大正異能譚─花は遅れて咲く─


 視界の端々で、空間そのものが白金の粒子へと瓦解していく。

 軍の中和装置が放っていた、あの耳を劈く不快な重低音は、今や詩乃から溢れ出す清冽な波動によって完全に霧散していた。膝を突き、地に突き立てた軍刀の柄に縋って、辛うじて己の意識を繋ぎ止めていた俺の肌に、かつての絶望的な冷気とは異なる生命の根源を揺さぶるような熱が触れる。

「……詩乃」

 血の混じった唾を吐き捨て、俺は顔を上げた。そこに立つ彼女を、俺はこれまで俺の背後に隠すべき、非力な庇護対象としてのみ定義しようとしていた。十九年もの間、光を知らずに生きてきた彼女の空白を、俺という盾だけで埋め尽くせると傲慢にも信じていたのだ。だが、今この戦火の只中に立つ彼女の背中は、神域の古樹が数千年の時を刻んできたのと同じ、揺るぎない「芯」を宿していた。

 彼女の指先が虚空をなぞるたび、軍の放った不浄な鉛弾は軌道を逸れ、あるいは瞬時に浄化されて虚無へと還る。それは、花守の家が追い求めて止まなかった「異能」などという矮小な言葉では到底縛り切れない、世界の理そのものを書き換えるような、圧倒的な意志の発露であった。

「朔也様。……その背負った傷、もう、私に半分預けてくださいませんか」

 その声は、かつて俺が帝都で見出した、震える小鳥のような羽ばたきではなかった。己の足でこの荒れ果てた地を踏みしめ、俺と共に奈落へ堕ちる覚悟すら決めた、一人の「伴侶」としての宣誓。

 俺の内に眠る、破壊を渇望する漆黒の炎が、彼女の純潔なる光に誘われて静かに、そして苛烈に牙を剥く。軍の抑制装置によって強引に凍土へと押し込められていた俺の異能が、詩乃の呼吸に感応し、かつてないほど澄み渡った殺意を帯びて再燃していく。

(……ああ。俺は、これほどまでに気高い魂を、籠の中に閉じ込めようとしていたのか)

 己の浅ましさに吐き気がする。俺は、彼女を護るためにこの身を捧げると誓ったはずだ。ならば、今の俺がすべきは彼女を後ろへ追いやることではない。彼女がその光を全うできるよう、その道を塞ぐすべての障害をこの黒炎で地獄の底まで焼き払うことだ。


「な……馬鹿な!なぜ装置が反応しない、中和弾はどこへ行った!」

 結界の裂け目の向こうで、軍の指揮官が狼狽し、無様に叫んでいる。近代兵器という鋼の論理によって神域を支配しようとした男たちの顔が今や理解不能な現象への恐怖に歪みきっていた。

 彼らが握る最新鋭の異能抑制銃は、詩乃が放つ「睡蓮」の波紋に触れた瞬間、内部の術式が過負荷を起こして発火し、次々と無機質な鉄の塊へと成り果てていく。

「無駄だ。……貴様たちが踏みにじろうとしたのは、ただの異能ではない。詩乃という一人の人間が、十九年の虚無の果てに掴み取った『生』そのものだ」

 俺は一歩、軍靴を叩きつけた。俺の視界の中で、逃げ惑う兵士たちの動きは停止した絵画のように鈍い。俺は剣を振るった。  

 これまでの俺の剣は、ただ敵を殺戮するためだけの凶器であった。だが今、刃に纏わりつく漆黒の炎には、詩乃の放つ白金色の光が編み込まれている。一閃。

 それは不浄な鋼の装置のみを正確に破砕し、神聖なこの地に土足で踏み込んだ報いを物理的な断罪として刻み込んでいく。

 炸裂する衝撃。だが、その破壊の余波さえも詩乃の光が瞬時に鎮め、神域の木々が傷つくことさえ許さない。 俺と彼女の間に、言葉による合図は不要だった。

 俺が剣を引けば、彼女の光が俺の死角を埋め、彼女が視線を動かせば俺の炎が敵の逃路を塞ぐ。十九年間の孤独を上書きする、あまりに濃密で、あまりに苛烈な魂の響鳴。

「化物どもめ……!撤退、撤退だ!総員、この山を降りろ!」

 指揮官は、腰の革嚢から拳銃を零し落とすのも構わず、無様に背を向けた。

 鋼の軍靴を響かせ、泥を撒き散らして逃げ惑う男たちの背中に俺は冷徹な殺意の矛先を向けた。それを押し止めたのは、背後から伝わる、静かだが拒絶を許さぬ波動だった。

「……朔也様。もう、あの方たちに価値はありません。これ以上、この水を汚してはいけません」

 その毅然とした一言に、俺の軍刀から漆黒の炎が消えた。

 外界の侵略者が去り、静寂がゆっくりと神域へと還り始める。鳥居の注連縄は焼け焦げ、地面にはいくつもの深い亀裂が走っている。だが、詩乃がその場を歩むたび、彼女の足元から湧き出る白銀の霧が、その無惨な傷跡を覆い隠し、新たな息吹を吹き込んでいく。

 俺は、愛剣を鞘へと納め、ゆっくりと彼女に向き直った。力を全うし終えた彼女の肩が微かに、けれど確かな達成感と共に揺れている。その顔色は白磁のように蒼白だが瞳だけは、神木の深奥に眠る古の宝玉にも似た不滅の輝きを湛えていた。

「詩乃」

 俺は、彼女が限界を迎えて崩れ落ちるよりも早くその細い体を引き寄せた。腕の中に伝わる激しい拍動。

 俺は彼女を、単なる愛でるべき対象としてではなく、この地を共に護り抜いた伴侶としての最大級の敬意を込め、その冷え切った手を自身の両手で包み込んだ。

「……俺の負けだ。詩乃、お前に救われた。俺は、お前が持っていたその真実の強さを、自身の傲慢で曇らせようとしていたようだ」

「いいえ。……朔也様が、凍てつく檻の中で過ごしていた私に初めて『熱』を与えてくださったから……十九年間、誰も見向きしなかった私をあなたが『花守詩乃』として必要だと言ってくれたから、私は今日、ここで咲くことができたのです」

 彼女は、俺の胸元にそっと顔を埋め、安堵に満ちた熱い吐息を漏らした。俺は、彼女の柔らかな髪に自身の額を寄せ、その温もりを魂に刻み込んだ。

 もし、あの日、俺が彼女を花守の家から奪い去っていなければ。……そんな仮定すら不要なほど、今、目の前にいる彼女は強く、そして眩い。

(お前は、守られるだけの存在ではない。……俺と共に、この理を変えるための、唯一の半身だ)

 俺は、神域を照らす柔らかな月光の下で、詩乃の前に跪いた。黒峰の当主としてではなく、一人の男としての一生に一度の決して揺らぐことのない誓約。

「詩乃。……俺の隣で、共に歩んでくれ。お前が望む自由のために俺はこの命のすべてを、黒炎の最後の一滴まで捧げよう」

 彼女の指先が、俺の頬に刻まれた戦いの傷をそっとなぞる。その温もりこそが、帝都の喧騒も、軍の冷酷な野心も、すべてを灰へと変えるほどに尊い。

 神域の風が二人の衣を揺らし、鉄の残滓を彼方へと運び去っていく。後にはただ、新緑と睡蓮の瑞々しい香りが満ちていた。戦いは、より深き闇へと向かっていくだろう。

 だが、俺の隣には、白金の意志を宿した最高の伴侶がいる。俺は彼女を再び強く抱き寄せ、静寂に包まれた聖域で、永遠を誓う深い接吻を交わした。