大正異能譚─花は遅れて咲く─


 神域を囲む峻険な岩壁が、外界の時間を断絶していた。鳥居を潜り抜けてから数日が経過したが、この「源流の地」を満たす清冽な神気は、一向に衰える気配を見せない。大正の厳しい冬という理から切り離されたこの場所では、雪を割って芽吹く春の草花が瑞々しい露を帯び、絶え間なく湧き出る泉のせせらぎが、静寂の底で琴の音のように響いていた。

 だが、その安寧がかりそめに過ぎないことを、俺の肌が敏感に捉え始めていた。源流の泉から立ち上る神聖な冷気の中に、あってはならない不純物が混じり込んでいる。それは冬の山を越えてくる獣の体臭でも、神木の枯れ葉が擦れ合う音でもない。鼻腔を鋭く刺す火薬の残滓と使い込まれた鉄が擦れ合う、国家という名の巨大な機構が放つ特有の醜悪な臭気であった。

 視線の先では、詩乃が泉に膝まで浸かり、自身の内側に眠る「睡蓮」の力と対話を続けている。彼女の指先から立ち上る白金色の光は、日に日にその透明度を増し、今や一輪の大きな睡蓮の花弁を水面に描き出すまでになっていた。

 十九年という、気の遠くなるような「無」の歳月。花守の家で踏みにじられ、空虚であることを強いられてきた彼女の魂は今、自らの力で、自らの意志で芽吹こうとしている。

(……この美しさを、土足で踏みにじろうとする奴らがいる)

 俺は腰に下げた愛剣の柄を、無言で握りしめた。結界の最外縁、あの巨大な鳥居の向こう側で、地鳴りのような振動が重低音を響かせている。それは単なる行軍の音ではない。異能の波長を強制的に乱し、空間を物理的に抉り取る「異能抑制機」の重機的な振動だ。

 俺は軍人だ。奴らの論理は嫌というほど理解している。遠藤大佐率いる軍部にとって、詩乃は守るべき尊厳を持った一人の女性ではない。帝国の軍事バランスを一方的に書き換え、列強の脅威を退けるための、最高出力の至宝……ただの強力な軍事資源に過ぎないのだ。彼女が花守の檻でどれほどの孤独に耐えてきたか。その空白にようやく灯った個としての光を、奴らは塵ほども顧みないだろう。

「朔也、様……?」

 俺の内に渦巻く黒炎が、不浄な気配を察知して殺気を漏らしたのだろう。詩乃が不安げに顔を上げた。 光を湛えたその瞳に、一抹の濁りも落とさせたくない。

 俺は強張った表情を意識的に殺し、彼女の元へと歩み寄った。泉から上がった彼女の足元は冷え切っているはずだが、修行による高揚が彼女を支えている。

「詩乃。修行は中断だ。今すぐ奥の社へ戻れ」

「え……? ですが、あと少しで、力の核が掴めそうなのです」

「聞き入れろ。お前の体はまだ、その熱に耐えきれるほど仕上がっていない。続きは、俺が許可を出してからだ」

 俺は彼女の言葉を遮り、その細い肩を強く抱き寄せた。これは独占欲などという甘い言葉では片付けられない、俺の不退転の責任だ。彼女がようやく手にした「自由への萌芽」を、軍という名の暴力に曝させない。俺は彼女を社の中へと導き、入り口に俺の黒炎を編み込んだ。何者も通さず、何者にも触れさせぬ、俺の魂そのものの防壁だ。

「俺が呼びに行くまで、決して外へは出るな。……約束だ」

 彼女は冷徹なまでの決意を見て、小さく頷いた。彼女の姿が扉の向こうへと消え、その気配が遠のいたことを確認した瞬間、俺の背後で、神域が悲鳴を上げた。


 

 バリ、と空間が物理的に引き裂かれるような、鼓膜を劈く不快な音が轟いた。神域を数千年にわたって護り続けてきた鳥居の注連縄が焼け焦げ、不可視の境界線が、硝子細工のように粉々に砕け散る。

 光の破片が地面に落ちて消えるよりも早く、鋼の銃剣を構えた精鋭部隊が、土足でこの地に踏み込んできた。

「……黒峰朔也。貴様の独断専行も、ここまでだ」

 最前列に立つ指揮官が、冷徹に言い放つ。その背後には、蒸気を吹き出しながら異能を強制的に吸い取る「抑制機」を背負った兵士たちが、まるで葬列のように控えていた。近代兵器の無機質な重低音が、この常春の静寂を、一瞬にして泥濘んだ戦場へと塗り替えていく。

「遠藤大佐からの伝言だ。『至宝を速やかに返還せよ』と。……抵抗すれば、貴様もろともこの場所を地図から消し去れとの命を受けている」

 俺は、鞘からゆっくりと愛剣を引き抜いた。銀色の刀身に、俺の意志に呼応した漆黒の炎が、飢えた獣のように纏わりつく。

「返還、だと……?」

 笑止千万。誰の許可を得て、彼女を「物」のように扱う。彼女は一度たりとも、軍の所有物であったことはない。十九年間、彼女を「出来損ない」として放置し、力が目覚めた途端に資源として奪還を企てる。その厚顔無恥な振る舞いこそが、俺の逆鱗を逆撫でる。

「俺が守るのは、お前たちが欲しがる力ではない。……花守詩乃という一人の女性だ。彼女の意志を蹂躙し、再び暗い檻へ閉じ込めようとするその不遜、この俺の黒炎で焼き尽くしてやる」

 俺の一歩が、地面を震わせた。黒炎が渦を巻き、神域に侵入した冷たい鋼を包み込む。指揮官の合図と共に、一斉に銃声が炸裂した。本来、清らかな水の音だけが許されたこの聖域に、不浄な鉛の弾丸が降り注ぐ。だが、俺の炎はそれを空中で赤熱させ、到達する前に霧散させた。

「撃て! 怯むな! 抑制機の出力を最大に上げろ!」

 機械が耳障りな高音を上げ、俺の炎の勢いを強引に抑え込もうとする。体内の異能が強引に押し込められるような圧迫感。肺が焼けつくような感覚に、俺は奥歯を噛み締めた。軍の技術は、俺が思っていた以上に、個人の異能を「狩る」ことに特化していた。だが、それでも諦めるわけにはいかない。

(咲け、詩乃。お前の未来を、俺が死守する)

 俺は弾丸の嵐を掻いくぐり、最前列の兵士へと肉薄した。守護者としての覚悟を乗せた一閃が、鋼の銃身を紙のように断ち切る。

 飛び散る火花と、兵士たちの怒号。俺の背後にある社の奥には、まだ自身の力に戸惑いながらも、必死に前を向こうとしている詩乃がいる。

 彼女が自分自身の足で歩めるようになるその日まで、俺は彼女の周囲を覆う、決して破られぬ漆黒の障壁であり続けなければならない。

「……っ、化物め! この異能中和弾を装填せよ!」

 数名の兵士が、特殊な筒状の火器を構えた。放たれたのは実弾ではない。命中した箇所の異能定数を強制的に零にする、呪術と科学の混淆物。それが俺の足元で炸裂した。

「……くっ」

 膝から力が抜け、黒炎の勢いが一気に弱まる。視界が白く明滅し、神域の空気が急激に冷え込んでいくように感じた。軍の技術は、もはや個人の英雄譚など許さないところまで来ているのかもしれない。だが、俺は剣を地面に突き立て、無理やり体を支えた。


 たとえこの身が異能を失い、ただの肉塊になったとしても。俺にはまだ、詩乃を護るための牙が、執念が残っている。

「どうした、黒峰。誇り高き当主様も、文明の利器の前には無力か」

 指揮官が嘲笑いながら、銃口を俺の眉間に向けた。その指が引き金にかかった、その瞬間。

 背後の社から、形容しがたいほどの澄み切った波動が溢れ出した。白金色の光。それは軍の抑制機が奏でる不快な高音を、一瞬にしてかき消すほどの清冽な調べ。

 「……詩乃……?」

 俺の掠れた声が、戦場に響く。 社を包んでいた俺の黒炎が、内側から弾け飛んだ。そこに立っていたのは、俺が命を懸けて守ろうとした、か弱き蕾ではなかった。

 自身の意志で扉を開き、溢れ出す睡蓮の光を纏った、一人の女性。彼女の瞳には、かつての怯えも、十九年間の諦念もない。ただ、大切な場所を汚されたことへの静かな怒りと、俺を助けようとする、あまりに真っ直ぐな想いだけが宿っていた。

「朔也様……。もう、いいのです」

 彼女の足元から、白金の睡蓮が咲き乱れる。それは軍の中和すらも無意味にする、根源的な命の輝き。鉄の足音が神域を侵食した。だが、その不浄を洗い流すための「源流」が、今、真の意味で目覚めようとしていた。

 俺は、彼女の背中に向けて、震える手を伸ばした。 誇らしさと、そして言葉にできない愛しさが、戦火の中で激しく胸を焦がしていた。