禍”は、もう残っていない。
 だが──お前の中の光は、目覚めかけている」

「……わたしの、中の……光……?」

朔也の言葉が、
胸の奥の“微光”と重なった。

彼は詩乃の反応を見て、
ほんの僅かに目を細める。

(やはり、気づいていないか)

冷酷無慈悲と噂される当主の横顔に、
誰も知らない“迷い”が一瞬だけ浮かぶ。

この娘をどう扱うべきか。
当主として、討伐隊長として、
そして──“運命の花嫁を見つけてしまった男”として。

まだ答えは出ない。
ただ一つだけ、確かなことがある。

この娘を、この家に放置しておくわけにはいかない。

それは理性でも、義務でもなく。
もっと原始的な本能が告げていた。

風が、再び庭を通り抜けた。
黒い影は完全に消え、
空には薄い雲が流れている。

詩乃は震える指先を握りしめ、
胸の奥の微かな灯を抱きしめるように息を吸った。

(怖い。けれど……
 この人の背中を見たとき、不思議と、少しだけ……)

誰にも言えない感覚。
それは信頼とも憧れとも言い切れない、
まだ名前のない、ほんの小さな想い。

けれどその芽は、確かに土を割って顔を出しはじめていた。

黒炎の当主と、
花を持たないはずの娘。

二つの心が、
ほんの少しだけ重なった瞬間だった。