大正異能譚─花は遅れて咲く─


 神域を囲む峻険な岩壁が、外界の時間を断絶していた。鳥居を潜り抜けて数日が経過したが、この場所を満たす清冽な神気は、一向に衰える気配を見せない。

 大正の冬という理から切り離されたこの「源流の地」では、雪を割って芽吹く春の草花が露を帯び絶え間なく湧き出る泉のせせらぎが、静寂の底で琴の音のように響いていた。

 俺は、古樹の根元に設えた簡易な寝所で、微睡みの中にいる詩乃をじっと見つめていた。 彼女を抱き寄せる腕には、未だに抜けない緊張が微かに残っている。

 帝都を脱し、軍の追撃を振り切り、死の淵を彷徨いながら辿り着いたこの場所。腕の中に伝わる彼女の規則正しい鼓動と温もりこそが、俺にとっての唯一の現実であり、死守すべき聖域であった。

(……十九年。お前はどれほどの孤独を、この小さな体に押し込めてきたのだ)

 眠る詩乃の睫毛が、微かに揺れる。花守の家で「無能」の烙印を押され、家族からも疎まれてきた彼女の半生を想うと、胸の奥に怒りが再燃する。

 だが、その怒り以上に俺を突き動かすのは、彼女という存在をこの世に繋ぎ止め、その人生のすべてを背負うという、己に課した不退転の責任であった。

 俺が彼女を選んだのではない。俺の黒炎が、彼女の内に秘められた白金の光に、魂ごと射抜かれたのだ。彼女を護り抜くことは、もはや黒峰の当主としての義務ですらなく、俺の生そのものの目的となっていた。

 詩乃がゆっくりと瞼を持ち上げた。その瞳に、神域の柔らかな光が反射し、露を湛えた睡蓮のような輝きを放つ。彼女が俺の存在を認め、その唇に安堵の笑みを浮かべるたび、俺の心臓は激しい痛みを伴う歓喜に震えた。

「朔也様……。おはようございます」

「……ああ。よく眠れたか、詩乃」

 俺は彼女の頬を、指先で慎重になぞった。 彼女は、かつて俺が帝都で見てきた令嬢たちの誰とも違う。家格や権力に固執せず、ただ真っ直ぐに俺を信じ、その運命を俺の腕に委ねてくれた。

 その信頼の重さが、俺の肩に心地よい重圧を与える。彼女を一人の女性として愛することは、彼女を襲うすべての災厄から、俺の命を盾にしてでも遠ざけるという覚悟と同義であった。



 日が昇り、修行の刻が訪れる。 俺は詩乃を連れて、神域の中央にある「源流の泉」へと向かった。

 泉のほとりに座す詩乃の姿は、陽光を浴びて透き通るような白磁の美しさを増していた。彼女が自身の内側に眠る「睡蓮」の力と向き合う間、俺は数歩離れた岩場に座し、周囲の気配を殺して警戒に神経を研ぎ澄ませた。

 詩乃が水面に手をかざすと、彼女の指先から淡い白金色の光が漏れ出す。 開花したばかりのその力は、あまりに清らかで、あまりに危うい。

 俺の内に渦巻く黒炎が、その光の純度に呼応し、熱を帯びて疼き出す。破壊を司る俺の炎とは対極にある、万物を浄化し、癒やすための力。

 修行を見守る俺の瞳には、厳格さと、底知れぬ慈しみが同居していた。彼女をただ俺の腕の中に閉じ込めておくことは容易い。

 だが、彼女が「花守詩乃」として、自らの足で立ち、自らの力を肯定できるようになることこそが、真の意味で彼女を救うことになると、俺は確信していた。

 彼女が自立した強さを手にするその日まで、俺は彼女の周囲に張り巡らせた「最硬の盾」であり続けなければならない。

(咲け、詩乃。お前の光を、誰にも、何ものにも奪わせはしない。たとえ、この世界そのものがお前を拒もうとも、俺の炎が道を切り開いてやる)

 詩乃の額に大粒の汗が浮かぶ。異能を御する苦痛に、彼女の眉が微かに歪んだ。俺は即座に立ち上がり、彼女の元へ歩み寄りたくなったが、それを理性が押し止める。

 今、彼女の戦いを奪うことは、彼女の成長を止めることだ。俺ができるのは、彼女が限界を迎えた瞬間に、すべてを投げ打ってでも支え、受け止める準備をしておくことだけだった。



 昼時、修行で疲弊した詩乃のために、俺は甲斐甲斐しく食事の準備を整えた。 神域で採れる霊草を使い、手間を惜しまず煮込んだ粥を、器に盛る。

 彼女の体はまだ、目覚めたばかりの異能の熱量に追いついていない。細心の注意を払い、彼女の滋養となるよう、俺は自身の匙を手に取った。

「さあ。冷めぬうちに食すがいい。お前の体には、この力を維持するための蓄えが不足している」

 俺は、粥を一口ずつ丁寧に冷まし、彼女の唇へと運んだ。 詩乃は「自分でもできます」と、頬を赤らめて遠慮するような仕草を見せる。

 その慎ましさが愛おしく、同時に、花守の家で彼女がいかに自分を蔑ろにされてきたかを思い知らされ、俺の指先には自然と力がこもった。

「案ずるな。お前の世話を焼くのは、夫となる俺の当然の責務だ。お前はただ、俺の与える温もりを受け入れていればいい」

 俺は詩乃が咀嚼を終えるのを辛抱強く待ち、彼女が一口飲み込むたびに、自身の胸の内が穏やかな充足感で満たされていくのを感じた。

 食事の後は、俺の膝の上に彼女を座らせ、柘植の櫛でその長く美しい黒髪を梳かすのが日課となっていた。指先を滑り落ちる髪の感触は、神域の白金色の光を吸って、ますます滑らかに、神々しく輝いている。

(この髪を、この肌を、不浄な者に触れさせることは決して許さない。軍の連中も、そして帝都で虎視眈々と機会を狙う者たちも……。お前を『力』や『資源』としてしか見ぬ輩には、黒峰の炎で絶望を刻み込んでやる)

 俺は、髪を梳き終えた詩乃を、そのまま外套ごと強く抱きしめた。俺が今抱いているのは、彼女を「飼い殺す」ための独占欲ではない。

 彼女というかけがえのない命を、一族の誇りにかけて、そして俺個人の愛にかけて、永遠に護り抜くという、重く、果てしない責任感であった。



 夜。焚き火の火が爆ぜる音が、静寂の中に響く。俺は眠りに落ちた詩乃を腕の中に抱きながら、視線は暗闇の向こう、神域の境界線へと向けられていた。

  俺の軍人としての、そして異能者としての研ぎ澄まされた直感が、外界の空気に混じる「鉄の匂い」を敏感に察知し始めていた。

(……来るか。やはり、この場所の静寂は長くは持たぬようだな)

 俺は傍らに置いた愛剣の柄を、無言で握りしめた。 敵が誰であるか、どれほどの規模であるか、今の俺には正確な情報は入っていない。だが、そんなことは些細な問題だった。

 相手が国であろうと、軍であろうと、あるいは神であろうと関係ない。詩乃を奪おうとする者には、俺の黒炎がこの世の終わりの如き地獄を見せてやる。

 俺は、胸の中で安らかな寝息を立てる詩乃の額に、誓いのような接吻を落とした。 彼女の内に目覚めた「睡蓮」の光が、俺の黒炎と共鳴するように、静かに、けれど力強く脈打っている。  

 神域の入り口、鳥居の向こう側で、微かな鋼の響きが聞こえた気がした。

 「……詩乃。案ずるな。お前が目覚める頃には、不浄な影はすべて焼き尽くしておいてやる」

 俺の瞳に、峻烈な黒い炎が宿る。俺の守護の真価を試す戦いの足音が、すぐそこまで迫っていた